――――はあ。
思わず漏れた溜め息が、浴室の壁に反響して、思ったよりも大きく響きました。
……うう。
「うわあ〜〜、もう、どうしよう〜〜」
俯いたまま、頭をぷるぷる左右に振ります。
ウチの古い浴室と違い、数年前に手を入れてリフォームしたきれいなお風呂は、平素ならば嬉しくなる物ですが、
今は全くもって真逆の思いにしか繋がってくれません。
ぴちょん。と、天井から雫が一滴、肩に落ちて、思わずびくりと首をすくめてしまいます。
「……なんだって、こんな事に……」
とほほ。と、更に溜息が漏れました。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――不束者ですが、よろしくお願いします。とお付き合いをOKして。
肯いていた顔を上げてすぐに眼に入ったのは、みいちゃんの満面の笑顔でした。
普段、妙に不自然なさわやかぶりっこ笑いとか、或いは口の片端だけを吊り上げる邪悪笑いばっかりを
眼にしているせいもあってか、ホントに小さな頃を思い出させる、ひどく無邪気な表情に思わず見惚れてしまいます。
「真由子」
この人のこんな顔。本当に久しぶりに見たなあ。と、ぼんやりと思っていたせいで、反応が少々遅れてしまいました。
――あれー? なんか、近いなあー?
と、我ながらおまぬけな感想を抱いた直後。
「――ん」
くちびるに、少し乾いた――、でも柔らかな感触を覚えました。
う。うわ。わわわわ。
『今、みいちゃんにキスされてる』
その事実が頭に浸透すると同時に、全身の血が一気に顔に向かって集まるような気になりました。
もう、全身がっちがちに固まって、目も口もぎゅうぎゅうに閉じたまま、ただみいちゃんの服の裾だけを
きゅう。と握り締めている事だけが精一杯。
緊張で、あたまはくらくら。貧血を起こしそうでした。
口は真一文字に閉じてるから当然ですが、息継ぎなんかできませんし。
……鼻で息すればいいのに。と思われるだろうと思いますが。
こんな近いのに、みいちゃんの顔に鼻息がかかったりしたら、恥ずかしすぎて、とてもじゃないけど出来ません。
だから、ようやくみいちゃんの唇が離れてくれた時には、ふは。と口をあけ、大きく息を継いでしまいました。
「ふっ、んっ! んむ――っ!?」
終わった。と思ったその瞬間。
ファーストキスの余韻に浸る暇も無く、今度は口の中に、みいちゃんの舌が入り込んできました。
いつのまにやら、アゴをしっかりと押さえられていて、口を閉じる事も出来ません。
ぬるり。とした熱い舌がわたしの中に入ってきて、ほっぺの内側や、前歯の裏、口蓋までも舐めてきます。
「んう、ふっ……! んあ、うんん……っ!」
酸欠で苦しいのか、あたまがくらくらして、心臓が耳の横にできたみたいにどきんどきんとうるさかった。
口の中も、いっぱいいっぱい苛められて、みいちゃんの舌の感触がくすぐったくて、上手く飲み下す事ができなくて、
たくさん溜まってきてしまったわたしとみいちゃんのが混じった唾液のせいで、くちゅくちゅじゅぷじゅぷと、
音がすごくてもう恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなくて、ちょっと待って。って言おうとしたら。
「……んうっ!」
じゅる。って音をたてて、くちのなかにいっぱい溜まったつばを吸われました。
「――あ」
そこで、やっとくちびるを解放されます。
目の前がくらくらして、そのままへたり込みそうになってしまいます。
「……っと。――おい、大丈夫か? まゆ」
腰と背中を支えられ、ぽふ。と目の前の胸に引き寄せられました。
見上げると、腹が立つくらいに嬉しそうな顔がありました。
……わたしのほうは、まだ動悸は治まらないし顔は真っ赤だしなんでか泣きそうっていうかすでにちょっと涙目で、今にも腰が抜けそう。
というか、多分支えられてないと絶対に膝が砕けるだろうな。っていう状態なのに、何でこの人はこんなにも平然としているのでしょうか理不尽な。
「……あのですね、みいちゃん」
「んー? 何だァ?」
「――わたし、なんていうかその、……はじめて、だったんですけど」
「そうか。俺もだ」
――そうですかー、みいちゃんもですかー。って、ちょっと待ってくださいよう。
「……すいません、ちょっと離してもらえますか?」
「いいけどよ、大丈夫か? まだ足ふらついてんじゃねェか」
いいですいいです座りますから。ていうかですね。
「ちょっとみいちゃん、いいからあなたそこにお座んなさいっ!」
屋上の床にぺたん。と座ったまま、涙目で見上げた状態では怒ったって迫力なんかゼロどころかマイナスだったとは思いますが、
不思議そうな顔のまま、同じように床に腰を下ろしてくれました。
「……何?」
「あ、あのですね。わたしもみいちゃんも、誰かとこんな事するのって、初めてなわけですよねっ!?」
「そうだ。っつってんじゃねェか。信用してねェのかよ、これでも結構キレイな身でいたんだぞ」
あ、いえ、あの。別にそういうのを疑ってるわけじゃないんです。ただ、でも。
「……い、いくらなんでも、いきなりフランス風は無いでしょうーっ!?」
一応その。やっぱりファーストキスって言う物には、人並みの憧れみたいなのが結構あったわけです。
……いきなりあんな激しいのは、わたしの想像の埒外だったわけで。
別に、嫌だったとか、気持ち悪いとか、そんなのは全然ないんですけどっ!
でも、あんまりにも予想っていうか想定外にすぎたので、ちょっと文句のひとつくらいは言いたくなってしまったのです。
「あー、まあ、その、なんだ。……ざっと五年分を濃縮した割には大人しい方だったと思うぞ?」
つうかむしろまだやりたりねェんだが。
じーっと顔を覗き込まれながら真剣な顔で言われます。
「ちょ、だ、ダメですよっ!?」
両手で口元をガードしながら、ずりずりと後ろに下がります。
「――おいコラ。逃げンな」
うわあ、待って。待って――!
さっきの衝撃からまだ完全に立ち直ってないのに、アレでもまだ大人しい。っていうようなとんでもない事されたら、
今度こそわたしの脳みそがどうにかなってしまいます。
「まーゆー。おとなしくしろー」
わたしの手をつかんだまま、そんな事を言ってきます。
そのくせ、さっきほど無理矢理にしようとしないあたり、ひょっとしてわたしがこうしてジタバタ抵抗してるのを
楽しんでるのではないか。という気がして、余計に腹がたちます。
絶対思い通りになってやるもんか。と必死に腕を突っ張っていると、鼻の頭にぽつり。と雫が落ちました。
つめた。と思うまもなく、ぱたりぱたりとほっぺたや腕に当たるほど、雨滴が六月の灰色の夜空から降ってきます。
「あ――、振ってきちまったなァ」
「はあ……、振ってきちゃいましたねえ。天気予報では明日は振らないって言ってたんですけども」
「夜の間に通り過ぎンじゃねェか? それよりもよ、このままじゃ濡れちまうだろ、
今日のところはよ、もっかい、俺の気がすむまで色々やらせてもらって、そんで帰るとしようや」
……どさくさに紛れて何自己中全開な事を言ってますかみいちゃん。
「きゃ、却下ですよっ! さっきもうあれだけしたんだから、もういいじゃないですかあっ!」
「馬ッ鹿野郎、まゆこオマエ。たったアレぐらいのことでなァ、この俺の五年分のがっついた愛情が昇華しきれる
ワケが無ェだろうがッ! 具体的にはもっとこう、チューさせろあちこち触らせろ乳揉ませろエロい事いっぱいさせろ――ッ!!」
「なんだってそうリビドー垂れ流しなんですかアナタって人は――っ!!」
数分前までの甘い空気など、完全に地平の彼方に吹っ飛ばしつつ、ジタバタ押し問答をしている間にも
雨脚はどんどん強くなっていき。
「……解った、今回は俺が諦める……」
勝った。と思ったときには、もう二人ともずいぶんと濡れてしまっていました。
「ちょっと待て。オマエそんな格好で帰ったらおじさんもおばさんも心配するだろ。ウチ寄って乾かしてから帰れ」
みいちゃんのその言葉に、それもそうかなあ。と思い。
「いいからいいから。風呂沸いてるはずだから入って温まってこいよ。風邪引かす訳には行かねェしよ」
確かに、少し寒かったので、お言葉に甘える事にして。
ほくほくと温かなお湯に浸かって、気持ち良いなあ。と手足を伸ばしたのが十分前。
タオルと着替えを置いておくぞ。というガラス戸越しのみいちゃんの声にありがとうございます。と返した直後。
「――男の部屋にノコノコ付いてきて風呂にまで入っておいて。
何も無い。で済むとは、まさか思ってないよなァ? なあ、まゆこ?」
と言われて硬直したのが五分前――。
あ。
ああ。
う、うわああああっ!?
ど、どうしよう――っ!?
どうにかこうにか硬直は解けましたが、湯船の中にいるのに、とてもではないですが、リラックスする気にはなれません。
と、いいますか。すでに湯船の中で三十分。リラックスどころかそろそろゆでだこになりかけてます。
「……うー」
どうしよう。
いや、どうしようもこうしようもなく、こうしてみいちゃんの家でお風呂に浸かっているというのは、
やっぱりその、そういう事になってしま、う。ので、しょうか。
―――あう。
だ、ダメ。ダメですやっぱダメ。ぜったいダメ。
そりゃみいちゃんのことは大好きですし、さっきのアレでちゃんとこ、こここ恋人、どうしになったわけで。
だからその、どうしても凄く嫌とかいうわけではもちろんありませんが、こんないきなりっていうか不意打ちっていうか、
そういう関係になってしまうのは、正直かなりちょっとすごく怖いですし、それにその、そもそも高校生らしいモラルの問題で、
何ていうか、あのその、そういうことはもっとこう、彼氏彼女らしいお付き合いをきちんとした上で、そのもうちょっとこう、
自然な流れでいつかそのうち行うべき事で、さっき告白して気持ちを確認しあったばっかりで初めてキスして
それで、いきなりこんな事しちゃうっていうのは、いくらなんでもやっぱり間違いっていうか絶対ムリー!
だってわたし今ちょっとお通じ悪いせいでおなかぽこって出ちゃってるしオデコにニキビ出来ちゃってるし、
お湯で流れちゃって眉毛半分ないし、夕方泣きながら寝ちゃったせいで瞼腫れてて今すっごいブスなのにー!
……や、やっぱり逃げるしかありませんっ。
そう後ろ向きな決意を固めて浴槽から上がろうとした瞬間。
「まーゆー? オマエなにやってんだよ、長風呂にも程があるだろー」
「ふわあッ!?」
ずる、ばしゃ。どぼん、げほ、げほげほげほっ!
不意打ちに声をかけられたせいで、湯船の中で引っくり返ってしまいました。
うう、鼻にお湯入ったぁ、いたいようー。
「……何やってんのオマエ。大丈夫?」
「きゅ、きゅうに、おどかさないで、ください、ようー…」
――あれ? なんか、声がやけに近いような。
……顔を上げると、洗い場に、みいちゃん、がーッ!?
「ぎゃー! なんな、なんで、いるんですかっ!?」
「あんだけ派手に音がしたら、心配だろうが。俺ァ、自分ちの風呂で溺死体になられるのは嫌だぞ?」
「すいませんねえっ! もうだいじょうぶですっ! だいじょうぶですから出て行ってくださいっ!」
「いやいやいやいやいや。やっぱり心配だなァ、心配だとも。――心配だから、俺も一緒に入ってやろう」
――――はい?
言うなり、シャツに手を掛けて、いそいそと脱ぎだします。
「いーやーあーっ!!」
「まあまあ、そんな遠慮すンなよ」
「してませんっ! わ、わたし、もうあがりま――」
す。って、駄目だーっ! わたし、素っ裸じゃないですかーっ!
みいちゃんに背を向けて、浴槽の隅に出来るだけ体を縮こませます。
背後で、服を脱ぐ音が止んで掛け湯を使う音がしてきます。
「……そこまで詰めなくても、浸かれるぞ」
ざぶり。と、お湯が溢れて、みいちゃんが浴槽に入ってきます。
「……ばか」
「馬鹿ときたか」
「ばかで不服なら、へんたいですっ。なに考えてるんですか、すけべっ」
「うわあー、酷ェ言い草だなァ。俺は、オマエさんが溺れやしないか心配だっただけなのにー?」
よくもまあ、ぬけぬけと。
「どこの星からきた嘘つき星人ですかあなたはーっ!」
くそう、こんな状況じゃなけりゃ、ぜったいぶってやるのにー!
とてもじゃないですが、みいちゃんのほうを向く事なんか、できません。
うううう。どうしたらいいのーっ!?
「――ちょいと、足、のばすぞー」
後ろから、わたしの体を挟むように、足が二本伸びてきます。
「わ、ちょ、ちょっと…っ!」
「……オマエも、ンな窮屈な格好してないで、もうちょっと楽な姿勢取ればいいじゃないか」
背後から。肩をがしりと掴まれて、後ろに引っ張られます。
うひあ。と叫ぶ暇も無く、みいちゃんに後ろ向きに抱っこされるような体勢になってしまいました。
背中に自分以外の体温と何もさえぎる物の無い皮膚の触感を感じ、うわあ。と跳ね起きようとする身体を
押さえるように、おなかの前で腕を組まれ、がっちり抱え込まれてしまいました。
「――逃げンなよ。頼むから」
だ、だって、恥ずかしいんですよう……っ!
必死になってじたばた暴れますが、腕の力が緩む気配はちっとも無く、お湯だけがどんどん量を減らしていきます。
先程からずうっと湯船に浸かりっぱなしで湯中りを起こしかけていた事もあって、へにゃりとみいちゃんの胸に頭を持たせかけてしまいました。
「お、大人しくなったな」
……ぐったりしてる。っていったほうが正しい表現だと思います。
お湯の中で、ひょい。と持ち上げられ、みいちゃんの膝の上で横抱きに抱えられるような姿勢にさせられます。
何を。と言いかけたところで、本日二度目の口付けをされました。
「――んっ」
下唇を軽く咬まれ、前歯の裏を侵入してきた舌に擽られ、びくり。と身体が緊張しました。
何度も角度を変えて口付けられ、その度に口の中のあちこちをみいちゃんの舌が舐めてきます。
「……ぁ、はぁ……っ!」
下腹部にきゅう。とした痛みにも似た感覚が走り、何故か腰のあたりから力が抜けて行ってしまいます。
目の前にぼんやりと霞がかかり、みいちゃんの唇と舌と、ぺちゃぺちゃという水音しか解らなくなってしまい、そうに――。
「――っ! や、やぁっ!」
ふにゃり。と、胸を触られる感覚に悲鳴をあげます。
「うや、み、みいちゃんっ! お願いですから、ちょっと待って……っ!」
むりやり唇と手を引き剥がします。
「―――なンで待て?」
一応止まってはくれましたが、ものすごく不満そうなジト目でこっちを睨んできます。
と、いうよりも、完全に目が据わっててかなり怖いんですがみいちゃん……っ!
「……なァ、まゆ」
「は、はい……?」
怖いくらいに平板な声で名前を呼ばれます。
「あのな、そんッなに俺の事、嫌か?」
ち、違います、違いますよっ!?
別にみいちゃんの事がイヤとか嫌いとかじゃないんです、ないんですけどっ!
「い、いえあのっ!? わ、わたしが思うにですねっ、こういうコトは、お互い相手をよく理解して
じっくりとお付き合いを深めた上でっていうか、その、いつかそのうち、自然な流れで行うべき事で――」
がっちり抱え込まれた腕の中から逃れようと、水音を立てて暴れます。
「……生まれてこの方17年。間に2年と少し抜けたの勘定に入れても15年の付き合いだろが、俺ら」
上半身を強く引き寄せられ、後ろから私の首筋に頭を持たせかけるようにして、こっちの顔を覗き込まれます。
「……いまッさら。わざわざ深めなきゃならねェ仲でも無ェだろうが。
違うか? 俺ァな、それこそオマエの身体のどこにホクロがあるかまで知ってんだぞ」
そ、そりゃそうなんですけども。
「……あの、ちょっと……。……怖い。です」
そういうと、みいちゃんは真剣な顔でわたしの目をじいっと覗き込んできました。
「――あのな、難しいかも知れねェが、信用してくれ。
自覚したなァ12の時だが、多分、俺はそれよりずっと前からオマエの事、好きだったよ。
なァ、まゆ? 俺がさ、オマエさんの優しさに、どんだけ救われてたか」
少し照れくさそうに目を伏せてそう言い、もう一度、真剣な目でわたしの目をまっすぐ見て言いました。
「――できるだけ優しくする。約束する。だからな、童貞やるから処女よこせ」
……なんだってこう、甘い空気に冷や水ぶっかける言動しかできないのでしょうかこの人は。
「さ、最後の一言が凄く余計ですよっ!?」
「ああスマン。つい本音が」
「本音なんですかっ!? なんなんですかっ、そ、その、そういう事だけが目当てだって
思われても仕方ないですよこの状況っ! お願いですからちょっとは隠してくださいなっ!」
「ふざけンなよ、身体目当てだと? 馬ッ鹿野郎。身体だけで満足できるワケが無ェだろが。
全部欲しいンだよ俺は。なァ、真由子。俺の気持ちも身体も全部やるから、オマエの全部、俺によこせ」
……まったくもう。
わがまま。自己中。自分勝手の王様気質。
「……みいちゃんらしいなあ、もう。しょうがないんですから……」
いつのまにか、全身の緊張が抜けているのに気づきます。
くすくす笑いながら、憮然としているみいちゃんに顔を近づけて、唇に触れるだけのキスをします。
「わたしも、みいちゃんの事、大好きですよ。……それじゃ、あの、お互い交換って事で……」
言いかけた途端に抱きしめられ、胸やお尻に手が伸びてきます。
「ちょ、まっ、こ、ここではイヤ――っ!
お布団、お布団まで待ってくれないと、ホントに嫌いになりますからね――っ!」
ポカスカと頭や肩を叩きながらわめくと、ちっ。とあからさまに舌打ちをしてからようやく腕を離してくれました。
我慢できそうに無いから先にあがる。と言い残してそのままさっさとあがっていってしまいます。
……なんか、うれしはずかし初体験。という理想のシチュエーションには程遠いなあ……。