先程から僕は雑草茂る体育館裏にて、トランクス一丁で正座させられています。
本当今年の冬は暖かくて良かったですね、農家の人は大変でしょうけどね。
そういった全く関係の無い事を脳裏に浮かべ逃避するのも良いのですが、
兎も角、何故、僕がこの様な仕打ちを受けているのか、その根本的な原因と理由を語らねばなりますまい。
一週間前の事なのですが、遠い親戚関係に当たる、沙智従姉さんが大学受験の為、
希望の大学からそう離れていない場所に位置する我が家から、予備校へ通う事になりました。
沙智従姉さんが去年の受験を感染性胃腸炎にて棒に振ってしまい、劣悪な環境にして元凶である自宅から離れようと判断した結果だそうです。
家族は諸手を上げて歓迎しました。
僕の母は、出来れば女の子が欲しかったのよ、と、ともすれば僕の存在価値に揺らぎを示すような科白を口走り、
僕の父は、いや本当可愛いねお小遣いあげよう、と、普段紳士然を通す父の緩みきった頬に何だか失望感の様な物を感じたりもしたのですが、
まあ実際、僕としても一般的な美人四角錐の上部にて優雅に見下ろす立場でいる沙智姉さんに、思春期特有の胸の高鳴りを抱いていたのです。
これが三分後には、恐怖から来る動悸に変わるとは、露とも知りませんでした。
彼女は目上の人に対して実に礼儀正しく丁重な対応で通すのですが、軟弱で年下の従弟には長年体積した鬱憤を解消させるかの如く、一転して傲慢かつ横柄な態度で振舞うのです。
日常的に暴言を用い、時に暴力を持って、僕に、お前は底辺に這う黒虫なのだと思い知らせるべく、徹底的な攻撃を繰り返し、その度合を強めていきました。
純朴なる僕の精神はずたずたに引き千切られ、見るも無惨な有様です。
しかし、考えても見てください。
農民は、平民は、困窮した生活に無理解の上流階級の弾圧に対し、一揆だの、反旗だのを掲げて、自らの主張を通そうとしましたよね。
当時の――と言ってもつい三日前の事なのですが、僕にとってみればそれだけの時間にも思えました――僕も同じ事を考えました。
ハンムラビ法典は実に平等です。目には目を、歯に歯を。
一見、残虐にも思えるこの指針は、言い換えれば、それ以上の罰を禁ずる、罪と罰の等価値を呈示しています。
しかし、僕は未だ義務教育も終えていない学生ではありますが、男です。
フェミニストを気取るつもりではありませんが、女性に対し同じ暴力で仕返しをする等以ての外です。
それゆえに、別の手段を用いて、沙智従姉さんには、僕と同程度の屈辱を堪能してもらおうと考えました。
ですが、彼女にはなかなか弱点という弱点が見当たりません。
人が羨む容貌と、昨年こそ急病にて断念したものの学業も優秀、一見社交的で礼儀正しい性格、と非の付け所が無いのです。
僕は弱ってしまい、腹痛とテストの時にのみその存在を盲信する――したいというべきでしょうか――神に祈りを捧げる様に、両手を前に組んで両目蓋を固く閉じました。
すると――
逆に考えてみるんだ、と人間賛歌を謳いあげる漫画の理想的な紳士が脳裏に語りかけてきました。
瞬間的に僕はその意図を理解しました。
極端な美点は、逆に弱点にも成りうるのです。
完璧な人間は醜聞を嫌います。自らの完璧さを損なう結果となるものを許しはしません。
調べてみよう、僕は決意を固める意志で、深く首を縦に動かしました。
埃一つ残さぬ程の地道で緻密な捜査と、呈示されたパーツから導きされる論理的な推理が、結論を導き出すのです。
リチャード・D・ジェイムス張りの邪悪な笑みを意識して貼り付けると、予備校で留守にしている沙智従姉さんの部屋へ忍び込みました。
何だか僕は小学生の頃、旧校舎に忍び込んで存在するといわれる幽霊探しに赴いた時の、そんな高揚感が胸に沸き立ちました。
未知の体験。心躍るフレーズじゃないでしょうか?
異性の部屋は、全く別の空間を僕の全感覚へ訴えかけました。
視覚にファンシー、嗅覚にフローラル。
聴覚には、多分幻聴でしょうが、風のざわめきがゆらゆらと
触覚には、ふんわりとして気持ちが良く――
「味も見てみよう」
断り文句では他の追随を許さない漫画作家の科白を借り、僕は舌をぺろりと出してみました。
甘い――気がする。
全てのイメージは掴んだ、と説明付かぬ達成感が全身を駆け巡るのが分かりました。
その達成感は、高揚感と焦燥感を付随させた熱情を生み出して、僕を次のステージへと誘うのです。
視線を巡らせて、まず何から手を付けるべきかと思案していると――
箪笥が目に付きました。
これは重要度の高い場所だ。僕は確信しました。
何故だか、鼻息が荒く、全身に汗がだらだらと流れ落ち、頬がかああと熱くなる不思議な体調の変化がありましたが、僕の興味は既に箪笥の中身へ注視されていました。
泥棒は一番下から調べるのだったっけ、と僕は箪笥に近寄るやいなや、勢いづけて最下部にある引き出しに手を掛けました。
中身はいきなり大当たりでした。
多種多様の色とデザインで所狭しと詰め込まれた、下着の群。
僕の表情は、恐らくあの日の父と似た様な感じへ変貌していた事でしょう。やはり、親子ですね。
まず、僕は先程から視界の片隅に離れないオレンジ色のビキニショーツを手に取りました。
薄い。小さい。しかし、何より――
「ドキドキしてきた……」
こんな表面積の小さい奇抜な色の下着に、どうしてここまで心奪われるのか。
男が探求すべき永遠の哲学なのでしょう。
まだまだショーツもブラも大量に僕の手に取られるのを最下層の引き出しにて心待ちにしているのです。
一つのショーツに掛かり切りになる暇はありません。
それでも、僕は無自覚の欲望に直結した感動から、このショーツへ何らかの行動を示すべきだと思えました。
味を確かめるか、頭の上に被るか。
二者択一です。
よく青少年に健全な性知識を披露する少年雑誌で連載される漫画では、時に主要人物が知人の女性の下着に対し変態的な行動を取りがちです。
僕は今この時まで、ようやくその地点へ着地したのでしょう。
結論は下されました。
パンツを頭へ被る。
口に出せば、実に単純な筈の言葉は、いざ行動に移すと、それが実に厄介なものだと分かりました。
倫理観を失う事に対する恐怖か、それとも単純に興奮からか、ショーツの両端を掴んだ指の震えが収まりません。
逃避を戒める魔法の言葉を脳内に反復しつつ、僕はゆっくりとそれを頭へ持って行きました。
収縮性に優れたショーツは見る間に僕の頭のサイズへ範囲を広げ、フィットしました。
そうだ、このまま顔の辺りまで下ろせば、味覚の確認も行えるじゃないか、と一%のひらめきが僕を天才と評しました。
「ようしやってやるぞ」
僕が決意表明を口にした時、がちゃり、と実に。
どうやら、ショーツとの格闘に脳のリソースを割り当てすぎた結果、注意が散漫になっていた様です。
悪魔のご帰還でした。
沙智従姉さんは、両親に普段見せている穏やかな微笑を湛えた表情を顔に浮かべていました。
後手にドアの鍵を閉めて、ショーツを頭に装着した変態仮面である僕が硬直するのを、表情とは真逆の背筋を凍らせる冷たい視線で一瞥すると
「成程な。お前がそういう性癖を持っているとはさすがの私も想像がつかなかった」
反論の仕様が無い僕は頭を項垂れて、さながら実刑判決を宣告される被告人の面持ちで、体をがたがたと震わせていました。
「右頬を向けろ」
彼女は右頬へ強烈な一撃を加え、瞬時に僕の体細胞から脳細胞に至るまで甚大なる被害を与えるに違いありません。
ですが、僕はその後にそっと左頬を差し出すつもりでした。
キリストは右頬を叩かれれば、左頬を差し出せ、と兼愛の精神を掲げ、その思想は今日まで伝えられています。
あらゆる学問の黄金律として認識される、自分がされたくない事を相手にするな、を体現したものと言えましょう。
非暴力主義。ガンジー。
攻める側が無防備宣言をしている地域としていない地域なら、どっちを攻撃すると思いますか。
んん? これは違いましたね。
僕は来るべき圧倒的な暴力に対し、顎の長い偉大なるレジェンドプロレスラーの精神の元、身構えたのですが――
唐突に眉間へ鋭い手刀が打ち込まれました。
右頬を差し出した体勢のまま固定化された無防備な体勢に直撃した手刀は典型的な脳震盪の症状を作り出し、僕をさらなる遠い世界へと連れ去り、全てを終わらせたのです。その間二秒。
史事とは違い寸止めせず躊躇無く打ち抜いたにも関わらず、お美事。お美事にござりまする。と、居並ぶ脳内弟子達が口々に褒め称えました。
そして沙智従姉さんは徹底的に無慈悲であり、手加減という言葉を、僕を相手にする際、脳内データベースからゴミ箱へ一時退避させます。
何と、性に対し未熟な僕の微妙な劣情を揺さぶらせる黒のニーソックスを着用したまま、重心を掛け顔面に直接追い討ちを仕掛けたのです!
彼女が十キロ程度の増量をした場合、僕の命は敢え無くこの世から消失していたでしょう。イメージとしては飛び散る血肉や、脳漿。砕け散る頭蓋。
結果、僕は顔面に生じた重圧的痛撃にて、途切れた意識を覚醒するに至ったのですが、それはこれから来る暴虐への前章でした。
例えば、映画や小説等の続編において、前回のスケールを遥かに上回る――と大々的な広告がなされるのを度々目にします。
詰まる所、沙智従姉さんと同じなのです。
最初が一の暴力なら、次は十にて。今回が十ならば、次回は百で、と右肩上がりなインフレーションに余念がありません。
米国は、好景気をインフレ対策の利上げにて軟着陸しそうな見込みですが、彼女は大気圏を突入する勢いでした。
さて――大変恐縮で申し訳ないのですが、この後数十分程度の記憶は欠落したらしく、脳裏に浮かんできません。
確かに僕の全感覚は全てを体験している筈なのですが、どうにも脳の安全装置が働き、心の奥底へ隔離されたらしいのです。
いずれ無意識的、無自覚的なトラウマとして、私生活に致命的な影響を及ぼす可能性はありますが、僕は考えない事にしました。
考えようにも全身を覆う断続的な激痛が遮断してしまうのですが。
兎も角、僕は暴威を受け続けた満身創痍の体で、未だ暴力の興奮が冷めやらぬ仁王立ちの沙智従姉さんの前で、白のカーペットに身を包まれて突っ伏していました。
入室した時にはあれ程心躍る楽園に見えた空間が、一転して地獄さながらの暗黒空間へと変貌しておりました。
本当、ドメスティックバイオレンスにも程があります。
沙智従姉さんは横たわる僕の死に体を爪先でつつきつつ、こう告げます。
「――脱げ」
「え?」
「パンツを脱げ、と言ったんだ」
「は、はい!」
これ以上怒らせてはどんな目に遭うのか僕の貧困な想像力では及びも付きませんので、慌てて痛む体に鞭打ち起き上がると、ジーンズのファスナーへ手を下ろしました。
同時に、阿呆、と胸板に強烈なミドルキックが叩き込まれました。
「頭だ頭ッ!」
僕は蹴撃による息苦しさと痛みからげほげほと咳き込みながらも、慎重にショーツを頭から剥いでいきました。
うやうやしく謙譲する様に、ショーツを両掌の上に置き差し出しました。
オレンジ色のショーツは、心理的罪悪感が作用し重量感を増しながら僕を責め苛みました。
沙智従姉さんは汚物を見る目で、ふん、と鼻を鳴らすと、口の端を歪めショーツを掴むやいなや、傍のゴミ箱に向かい放り投げてしまいました。
勿体無い、との苦言が口から飛び出しそうになるのを、僕は痛む腹の底で必死に堪えました。失言を重ねると殺されます。
すっと、沙智従姉さんが僕が余りに情けないからか深い溜息を吐き出し背を向けていました。
これはチャンスです。大脱走です。
僕は音を立てぬ様慎重にドアへ近寄り、ノブに手を伸ばしました。
がち、とノブを回転するなり抵抗感がありました。なんという事でしょう。
沙智従姉さんが部屋に入るなり、閉錠していた事を失念していたとは。
暴虐が僕へ短期的な記憶喪失の症状を引き起こしたのは、疑う余地もありません。ああ。
すっと影が僕の体に掛かりました。緩慢な動作で僕は首を後ろに傾けます。
――知らなかったのか。大魔王からは逃げられない。
昔の人は物知りですよね。
かような顛末により、悪質で反省が見られないと重加算罪が課せられ、僕は寒風に吹かれ肌全体に鳥肌をたたせながら正座に甘んじている訳です。
関係者以外立ち入りを禁ずる学校に不法侵入した沙智従姉さんは、監視役として僕に携帯電話のカメラを向けています。
もし他の人にこんなあられもない姿を見られれば、僕はマゾヒスティックな性癖が芽生えかねません。
そうなれば、将来的に僕はその仕打ちに対し感謝する事になるかもしれない、と考えると、恐怖感から歯の根ががちがちと鳴るのを止められませんでした。
人格改造です。何て恐ろしい人なんでしょう。
そんな僕の葛藤を知ってか知らずか、カメラでの撮影に飽きたのか、ボタンをカチカチと操作していました。
誰かにメールでも送るのでしょうか。
僕が興味津々な視線を送信するのにも彼女の知覚反応はアンテナ一つ立たぬ圏外らしく、やがて一通りの作業を終えた様で、
折りたたみ式の携帯をぱたんと閉めストラップの紐を指に掛けてぶらぶらと回しだしました。
僕達をとりまく周囲では、乱雑に生え茂る雑草が冷風にたなびいています。
すでに三十分程度の時間が経過し、僕の脆弱たる精神を磨耗させ、思考能力を根こそぎ奪っていきます。
彼女はいつになれば僕の事を許してくれるのでしょうか。
そもそも何故ここまで過剰な厳罰を受けなければならないのか。
貴重な休日に僕は裸で何をしているのでしょう――
理不尽な行為を余儀なくされ、憤りとも嘆きとも取れぬ複雑な感情から、目尻に溜まった涙が零れ落ちては素肌に伝い、
その都度体が敏感な反応を示し、僕は、ひぁ、と悲鳴をあげてしまいます。
鼻水も負けじと肌へと進出しようと目論んでいるのを寸での事で察知し、ずず、と自らの住処へ強制退去させました。
ふと、大気の流れが変わった様に思えました。
精神が鈍磨していた影響で、沙智従姉さんが僕の鼻先近くへ顔を接近させていた事に、今更ながら気が付きました。
ステータス混乱です。全身回転しかねません。両頬の体温が上昇し、さながら熱病に浮かされた心持ちです。
沙智従姉さんは愚かな従弟の頭でも理解出来る様にゆっくりと語りかけます。
「よぉく反省したか?」
「ひ、ひゃ?」
鼻が詰まり、正確な発音が出来ないでいると、彼女は眉根を潜めて
「聞き取れないな。もう一度聞くぞ? 反省したか?」
「ひ、ひゃい。ひゃんせいしました」
よし、と鷹揚に頷くと、建物の壁に立て付けられているパイプの上に掛けられていた僕の制服を持ってきてくれました。
これにて僕の罰は終了という事でしょう。鬱屈した環境からの開放感で、安堵の溜息がこぼれました。
しかし、沙智従姉さんは背中に鬼や般若が描かれても不思議の無い鬼畜婦女子として、主に僕にとって悪評高き人物です。
そう易々と僕の気を安らげてやろうなどとフライドコークの如く甘っちょろい精神を持ち合わせておりません。
「いいか? 携帯にはお前の恥かしい写真をそれはもうたっぷりと撮影しておいた。
無論、パソコンへの転送も完了している。理解したなら、次は変な事を考えない様にするんだな」
恐らくは、誕生する際に、良心を母親の胎内に置き忘れたに違いありません。僕はつくづく彼女を過小評価していた事を自覚しました。
成程、先程携帯を何やら弄っていたのは、つまりは自宅へ転送していた訳なのですか。
家族共用のパソコンで、メールアドレスこそ各自で保管していますが、まかり間違えば家族の目に触れる危険性を有した事となります。
さすが沙智従姉さん。僕の考えの及ばぬような事をやってのけます。
そこに痺れる憧れます――――――嘘です、勘弁してくださいッ!
僕の青冷めているだろう硬直した表情は、沙智従姉さんを大層満足させる結果となったらしく、
パンツ一丁で呆然と硬直した状態の僕を置いて、背を向けて颯爽と立ち去っていきました。
一瞬間が空き、ようやく放置されたのを自覚し、僕は追いかけるべく、慌ててカッターをブレザーをと装着を開始しました。
運の良い事に、見知った教師やクラスメイトと出会う事も無く、裏門を抜けました。何だか胃腸薬が恋しくなりました。
沙智従姉さんから三歩ほど後ろで胃の辺りを擦りながら附いていますと、ブレザーの中ポケットにしまっていた唐突に携帯が振動しました。
僕の交友関係は片手指で数えるほどの貧相で寂寥感の漂い、自分からは連絡を寄越さない、電話料金の関係上必然的に受け手の立場――
連絡される側のご同輩が多いのです。
休日に電話を掛けてくる機会自体が稀で、セールス電話の疑念を抱きつつも、携帯を取り出し、表示された番号を確認すべくディスプレイに視線を落としました。
×××−××××−××××
番号を見るなり、反射的に僕は、あ、と驚きの声を発してしまいました。
従弟の唐突な大声が不審に思えたのでしょう。沙智従姉さんが振り返り、僕をじいっと観察していました。
疑惑の視線がやがては自分勝手なに結論付けた上での確信へと至る事を恐れ、
僕はなるべく目を合わせない様に自然な仕草で目を逸らし、友達友達、と早口で説明し、電話に出ました。
「もしもし……」
「あ、もしもし――って、えらく篭った口調だね。もしかして、寝起き?」
「う、うん。そう。そうなんだ」
電話口の相手は同じクラスの安達桜子さんと言い、内気な僕が唯一気楽に話せる、小動物の様な可愛らしさを持つ女の子です。
性に関する興味は人一倍あるだろうと僕は自負しておりますが、実際の所、猥褻本やDVDすらもまともに目視できない初心な少年です。
そうした閉塞的な性欲が、女性の部屋に入るなり爆発し、変態的行動へと僕を誘ったのでは無いか、との批判は甘んじて受け入れます。
というか受け入れましたよね、先程。
ともかく、沙智従姉さんの剣呑な視線に悪寒を感じつつ、僕は受話口から聞こえ来る安達さんの心地よい美声に耳を傾けました。
「ごめんね。それじゃ、起こしちゃったかな」
「き、気にしないでよ。それで今日はどうしたの?」
「あ――う――ん、え、えとね――今暇かなあ?」
「ひま……」
僕の一挙一動を両腕を組みながら観察にかかる、従姉の無表情の視線に背筋から汗を伝わせつつ
「い、いや。ちょっと今やらなければならない用事があって……」
「そ、その用事ってどれぐらい掛かる? 抜け出せない?」
「ええとね……」
僕がちらりと目を向けると、自分のテリトリーに侵入した不遜な輩に対する様に、ぎらりと歯を剥いて威嚇していました。
果たしてこの女性は僕と同じ生物なのでしょうかと常日頃の疑問が頭をもたげるのも無理からぬ事でしょう。
「……抜け出すのは無理。時間も掛かりそうだし」
「あ、そうなんだ…………」
安達さんの口調のトーンが、先の世界同時株安における暴落の如く垂直落下し、端々に落胆した様子を滲ませていました。
しかし、僕はバンプアップの達人であり、落胆の原因となる糸口を掴むべきだと認識しました。優しく訊ねてみます。
「ええと、何かあったの?」
「わ、私の知り合いが参加している劇団があってね。結構人気が高くて、チケットもなかなか手に入らないの」
「うんうん」
「そこで気を利かして、今日限定のチケットをペアをくれたの。確か、演劇に興味があるって言ってたよね?」
唐突に、そういえば浮ついた気分の中、適当に相槌を打っていた記憶が蘇りましたが、口には出しません。
「も、もし良かったら、一緒に見たいなと思って――」
「い、一緒に――?」
何と言う事でしょう!
これは思春期を迎えた少年少女ならば、誰もが一度は夢見るデートのお誘いというものでは無いでしょうか。
「○○駅ビル内にある、アミューズメントセンター八階で、午後五時三十分開演なんだけど――」
現在の時刻は午後三時半。
○○駅は、電車で快速を乗りつけば、所要時間十五分程度の場所にあります。
沙智従姉さんの買い物を一時間程度で切り上げて、猛スピードで駅へ出向けば、四時五十分の快速に乗ることが出来ます。
むざむざ貴重な機会逃して良い物でしょうか? 有り得ないですよね?
「ああいや、それなら大丈夫! そこまで時間は掛からない。五時十分くらいに駅に行けるよ」
「ほ、本当? 良かったあ。そ、それじゃあ、○○駅の南改札口に待ち合わせで良い?」
「オッケー」
「それじゃあ、また後でね!」
「うん、バイバイ」
電話を切るなり、僕は口元が緩むのを止められませんでした。
異性に対する知識が未熟な僕の脳裏に、あれやこれやとよからぬ妄想が錯綜を始めました。
いやはや、彼女の沈んでいた語調が僕が承諾したと知れると一転してぱああと明るくなったのが何とも微笑ましいものでした。
そんな浮ついた気分も、彼女――沙智従姉さんが全方位に放射する不穏な存在感に一掃されましたが。
「随分楽しそうに喋っていたじゃないか。誰だ?」
「さ、さっきも言った通り、友達だよ?」
「友達ねえ――相手は女子か?」
「そ、それが何だって――いえ、何でありますか? じゃなく、いえ、何でもありません!」
少し挑発的な響きが癪にさわり反射的に口答えしてみたものの、瞬時に弱者たる立場を自覚し、慌てて連鎖的に語尾を変容させました。
しかし、沙智従姉さんは特に気にした風も無く、不機嫌とも泣き出しだそうとも解釈できそうな面持ちで
「……別に。それでどこか行くのか?」
「う、うん。何か、知り合いが参加している劇団の公演を見に行く事に」
「――今から?」
「いやいや! 五時待ち合わせで時間はまだあるから。それに、買い物へ行くんでしょ?」
行かなきゃ何されるか知れたものではありません。
当然、沙智従姉さんは当然の如く傲岸不遜なまでに鷹揚さを伴いつつ頷くに違いないと思ったのですが――
「はは……そう、そうだったよな」
要領を得ない返事ではるものの、沙智従姉さんの面持ちは幾分和らいだ様子でしたので、僕は安堵の溜息を吐き出しました。