ぷろろーぐ?(1)  
 
はじめまして。  
わたしの名前は、原田真由子といいます。  
歳はもうじき17歳の私立高校の2年生です。  
わたしには、マンションのお隣さんで、赤ちゃんのときからずっと一緒だった、藤井瑞穂ちゃんという 
友達がいました。  
瑞穂ちゃんとわたしは、いわゆる幼馴染というもので、アルバムを見ても、物心ついたときからの思い 
出の中にも、ずっと瑞穂ちゃんがいたのです。  
瑞穂ちゃんはわたしの憧れでした。  
背の高いすらりとした姿も、まっすぐな長い髪も、少し皮肉屋で意地悪な性格も、チビで泣き虫で臆病  
で、何をしても要領の悪いわたしとは正反対だったからです。  
それでも、幼馴染の気安さで、小学生のころから、しょっちゅう互いの家にお泊りしては、一緒にお風 
呂に入ったり、一緒の布団で寝たり、夜更かししてクッキーなんかを一緒に作ったりしたものです。  
――そんな楽しい日々も、わたし達が中学の2年生のときに終わってしまいました。  
 
秋の日の事でした。  
瑞穂ちゃんが、急に倒れてしまったのです。  
すぐに病院に運ばれて、入院した事をわたしは瑞穂ちゃんのおばさんから聞きました。  
お見舞いに行きたかったのですが、家族以外とは会えないのだと断られました。  
きっといつもどおり、何事も無かったみたいな飄々とした顔で帰ってきて、わたしが泣いたらいつもの 
意地悪な笑顔になって、――なに? 私が死ぬとでも思った? 残念だったな、このとおりだよ――な 
どと可愛くないことを言うに決まっているのです。  
――でも、瑞穂ちゃんは帰ってきませんでした。  
1ヵ月経ち、2ヶ月が過ぎ、3ヵ月経って、隣の藤井さん家は引っ越して行きました。  
瑞穂ちゃんの病状が思わしくないため、退院してすぐ、田舎へ帰って療養するのだそうです。  
その事を、学校から帰ったわたしが母から聞いたときには、もう全てが終わった後でした。  
わたしは泣きました。もう二度と瑞穂ちゃんに会えないのだと、赤ちゃんに返ったみたいにわあわあ泣 
きました。  
それから1週間が経って、1ヵ月が過ぎて、半年が経った頃には、ようやく泣かなくなりました。  
わたしは受験生になって、頭の中に瑞穂ちゃんの事よりも、数学の公式や英単語や古文の文法を置いて 
おく事を選んだからです。  
そうして、高校生になって、新しい友達もたくさんできて、瑞穂ちゃんの事が思い出になりかけたころ 
、瑞穂ちゃんが帰ってきたのです。  
もともと背高さんだったのですが、さらに背が伸び、長かった髪はばっさりと短くなって、華奢だった 
体つきは…、…逞しくなり。少しハスキーで大人っぽかった声は…、…とても低くなり。  
…そう。  
瑞穂ちゃんは、『とても』変わってしまっていたのです。  
「…なんでーーっ!?」  
 
 
瑞穂ちゃんが帰ってきた。 
 
本当ならば、とても嬉しい事であるはずですが、ちっとも嬉しくありません。  
何故かというと、それは、  
「…いいかげんにそう睨むのを止めたらどうだ。2年半ぶりに会ったッてのに、ずいぶんなご挨拶だな、まゆ」  
わたしの目の前にいる、この見知らぬ男の子のせいです。  
こんな人、わたしの、わたしの瑞穂ちゃんでは、決して――。  
「藤井さんから話は聞いてたけど、大変だったわねえ、みいちゃんも」  
「あ、父が話してたんですか。俺の体のこと」  
「そうよう。半陰陽っていうんだった? 本当にあるのねえ、そんな事」  
「そうですね。俺も自分の身に起きなきゃ、まず信じなかったと思いますよ」  
「おばさん本読んで勉強したのよう。よく解んなかったけど。  
とりあえず、みいちゃんは女の子に見えてたけど男の子でー。そんで男の子の体に手術して帰ってきたのよね?」  
「んー、まあ、とてつもなく大雑把に言えばそんな感じです」  
「…なんだって。真由子、いいかげんお母さんの後ろから睨むのを止めなさい。ちょっと大きくなって印象が変わったけど、この子間違いなくお隣の瑞穂ちゃんよう?あんなに仲良かったじゃないのよ、あんたたち」  
――なんだってなごやかに世間話の話題になってるんですか。  
わたしには天地が引っくり返ったのに等しいくらいの出来事だったのに…!  
「い、印象とかそういう問題じゃないようっ! だって、わたしの友達の瑞穂ちゃんは女の子だもんっ!  
 あ、あなたなんか知らないっ! わたしのみいちゃんを返してっ! 返してよう…っ!」  
 
思わず立ち上がって叫んでいました。  
自分でもびっくりするくらいの大声でした。  
そのまま、大急ぎで回れ右して自分の部屋に閉じこもりました。  
後ろでお母さんの怒っている声が聞こえます。  
きっと今日のお夕飯はわたしの嫌いな物ばかりになるでしょう。  
ひょっとしたらおこづかいまで減らされてしまうかもしれません。  
そのことよりも。  
「…なんで」  
なんで、あんな泣きそうな顔するんですか。  
「…卑怯な…」  
そんな顔、今までした事なかったじゃないですか。  
「…ずるい、ですよ…」  
そう、無意識に呟いたとき。  
こん、こん。と音がして、部屋のドアがノックされました。  
「まゆ、俺だ。…まあ、いきなり、女のはずの幼馴染が男になって戻ってきました。  
 …なんて、信用してくれって言っても、無理だよな」  
あたりまえです。わたしの知ってるみいちゃんは、わたしの大親友のみいちゃんは、  
確かに女の子だったんですから。…そりゃ、胸はぺったんこでしたし、男の子みたいな言動の人でしたけど…。  
 
「だからな、お前に信用してもらえる、証拠を示そうと思うんだ」  
…証拠?  
「…幼稚園のとき、俺の誕生日会のクラッカーに驚いてお前漏らしたよな」  
「!」  
「小学三年のバレンタイン。同じクラスの大田くんに渡す手作りチョコに、おまじないとか言って  
 怪しげな事してたなあ。俺が何回も止めろって言ったのに。食中毒で入院だったっけ? 可哀想な事したよなあ」  
「…あ」  
…確かに。  
「小六のとき教育実習に来てた先生に、一方的に熱上げて交換日記を迫って彼女きどり。  
 結局、先生にはちゃんと恋人がいて、 その日はわーわー泣いてたよな。  
 交換日記も見せてもらったよなー。俺今でもあのポエムは忘れられないもんな。  
 いや、アレは傑作だった。えーと、どんなだったかな、たしか『先生を思うと私の小さな胸は――』」  
…確かにソレはわたしとみいちゃんしか――ッ!?  
「うわああああーっ!!」  
たまらずドアを開けて飛び出しました。  
何て事を持ち出しやがりますかこの人はーっ!?  
半泣きになりながら見上げると、ものすごーくイヂワルそうなニヤニヤ笑いを浮かべて彼が立っていました。  
…ああ。  
このとてつもなくイヤな笑顔にはうんざりするほど見覚えがあります。  
…瑞穂ちゃんです。間違いありません。  
「やっと信じたか。アホまゆ」  
…ええ、信じましたとも。どうも、わたしの記憶は二年半の間にだいぶ美化されていたようです。  
瑞穂ちゃんは、こうゆう人でした。  
…この、あくまめ。  
 
 
 
 
――わーん、わーん。  
……誰かが泣いてる。  
――泣くんじゃないよ、仕方ないだろう?  
……誰、でしたっけ…。  
――だって、だってえ…。おねえちゃ、おねえちゃん…。  
――ゆり姉は、幸せになりに行くんだよ? ほら、妹のアンタが花嫁さん悲しませんじゃないよ。  
…あー。わたしですね、泣いてるの…。姉さんの、結婚式の日だ…。  
…ああ、じゃあ、子供のころの、ゆめ、ですね…。  
――でも、でもやだあ。おねえちゃんイギリスなんかにいっちゃうの、やだようっ…。  
――はあ。しょーがないな、甘ったれまゆ。…アタシがいてやるから。  
…そういえば。  
――え? なあに?  
――…アタシはどっこも行かずにアンタと居てやるって言ってんだよ。  
わたしが話してるのって、いったい――。  
――ほんとう? みいちゃん。どこにも行かない?  
――ああ、本当だ。  
――じゃあ、約束して――。  
…ああ。約束。そうだ、わたしはみいちゃんと、やく、そくを―――。  
 
 
―――――。  
―――――――。  
―――――――――おーい。  
―――――――――――おーい。  
「おーい。起きろー。まゆー。まゆこサーン。朝だぞー。いい加減起きてクダサーイ」  
あ。瑞、穂、ちゃ、……。  
そこで、一気に目が覚めました。  
「ぶはあっ!? んな、何で…!?」  
なんでわたしの部屋にこの人が。てゆーか、顔が! いま顔がムチャクチャ近くに来てませんでしたかーッ!?  
 
「うわ。真由子、おまえなあ、年頃の女なら『キャー』くらい言ったらどうだ。色気の無い」  
「…そ、その年頃の女の寝てる部屋に勝手に入ってこないでくださいよっ!? なに考えてんですかっ!?」  
「おばさんに起こして来いと頼まれたからな。春休みだからって寝すぎだろう、もう八時すぎてるぞ」  
お、お母さんめーっ!?  
仕方ないので起きて着替えます。タンスの引き出しを開けてパジャマのボタンを外そう、と。  
「どうした。俺のことは気にするな。早く着替えろ、味噌汁が冷める」  
「出て行けーーッ!!」  
力の限り枕を投げつけました。  
「ま、まったく、あの人は…っ!」  
絶対にわざとわたしを怒らせようとしています。  
――そういえば。  
「…なんか、変な夢を見たような…」  
どうにも思い出せません。ま、忘れるくらいなんですから大した事では無かったのでしょう。  
着替えて、顔を洗って髪をブローしながら昨夜の事を思い出します。  
 
 
――昨日、友達と遊びに行って夕方帰ってきたら、知らない男の子が母とコタツでみかん食べながら世  
 
  間話してて、しかもそれが病気で遠くの病院に入院した幼馴染(女子)だったのが男の子になって  
 
  戻って来て。それでまた隣に引っ越して来てまたヨロシクと。  
「…わかりました。頭が痛くなりそうな話ですが、概ね理解したつもりです。  
 …あなたが瑞穂ちゃんだって言う事は、さっきイヤというほど思い知りましたし」  
「納得してくれてありがたい。では、これからもよろしく」  
「…それはいいんですけど、なんでわたしの家でごはん食べてるんですか…!?」  
「さっき言っただろう、今日の昼に引越してきたばかりなんだぞ。俺は」  
荷物なんかまるきり片付いてないからメシも食えないのだ。とやたら堂々とした態度で言い切られてしまいました。  
 
「…あの、ちょっと聞きたかったんですけど」  
「何をだ」  
「おじさんとおばさんは何でいないんですか…?」  
「ああ、最初、全員でこっちに帰ってくるはずだったんだが、急に本社から辞令が降りたそうで、後1年は東京だ。  
 せっかく俺がこっちの高校に受かったんだから、一人だけでも帰れと言われてな――」  
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。高校に受かったって――?」  
同い年でしょうわたし達。  
「ああ、ダブった。半年入院してたからな、仕方ない。後は週一で通って治療受けるだけでよかったけど」  
「あ――」  
そうでした。わたし、なんて事を。  
「ま、そういう事だ。――それじゃ、四月からよろしくな、先輩」  
「――は?」  
「学校一緒なんだよ。明日、案内頼むな。通学路と学校近辺くらい事前に知っておきたいんだ」  
ちょっと。ちょっと待ってください。展開に、アタマが――。  
「家でも学校でも一緒か。楽しみだな。なあ、まゆ」  
そう言って。ニヤリと、例の邪悪な笑みを浮かべました。  
――その後。瑞穂ちゃんは帰ってきたお父さんにも妙に気に入られたらしく。  
お父さんの晩酌の相手をしながら二人で妙に盛り上がり。  
ずうずうしい事にお風呂にまで入って隣に帰って行ったのでした。回想終わり。  
 
 
「――あんまり変わらないな、このあたりは」  
「三年も経ってないですし…。そうそう変わるものではないんじゃないですか?」  
朝食の後、昨夜言われたとおり、彼を連れて学校へ向かう事になりました。  
「そうかもな。…あー、でもあのコンビニは無かったな、たしか」  
「…そうですね、たしか、二年前くらいに出来たんです」  
「ふーん。なあ、まゆー。歩いて30分くらいだったか? 学校って」  
「…そうです。だから案内の必要も無いんじゃないかと思うんですが。  
 後、学校ではわたし、先輩なんですから、その呼び方やめてくださいね、藤井くん」  
「藤井くん、ね。ふん」  
…あ。…ちょっと、言い過ぎたでしょうか。  
でも、やはり四月からはわたしが先輩なわけですし、それに。  
――見上げなければいけないほどの長身、涼しげ、というよりは鋭い目つき、低い声、  
ごつごつと骨ばった大きな手。  
…やっぱり、この人を瑞穂ちゃん、みいちゃんなどと呼ぶのは抵抗があります。  
 
「おまえみたいなちっこいの、あんまり先輩って感じでも無いんだよなあ」  
などと言いながら、ぽんぽん、と人の頭を叩いてきます。  
「背丈はこのさい関係ないでしょうっ!?」  
年齢の事ならともかく、身長の事を言われるとは思いませんでしたよっ!  
「スマンスマン。…いや、しかしお前ひょっとして中学の頃より縮んでないか?   
 なんかえらくちまこくなったような気がしてなあ」  
「それは、あなたが大きくなったからですっ! それにわたし150センチはあるんですよっ!   
 そんなにチビチビ言われるほど小さくありませんっ!」  
ぜーはーぜーはー。  
…どうも、身長の事を言われると冷静になれなくなります。  
ここ数年、毎日牛乳を飲んで小魚も食べてとして来た割には、あまり効果が果々しくなく、  
150センチでぴったりと止まってしまったわたしの背。  
…華奢で、すらりと長い手足が妖精のような。そんな風になりたかったのに、現実は非情です。  
わたしは、相変わらずチビで、重たい肉が胸やお尻にみっともなく付いています。  
「…すまない、言い過ぎた」  
「――いえ、わたしこそ、すいません。…少し、ムキになりすぎました」  
それきり、会話が途切れてしまいました。幸い、すぐに学校についたので、  
気まずい時間は少しの間だけですんだのですが。  
 
 
「――それで、あっちがグラウンドと体育館。こっちが記念館です、食堂と購買はここの一階」  
「一年の教室が四階にあるんだったな。――だいぶ、遠いな」  
「ええ。昼休みは生徒でいっぱいになります。ですからパンを買うときは急いだ方がいいですよ。  
 後、 学食も食券制なので、昼休みの前に食券を買っておくのが早くて確実です」  
春休みとはいえ、部活の生徒もいるので、学校は開放されています。  
藤井君に学校内を案内しながら歩いていると、  
「あれー? まゆっちじゃん、どしたの?」  
後ろから、聞き覚えのある声がかけられました。  
振り返ると、真っ直ぐな黒髪を腰まで伸ばした、背の高い綺麗な女性が立っていました。  
細く長い足に、Gパンがとてもよく似合っています。三年の、高橋彩先輩でした。  
「彩先輩。先輩こそどうなさったんですか?」  
「んー? ほら、私ら明日卒業式じゃん? そんでさ、やっぱ最後だしね、学校一通り見とこうかなー  
 ってぇ話になったワケよ。それよりさ、まゆっちー。その子ダレ? 彼氏?」  
「――! ち、違いますっ! 四月にウチに入学してくるから案内してただけで――!」  
「えー? アヤシイなあー」  
にこにこと――、いえ、ニヤニヤと冷やかすような笑みを浮かべてからかってくる彩先輩。  
「ま、あんまり追求するのも野暮ってもんだから、カンベンしてあげるわ。それより、はじめまして、  
 高橋彩です。もっとも、もう卒業だから、これからもよろしくってワケにはいかないけど」  
「藤井瑞穂です、こちらこそ、どうも」  
お互い挨拶をしながら握手を交わす彩先輩と藤井君。  
 
「まゆ。さっき先輩って言ってたが、部活の先輩か?」  
「い、いえ、委員会です、図書委員の先輩で。それより彩先輩、お一人なんですか?」  
「いや、タケもいっしょ。アイツさあ、明日の式で卒業生代表で答辞なんか読むことになったっしょ?  
 今から胃ィ押さえて青い顔してんのよ。そんでさ、校内でも見てまわれば、ちょっとでもいい気持ち  
 で読めるかなーと、思ってさ」  
「…余計な事、言うのやめろよう、高橋ー」  
「小川先輩!? お、お久しぶりですっ…」  
いつのまにか、すぐそばに小川先輩が来ていました。  
「あ、原田さん。久しぶりだね、元気にしてた?」  
小川武弘先輩は、その勇ましい名前とは裏腹な、少し長めの髪に、眼鏡の奥の少し眠そうな目、細っこ  
い長身を少し猫背気味にして、いつも書庫で本に囲まれながらにこにことしている、そんな人です。  
「ところで、原田さんはどうしてここに? デートですか?」  
「違いますーっ!」  
もう一度、さっきと同じ説明をする羽目になりました。  
 
 
「…ふうん、病気で半年休学で、留年かあ。それは、なんていうか、大変だったろうねえ」  
それからなぜか、学食に移動して、お茶にする事になってしまいました。  
とはいえ、春休みなので、食堂が営業しているはずも無く、カップベンダーのコーヒーなのですが。  
先輩方――特に、小川先輩が、妙に藤井君と意気投合して話しこんでしまい、何か変な事を言いはしな  
いだろうかと、ハラハラしたのですが、特に何事も無く、わたしたちは先輩達と別れ、家路に着くこと  
になりました。  
 
 
「――そういえば、わたしもすっかり忘れてたんですが」  
「何を?」  
「何を? じゃありませんよ、ちゃんと家のほうは片付いたんですか?」  
昨日引っ越してそのままなんじゃないでしょうね。だったら、手伝いにいかなければなりません。  
「まあ、だいたいはな。必要最低限のものは片付けたから、後はボチボチやるさ」  
「ボチボチって…」  
はあ。おもわずため息が漏れます。そういえば、昔からこの人は片付けが嫌いでした。  
いえ、嫌いというより、極端にマイペースな上、雑然としていても気にならない性質なのでしょう。  
わたしの目には、散らかり放題にしか見えない部屋の、どこに何があるのかを完璧に把握していました  
し。実際に困らないのですから無理も無いのかもしれませんが。  
「…わかりました。今日と、あと、明日はわたしも卒業式に行くので無理ですが、明後日はわたしも手  
 伝えるので、一気に片付けてしまいましょう」  
「…えー」  
「なにか、文句でも、あるんですか」  
「いや、冗談だ。手伝ってくれるならとても助かる、ありがたい」  
…最初から、素直にそういえばいいんですよ。もう。  
 
 
家に帰ったのは、昼過ぎでした。  
明日渡すクッキーを、急いで作らなくてはいけません。  
夕飯前に終わらないと、おかあさんに怒られてしまいます。  
さっそく、材料を取り出して計り始めます――。  
 
「…おばさん、まゆのヤツ、なに作ってんのか、わかる?」  
「…クッキーみたいだけどねえ。チョコチップクッキーみたいよう」  
「…ほう、チョコチップ」  
「…そういえばねえ、バレンタインの時も、なんかごそごそやってたわよう。   
 帰ってきてから一人でばりばり食べてたみたいだけど」  
「…つまり、バレンタインの、雪辱戦だと?」  
「…かしらねえ。…あーあー、あんなに混ぜたら混ぜすぎよう」  
「…今度は、卵一気に入れましたね…」  
「…分離して大変よう」  
「…昔から思っていたんですが」  
「…なあにー?」  
「…あいつ、普通の料理はそれなりにできるくせに、菓子は本当、壊滅的に下手ですよね。  
 なんで、たかがクッキーをあんなに不味く作れるのか、不思議でしょうがない」  
「…そうねえ。自信が無いからかしらねえ。だから混ぜすぎたり入れすぎたり一味足らなかったりする  
 のよう」  
「…ああ、なるほど。それがあのスプーンの刺さらないゼリーであるとか石のようなクッキーとかに繋  
 がるわけですか」  
「――心のそこからうるせえーっ!! 陰口ならせめて聞こえないようにやったらどうなんですかっ!?」  
 
「き、聞こえてたのうっ!? まゆちゃん!?」  
「イヤというほどまる聞こえでしたよっ!」  
ああもうこれが嫌味でもなんでもなく本気なんだからわが母ながら、たまりません。  
「聞こえてたなら言わせてもらうが、お前それチョコチップの量、多すぎ。  
 くるみも、入れるならもっと細かくしたほうがいいし、そもそも、生地を練りすぎだ」  
「もーいいから出てってください! 二人とも! これはわたしだけで作るんです!」  
 
 
どうにか、クッキーを焼き、ラッピングも可愛くでき、卒業式の朝がやってきました。  
もっとも、わたしは、委員会の先輩を個人的に見送るだけなので、式場内には入れませんが。  
先輩方に渡すお花は通学路の途中にある花屋さんに頼んであるので、行く途中で受け取ります。  
卒業式の後は、図書館の司書室を借りて、図書委員のささやかな送別会です。  
――さて。  
「…なんだってあたりまえの様に我が家の朝の食卓にいるんですか藤井君」  
「うわ冷てえなー『ふがっ、ふがっ』とかすげえ豚みたいに可愛らしい鼾で寝てたくせに。…一人分の食事を作るのは結構に面倒くさいんだ。特に朝は。…きちんと理由を話したんだから、無言で急須を振りかぶるのはよせ。それさっき煎れたばかりでとても熱い」  
本気で顔面に熱湯をぶっかけてやろうかと思いましたが、どうにか思いとどまります。  
…落ち着け、落ち着くのよわたし。こんな日にこの人のせいでペースを乱されたくありません。  
無言で朝食を食べ終わり、洗面所で身支度を整えて玄関先で靴を履きます。  
…よし、持ち物も先ほどきちんと確認しましたし、靴はぴかぴか。制服にも変なシワや埃はありません。  
 
で、なんでこの人は玄関までついてくるのでしょうか。  
「…まゆこー。お前さあ、昨日焼いてたクッキーみたいなのって」  
「『みたいなの』は余計です」  
「小川サンだろ。告白する気か」  
「んなっー!?」  
な、なん、何でっー!?  
「なに『何で解ったのー』ってツラしてんだ。解るってぇのオマエって単純極まりないんだから。  
 …俺が考えるに、先月のバレンタインに告白しようとしたが、それも出来ずに悶々として、卒業式ギリギリでケツに火がついて大慌て。って所か」  
「――! あ、あなたには関係ありませんっ! それじゃ、いってきますっ!」  
逃げるように玄関を飛び出します。何だって、あんなにカンが良いんでしょうか。あの人は。  
小川先輩にだって、昨日が初対面で小一時間ほど話しただけなのに。  
…いえ、考えないようにしましょう、今日は、とても大事な決戦の日なのです。ペースを乱さずに行かなくては…!  
 
 
――数ヶ月前よりも、ずいぶんと日が長くなりましたが、六時も近くなればさすがにもうずいぶんと暗くなってきます。  
わたしたちのマンションの近くには、わりと大きな児童公園があって、学校の行き帰りには、ここを抜けると近道になります。  
いつもは子供たちの遊び場になっているのですが、この時間にはもう子供たちの姿は見えません。  
「――おい」  
「うっわっああっ!?――って、ふ、藤井くんっ!? い、いきなり驚くじゃないですか、変質者かと思いましたよ!?」  
藤井君が缶コーヒー片手にブランコに座っていました。…まさか、とは思いますが、わたしの帰りを待っていたのでしょうか。  
手振りで座れ、と促されたので、藤井君の隣のブランコにわたしも腰掛けます。  
「失礼な事を言いやがる。――で? どうだった?」  
ほれ、とわたしにも缶のミルクティーを渡しながら、そんな事を聞いてきます。  
「――。何の、ことです?」  
「今更とぼけんな。朝、あんだけ動揺してたら、全部図星でした。って白状したも同然だっての」  
――はあ。  
「…そういう、俺様は何でもお見通しだー、って態度はどうかと思いますよ」  
「だったら、見通されないようにしてくれよ。筒抜けなんだから仕方ないだろ、お前の場合」  
ぬあー、口の減らない人です。  
「小川サンの事だよ。――あの人な、たぶん――」  
「…彩先輩と、お付き合いしてらっしゃいますね。…2月から」  
あ、びっくりしてる。この人をここまで驚かしたのは初めてかもしれませんね。などと妙な達成感にひたります。  
 
「…気づいてたのか? お前が!?」  
「…その、『お前が!?』というのがどういう意味で出たのかはあえて追求しませんが…。  
 …気づいてた。と、いうより、知ってましたよ」  
あの、夕暮れの教室に、わたしが行ったときにはもう全部終わっていて。  
「…あのお二人、幼稚園からずうっと仲良かったんですって。お互いの長年の想いが通じて、  
 ようやく恋人としてお付き合いし始めたのが、先月のバレンタインに彩先輩から告白したのがきっかけだそうですよ。  
 …すごいですよね。まるで物語みたいにロマンチック」  
最初からわかっていました。小川先輩の一番は、彩先輩であってわたしではないのですから。  
わたしが好きになったのは、わたしといる時の小川先輩ではなく、彩先輩といる時の小川先輩でした。  
彼が彼女を見るときの表情は、とても優しくて、少し苦しそうで、誰よりも何よりも愛しい相手を見るときの目で――。  
――わたしは、二月よりもずっと前、自分の恋心を自覚した途端に失恋していたのです。  
「――それで、がんばって玉砕してきました」  
わたしは、自分の恋心に止めを刺して欲しかったのです。きちんと殺してしまわなければ、きっとずっとこの気持ちを引きずったまま生きていくのでしょう。  
どうせ、散るんだったら、潔く行きたいじゃあないですか?  
「――あ、クッキーも、『そういう意味なら受け取れない』って、ちゃんと突っ返されてきましたよ。  
 食べようと思っていたので、飲み物がありがたいです、ありがとうございます」  
大丈夫です。平気です。だって、わかってたんですから、この日のために、1ヵ月もかけて腹を括ってきたんですから。  
だから、わたしは、だいじょうぶ。  
「――あのな、真由子。おまえ今すっげえブサイク」  
「――な、」  
いきなり、なにを言うのかこのひとはっ…。ほっといて下さいよ、どうせ、どうせわたしなんて、彩先輩の足元にも及ばないチビブスだってわかってますよ。でも、でも、だからって――っ!!  
「泣きたきゃちゃんと泣け。悲しいなら悲しいって、悔しいなら悔しいってちゃんと言え。無理すんな、馬鹿」  
「―――っ!」  
だって。泣いたって。ないたって、しかたがないじゃないですか。ブスがないたら、よけいブスになるし、まわりのひと、みんな、こまる、し、  
 
「どうせ俺しか居ないんだ。意地っ張りな女は嫌いじゃないが、俺の前でまでつまんない意地張るな、馬鹿。  
 ――胸くらいは、貸してやるぞ?」  
ほんとに。――ほんとに、もう、この人は。  
意地悪で、えらそうで、口が悪くて、ひとが嫌がることばかりして、――でも、わたしがいちばん弱ってる所で優しいんです。  
「――っう、ひっく、う、うっ、あ」  
「だーかーらー、我慢すんなっての。――もう、人いないしな、大声出したって大丈夫だろ」  
「うあ、あ―――!」  
藤井君の胸にしがみついて、子供みたいにわあわあと泣きました。  
好きだったんです。子供っぽい憧れかもしれない。恋にも成ってなかったかもしれない。  
でも、優しくあの女性を見る先輩が、本当に、好きだったんです。小川先輩も、彩先輩も同じくらい大好きで、  
一緒に居て幸せそうに微笑みあうお二人を見るのは、とても幸せだけれど、同じくらい悲しいんです――!  
思いっきり、泣いて、泣いて、もう自分がどうして泣いているのか解らなくなるほど泣いて、ようやくわたしは。  
本当に、この気持ちを終わらせる事が出来ました。  
 
 
そうやって、ひとしきり泣いた後で、二人でクッキーを食べました。  
…あー。本当に不味いです、これ。  
練りすぎたのか、石みたいに硬いし、そのくせ何だか粉っぽい。チョコチップの量も多すぎる。  
くるみももっと細かく刻めばよかった。  
…突っ返されて、良かったです。わたし、こんなものを小川先輩に食べてもらおうとしてたんですか。  
なんだか、激しく落ち込みます。隣をちらり、と盗み見ます。  
きっと、呆れ果てた辛辣な感想が飛んでくるに違いありません。  
「…うん。別に、悪く、無いな。まあ、フツーか」  
がり。ごり。ぼり、ぼり、ぼり、ぼり、ぼり。  
ものすごく硬そうな咀嚼音をたてながら、それでもそんな事を彼は言ってくれました。  
…まったく。なんだって、こう、変なところで妙に優しいのでしょう、この人ときたら。  
なんだか、おかしくなって、つい吹き出してしまいます。  
「…なーにを笑ってんだか。いいからオマエももっと喰え。いってみりゃ、オマエの未練の塊だろ、これ。  
 失恋の供養だと思ってきっちり喰え」  
「ふ、ふふっ。…まったく、相変わらず言いたい放題言ってくれますよね、みいちゃんは」  
「…みいちゃん、ね。ふん」  
それから、二人並んでブランコに座りながら、硬い硬いクッキーを食べて、一緒に家まで帰りました。  
先輩のことを考えると今は少し辛いけれど、きっと、明日にはちゃんと笑えているでしょう――。  
 

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