あ、ありのままに起こった事を話しますよ。  
何と知らない内に半年もの時間が経過したにも関わらず、作中時間は一分たりとも経過していないのです。  
時間が飛ばされたなんて、そんなちゃちなもんじゃありません。  
もっと恐ろしい片鱗を味わった心地にも似た僕ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。  
 
現状を説明いたしますと、婉曲的にも直截的な意味に置いても、単独にて暴力装置として名高い、  
沙智従姉さんにほいほい誘われるまま、お買い物に赴いている次第です。  
買い物といいましても、現時刻と待合時刻の兼ね合いから考慮すれば移動範囲は必然的に限定され、  
我が学び舎から近場に位置し、放課後や休日など学生で賑わう商店街。これに限ります。  
ふれあいストリートと冠する看板を入り口に、見上げれば屋根は七色のステンドグラスが一種異様な不気味さを醸し出し、  
一方向の通路は勝ち組と負け組で二極化されているのです。  
電飾文字で彩られた派手な看板が設置された出入り口付近がいわゆる勝ち組であり、  
若者向けの大量生産安価な各種雑貨やら高価なブランド製品が取り揃えられ、  
奥に進むにつれ、通称負け組と言われる零細個人商店が立ち並び、澱んだ空気が密度を濃くしていきます。  
町議会が町の発展を促すべく各方面への広報を尽力した結果、個人商店の運命はと言えば、  
大型チェーンの隙間を縫う程度が関の山であり、競合に破れた敗残者達は、  
片端から常時出入り口に灰色のシャッターを下ろす羽目を強いられたのです。  
全く個人商店には世知辛い世の中ですね。南無南無。  
件の沙智従姉さんですが、勝ち組区域には興味を示さぬご様子で、  
文字通り畑違いの有機野菜に手を出した挙句、大規模な負債を抱えた、価格破壊の主塔たる某衣服チェーン店だの、  
海外の本社が倒産したものの実は既に別会社である事実が判明した日本では最王手のCD販売店だのを  
一瞥すらせず通り抜けて行きます。  
やがて、休日特有の家族連れやらカップルやらの狂騒の反響を背に、ふれあいストリートの中央付近まで到達。  
一様にシャッターが立ち並ぶ区域へ接近するにつれ、幾何学模様のパネルを打つ残響音が鈍く耳に届きます。  
しかしどこへ向うつもりでしょうか。まるですぐにでもこの場から逃れたいかの様な、矛盾的な歩調の速さ。  
 
「そう言えば聞いてなかったけど、何を買いに行くの?」  
「敢えて言うならば、ウィンドウショッピングだろうか」  
 
顎を小さく上げ得意げな笑みで唇の右端を歪める従姉。  
ウィンドウショッピングって、あなた、両側に立ち並ぶ店、店、店を全て黙殺で素通りしてたじゃないですか。  
 
「あの辺りは予備校の帰りに寄っているからな。たまには普段近寄らない場所へ足を運ぶのも一興だと思った」  
「普段近寄らない場所って……こんな辺鄙な所に何があるって言うのさ」  
「先入観で思考を盲目にしては駄目だ。案外新しい発見があるかもしれない」  
 
新しい? その表現はこの一画に似つかわしくない様に思えます。  
何せ夢も希望も全て過去の遺物と化しており、あまりの静寂振りにあたかも時を置いて風化した廃墟の様相ですので。  
シャッターを開ければ、夢と希望の残骸、最悪的には首吊り”人形”やらが発見できるかもしれません。  
ぞくり、と背筋に悪寒が走りました。  
ああ、虚心坦懐虚心坦懐と唱えつつ――もっともこうした心理状態では虚心坦懐に程遠いのですが――。  
 
「で、でも、ここら一帯の店は撤退してるみたいだし、無駄だと思うんだけどなあ」  
「”ほとんど”な。逆に考えてみろ、この惨状の中でも、しぶとく生き残っている店こそ、玉石混淆の玉に違いない。残り物には福」  
 
惨状とか、しぶとくとか、何気に辛辣な形容を吐く沙智従姉さん。残り物も残酷な表現に思えますね。  
行くぞと一声、沙智従姉さんは、チョーさんよろしく探検僕の町を再開しました。  
僕は、無闇やたらとやる気満々な従姉の背に溜息を投げかけ、渋々ながら金魚の糞としての立場を遂行するのみです。。  
重い足を進めながらも、深刻な頭の片隅をかすめるのは、本日の安達さんとのデートの約束です。  
目的があるから人は生きる事に価値を見出し、ともすれば面倒ともいえる日々の生活に身を任せるのです。  
ああ、安達さんは、洗剤(メーカーは問いません)のCMのキャッチコピーとして多用される、  
洗いたての清潔感、白い毛布で覆われる包容力といったイメージがぴったり当てはまります。  
テストで芳しくない点数を取ったり、苦手のドッジボールでは集中的に標的の対象といった、  
学校生活における様々な憂鬱な出来事も、彼女の存在が心の安定剤として作用し、  
ああまだ僕は生きていても良いんだ、と安心させるのです。  
 
彼女と待ち合わせ時間まで時間的余裕はあるものの、デフラグメンテーション作業の如く、  
隙間を逃さず精神的外傷を詰め込みにかかる沙智従姉さんに、唐突に難癖を付けられるか知れた物ではありません。  
横暴な従姉の要望が発せられる都度に、速やかに禍根無く行動即解決させ、懸念無く、安達さんの許へ大手を振り馳せ参じましょう。  
果たして、それまでに心許ない精神の総量は如何程磨耗している事か、気力コマンドの残数の確認を行いたい所存です。  
ふと。沙智従姉さん曰くの玉たる、灰色の壁にぽつんと取り残された感のある店が視野の隅に映りました。  
オブラートに包めばふくよかな、悪く言えば進行的メタボ体型の、複数の男性が談笑しつつ、店に連れ並び入っていきます。  
奇妙な光景と言うか、浮遊感では無く、雰囲気的な意味合いとして、浮いております。  
沙智従姉さんが足を止めるや僕は距離を詰め、腰に手首を置き、ううむと観察にかかる彼女の横に並び  
 
「――あそこ開いているようだね。何の店だろう?」  
「そもそも店だろうか。人家かもしれないぞ」  
「テナント借りるぐらいなら、適当な賃貸マンション借りる方が安上がりだよ。  
 大体、お客が何人か入ってるみたいだし」  
 
辺鄙な場所である事から寂寞感ある店を想像をしておりましたが、店の外装は周囲の灰色の壁に溶け込むかの様に、  
薄灰色と白と黄の混ざったクリーム色がストライプ模様となり、存外綺麗に整えられおりました。  
それもその筈。洒落た灰に塗られた扉の右横に、  
”本日OPEN! ただ今オープニングセール中!!”と立看板が設置されているのです。  
扉のすぐ上に明記された店名には”MAID CAFE PERFUME”との表記が。  
んん、何だって?  
一瞬思考停止してしまいましたが、やがて網膜に映し出された情報が電気信号として、脳内に到達するなり、  
輝かしい喜びで満たされた理解が生まれました。  
あたーらしーいあーさがっきたー、と黒い球体のある部屋に転送されかねない曲が頭に響き渡りました。  
M・A・I・D・C・A・F・E! 僕らの町にあの”メイドカフェ”がやって来ました!  
一ヶ月前偶然ニュースサイトのリンクで、メイドカフェの取材記事を発見した僕は、  
涎を垂らすか垂らさぬかの瀬戸際で、貪るように読み耽りました。  
記事には、ゴス趣味一辺倒のメイド服を着こなした、可憐で見麗しい女性達が甲斐甲斐しく客に応対している写真があり、  
新たな性的嗜好を揺さぶる道標となりました。  
お客様は全員御主人様! 夢のアミューズメントの開催ッ!  
この画期的な発想に僕は敬意を抱きたいですッ!   
端的に言えば、眼前にあるメイドカフェに入店したくて仕方が無いのです。  
そうなれば懸念材料となり立ち塞がる障壁――沙智従姉さんの動向が気になる所です。  
目的を看過させぬ様、小さな疑心すら抱かれぬ様、自然な動作で振舞わねばなりません。  
その沙智従姉さんは、先程から店名の看板を見るや、艶やかな光沢のある唇に親指を当て、首を傾げています。  
看板名と自分の知識を照らし合わせても想像が及ばず不可解、と言った所ですか。  
これは好都合。どうやら、彼女はメイドカフェの存在を知らぬ様相です。  
素直に店の趣旨を説明すれば、彼女が断固反対、鉄拳制裁(理不尽だ)するのは目に見えています。  
ゆえに僕は莫迦を装い素知らぬ振りで、  
 
「ふふ、まさに僥倖だね、オープニングセールだって! 何かサービスしてもらえるかも!  
 沙智従姉さんの言う通りだったね。まさに残り物には福だよ!」  
「そうか? そもそもここは何の店――」  
「カフェって書いてあるから、喫茶店に違いないよ! 男は度胸! 何でも試してみるもんさ!」  
「お前の態度が妙に不愉快だから別の場所へ行くか」  
 
僕はその場に大の字になって倒れるや、泣き落としの要領で、半泣きの表情になり駄々をこねます。  
 
「いい加減にしてよ! 僕はもう疲れたんだ! 一歩たりとも動けないんだよ!」  
「固く握り締めた拳骨を何度、頭頂部に叩きつければ、口から泡を噴くか試してみようと思うんだが、どうだ?」  
 
さらりと物騒な科白を吐く従姉に怖気を感じ、頭を庇う姿勢のまま僕は即座に立ち上がりました。  
泣き落としは失敗――そもそも通用する相手とは思えませんでしたが。  
ならば――  
 
「ゎ、分かった。じゃあこうしよう。ぼ、僕が奢るよ。だから、ね? ここで休もう?」  
「ほう……お前にそんな甲斐性があったとは」  
「ふふん、まあね。学内において、包容力のある男子部門ではランキング四十三位だよ、僕は」  
「えらく微妙な順位だな……」  
 
まあ奢りならいいか、と沙智従姉さんはあっさり了承しました。  
いやっほう!!と体中で喜びを表現しながら、僕は間抜けな狢の如く、慌てる沙智従姉さんの背中を押しながら直進。  
まさに短絡的人間の権化です。  
客観的視点から、僕は冷静たれと警句を何度も打つのに、リビドーの申し子たる僕の生の衝動はそれを無視し暴走を始めております。  
ああ、まさに、今の僕は店に入った以後を全く想像していません!  
今が良ければいいじゃないのと、後先考えず。  
まさに現代の若者が抱える悪癖病理を殊更体現してどうするのでしょう。  
不自然さを滲ませずに沙智従姉さんをこの店を誘うのだと先程誓ったのに、  
衝動的に即座に忘れて、不自然そのものの行動をとって!  
この時点で残酷で無慈悲な未来が決定付けられたと言うのに、何を飛び上がって喜んでるんでしょうか、僕は。  
分かっちゃいるけどやめられない、とは故人(謹んでご冥福をお祈りします)もよく言ったものです。  
そうした悲観思想の俯瞰的視点の僕は、外見重視の作業には非効率的なメイド服を着た眉目秀麗な女性が一揃い、  
花の様な可愛らしいユニゾンでの出迎えに、一掃されたのですが。  
 
「「いらっしゃいませぇ〜、ご主人様〜、お嬢様〜」」  
「んぉッッ!!!!??」  
 
脳内が満開の花畑で覆われたお目出度い頭の僕は、沙智従姉さんの動揺の声すら耳に届かず、  
ふらふらと花の蜜を求める蜜蜂よろしく、固まる沙智従姉さんを尻目に店内に率先して入るのでした。  
後程、別の意味で満開の花園にご招待される事、請け合いだと、心の隅の隅の隅の隅で自覚しつつ。  
 
「…………」  
「…………」  
 
案内された席につくや、僕と沙智従姉さんは二人別の意味に置いて挙動不審に沈黙を守っておりました。  
沙智従姉さんは、店内をせわしなく働くメイド達を落ち着かない様子で目を動かせつつ、  
僕はただひたすらに新鮮で感動的な光景を視線を動かしながら、食い入るように視姦に徹しているのですから。  
 
「おい」  
「…………」  
「おい、このボンクラ。無視するな」  
「…………」  
 
踝を躊躇無く何度も思い切り蹴り上げられて、ようやく僕は従姉が僕を呼んでいるのに気がつきました。  
 
「痛たたたたた…………何だよ?」  
「それはこちらの科白だ。何だ、ここは?」  
「いやあ、何だろうね――って頼むから思い切り何度も踝蹴らないで! 割れちゃう、割れちゃうから!」  
「この助平が。本当に懲りない奴だな、お前という奴は」  
 
長くすらりと伸ばした足から発せられる苛烈なる攻撃範囲から、僕は椅子を後退させる事で退避に掛かります。  
沙智従姉さんはわざわざ足を伸ばしてまで攻撃する意思は無い様で、あっさりと興味を無くし、  
ふんとそっぽを向きながら、メニューに目を走らせました。  
えらく高いなとの呟きは聞き流し、僕もメニューを開き、下唇を忙しなく舐めながら物色に掛かります。  
メニュー自体は一般的な物が主流で、料理店のオリジナリティとしては凡庸と判じれましょう。  
沙智従姉さんがぼそっと呟いた通り、金額も幾分高めに設定されているのも事実です。  
ですが、付随されるスペシャルサービスには、そんじゃそこいらでは味わえない独自性が散見出来、実に心誘われます。  
例えば、メイドさんが、卓上に運ばれたオムレツにケチャップで名前を書いてくれたり、  
ツンデレラやらドジ娘やら、ペルソナチェンジ、ロールプレイで僕らを楽しませてくれたり、と。  
キャッキャッウフフしたい男子諸君には垂涎物のイベント目白押しといえましょう。  
他方全くもって興味の無さそうな面持ちの沙智従姉さんは、メニューから目を外すと、  
奢りなんだよな、と念を押してきます。  
おやおや、わざわざ断りを入れるとは、実に面妖な事態です。  
近日中につららか槍でも降りかねません。  
いつになく礼儀を弁えた従姉に、寛容な紳士たる僕はその不自然な態度を許容し、にこやかに首肯するのでした。  
 
「すみませ――ん」  
 
沙智従姉さんが、凛とした高い声で、初日という事からか緊張気味で直立不動となっているメイドさんに呼びかけます。  
ひゃい、と慌てた返事をしたメイドさんが硬い動きの小走りで近寄りつつあるのを見て、僕も手早く決めなくては、と目を走らせます。  
やがて可憐なメイドさんは、ぎりぎり合格圏内の上品な足取りで注文を取りに来ました。  
 
「ええと、何をご所望ですか。ご主人様。お嬢様」  
「ここから」  
 
メニュー表をテーブルに置き、ひとさし指を左上最上段の文字列に這わせると、  
そのまま右上最下段まで斜線を引きました。  
 
「ここまで」  
「――全部じゃないか!」  
 
満を持してやって来たこの理不尽さには、さしもの寛容な紳士とて見過ごせる事態ではありません。  
歴代の革命家達の魂が宿ったかの様に、憤然と抗議の意思を表明すべく、音を立てて椅子から立ち上がりました。  
 
「あんまりだ!」  
「奢りなんだろ?」  
「も、物事には限度があるよ!」  
「敬意を表して、全身全霊を尽くし、奢られる。純粋な信頼関係だ」  
「な、何、その無茶苦茶な理屈? 勘弁してよ……」  
「狭量さをこれ見よがしにアピールか? 全く、いつもお前には幻滅させられる……」  
 
幻滅されました。  
おかしいです。感謝こそあれ、批判される事実は……無いのでしょうか?   
何やら不安になりますね。  
その不安が伝染したのか、一人蚊帳の外の塩梅なメイドさんがおずおずと  
 
「あ、あの――、それでご注文は」  
「ここにいる矮小な心根を持つ哀れな従弟に聞いてくれ」  
 
ひどい言い様もあったものです。  
僕は怒りに唇を震わせながら、従姉の意志を無視し常識的な注文にすべきだと、メニューを一心不乱に追いかけます。  
ですが、そんな僕に聞えよがしにぼそっと呟くのがこの従姉の邪悪な性質と言うやつでして  
 
「一つ言っておく。お前が出した結論は、すなわちお前の価値と断定されて然るべきだ」  
「な、なんだって!」  
「よ――く考える事だな」  
 
この状況で、僕の矜持を計りにかかるとは、この従姉、鬼か悪魔でしょうか。  
下手な答えを出せば、この先沙智従姉さんは粘着的に延々と僕の矜持を貶めるに違いありませんし、  
当然贔屓にするであろうこのメイドカフェに後々来店する度、メイドさん達の間で今日の記憶が呼び起こされ、  
矮小な矜持の僕を苛む様に見下した視線を向ける可能性が浮かび上がるのです。  
――いいねえ、ぞくぞく来るよ…………おおっと、この性癖に目覚めるには僕の年齢からしてまだ早すぎます。  
かくして、選択肢を潰され、袋小路に陥った僕は、最早観念する他ありません。  
 
「く……、このメニュー……」  
「はい?」  
 
自らの矜持を死守する意思を固め、覚悟完了とばかり、やけくその注文を告げます。  
 
「このメニュー全部ください!」  
 
「まさか飲食店で万札を消費する事になるなんて……」  
「何を言ってる。珍妙な格好をしたスタッフに囲まれ囃されながら、  
 誕生日でも無いのにバースデーケーキの蝋燭の火を吹き消した時のお前の顔、満更でも無かったが」  
「ああ、あれは最高だったね! ――って、拳を振り上げないで、沙智従姉さん!」  
 
恣意的に話題を振った癖して、何故彼女はこう物事を暴力で解決させようとするのでしょう。  
全く世の婦女子の思考は宇宙人的異次元的であり、感情を発露させる沸点の低さにはほとほと困惑しきりです。  
うおォン、僕はまるで人間火力発電所だと嘯きつつ、テーブルに収まりきらなかった料理を必死で消費していたのですが、  
結局は食べきれずに半分以上タッパーに詰め込む羽目に陥りました。  
その癖沙智従姉さんときたら、ヴァニラアイスとチーズケーキ、そしてホット珈琲(勿論ブラックです)だけ口にすると、  
後は僕が膨大なるメニューに悪戦苦闘する様を意地悪く微笑みながら見物しているのだから――全くこの人でなしが。  
その膨大な量のタッパーは、先のメイドカフェの店名のロゴが入った、ちょっと恥かしいデザインの紙袋に入れられております。  
ぞくぞくくるよ! いや、もういいです。  
 
「奢ってもらっておいてその態度は腹が立つ。礼の一つぐらいも言って欲しいものだよ!」  
 
僕が不貞腐れてそっぽを向くと、仕方の無い奴だと言わんばかりの溜息をほうっと付いて  
 
「それじゃあ、感謝の念を込めて――――頭でも撫でてやろうか?」  
「うわーい。撫でて撫でてー」  
 
単純だと嘲ける方もおられる事でしょう。ですが、男は幾つになっても女性に愛でられる事に弱いのです。  
僕は顎を下げて、来る至福の瞬間を待ち望みました。  
 
「よしよし、ぐりぐりぐりぐり」  
「痛痛痛痛痛ッッッ!!!!! 拳骨のままでこめかみを擦り付けるのは、撫でるとは言わないッ!」  
「おおっと、失念していた」  
「絶対わざとだよ……この人」  
 
ひりひりと断続的な鈍痛を繰り返すこめかみを優しく擦っていると、この後の予定を思案しているのか、  
沙智従姉さんが人差し指と親指を顎にやりました。  
手持ち無沙汰の僕は涙目のまま、時間確認の名目で携帯を取り出しまします。  
午後四時五分。まだ、約束まで時間に余裕があります。  
そう言えば、この通りからは少し離れますが、洒落た真鍮製のパイプからドーナツ状の煙をぷかぷかと幾重に浮かべる、  
カイゼル髭のよく似合うマスターが経営する喫茶店の存在を思い出しました。  
味に特筆すべき点はありませんが、値段も手頃で、短時間の休息に適した理想的な場所じゃないでしょうか。  
何より腹底に溜まった異物の重量感が、体に休息を求めさせるのです。  
ならばメイドカフェで休めば良かったのでは、との指摘は当然出てくるものと思われます。  
ですが、考えても見てください。  
憧れのメイドさん達に囲まれつつ、山の様に詰まれた料理の数々を眼前に提示されれば、  
強迫観念的に料理の山の掘削作業に専念する事を余儀なくされ、休息など念頭に出てきやしません。  
それはさておき。実に気の利いた提案だと思い、いざ進言しようと咳払いをした矢先――  
軽薄さを存分に含んだ呼び声が僕の行動を制しました。  
 
「お――ッ? 沙智ィッ?」  
 
上下共に紳士服有名ブランドのカジュアル部門海外限定商品で固め、靴は一つ星の描かれたベルクロタイプのスニーカー、  
これ見よがしに高価そうな装飾品をじゃらじゃらと装着した男が、手馴れた仕草で呼びかけながら、沙智従姉さんに歩み寄ってきます。  
赤と銀が下品なバランスで調整された髪が悪い意味で目を惹き、  
顔を確認するには顎を上に傾ける必要性のある高い背――その高い位置にある腰から伸びた長い足がモデル染みていました。  
僕が眉根を潜めるのとは逆に沙智従姉さんは、馴れ馴れしい挨拶にも気にした様子も無く、むしろ親しげな笑顔を返しました。  
 
「浅賀君か。奇遇だな」  
「オイオイ、運命って言えよッ! なーんて、キモイ事言ってみました――ッ! ヒャハハハハハ」  
 
浅賀と呼ばれた男は、テンションフルスロットル、オーバーリアクションで即座に自己批判に転じていました。  
僕の様な思慮深く寡黙で賢識のある少年とは明らかに真逆で、沙智従姉さんとは別の意味で近寄る事を躊躇させるタイプの人間です。  
理屈ではありません。僕の全細胞が本能的な嫌悪感を覚え、肌を粟立せます。  
これぞ生理的嫌悪。その言葉がぴたりと枠に嵌ります。  
 
「何してんの?」  
「見ての通り、従弟と買い物中だ。君は?」  
「同じ同じッ! 買い物でッす。いつもいつも勉強じゃあ、肩凝るよなッ!」  
「……授業中、君は常時教室で惰眠を取っている様に見えるが」  
「睡眠学習ッ! な――んつって、古典的ジョーク言ってみました――。つまんねえ――ッ、ギャハハハ」  
 
さしもの沙智従姉さんも浅賀のハイテンションには少々圧倒されているらしく、顔には呆れた表情すら伺えました。  
 
「それで睡眠学習とやらの効果は?」  
「あはは、どうやらレム睡眠ぽくってよォ――。夢も見ずにぐっすりと。こいつあやべェ――ッ!!」  
 
長距離走者の孤独。提起される崇高な精神とは程遠いですが、心理的距離の意味合いとしての立場ではしっくり来ます。  
どうやら二人が同じ予備校に属する間柄なのは理解しましたが、何よりこの浅賀のテンションはロケットで突き抜けろ、  
と言った塩梅でしょう。杞憂でしょうか。  
 
「それじゃあさッ!? 再会を祝しッ! どっか遊びに行かね?」  
「何が、それじゃあ、なのか分からないが」  
「まま、堅い事言わずにさあッ! 最近カラオケでリクエスト何ちゃらってのがあってさ。  
 色々マイナーなのが配信される様になったのよ。沙智が好きなやつも入ってるぜー」  
「へえ、例えば?」  
「ヒヒヒ。それは行ってのお楽しみ! 久々に沙智の美声聴きたいしよォ――ッ」  
 
傍から見れば、露骨に胡散臭く反吐の出る世辞にも、沙智従姉さんは感興が沸いた様子で、しばし考え込んでいます。  
そんな姿は言い様の無い焦慮の炎を燃焼させるオイルとしての役割を果たすのです。  
久々に――という事は、つまり何度もこの不愉快な●●●●(検閲済黒塗り)と、遊びに行った事があると?  
沙智従姉さんが誰とどうしようが、本人の勝手ですし、そもそも僕自身用事があるのですから、返って好都合の筈です。  
筈なのですが――どうにも、激しい感情と、もやもやした感情が相互に働き、さながら袋小路で途方に暮れる心持ちで。  
僕のそうした苦慮を感じ取れる鋭敏な感受性を持ち合わせないらしい沙智従姉さんは、知る由も無いでしょうが。  
あと一押しだと認識したらしく、浅賀は言葉を重ねます。  
 
「ようし、好きな物何でも奢っちゃうぜ――ッ? 例えばさ、フライドチョコレートのヘーゼルナッツ入りとか」  
「う……それは心誘われる文句だが……先程も言った様に従弟と買い物中でね」  
 
あ、お前居たのか、と浅賀の鬱陶しげな視線より言外に僕の存在が邪魔であるニュアンスを感じ取ったのは、  
僕の不愉快な錯誤では無いでしょう。  
てか、沙智従姉さん、先程僕がたんまりと食事を奢ったばかりでしょうが。こん畜生が。  
冷静さを保っていれば、僕は喜び弾んで双方に対し嫌がらせの名目で同行するのですが、  
生憎ゆとり教育世代に関わらず(それとも、それゆえにでしょうか)余裕の欠片も無い僕は、ついつい口調に険を篭めて  
 
「ふん、いいよ。二人で精々楽しんで来ればいいんじゃなぁい?」  
「……何か含みのある言い方だな。変な邪推をしているのか知らんが、失礼な話だ」  
「そ、そう聞こえる? いやあ、本当余裕だよねぇ。  
 ラ、ライバル達が今頃切磋琢磨して勉強に励んでいるだろうに、あ、遊び耽る余裕があるのかぁい?」  
「私はやる事はやっている。お前にとやかく言われる筋合いは無い。違うか?」  
 
辺りの気温を五度は下げそうな底冷えする語調に、僕は意図的に憎々しげなまでに唇を歪ませ、  
さらりと受け流そうと試みましたが、肝心の唇辺りの筋肉が引きつって動きません。  
正確な表現を表せば、不明瞭な怒りと恐怖が交錯し顔面が硬直しているのです。  
ですが、僕は口撃を止める意思はありません。  
沙智従姉さんが”外面だけ”は良い性格であり、浅賀の存在が防波堤となり、  
凶暴性を如何なく発揮出来ない環境である事を知った上での毒舌です。不敵です。  
どうにも僕の感情の洪水は堤防を破壊し、決壊せんと勢いを増している様でした。止められない、止まりません。  
 
「ふ、ふん。まあいいよ! 僕もこれから用事があるし。クラスの女子とデートの約束がねッ!!」  
「デ、デートだと?」  
 
僕の発言が予想外だったのでしょうか、場が一瞬硬直しました。  
かの冷面皮が怯んだ隙を逃さず、僕は畳み掛けます。  
 
「そうさ! 有名な劇団の公演を観に行くんだ。わざわざ”僕の為”に取ってくれたんだってさ!」  
「……で、デート……」  
「いやー今日行き着くとこまで行っちゃうかもしれないなーハハ、ハハ、ハハ………はあはあ」  
 
駄々っ子本領発揮で、衝動の赴くまま言葉を並べ立てている内に、息苦しくなり、ぜえぜえと、短い呼吸を繰り返しました。  
呆気に取られた表情の浅賀は、口をぽかんと縦に開け、先程の僕と同じ様な傍観者と化していました。理解外といった顔です。  
沙智従姉さんはと言うと、弱ったように眉を下げて、僕の放言を反芻している面差しでした。  
何やら罪悪感がちくりと胸を差しましたが、振り払う様に視野の隅へ追いやると、  
 
「と、とにかく僕はもう行くからッ!」  
「おい!? 待……」  
 
沙智従姉さんが口を開きかけたのを黙殺し、紙カバンを投げ捨て、背を向け駆け足でその場から離れました。  
相変わらず腹は重く、ともすれば吐瀉寸前になりそうではありますが、根性だけで耐え抜きます。  
体の向かう方向は目的地たる駅へ正確に進行しますが、僕の感情の方向性はというと無軌道で、ただ一心に足を走らせます。  
走る意味などありません。待ち合わせの時間には歩いても間に合いますし、無為に体力を消費するだけです。  
しかし、青春とは無自覚的な暴走と無目的な迷走であり、思考の直結しない衝動的な行動を促進させるのです。  
はたしてこれが、青春の疾走というものか、誰かに問い質したい所ではありますが。  
雑踏の海へダイヴし、カップルの合間をチェーンソーの如く分断し(勿論意図的です)、階段を一足飛ばしで駆け上がり、  
駅へと疾駆するのでした。  
 
栄光に向って走る列車に乗り込んだ僕は、しかし真逆の如何ともし難い胸の内の苛立ちによる疼きを抑えきれずにいました。  
最初は爪をいじいじと噛んでいたのですが、衝動が強まるにつれ、親指へ、手の甲へとその攻撃対象を替えていきました。  
先程から気味悪そうに遠巻きにする乗客達の目も気にする事無く、苛立ち混じりの呪詛を継続します。  
 
「苛々苛々苛々苛々苛々苛々苛々…………」  
「ひいいいいいいいいいいいいい(fade out)」  
 
傍にいたスーツ姿の女性が小さな悲鳴を上げて、人で混雑しているにも関わらず隣の車両へ掻き分けつつ去っていきます  
ですが僕の注意力は完全に自己内で孤立し埋没している為、一心不乱で僕は暗い情念を込めた呟きを循環させます。  
徹底的な怪行動に身を委ねていると、やがて頭の中に疑問という名の冷却剤が投下されました。  
はて何故僕はこれほど憤りやら焦りやらを感じていたのか、自分でも説明が出来ぬ事を自覚しました。  
考えてみれば、これから僕はクラスで気になる可愛い女子とデートに赴くのです。  
不穏げな雰囲気を保持したまま、彼女に相対するのは失礼で、迷惑極まりなく思えました。  
そうですよ、深呼吸でもして心身をリラックスさせましょう。ゆとりを取り戻すのです。  
僕は左右の鼻腔を交互に押さえ吸っては吐くといった、ヨガ式の呼吸法を用い、自身の安定を図りました。  
本来なら、筋肉の駆動範囲全体を用いた本格的な深呼吸を行いたい所存ではありますが、  
さすがの僕とてこれ以上の奇怪な演舞を衆目に晒したくはありません。  
ただでさえ学生やら会社員やらで車両が混雑気味なのに、まるで僕一人隔離されたかの様に、ぽっかりと空間が広がっておりますので。  
オーバヒートした脳を冷却化し、疾走する鼓動のペースを緩め、息を取り込んでは放出、と反復動作すると、  
いつしか思考はすこぶるクリアになりました。  
肩と頬の力も自然と緩んでいくのが分かり、自分がいかに不遜な思考による焦燥感で緊張していたのかが自覚できました。  
この際、沙智従姉さんの事は思考の隅に追いやるべきでしょう。僕の心身の安定の為にも。  
もっと楽しいことを考えましょう――そう、目前に来る安達さんとのデートに胸高鳴らせる方が余程健全で建設的です。  
その和やかな人柄と小動物の様な愛らしい容貌で、クラスでも密かな人気を誇る安達さん。  
僕のHOW TO SAVE A LIFE としての安達さん。  
非の一片すら無い彼女と演劇鑑賞といった、少し大人びて洒落たデートスポットに赴いた事をクラスメイトに知られれば、  
手厳しい祝福(妬み)を受けるのは確実です。  
さりとて、僕は、彼らの貧小な矜持へ優越感に浸りつつ、余裕を持ち甘んじて受け入れる事でしょう。  
つい先程の無軌道な青春の疾走から身嗜みが大きく乱れたのが気になりますが、駅に到着しトイレにて丹念にセットし直せば無問題。  
突発的な出来事への事前の対処として、前もって鞄の中には携帯型のヘアワックス、スキンケア、香水と、一通り準備も万端なのです。  
学校とは違い少しアダルティな雰囲気を醸し出した僕に、安達さんも一目置く事間違いなし。  
いや、一目で足りるのでしょうか。  
あれを倒してしまっても構わんのだろう? と偉大な赤い背中の錯覚すら覚えます。  
あれとはなんでしょうね。圧倒的に人生経験の少ない若輩者たる僕には分かりませんね。  
しばらく理想化された自分の姿(きれいなジャイアンみたいな物です)を仮構し、安達さんとの楽しくもいやらしい情景を夢想しました。  
断片的な情報と不明な知識によるフィルタで、所々モザイクや白抜き黒抜きが乱舞しておりましたが。  
そうした夢想が油断を生んだのでしょうか。  
突然、電車が急ブレーキを掛けた為、体勢が大きくよろめき、手摺りに捉まらずにいた僕は危うく転倒しそうになりました。  
何とか足裏に重心を掛けて踏ん張り、耐え抜きます。くじけませんよ、男の子です。  
自負心に打ち震えていると、やがて、のんびりとした口調のアナウンスが流れてきました。  
 
「えーただ今、この先の●●駅にて前の電車が車両トラブル発生の為、運行を見合わせております。  
その為、運行開始まで、一時電車を停止いたします。お忙しい所誠に申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さい」  
 
ちょっと待ってくださいと。  
 
身嗜みをする時間はおろか、待合時刻間際になって漸く電車は動き出しました。  
事態が無事解決したとのアナウンスが気の抜けた語調であり、一々僕の燗に触ります。畜生め。  
先頭車両である事情から、携帯電話での連絡は叶わず、電源を切った状態でポケットに放り込んだままです。  
電車の動きが鈍重に感じられ、僕は苛立ちと焦りを隠し切れませんでした。  
深呼吸にて確保した心身的な余裕は既に霧散し、僕は開閉口前に陣取り、無駄と分かりながらも早く到着する様祈り続けるのです。  
無論神に対し呪いの文句を吐くのも忘れません。何故僕ばかりこんな目に、と。  
いや、本当もう勘弁して下さいよ。電車飛ばしてでも迅速に目的地へ到着させてくださいよ。愚痴は留まる事を知りません。  
駅に着いたらどうしようか、と崩れ去った予定の変更をカムバックして来た焦燥感に駆られつつ、改訂に専念するのです。  
車両トラブルによる遅延のアナウンスは駅近くにいる安達さんにも届いているとは思います。  
全力疾走で待合場所へ向かい、連絡が出来なかった理由を説明し、そして後はひたすら頭を下げて謝ろう、と固く誓いました。  
大丈夫。分かってくれるさ! 沙智従姉さんじゃないのですから!  
沙智従姉さんならば、遅刻理由が至極真っ当な物だとしても、容赦せず、想像も付かない手段にて僕を罰する筈です。  
苛烈に、直接的に、口撃的に、心理的に、あらゆる暴力を以って、僕にトラウマを植えつける事でしょう。  
ですが、安達さんは違います。  
きっと、大丈夫気にしてないよ、と天使の様な笑顔で許してくれるに違いありません。  
その純真無垢な笑顔は逆に僕に罪悪感を与えるでしょうね。ああ、逆に厳しいかも。  
かくして、僕の思考は電車が早く到着する祈りへと舞い戻ります。  
永遠の袋小路。  
 
やがて、駅員の謝罪を含めたアナウンスが流れ、ようやく目的地たる駅に到着した時には、  
罪悪感と焦燥感により精神が磨耗し、疲労困憊といった有様でした。  
しかし、泣き言を言っている場合で無いのは十全に理解しており、僕は全力疾走すべく前傾姿勢で勢い良くスタートを切ろうとし――  
 
「あ――ッ!?」  
 
耳に飛び込んできた大声につんのめりました。  
何事? との思いで振り返るとそこには――  
 
「あ、安達さんッ!?」  
「災難だったよねぇ、車両トラブルだって」  
 
安達さんの服装は上は、技巧的な装飾の施された白のキャミソール、下は薄橙の段々状のプリーツスカートと、清純でありながら魅惑的。  
慎ましげな体型に、清楚なイメージの服装が一致して、よく似合っていました。  
思わず――いや言い訳は止しましょう。自らの意思で隅々まで凝視に掛かります。  
なんちゅう……なんちゅう美味い物見せてくれたんや……。  
心で感涙にむせびつつ、僕が熱い視線を送っていると、安達さんはそれに気が付いたのか気恥ずかしそうにして、  
 
「に、似合うかなぁ? コレ、初めて袖を通したんだけど――」  
「似合う似合う! 可愛いよ」  
「良かったぁ」  
 
照れ笑いをする彼女に僕はどこかむず痒さを覚え、それを誤魔化す様に咳払いをしました。  
まさにこれぞ天の采配。どうやら安達さんは僕と同じ列車に乗り込んでいた様です。  
これでいらぬ罪悪感を抱かずに済みそうで、僕はひとまず安堵し、気楽な感じで話し掛けます。  
 
「ところで、時間はまだ平気かな」  
「待合時刻は余裕もって設定してたから大丈夫。でも、焦ったよぅ。連絡もつかないし」  
「こっちからも電話しようと思ったんだけど、生憎、先頭車両だったんだ。ごめんね」  
「ううん、気にしないで――そろそろ行こう?」  
 
ここの駅ビルはつい半年年前に改築されたばかりで、綺麗で清潔な空間が保持されていました。  
休日という事もあり、老若男女問わず人が至る所で溢れ返っています。  
僕達の目的地は八階のアミューズメントセンター。  
安達さんの言う事には、観客千人規模の席を有した劇場ホールがあり、そこで件の演劇が上演されるのだそうです。  
僕は演劇の内容を聞き出そうと、それとなく訊ねてみました。  
 
「家族愛の話だって言ってた。私も詳しくは知らないんだけど……」  
 
家族愛。良い響きです。  
家族関係が希薄になるご時世であるがゆえに、強いテーマ性が感じ取れ、俄然、僕は演劇の内容に興味が湧いて来るのでした。  
 
「そう言えば、安達さんの知り合いが出演してるんだってね。どういう間柄?」  
「親戚なの。お兄さんみたいな人でねー、とっても優しいの」  
「へー」  
 
うちの従姉とはえらい違いですね。羨ましい限りです。  
人ごみをかきわけつつ、ようやく八階直行のエレヴェーターに到着するも、内部は更に人口密度過多。  
体中が軋むぐらいに圧迫され息も絶え絶えに、やがてエレヴェーターは八階に到着し、開放感から僕らは大きく溜まった息を吐き出しました。  
安達さんは白い顔をさらに病的なまで青白くして、壁にもたれかかるや、眼の下の窪みに指を押し込んでいました。  
僕が心配になって大丈夫かと問い掛けてみると、安心させる様に手だけ挙げて応えました。  
酸素を補給する為少し休息すべきだと判断し、僕達は壁を背に腰を浮かせた状態で隣り合わせに座りました。  
安達さんが小物入れから簡素なデザインのチケットを取り出し、その内一枚を僕に手渡しました。  
 
「A1−15……最前列?」  
「うん。一列辺り三十席があって、二階建てだからね。大体中央に当たる。  
 目の前だから迫力はあるかもしれないけど、二階席の方が舞台全体を見回せて良かったかも」  
「それはちょっと贅沢な文句だね」  
「それもそうだね」  
 
おかしそうに二人で笑い合います。  
その後、演劇を観る際の心構えや豆知識を教授して貰い、体力が回復出来たと双方自覚出来た段階で、ようやく僕達は劇場ホールへ足を向けます。  
既に一階二階共に席は大体が埋まっており、観客達の期待感の高さを目の当たりに出来ました。  
指定席で良かった――いや、そもそもチケットを入手する事自体が困難だとか言ってましたね。  
僕は安達さんの厚意に心より感謝し、安達さんと肩を並べ、最前列へ歩幅狭く歩き出しました。  
隣席に座り、適当な雑談を交わしていると、やがて開始前のアナウンスが流れます。  
僕は来る開演への高揚感に身を正し、幕が閉じたままの舞台に注視させました。  
照明が落とされ、観客の声も徐々に音量を落ちフェイドアウトしていきます。  
さあ、上演開始です。  
 
上演終了です。  
時間が吹き飛ばされた感がありますか? そうですか。  
役者の演技は神懸った表現力にてステージを縦横無尽と駆け回り、舞台装置がそのドラマを過剰に演出して盛り上げ、  
さらには生バンドがバックスクリーンに登場するや、役者全員での合唱。  
ダイナミックでありながら繊細な展開は、素晴らしく僕の心をある種の恍惚感へと誘いました。誘ったのですが――  
 
「……顔色悪いね」  
 
安達さんが心配そうに僕の顔を覗き込みました。  
上演された劇の内容があまりに僕の心を穿ち、バッドトリップに傾いてしまったのです。欝。  
テーマは家族愛との事ですが、確かにそのテーマに即した上演内容でした。  
ですがその表現方法が、父母兄弟で構成された家族から、暴力的な兄による家庭内暴力を主柱としたものであり、  
その苛烈な表現が僕と沙智従姉さんとの関連性が見出され、否応無くトラウマが掘り返される結果となり、  
その偶発的とも言える一致が僕の胸を一直線に貫いたのです。  
 
「いやー、圧倒されたからかな。疲れちゃったよ」  
「確かに凄かったね。途中のシーンで、私思わず目を覆っちゃった」  
 
僕はあまりに思い当たりのあるすぎる情景に恐怖を呼び起こされ歯根をがたがたと噛み鳴らし震えていましたね。  
到底、口に出せませんが。  
 
「どこかで一休みしない? 色々と感想話し合いたいなぁ」  
「いいねー、賛成」  
 
この時刻ですと、外は今頃満天の星で埋まり、煌煌とした輝きにて夜空を照らしているに違いありません。  
自宅に電話で一言なりとも連絡する為に、電車に乗るなり電源を切りポケットに入れ放しにしていた携帯を取り出しました。  
電源を入れるや自宅に連絡する前に、ふと留守電確認をしてみようと思い立ちました。  
無防備にも。  
 
「22件入ってます」  
 
……………………え?  
がちゃりと思わず電源を落としました。  
平々凡々な生活を日々過ごす僕にとって通常あり得ない数字を提示され、恐怖から肌が粟立つのが自覚できました。  
 
「?」  
 
僕の顔色が更に土気色と化しているのか、安達さんが心配そうな表情で大丈夫と問い掛けているので、  
僕は平気を装うべく無理矢理笑みを作りました。  
き、気を取り直しましょう。  
再び電源を入れなおし、一抹の危惧を胸に今度はメールチェックに取り掛かります。  
今度は多少予測しておりましたので、幾分かは衝撃は少なかろうと思いきや、  
やたらと読み込みに時間が掛かります。これには不安を抱かざるを得ません。  
ようやくメールを受信し終え、ディスプレイに視線を落とすと  
 
『未読のメッセージは38件あります』  
 
………………。  
今度は電源では無く、携帯電話そのものを床に落としました。  
あらゆる余裕を破壊する圧倒的な数字に僕は、数秒間思考能力を根こそぎ奪われていた事だと思われます。  
この時出来れば僕はその思考能力を永遠に奪って欲しいと思いました。  
ですが、人間の脳の動きとは実に活発に働く物で、自動的に瑣末な出来事やら懸念材料やらが頭に浮かんできます。  
嫌だ嫌だ思い出したくない。  
危険から目を背けたい。  
抵抗は短く十秒程度でしょうか。  
僕は震える手を御しきれずに、落ちた携帯を拾うと、ボタンを操作し、メールをゆっくりと開きました。  
宛先は――ああ、やっぱり。  
 
『沙智』  
 
メールを時間別にソートし、古い時刻から順に内容を閲覧していきます。  
現時刻に接近する度、内容が徐々に剣呑な文脈になるのが見て取れました。  
まだ一度メールという形式に翻訳される事で、直接的な恐怖こそ緩和されてはおりますが、  
もし直接留守電の声を聞いたりすれば、僕は失禁も有り得る事態と考えています。最悪脱糞も考慮されるでしょう。  
ゆえに留守電は聞けません。  
メールを開ける都度、胃の鈍痛が徐々に増す様に思えます。  
最初こそ間隔は三十分置きぐらいだったのが、後のほうになると分置きとなり、それは沙智従姉さんの怒りの度合を示していました。  
文章も最初こそ確立しているものの、後は物騒な単語だけがメールに記載されているだけ。  
コップギリギリまで貯められた水の表面張力の如く、彼女の激情が爆発せんとする過程の羅列。  
視線だけでも人を殺せるのだ、とは誰が言ったのでしょうか。  
暴力の射程距離は、現在社会に置いて、通達手段さえあれば、ほぼ無限に等しいのです。  
人に話せば馬鹿馬鹿しいと一笑に付されるでしょうが、この時、初めて、僕は自身の生命の危機を認識しました。  
棚上げにしていた問題が再び僕の元に降りかかり、そして、否応にも自分の投げかけた啖呵をまざまざと思い返す羽目となりました。  
あんな事言わなければ良かった……。  
全てのメールを読み終えて僕は、これはもう本日家には帰れないと悟りました。  
当分ほとぼりを冷ます為、友達の家を転々としましょう。家族には適当な理由を騙って。  
 
「どうしたの? 何かあったの?」  
 
安達さんが優しく心配げに語り掛けますが、僕の口はまともな回答を返せず、不明瞭な唸りしか出来ません。  
応えようにも恐怖で全身を支配され、目蓋は小刻みに痙攣し、手は機械的に携帯の開閉を繰り返すだけ。  
その時、携帯がぶるぶると振動したので、僕はひいっと女の子の様な悲鳴をあげました。  
暴虐の女王が、三十九番目の死の手紙を送りつけてきたのでしょう。  
もう見たくない! そう思いながらも、僕の手は自動的に携帯を操作し、メールを開けました。  
 
『もし、本日十時半までに帰宅しなければ、件の写真を転送する』  
 
その場にへたりこみました。  
自分の考えの甘さを痛感し、逃奔の意志を一片すらも失い、絶望的な運命に恭順するしかありません。  
いつから、僕はホラー映画の世界に迷い込んでしまったのか、何が間違いだったのか。  
あの幸せな日々はどこへ行ってしまったのでしょう? そもそもそんな記憶はありませんが。  
 
「……安達さん、ごめん。帰らなきゃ」  
「う、うん。それはいいけど。何かあったの?」  
「家族が過保護でね。遅くでも連絡しなかったから、ちょっと怒ってる」  
 
嘘です。ちょっとどころではありません。  
そして断じて過保護等と生易しい形容は当てはまらない怪物である、と。  
みて。かのじょのなかのかいぶつがこんなにおおきくなったよ!  
 
「た、大変だね。それじゃあ、また学校でお話しよ?」  
「うん。今日はありがとう」  
 
こっちこそだよ、と華やいだ笑顔を見せてくれたので、少し和みました。  
? 気のせいでしょうか、安達さんのその笑顔は妙に作り物じみている様に思え、さながら何かを思い出しかけましたが……  
結局思い出せないまま、帰りの電車は会話も無く、手を振りながら安達さんは途中で降りて行きました。  
さあ、幸せな時間は終わりました。  
ここからは残酷で無慈悲な物語の始まりです。蝕です。贄です。  
 
焦燥が先行し、必死の思いで自宅(ちなみに僕の自宅は取り立てて特筆すべき点の無い二階建ての一軒屋です)へ引き返してきました。  
さあ、この扉を開けば、かつてない圧倒的なスケールの絶望的な未来が決定付けられます。  
想像では無く、確信です。  
僕の両親と同居してるのにまさか殺される様な事態に陥る事は考えられませんが、  
さりとて僕の安全が確保される保障は無く、ドアを開く覚悟がなかなか決まりません。  
最悪の事態を想定し、安全策として幾つかの対処を考慮すべきだったと後悔しました。  
剣道の防具とか、ヘルメットとか借りてくるべきだったかもしれません。  
半死半生――その四字熟語を身を持って体験する絶好の機会! ああ嫌ですね。  
事ここまで来た以上、どういった対策を想定しようとも、恐らく全てを上回る事態が身に降りかかるに違いありません。  
元来、優柔不断で臆病な性格の僕が扉を前にうんうん唸ったとて、冴えた手段が天から降ってくる訳も無く、  
覚悟も固まりそうも無く、ただ扉を開ける意思だけですら、僕にしては上等でしょう。  
なけなしの勇気を奮い立たせるべく、世界を一巡させた神父に倣い、  
孤独であるがゆえ勇気を与えてくれる数字と呼ぶ素数を数えました。  
震える手により幾度と鍵穴に鍵を収めるのに苦心惨憺しつつも、やがてカチリと開錠音が耳に微かに聞こえました。  
抜き足差し足忍び足で自宅へ侵入を図り――いや、自宅に対し、侵入の表現は正しく無いとは思うものの、  
さながら魔王の如く君臨する沙智従姉さんの居城として考慮すれば、あながち間違いではありますまい。  
不思議なのは屋内の電源が一様に消灯されている事で、それは人類の根源的な恐怖に対する警戒感を呼び起こすのです。  
暗闇。これは罠だ。  
実際、脅迫内容からして沙智従姉さんと対面する必要があるのですが、それでも僕は二の足を踏むのです。  
心理的な閉塞感から、呼吸もままならず窒息しそうで、自然と息が荒くなります。  
僅か数歩程の距離にも関わらず数分掛けて玄関を通過すると、やがてリビングの扉前に辿り着きました。  
ここはスモークガラスの引き戸になっており、僕は慎重に右に戸をスライドさせました。  
今迄何事も無く、少し気が緩んでいたのでしょうか。  
白光が僕の網膜に降りかかり、突発的な事態に僕は混乱して大きな悲鳴をあげました。  
 
「ぎゃあああああああああああああ!!!!!!!!!!!」  
「やかましいッ!」  
 
怒声と同時に胸に一線を貫くような衝撃が走り、僕は床に倒れ伏しました。  
痛みはそれほど感じず、やがて目が光に慣れる内に、状況が緩やかに把握出来る様になりました。  
壁際のスイッチに手をやり器用にも蹴りをかましたのは沙智従姉さんでした。  
僕はひひひひひと小刻みな悲鳴を鳴らせながら、顔だけは沙智従姉さんの方を向けつつも反対方向の壁へ退避しました。  
そして両手を前に何度も交差させながら命乞いを行いました。  
 
「こ、殺さないで! 殺さないで!」  
「するか! まったく……お前はそういう風に私を見ていたのか。」  
 
へこむなー、と傷ついた表情の沙智従姉さん。  
 
「だ、だって、留守電とメールにあんな大量に送りつけられたら、何事かと思うよ! 内容も徐々に不穏になってたし!」  
「いきなり訳分からん事捲くし立てた挙句、走り去って、その後はなしのつぶて。  
 で、今迄一切連絡の一つすら寄越さずでは、さすがの私も不安になる。  
 私の行動は、家族として間違っているか?」  
「さ、沙智従姉さん……?」  
 
過去を省みると、明らかに自らが不審な行動ばかり行ってきたか思い出すにつれ、僕の顔が熱を帯びてきました。  
うう、恥かしい。  
脳が正常に機能していない僕としては、はあ、と呆けた返事をするしかありません。  
 
「沙智従姉さんは僕の事を心配してくれたんだね」  
「当たり前だ」  
 
自然な語調で沙智従姉さんは言葉を継ぎます。  
 
「このまま逃げられると、思う存分折檻出来ないからな」  
「やっぱり怒ってるぅ!」  
「それは怒るとも! よりにもよって予備校のクラスメイトの前で、奇矯な振る舞いをするとは……。  
 後で私がどれだけフォローしたと思う!」  
「あんな恥知らずの糞なんかにどう思われても構わないんだけどー」  
 
少し反発心が芽生え恣意的に欠伸をしてみせて悠揚に答えてみせれば、手で額を抑える姿の沙智従姉さんが  
 
「私の立場がだ」  
「あのクソ……じゃないや。えと、あのクラスメイトとは、仲良いの?」  
「……初対面だと言うのに相当な嫌われようだな、浅賀君も。席が隣だから、それなりに親しいが」  
「その、好き……だったりするのかな?」  
「ちょっと待て」  
 
僕の告げた言葉の意味を理解するのに苦心しているのか頭をぶんぶんと振りました。  
 
「何故、そんな酔狂な質問が思い付く?」  
「だってさ、あいつ沙智従姉さんに馴れ馴れしくしてたし、沙智従姉さんも別に気にする風でも無かったし」  
「お前もしかして……妬いていたのか?」  
「そそそそそそそそそそんな筈ないよハハハハハハハ」  
 
心の底の溜まった嫌な部分見透かされた様に、僕は必死で否定しました。  
するとどうでしょう。沙智従姉さんは項垂れた顔で、上目遣いで僕を見やるのです。  
 
「……妬いていないのか?」  
「え? え?」  
 
僕が問い掛ける間も無く、沙智従姉さんは溜息を付き僕に背を向け肩を震わせました。  
これは……、もしかしてもしかするのでしょうか。  
もしかして、普段の態度は照れ隠しによるもので、僕に対する好意の裏返しという事ですか!  
ああ、そう考えると普段暴力装置で通している沙智従姉さんの印象が裏返る、一切の逆転現象が生じます。  
こうして僕は裏表無く草食動物たる安達さんよりも、肉食動物の沙智従姉さんに憧れるようになったのです――というか今なりました。  
ここで誤った選択肢に進んでしまえば、沙智従姉さんエンドへのフラグは断たれてしまうに違いありません。  
何より僕は紳士です。咳払い一つ、慎重に勿体付ける口調を心掛け、  
 
「うん、確かに妬いてたかもしれない……。僕は――」  
「なーに調子良い事言っている。相変わらずの分不相応さに私も驚愕しきりだ。てか、どれだけお目出度い頭なんだお前」  
 
即座に撃沈。彼女の口撃が的確で高性能なのか、それとも僕が短慮で鈍重なのでしょうか。  
先程の一瞬のしおらしい態度はどこへやら、平然とした――いやむしろ完全に莫迦にした顔で振り返りました。  
この従姉に世間一般の婦女子のしおらしさを期待した僕が馬鹿でした。正に言葉通りお目出度い頭ですね、僕は。  
安達さん、一瞬でも君を袖にした浮気性の僕をどうか許して下さい。  
 
「う、うるさいな。ともかく、これで僕の奇妙な振る舞いについての説明は出来た筈でしょ?」  
「まだだ。走り去った後、お前はどうしたんだ?」  
「どうしたって……何の話?」  
「それは――えぇと……その……去り際に女の子とデートなどと言い放ったじゃないか」  
「そんなの、沙智従姉さんには関係無い話じゃないか」  
 
憤りから鼻息荒く僕は言い捨てると、僕は背負っていた鞄を床に置きました。  
先程まで恐怖から来る緊張感で肩に掛かる重さすら忘れていましたが、今は疲労感すら感じています。  
 
「関係ないかどうか、話を聞いてから決める。それにそんな口を利いていいのか、お前」  
「何がだよ」  
「パソコンには既にあの写真を転送してるぞ」  
「なんという悪魔……、話が違うじゃないか……」  
 
この容赦の無さ、無慈悲性には、戦慄を禁じえません。  
抵抗する意志は皆無で、諦観の境地ですらあります。  
 
「じっくりと聞かせてもらおう。最初に連絡を受けてから先程までの事まで包み隠さず、全てを、だ」  
「ぐう…………」  
 
互いに正座で差し向かい、僕は身振り手振りを交えながらあらましを告げるのでした。  
 
「ほう……それで劇が終わった後はそのまま何も無かったと、そう言い張るか」  
「猜疑心強いなあ。言い張るも何も携帯見たのって、上演が終わってすぐだし。そんな暇無いってば」  
 
どうだか、と鼻を鳴らす沙智従姉さん。  
 
「破廉恥なお前の事だ。どうせ、劇の最中、連れの女の子に色々と卑猥な行為をしてたんじゃないか」  
「痴漢は犯罪だよ」  
「部屋漁って人のパンツを頭に被った分際がよく口答えできるものだ」  
「その件はそろそろ勘弁してください」  
 
土下座でお願いです。  
 
「ともかく僕はちゃんと帰ってきたんだし、転送した写真、削除してもらえない――ませんか? その、親に見られると……」  
「安心しろ。叔父さんも叔母さんも今日は仕事の出先で泊まっていくそうだ。明日朝までは帰って来ない」  
「な、何だって――?」  
 
道理で部屋に人気が無い筈です……って!?  
両親が家に居ないという事実は、僕に先刻の危機感を呼び起こしたのです。  
これはまさに僕の危機!  
 
「夜は長い。これからじっくりと朝までその体に叩き込んでやるから覚悟しろ」  
「い――や――」  
 
普段使わない力を今こそ発揮し、必死でその場から駆け出しつつ、脳を働かせ一瞬の内に計画を組み立てました。  
リビングを抜け右にあるニ十六段の階段を昇りその奥となる自室へ入るやすぐさま鍵で締め切り机やらでバリケードを作り朝まで篭城!  
……と、ですが不安定な態勢からの疾走は、根本的な身体能力で上回っている沙智従姉さんの相手では無く、  
あっさりと背後からのタックルを決められ床に突っ伏すと、まるでマッサージの準備前の様に背中の上に乗られました。  
彼女は、手の甲をボキボキと鳴らせながら、活き活きと声を弾ませ  
 
「さて、どこから始めようか。腕か? 足か?」  
「誰か――ッ! 誰か――ッ!!」  
 
前夜の鉄拳制裁から、午前中は我が学び舎で露出プレイ、午後の至福の時間を経て、  
再びあの悪夢が僕に舞い戻ってきました。  
あの過去の恐怖の残滓は未だ僕のあらゆる部位にこびりついており、強烈なフラッシュバックを眼前に提示しました。  
嫌だ、嫌だ!  
喉元にせり上がる恐怖がやがて臨界点を突破すると、人間は思わぬ力――火事場の糞力を発揮する様です。  
僕は筋を痛めるのを承知で力任せに状態を反らし、一気に抵抗にかかります。  
思わぬ抵抗に沙智従姉さんは、少し態勢を崩されたのでしょう、僕はその針の穴程の油断すら逃さず、  
グアーと叫びながら一気に腕立ての要領で振るい落としました。  
 
「痛ッ」  
 
沙智従姉さんが僕の背から転げ落ちるやいなや、僕は一気に距離を詰め寄り飛びかかりました。  
反撃は予想しなかったのでしょう、沙智従姉さんの抵抗は薄く、あっさり彼女の両肩を押さえ、  
腹の上へ腰を落とすと、マウントポジションの体勢へ――。  
 
「はあッ、はあッ、はあッ」  
「くッ、どけッ!」  
 
どけるものですか。  
万に一つ起死回生の策が好を奏し、絶好の反撃の機会を得たというのに、もし僕がこの場から離れれば逆襲を喰らうだけです。  
僕には、この態勢を維持する以外に、生き残る道は無いのです。  
 
「はあッ、はあッ、どうだ! 沙智従姉さん」  
「それで勝ったつもりか?」  
 
言うなり沙智従姉さんは両脚を浮かせカニ挟みで僕の腰を万力の様に締め付けました。  
ギギギギギと関節が軋みを上げ、激痛が僕を苛みます。  
 
「あぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃッッッッ!!!!!!!!」  
「ほらほらほらほらほら、ギブギブ?」  
 
僕は痛みに耐えつつ両肩に押し付けていた手を、震わせながら両脇に差し込みます。  
的確に敏感な部位をくすぐるべく。  
 
「ほらほらほらほらほら、ギブギブ?」  
「ぎゃははははははははははッッッッ!!!!!!!!!!!」  
 
カニ挟みとマウントくすぐりと、双方の攻撃はさながら永久に続くかと思われましたが、やがて沈静化し膠着しました。  
率直に言えば、疲れ果てました。  
 
「ぜえぜえぜえぜえ……」  
「はあはあはあはあ……」  
 
互いに荒い呼吸をしつつも警戒感から攻撃体勢を維持し、そして視線を交差させたままです。  
苛烈な攻撃が続いた影響からか、全身汗だくになった沙智従姉さんの頬は紅潮し、  
激しい運動で乱れた髪の毛が肌にへばりついているのが、どことなく妖艶さを醸し出していました。  
動悸が荒く早く強くなるや、僕は沙智従姉さんの赤い顔から、  
豊満な胸を強調するかの様に汗でぴっちりと張り付き体のラインを露わにしたTシャツへ、  
大胆なまでの腰のくびれへ、そして風呂上りに見た脚線美を思い起こさせるスリムジーンズへと視線を移動させていきました。  
僕の様子がおかしくなったのに不審を抱いたのか、疑問符を貼り付けた表情のまま眉根を潜めました。  
 
「…………? どうした?」  
「え? な、何も……」  
 
僕は目を離そうと試みましたが、如何せん技の攻防による深刻な疲労が僕の理性を弱体化させ、  
本能が顔を覗かせ、その視線はやがて普段意識はしていないものの  
無言の主張とも言うべき大きな胸に固定されました。  
僕と沙智従姉さんの汗が入り混じり(なにかいやらしい表現ですね)、濡れた白のTシャツは透過性を如何無く発揮し、  
隠されていた秘密の花園――アダルティな黒のブラジャーがくっきりと姿を現したのです。  
期間限定プレミア垂涎物の彼女を前にも、僕が襲い掛かるのを躊躇している理由は、至極単純で、  
正直何をすれば良いか分からないためです。  
義務教育も完了していないガキには無理からぬ難攻不落の命題と言えましょう。  
ゆえに僕はただ、ありがてえありがてえ、と昔のお百姓さんの如く拝みながら鑑賞するのみなのです。  
…………  
……  
 
「てい」  
 
感触としては、めきょりでしょうか。ぐちゃりでしょうか。  
ともかく、その嫌な感触を自覚した瞬間に、額から粘りつく脂汗がじりじりと伝ってきました。  
世界人口の約四割八分(様々な事情からもう少し目減りするでしょうが)に理解出来る根源的な激痛。  
齢百を越える拳聖と名高い老人が、たった一撃でタイ人を仕留めた技――。  
そうです。  
僕は陰嚢に当たる部位を、その痛みを理解しない全世界の五割二分の存在の一人にして、敬愛する従姉により、  
クリーンヒットされたのでした。  
白目。悶絶。脂汗。声の無い悲鳴。  
最早、沙智従姉さんに対して取っていた優勢な体勢を維持する事は適わず、横倒しになって、  
ただ一点を守る赤子の如く蹲るのみなのです。  
 
「××××××……………」  
 
意味を成さない苦悶の声を上げ痙攣し、横たわる僕の上から影が降りかかりました。  
ようやく僕という枷を外し、自由になった沙智従姉さん以外には考えられません。  
心身とも無防備となった僕に、無慈悲な追い討ちをかけるつもりなのでしょうか。  
サン、おおマイサンよ。これ以上君を世間の荒波に晒すわけにはいきません。  
これ以上デリケートな部位に追撃を受ければ、一気に昇天(猥褻な意味の隠喩ではありません)しかねません。  
僕は腹筋と両腿で挟み込む様にして、マイサンの防護壁を作り、追撃に備えたのです。  
来るなら来い! ……いや出来れば来ない方が良いのですが。  
ですが、幸いにして追撃は来ず、心配そうな声で  
 
「あー、そのー…………大丈夫か?」  
「…………」  
「わ、わざとじゃないんだ。ボディががら空きになっていたから、チャンスだと思って……つい、手許が狂って」  
「…………」  
「…………えーと。これでチャラと言う事で」  
 
そそくさと場を離れようとする沙智従姉さんの腕をがちりと掴みました。  
自分でも信じられない様な意志が、力が働いているのが分かります。  
 
「沙智従姉さん」  
「あ、い?」  
 
僕の静かで濃密な怒りを感じ取ったのでしょうか、いつもの様な強気が影を潜め、逆に臆している様にも見受けられます。  
沙智従姉さんの腕を支柱として、僕はゆらりと幽鬼の雰囲気を漂わせながら、立ち上がりました。  
 
「あなたはやり過ぎた……さしもの僕とて、これ以上許す訳にはいかない」  
「は……」  
「沙智従姉さんが無自覚に攻撃した部位は――とても繊細で敏感なんだ。何物にも耐え難い地獄の如き苦痛なんだ」  
「……す、すまない」  
「謝ったって許さない。それだけの事をしたんだ。覚悟してもらうよ……」  
 
ぎろりと見据えると、普段ぼんくらな従弟の変貌振りに完全に気圧されている沙智従姉さんの体がびくりと震えました。  
僕は両手を前にさし伸ばし、  
 
「……揉ませろ」  
「な、何を?」  
 
カッと両目を見開き、僕は言い放ちました。  
 
「その胸を揉ませろッッ!!!」  
 
垂直の軌道を経て、ダイレクトに僕の股間へ蹴りがすっと放たれました。  
そして、再度悶絶する僕の出来上がりです。インスタント食品を髣髴させます。  
 
「お、おのれ。一度ならず……二度までも……」  
「は、ははは……つい」  
「つい、じゃないよ……ヒッヒフーヒッヒッフー」  
 
ラマーズ法にも似た浅い断続的な呼吸を繰り返し、僕はゾンビの様に従姉の足首を掴みました。  
 
「うわ、縋り付いてくるな!」  
「等価交換ッ! 僕のこの地獄の様な苦しみに対応できるのは、母性の象徴、そして癒しの対象たる胸!」  
「はあ?」  
 
商業原理にも通ずる等価交換による物質の変換――金を打たれた代わりに胸を練る、これぞ錬金術です。  
 
「度重なる金的で使い物にならなくなったかもしれないじゃないか! きちんと機能するか試さないと!」  
「荒い息を脚に吹きかけるな! 滅茶苦茶な屁理屈を……」  
「僕は理性的だよ! そしてこの提案は論理的で合理的で平和的な解決策! さあさあさあさあ!」  
 
懇願にも近しい態度でひとくさり熱弁を振るった後、僕は彼女の両脚に縋り付きました。  
引き離すのも億劫になったのか、僕の強引な講釈に沙智従姉さんは半ば自分の不幸を嘆くように溜息をつき  
 
「……分かった。一度だけなら」  
「百ッ! 僕の人類学上の課題たる深刻な苦痛が、ただ一度の胸揉み程度で事足りるとでも?」  
「一回だ。私は自分の体を安売りしない」  
「おい、聞いたかよ、マイサン。どうやらお前は随分と安く買い叩かれたようだぜ。  
 もしかすると、二度とその足を地に着け直立出来ないかもしれないというのに……」  
 
僕は目を下腹部にやり、優しく撫で上げ、切々と涙を零しながら諭すのです。  
勘弁してくれと言わんばかりの沙智従姉さんは、軽く手を挙げて  
 
「……五回。それで満足しろ」  
「百ッ! 僕は妥協しないッ!」  
「十だ」  
「百!」  
「……二十。これ以上は勘弁してくれ」  
「Tシャツ無しなら」  
「は、はあ? この破廉恥が何を……」  
 
ちっちと人差し指を横に振り僕は最後まで言わせません。交渉は強気で。  
 
「ノートップッ……ノートップッ! オーケイ?」  
「……オーケイ」  
「商談成立。さあさあ、脱いだ脱いだッ!」  
 
俄然やる気になった僕は、催促するように手拍子をしながらD・V・D! D・V・D!と連呼しました。  
ちなみにドメスティックヴァイオレンス駄目絶対!の略です。  
諦め顔の沙智従姉さんは、言われるがまま、万歳の格好でTシャツをするりと脱ぎ捨ました。  
やがて現れるのは透明度の高い白い肌の、三国一の美術品にも等しい黄金率の好例ともいえる最高のバランスを保持した体型、  
程好く引き締まった全体的に細めの体型とは逆に、二つの広大なる丘陵はその圧倒的な存在感を誇っていました。  
ストラップレス形状でフロントホック式の、シックで大人びた雰囲気のある黒装飾のブラジャーがぴっちりと締め付けて、  
その大きな胸をより強調しております。  
僕は無言で視線を下にやりました。  
……ふむ、僕の息子はどうやら人生の絶望を味あわずに済んだようです。  
 
「さっさと済ませろ。寒い」  
 
両腕で体を抱きかかえる様にして、ぶるりとその身を震わせました。  
 
「その前に予備交渉だよ。一揉みの定義は? 一筆書きの要領でいい?」  
「そうすれば、お前は屁理屈こねて延々と弄ぶだろうが。一周円を描く事により、一回。中途からの逆回転も一回。  
 円状以外の計測できない動きの場合は、三秒を一回と見なす」  
 
沙智従姉さんは、何を真面目に語っているんだ私は、と嘆きつつ毒づきつつ、目を瞑り胸を反らして、  
これより執り行われる屈辱的な行為にも、強気の姿勢です。  
僕はこの貴重な機会を一片たりとも無駄にせぬ為、脳内でシミュレーションに継ぐシミュレーションを重ねます。  
どの様にすれば最適な経路を、最高のパフォーマンスを得れるのか、前頭前野をフルに機能させます。  
実際時間にして数秒ですが、脳内時間においては数時間にも及ぶ検討に次ぐ検討。実験。シミュレーション終了。  
瞬間的にでっち上げた乳揉み理論に基き、僕は最長距離となる乳ルートと、  
不自然にならぬ程度ギリギリの乳接触時間を導き出したのです。  
理論を実践に置いて確実に活用するには、最低でも一度は様子見名目で犠牲にする必要があります。  
ねちっこく調べなければ。  
 
「……ごくり。い、行くよ。沙智従姉さん」  
「ど、どんとこい」  
 
最初は大胆且つ思い切り勢いを付け、両乳の――僕から見て東東北の位置へと同時に両手を飛び込ませました。  
凡庸な形容となりますが、さながらそれはマシュマロの如く弾力性を伴い、  
その抵抗感が僕の両手にこの世に並ぶ物の無い至福を与えました。  
神はいた。  
 
「いひゃあ!」  
 
どこから声を出したのでしょう。  
胸に触れられた途端、普段の沙智従姉さんから発せられない可愛らしい声が押し出されました。  
両掌には汗による仄かな水気と、沙智従姉さんの心臓の鼓動が伝わってきました。  
その鼓動は僕の鼓動と同期するかの様に、徐々に早さを上げています。  
 
「い、一回だ」  
 
どうやら乳の感触に感動したまま、僕は手を乳に埋れさせたまま、思索に耽っていたようです。  
仕方ありません。  
本番は三回目以降に繰り下げ、二回目も一回目と同様、練習へ移行させましょう。  
ぼくはそのままふん、と乳の張力に対抗し、重心を掛け、緩慢なまでに円を描く動きをしました。  
 
「ぃあん……ちょ、ち、力を入れるな!」  
 
失敬とばかりに僕は力を緩めれば、動きは必然的に止まってしまう訳で、瞬間、二回目、と苦しげな警句がなされました。  
思春期真っ盛りの年頃に、女性経験を求めるのは酷であり、単純に生の女体との接触経験は、  
記憶にある限りは母親や祖母ぐらいのもので、案外難しいものです。  
 
再チャレンジの三回目は好発進でした。  
理論に即した緩慢な軌道で、乳丘を意図的な迂回で、たわわな感触を楽しみながら、僕は乳世界の冒険に心躍らせていました。  
しかし……  
 
「ぁふん」  
 
時折漏れる沙智さんの艶かしい声が、僕の冒険心を淫猥な空間へと一足飛びに飛躍させ、  
記憶に妬きついた艶声が自動的再生され反芻させ、手は途中でぴたりと止まってしまうのです。  
それには生理学的な理由もあります。  
フフフ……その恥ずかしげながら、勃起しましてね、と平穏な生活を望む爆弾魔の殺人鬼も言っておりました。  
前もって用意していた理論は、所詮は机上に過ぎず、実践の前に苦戦を強いられ、  
指定された回数と同数の艶かしい声(「んいやぁ、あぅん、ひぃん」)という予想外の敵と死闘が継続される中、  
ついに乳冒険はクライマックスを迎えました。  
 
「んはあ……はあ、はあ、これでラストだな?」  
 
沙智従姉さんはすっかり憔悴した表情であるものの、やっと解放されるのかという安堵感を語尾に滲ませながら、  
僕に念を押してきました。  
予定の乳接触時間の半分にも満たず、僕は消化不良と、乳冒険中の右肩上がりに高まる要求不満に陥っておりました。  
泣いても笑ってもこれがラストの一回。  
思い残しが無い様、徹頭徹尾、塵一つすら残さぬ覚悟で、乳を味わいつくすのだ、と僕は固く心に誓いました。  
既に手馴れた仕草で僕は胸にしっかりと這わせようと、手を近づけました。  
ん? その時、ある事実に気がつきました。  
十九度の乳揉みがもたらした副産物でしょうか。  
フロントホック式の大人びたブラの中央のファスナーが七割程上がっていて、今にも取れそうになっていました。  
…………。  
僕はこみあげた思惑を隠す為、下唇を噛み締め、喉元までせり上がる欲望を肯定すべく、決意の首肯を二度行いました。  
 
「い、行くよ……沙智従姉さん」  
「ああ……」  
 
疲労度の濃さが滲む投げやり気味の返事は、思考力判断能力の欠如と判断できます。  
千載一遇の好機をみすみす逃すつもりはありません。  
今まで僕自身を縛り付けていた理論から逸脱したルート――左右の手を別回転方向へ、中央へ潜航させるのです。  
深く潜行させた理由は、当然ブラの下に手を差し入れる為です。  
力強く下着と胸肉の隙間に潜り込ませると、ちょいや!と気合の呟きで、破損の可能性もお構い無しに勢い任せに脱着させました。  
ぷつん、すぽん。  
胸の張力との危ういバランスで装着されていた下着は、音をたてて弾け飛び、  
数秒ひらひらと羽毛の様に宙を舞い、やがてぱさりと宿り木の如く僕の頭に被さりました。  
それは自らの意思でパンツを被った勇猛で歴史的な先日とのシンクロシニティを彷彿させましたが、  
目下僕の関心はそこには無く、ただ中央の感動的な光景に釘付けになっておりました。  
そこには宇宙の神秘――自然としての有るべき姿の根源的な女性性の象徴と言うべき、その優美な環境のベールを取り払い  
男子諸君にとっては幻ともいえる頂点が姿を現しておりました。  
記憶の奥底に眠っていた幼児本能と、思春期特有の巨大な衝動が、互いに主張し始め、やがて融和を果たし、  
ああ、あの懐かしき約束の国へ飛び込みたいよ、と僕に哀願するのです。  
別視点の客観的な僕は、わが生涯に一片の悔い無し、とささやかに拳を振り上げ、諦観と虚無の入り混じった菩薩の表情です。  
来る強烈な折檻を想像し、その身は甘んじて受け入れる意志を受容し硬直して、指の一つすら動きやしません。  
沙智従姉さんは現状の認識に頭が働かぬ様子で、しばらく呆けた表情で僕の顔を見つめていました。  
機械的に目線を下にやり、再び僕の方を向くのを、幾度か繰り返した後、  
やがて目の色が認識力を取り戻すやいなや、顔色が徐々に赤味を増し  
 
「あ、あ、あ、ああああああああああ…………うきゅう」  
 
叫びが最大音量に達する直前に脳の処理能力がオーバーヒートしたらしく、  
ばたん、と後ろ向きに倒れました。  
 

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