五月の黄金週間初日。休みの間にシリーズ物をまとめて読もうと図書館に出かけて帰ってくると、わた
しの部屋のベランダにでるサッシの前で、瑞穂ちゃんが寝ていました。
――ああ、買ったばっかりなのに、わたしのクッション…。
お気に入りの、パグを象った可愛らしいビーズクッションを枕代わりにしています。
昔から、『アタシの部屋よりアンタの部屋のほうが日当たりいいからなあ』などと言って、しょっちゅ
う昼寝しに来ていました、そういえば。
「ちょっと、もー。起きてくださいよ」
「…何だよ、うるさいな。俺の部屋よりオマエの部屋のが日当たりいいんだよ、ちょっと寝かせろ…」
そう言いながら、すでに瞼が落ちています。
…こうやって寝ていると、起きている時はキツ過ぎる目つきや意地悪そうな険のある表情が無くなって、
どこか可愛らしくすらあります。
…というより、悔しいですが、瑞穂ちゃんはやっぱりやたらと整った、えらく綺麗な顔立ちをしていま
す。普段は浮かべている表情のせいで、気づきにくいのですが。
「…子供みたい」
いつも見上げてばかりいる顔が、ずいぶん下にあるのがなんとなくおかしくなって、顔を覗き込もうと
しゃがむと、ぱちり、と目が開きました。
「あ」
ぐいっと。
腕を引っ張られ、そのまま、彼の胸の上に倒れこんでしまいました。
「わ、うわっ!?」
そのまま、ぎゅうっと抱きしめられます。い、痛い、苦しい…っ。
「ちょ、ちょっと! なにするんですかっ!?」
答えは無く、かー。と、いびきだけが聞こえてきます。
「…まさか、寝ぼけてたんですか…?」
とにかく離してもらおうと、じたばたと、渾身の力を込めてあちこち叩いたり蹴ったりしましたが、
ぬいぐるみか抱き枕よろしく、がっちり抱きかかえられて腕の力はちいとも緩んでくれません。
それどころか、逆に力を込めてきます。…つ、潰れるっ…。
「だ、駄目だ…」
暴れすぎて先にこっちの体力の方が底をつきました。
「…起きるまで待つしかないんでしょうねえ…」
はあ。
「…ホントに、子供みたい」
抵抗をあきらめておとなしくする事にしました。
そうすると、こっちを潰さんばかりに抱きしめていた力は緩みましたが、相変わらず抜け出せないくら
いの力で抱きしめて、離してくれません。
うううううう。
恥ずかしい。
何だか、強い腕とか、広い胸とか、綺麗に筋肉の張った首からアゴのラインとか、そういった男の人に
なってしまった部分を猛烈に意識してしまって、急に心臓が落ち着かなくなりました。
…や、やっぱり駄目だ。何とかして離れないといけません。
「――瑞穂ちゃん、みいちゃん、起きてくださいっ! 起きてっ!」
必死でごそごそと動き、耳元に口を近づけて大声で怒鳴ります。結果的に、ますます密着の度合いを深
める事になってしまいますが、このさい仕方がありません。
「…ぅう」
必死に声を張り上げた甲斐あってか、ようやく瑞穂ちゃんは起きてくれました。
「ああ、ゴメンゴメンまゆー。俺、ちょっと寝ぼけてたみたいだなあ」
目を開けた途端に、ものすごく爽やかな笑顔で言われました。
―――なんだか。とても、わざとらしい。
「…瑞穂ちゃん」
「んー?」
「…いったい、いつから、起きてたんですか?」
渾身の力で笑顔を作り、さりげなく聞いたつもりですが、こめかみがひくひくと震えるのが自分でもはっ
きりとわかりました。
「変な事をいう奴だなー。そんなの、ついさっきに決まってるダロ?」
「う――、ウソだあっ! 起きてたでしょう、絶対寝たフリして遊んでたでしょうっ!?」
「いや、ホントに寝てたって。起きたのは――、そうだなオマエがポカスカ殴ってきた頃か」
「やっぱり起きてたんじゃないですかあっ!」
うわあもうあたまにきたあー!
わたしが必死に抜け出そうと頑張ってたのも、恥ずかしい思いして耐えてたのも、もっと恥ずかしいの
に、あんなに身体を密着させてまで頑張ったのも、全部無駄だったんですかー!
「まあそのなんだ、そんなに怒るな、まゆ。俺の立場にもなって考えてみろ」
「…みいちゃんの、立場ですか?」
「そうだ。せっかく気持ちよく昼寝をしてたというのに、いきなり殴られ耳元で大声出されて、暴れら
れたんだぞ?」
う。
それは、たしかに。たしかに、わたしもちょっと悪かったかも――。
「その分を取り戻すべく、女体の柔らかさを堪能しても悪くは無いとは、思わないか?」
「思うわけがありますかーっ!」
ここここここの。この人はもうほんとにーっ!
「言っときますけど、その考え方はあまりにも変態的に過ぎますよっ!?」
「だってなあ。起きたらすごく抱き心地のよいものが腕の中にあったんだぞ? 普通、離さないだろ? 」
「…起きたんだったら、すぐに離してくださいよ…。もう…」
よくもまあ、痴漢行為をここまで堂々と胸を張って正当化できるものだと思います。
とにかく、借りてきた本を机の上に置いて、至福の読書タイムの準備に取り掛かります。
「…ホントにもう。そもそも、何で勝手にわたしの部屋で寝てるんです? 留守中に女の部屋に上がり
こむものではありませんよ?」
「なにをいまさら。俺がオマエの部屋で寝るのなんかいつもの事だっただろうに。――それに、こっち
の方が安眠できるんだよ。なんか、落ち着く」
そういって、今度はベッドにもたれかかると軽く目を閉じてしまいました。
…うー。
なんか、そういう言われ方されたら、出て行って貰いにくいじゃないですか。
「わ――、わかりましたよう。だったら、別に昼寝くらいしててもいいですけど…。その…」
「けどその? なんか条件付き?」
「じょ、条件っていうか、あの、…変な事は、しないように」
「…変な、事って?」
「へ、変な事って言ったら変な事ですっ。…だ、だから、あの、さっきみたいに、いきなり触ったりと
か、抱きついたりとか、そ、そういう、いやらしい事は、その…」
言っているうちに、さっき抱きつかれたときの事を思い出してしまい、顔に血が一気に集まってくるの
がわかりました。
うわーん、なんでー!?
別に好きじゃない――、それも、元々は同じ女の子だったみいちゃんに抱きつかれただけで、なんでこ
んなに真っ赤になっているのでしょうわたしときたら。
ううううう。イヤだなあ、わたし、こんなにはしたない女だったのでしょうか。
「――わかったわかった。さっきはちょいと冗談が過ぎたな、悪かったよ、ごめん。『いきなり』触っ
たり抱きついたりとかは、もうしないから」
その言葉を聞いて、ちょっとだけほっとした気持ちになりました。
「な、なんか、飲み物でも取ってきますね、おかあさんに、おやつか何か無いか、聞いてきます」
「――ああ、言い忘れてた。おばさんならいないぞ。仕事のシフトが変わって、急遽、深夜勤になった
そうだ」
――え?
「看護婦さんってのも大変だよなー、ホントに。休みのはずが急に仕事だもんな。あ、夕飯は準備する
ヒマなんざ、当然無かったから適当に食べとけってさ」
思わず、ドアに手を掛けた姿勢のまま固まりました。
――たしか、おとうさんは、今朝、出張で北海道に。
あまりの事に固まったままでいると。
「――今夜は、二人っきりだな、真由子」
耳元で、ぞわぞわするような低音で囁かれました。
「ききき、禁止ですからねいやらしい事禁止ですからね――っ!!」
思わずドアに背中をへばりつかせるような格好で叫びます。
お、音も無く背後に立つのは本当に止めてほしい…っ!
「冗談だっての。ところで、今日は夕食どうする気だ? 買い物に行くならそろそろ行ったほうが良い
んじゃないのか、もう17時近いが」
ありゃ。
瑞穂ちゃんに捕まってる時間が、思いのほか長かったみたいです。
「え、あ、本当だ。とりあえず、冷蔵庫見てきます…」
「おばさんが出る前に見せてもらったけど、あんまり何にも無かったぞ。あのさ、まゆー、俺コロッケ
食べたい。玉葱はあったけど、じゃがいもと挽肉は無かったな」
うーむ。
揚げ物ですかー。あんまり得意ではありませんが、コロッケならば火の通り具合にそれほど神経質にな
らなくても大丈夫でしょう。よし。
「…わかりました、それじゃ、買い物に行って来ますね」
ええと確か水菜があったからカニカマ買ってきてサラダを作って、後はおとうふのお味噌汁なんかでい
いでしょうか。
「あー、俺も行こう。荷物もちだ」
「いや、別にそんな買い込みませんよう。留守番しててください」
「いい。ヒマだから行く」
…ワガママだなあ…。別に、いいですけどね。
近所のスーパーで買い物をして、夕暮れの中を二人で歩くと、長く影法師が出来ました。
少し遅くなりましたが、みいちゃんにも手伝ってもらえばそう遅れずに夕飯にすることが出来ると思い
ます。
…まさかしないとは思いますが、今晩は、さっきみたいなイタズラされたら困るなあ。
たぶんいつもみたいに夕飯の後も寝る寸前まで我が家で過ごしていくのでしょうし、その間、今夜は二
人っきりという事を考え出すと、なんだか胃の下あたりがきゅうきゅうしてきます。
隣を見上げると、あんまりにもいつもどおりの顔で、少しだけ腹が立ちました。
くそう、なんでわたしだけこんなに緊張しなければならないのでしょう、理不尽な。