既に梅雨入りしている六月のとある放課後。降りしきる雨を眺めながら大神鈴音は一人昇降口に佇み、溜息をついていた。  
「あー、失敗しちゃったなぁ……。でも確かに入れたと思ったんだけどなぁ……。ああもう……。」  
本当にボクの馬鹿、そう一人ごちる。  
 
鈴音が家に帰らずにいるのは、傘を持っていないためであった。  
しかし今は梅雨入りしている。たとえ朝は降っていなくとも、携帯用の傘を持ち歩くのは当然といえた。  
もちろん鈴音もそのつもりだった。しかし、どういう訳か入れた気になっていただけで、実際は入れていなかったようである。  
 
彼女はいつもなら陸上部のメンバーと帰ることが多いため、こういう時は誰かの傘に入れてもらえば良いのだが、今日は担任に提出する  
委員長としての仕事が少しあったため、皆には先に帰ってもらってしまっていたのだ。  
 
「本当、間が悪いなぁ……。」  
そう呟きながら雨を恨めしげに見る。まだ学校に残っていそうな知り合いに連絡を取ることも考えたが、もし既に帰ってしまっていたら  
いらぬ気をつかわせる事になってしまう。  
だから鈴音は雨が止むことを期待して少し待っていたのだが、雨足は一向に衰える気配が無かった。  
 
「あーあ、仕方が無いなぁ。じゃあ、強行突破といきますかぁ!」  
そう呟くと鈴音は屈伸を始めた。雨の中を、家までダッシュで帰る覚悟を決めたためである。  
そうして準備運動を終えた鈴音がじゃあいくか、と駆け出そうとした時、不意に背中から声がかけられた。  
 
「あれ? お前まだいたのか鈴音?」  
振り返って見ると、そこには靴を履き替えている正刻がいた。手には折りたたみ式の傘が握られている。  
「う、うん。ちょっと委員長としての仕事が残っていてね。それより正刻、キミこそどうしたのさ? 今日は図書委員会の仕事はお休み  
 だったんでしょ?」  
鈴音は正刻の問いかけに答えた後、尋ね返した。委員会の仕事は毎日ある訳ではない。正刻は積極的に参加しているが、それでも週に一、  
二日は休みの日があるのだ。  
 
その鈴音の問いかけに正刻は苦笑しながら答える。  
「ああ、今日は本当は休みの筈だったんだがな。けど急に代わってくれって頼まれちまってな? まぁ特に急ぐ用事も無いし、代わって  
 やったって訳さ。」  
そう言いながら正刻は靴を履きかえて、鈴音の隣までやってきた。  
「で、お前は帰らないのか? それとも友達を待ってるのか?」  
 
そう正刻に訊かれた鈴音はバツの悪そうな顔をして目を逸らす。不思議そうな顔をしている正刻に、鈴音は歯切れの悪い口調で答えた。  
「い、いや、実はさ、その……。」  
「……?」  
「帰ろうとは思うんだけど、その……傘、忘れちゃってて……。」  
その鈴音の告白に、正刻は思いっきり苦笑する。  
 
「お前、梅雨に入っているのに携帯用の傘を持ってないのか!? ……いや、違うな。どうせお前のことだから、自分では入れた気になって  
 いたんだろう? ところが実は入れ忘れちゃってました、と、そういうオチなんだろう? 違うか?」  
 
正刻にそのものズバリな予想をされた鈴音は悔しそうに「うぅーっ!」と呻いた。その様子を見た正刻は、自分の予想が当たっていた事を  
知り、肩を竦めながら言い放った。  
 
「全くそういう所は中々直らねぇもんだな? ええ? ドジッ娘委員長さんよ?」  
 
その正刻の発言に、鈴音は猛然と噛み付いた。  
「こら正刻! いくらキミでも言って良い事と悪い事があるぞ! ボクはドジッ娘なんかじゃない! 何回言ったら分かるんだキミは!!」  
しかし正刻は全く怯むことなく言い返す。  
「んな事言ってもなぁ。過去の行動と今回の件を鑑みると、お前をドジッ娘と呼ぶのはごく自然なことだと思うぞ? そんなに不満なら、  
 今度からはドジッ娘眼鏡っ娘委員長と呼んでやろうか?」  
「なお悪いよこの馬鹿!!」  
顎をさすりながらそんな事を言う正刻を、鈴音は思いっきり罵倒した。  
 
そう、鈴音は実は、うっかりとポカをやらかしてしまうことが結構あったのである。  
中学では生徒会長、今でも学級委員長を務めている彼女は仕事ぶりも良く大変優秀であるのだが、何故か時々間抜けなミスをしてしまうのであった。  
折角完璧に書き上げた書類と、もう古くて処分する書類を間違えてしまって新しい方を危うくシュレッダーにかけそうになったり。  
学校行事の手配などをちゃんとしたと思ったら、実は一日ずれてしまっていたり。  
もちろんそういうミスは少ない。あくまでたまにしてしまう程度なのである。しかしそのフォローを今まで一番してきた……というかさせられた  
のは正刻であった。故に彼は、鈴音がうっかりなミスをする度に、そのフォローをさせられる仕返しとばかりに「ドジッ娘」と彼女を呼ぶのである。  
 
そんなやりとりをしつつ、正刻は鈴音に言った。  
「で、どうするんだ鈴音? 何だったら、家まで送っていくぜ?」  
正刻と鈴音の家は方向が全く違うが、しかしそんなに距離が離れ過ぎているわけでもない。良い運動にもなるし、何より彼女をこの雨で  
濡れ鼠にするのは可哀想だと、正刻はそう思って言ったのだが。  
 
「えー……。でもキミと相合傘で帰ったら妊娠しちゃいそうだしねぇ……。」  
鈴音は正刻を半目で睨みながらそう言った。ドジッ娘と呼ばれた事が余程腹に据えかねたようである。  
そんな鈴音を正刻は苦笑しながら宥めた。  
「分かった分かった。ドジッ娘だなんて俺も言いすぎたよ、ごめんな? だから早く帰ろうぜ?」  
 
しかし鈴音はそう言われてもまだ不満そうな顔をしている。その様子を見た正刻は内心苦笑しつつ言った。  
「ああそうかい。人の好意を無にするとは、世知辛い世の中になったもんだぜ。じゃあな、鈴音。精々びしょぬれになって、透けた下着を  
 通行人の皆様に見てもらうんだな。それじゃ……。」  
「ちょ、ちょっと待ってよ正刻!」  
鈴音は慌てて正刻を引き止める。確かにドジッ娘呼ばわりされたのには腹が立ったが、しかし正刻がいてくれたお陰で濡れて帰らずに  
済むと安心したのも確かだ。  
 
「ご、ごめんよぉ。ちょっとおふざけが過ぎたよ。だから一緒に入れてってよぉ。」  
先程の態度とは一変し、下手に出る鈴音。そんな鈴音を今度は正刻が半目で睨みながら言った。  
「何でぇ。俺と相合傘で帰ると妊娠しちまいそうだから嫌だったんじゃねぇのか?」  
ぐ、こいつめぇ、と鈴音は内心で唸る。しかしすぐに打開策を思いつき、それを実行する。  
正刻を笑顔で見つめながら、鈴音はこう言い放った。  
 
「いやね? 正刻の子供だったら産んであげても良いかなーって、そう思っ……ふがっ!?」  
 
途中まで言いかけていた鈴音の口を、正刻のアイアンクローが塞ぐ。そのまま周りの様子を伺い、誰もいない事を確認すると、  
正刻は手を外しつつ深い溜息をつきながら言った。  
「頼むよ鈴音……。冗談はもうちょっと吟味してから言ってくれよ……。」  
その言葉に、それほど冗談って訳じゃあないんだけどね、と心の中で呟いた鈴音は、しかし表情には出さず、いつもの猫のような笑みを  
浮かべて言った。  
「じゃあ漫才はいい加減これぐらいにしといてさ、早く帰ろうよ正刻!」  
「了解。それじゃあ行こうか、鈴音!」  
そう言うと正刻は傘を広げた。そして鈴音は彼にそっと寄り添い、昇降口を後にした。  
 
 
二人は他愛無い会話をしながら歩く。そんな中、鈴音はふと昔の事を思い出した。  
(そういえば……あの時も相合傘で帰ったんだよねぇ……。)  
思い出したのは、中一の頃のとある一日の記憶。まだ自分が周囲を拒絶していた時の出来事。  
鈴音は正刻の横顔をちらりと見た。  
(こいつは覚えているかな……。あ、でも覚えていたらそれはそれでちょっと恥ずかしいかもなぁ……。)  
そんな風に考えていた鈴音に、不意に正刻が声をかけた。  
 
「そういやさぁ、鈴音。」  
「う、うん? 何さ正刻?」  
ちょうど正刻絡みの事を考えていた時にその本人から声をかけられたので、鈴音の心臓は跳ね上がった。何とかそれを態度に出さずには  
済んだが。  
「いやさ、昔もこうやって相合傘で帰ったことがあったなぁって、そう思ってさ。」  
にっと笑いながらそう言う正刻。鈴音はその笑顔を見ながら、嬉しさがこみ上げてくるのが分かった。  
「覚えてて、くれたんだ……。」  
 
ぽつり、と呟く鈴音に、笑顔を少し意地の悪いものに変えた正刻が言った。  
「そりゃあそうさ。あんなにツンツンされたり泣かれたりしたら、嫌でも忘れられないっつーの。」  
そう言われた鈴音は、かあっと顔を赤らめる。  
「む、昔の事は言わないでよおっ! 恥ずかしいじゃないかあっ!!」  
そう抗議してくる鈴音に、笑いながら正刻は答える。  
「いやいや、そういう訳にはいかないさ。何たって、俺とお前の大切な思い出の一ページだからなぁ。忘れるだなんて、そんな薄情な  
 事をするわけにはいかないだろう?」  
「キミ絶対にボクをからかうネタとして覚えてるだろ!? 思い出の一ページだなんて、白々しいにも程があるよ!!」  
そう言い合いながら、それでも二人は当時に想いを馳せていった。  
 
それは正刻が鈴音に初めて話しかけてから暫く経ってからの事だった。  
ちなみにその間、正刻はちょくちょく鈴音に話しかけるようになっていた。  
鈴音は相変わらず冷たい態度を取っていたが、段々と正刻と話す時間が増えていっており、そしてそれは彼女自身も自覚していた。  
だが、鈴音自身はその事を少し苦々しく思っていた。  
自分は誰とも関わりたくないのに、ずけずけと自分に関わってくる男。  
それなのに、それを拒みきれない自分。  
 
実際、正刻の話は鈴音にとっても大変面白いものであった。  
同じ本を愛する者同士、とても話が合ったのである。  
 
だからこそ、鈴音は正刻と話すことに楽しさを覚え始めている自分と、そうさせている原因である正刻を少し苦々しく思い、そして少し  
だけ……恐れていた。  
 
このまま他人と馴れ合うようになってしまったら、自分は、自らが忌み嫌っている周りの連中と同じ存在になってしまうのではないか。  
少し目立つだけで他人を迫害する、そんな連中の一人となってしまうのではないか、と。  
 
そんな恐れと、正刻と話すことの楽しさとの間で鈴音が苦悩していた時、それは起こった。  
それは、やはり六月のとある放課後であった。やはり今回と同じように鈴音は傘を忘れてしまい、昇降口で雨が止むのを待っていた。  
「…………。」  
無表情で降りしきる雨を眺める鈴音。周りの生徒達は次々と傘を広げていき、また傘を忘れた者は友人の傘に入れてもらっていた。  
しかし、鈴音のことを傘に入れようとする者は一人もいなかった。  
 
降りしきる雨は、一向に止む気配を見せない。やがて鈴音は小さく息を吐き、雨の中を帰るべく歩き出そうとした。  
 
しかし。  
 
むんず、と肩を掴まれた。驚いて振り返ると、そこには仏頂面をした正刻がいた。  
「……おい。傘も差さずに行くのはやめろよ。風邪引いちまうぞ。」  
「……うるさいな。別にいいだろ。」  
正刻の呼びかけに、鈴音も無愛想に返す。それを見た正刻は、深い溜息をつくと鈴音の肩を掴んだ手を離しながら言った。  
「大神、お前、傘はどうしたんだよ。忘れちまったのか?」  
「……キミには関係無い事だろ。ほっといてよ。」  
相変わらず冷たく言う鈴音に、正刻は今度は苦笑を浮かべながら言った。  
 
「忘れちまったんなら、俺の傘に入っていけよ。送っていくぜ?」  
その正刻の申し出に、鈴音は思わずまじまじと正刻の顔を見つめてしまった。  
自分はコイツに冷たい態度を取り続けているのに、どうしてコイツは自分を気にかけてくれるのだろう?  
彼の目は、心底自分を心配している目だ。  
その瞳に、また引き込まれていきそうになり─────  
 
─────しかしその寸前で、鈴音は踏みとどまった。そして引き込まれそうになった事を打ち消すかのように、正刻に冷たい言葉を  
投げつける。  
「……そうやって、偽善者ぶるのはやめて欲しいな。何様のつもりだい? いつも一人でいる可哀想なクラスメイトに優しく手を差し伸べ  
 て、それで満足かい? 悪いけどボクは、君の自己満足のための道具になるつもりはこれっぽっちも無いから。」  
だから放っておいてくれ、そう言って鈴音は再び外へと向かおうとする。  
 
(……これだけ言えばもう十分だろう。)  
鈴音はそう、心の中で呟いた。これで彼が自分に関わってくることは、もう二度と無いだろう。  
これでもう、彼に煩わされる事は無い。これでもう……彼と楽しく本の話をすることも、無い。  
そう思った瞬間、鈴音の胸は荒れ狂った。怒り、悲しみ、嘆き、絶望……。自分でも何故そんなに感じるか理解不能な程の負の感情が  
鈴音の全身を駆け巡った。  
(……いいんだ! これでいいんだ!!)  
鈴音はぎゅっと目をつぶり、雨の降りしきる外へと駆け出そうとした。  
 
しかし。  
 
「……おい。だから待てってば。人の話はちゃんと聞けよ。」  
呆れたような彼の声。そして、とても温かい手が自分の手を握っているのに気づく。  
(……ああ、温かいなぁ……)  
鈴音は自然と、そう思った。そのまま彼へと振り返る。  
彼は先程の自分の言葉など聞いていなかったかのような顔で、こちらを静かに見つめていた。  
 
「……あのな? 俺の傘に入っていけってのは、俺の方にも事情があるからそう言っているんだぞ?」  
正刻は鈴音の目を見ながらそう言った。鈴音は黙って聞いている。  
「お前、今日図書館で本を何冊か借りたろう?」  
まぁ確かに、と鈴音は心の内で呟いた。それと同時に、それが何の関係があるのかという疑問もわいたが。  
その疑問に答えるように正刻は話し続けた。  
「お前が傘も差さずに帰ったら、その本達までずぶ濡れになっちまうだろう? だから俺の傘に入っていけって言ってるのさ。」  
あぁ成る程そういうことか、と鈴音は納得した。  
しかし。  
 
(……嘘つくのが下手だなぁ……コイツ……。)  
鈴音は正刻の顔を見ながらそう思った。いや、嘘というのは少し違うかもしれない。多分、正刻が本を濡らしたくないという気持ち  
は本当ではあるのだろう。  
だが、先程と同様の自分を心配している顔で言われてしまっては、流石にその真意も分かってしまうというものである。  
 
しかし鈴音は、ふっと息を吐くと、くるりと身を翻し正刻に背を向けながら言った。  
「……もういいや。君と言い合う事にも疲れたし、さっさと帰りたいし。……だから、良いよ。君の傘に、入れてもらうよ。」  
その言い草に、正刻は苦笑しつつ言った。  
「素直じゃねぇなぁ全く……。ま、良いさ。さっさと行くか。」  
そう言うと正刻は傘を広げながら外へと出る。そして躊躇いがちにその後を鈴音が追う。  
この時、鈴音は気づいていなかった。先程まで自分の中で荒れ狂っていた負の感情が綺麗さっぱり消えて無くなっていたことに。  
そして、代わりにとても温かい気持ちが自分を満たしていたことに。  
 
 
「しかし君はいつも周りを拒絶してるよなぁ。そんなに人が嫌いなのか?」  
「……あぁ嫌いだね。群れなければ何も出来ず、群れれば誰かを弾圧しにかかる愚鈍な連中なんてこの世から消えてしまえば良いと、  
 本気で思っているよ。」  
「まぁなぁ。確かにそういった連中は困りモンだがなぁ。……それにしても君はいやに辛辣だな。経験者は語る、か?」  
「……想像に任せるよ。」  
相合傘で帰る二人。しかし、その会話の内容はその甘い状況とは真逆のものであった。  
 
切り込んだのは、正刻であった。以前から鈴音の周りを拒絶する態度が気になっていたため、思い切って訊いてみたのだ。  
もちろん拒否されればそれ以上は訊かないつもりであったが、しかし鈴音が何故か比較的素直に応じたため、会話を続けていたのだ。  
表面上は何気なく、しかし実際には全神経を集中させ、彼女を気遣いながら、正刻は鈴音との会話を続けた。  
 
「……まぁ、誰とでも仲良くしろとは言わないが、でもあまりにも周りを切り捨てすぎるのもどうかと思うぞ。」  
正刻が少し心配の色を込めた声で鈴音に言った。しかし鈴音はその意見をあっさりと却下する。  
「別に構いやしないよ。愚鈍な連中なんぞと仲良くやるなんて、こっちから願い下げだね。ボクは一人でも十分やっていけるさ。」  
鈴音は自信有りげに鼻を鳴らしながら言った。だが。  
 
「……人はさ、一人じゃあ生きてはいけないぜ。……絶対に、な。」  
今までとは違った静かな、そして重い声に鈴音は驚き、正刻を見た。  
彼の瞳には、鈴音が初めて見る色が浮かんでいた。彼女はその色を読み取ろうとしたが、それよりも早く正刻は普段の雰囲気を取り戻し、  
笑いかけながら鈴音に言った。  
「だから、さ。少なくても良いから信頼できる友達作れよ、な?」  
鈴音は少し正刻の顔を見つめていたが、やがてぽつり、と呟いた。  
「……もう、遅いよ。今までずっとあんな態度で過ごしてきたんだ。今更友達になってくれる人なんていやしないさ。それに、仮に友達  
 になったからって、その人がボクを裏切らないとは……言えないしね。」  
 
そう言うと鈴音は黙り込んだ。正刻も何も言わず、黙って歩を進める。  
(それにしてもボクは……随分と色々なことを喋っちゃってるなぁ。)  
鈴音は歩きながら今まで交わした会話を思い返し、そう思った。  
今まで自分が考え、胸に秘めていた想いを、何故か正刻には素直に話してしまっていた。  
(……本当、不思議な奴。)  
そう思って、鈴音は正刻を横目で見た。彼は何か考えているようで、眉間に皺をよせている。  
 
と、正刻はその表情を変え、くくっと笑った。  
「? ……何だい? 何がおかしいんだい?」  
「いや。君は案外臆病なんだなって思ってさ。」  
正刻に問いかけた鈴音は、その答えを聞き、かあっと頭に血が上るのが分かった。  
 
「何だと!? もう一回言ってみなよ!! 誰が臆病だって!?」  
しかし正刻は鈴音に怒りを向けられても冷静だった。ひょい、と肩を竦めて言う。  
「まぁ落ち着けよ。大体、そんなに反応しちゃあ自分で認めているようなもんだぞ?」  
「うるさい!! 何だよ君は!! 君に何が分かるというんだ!! 何も知らない他人のくせに、偉そうな口を利くな!!」  
鈴音は激情を迸らせ、それをそのまま正刻にぶつける。  
正刻は無言でそれを受け止めた。そして、鈴音が想いを全て吐き出したのを見計らうと、ゆっくりと鈴音の方へ顔を向け、彼女の目を見つめた。  
鈴音はその静かな圧力に、思わず気圧されてしまう。  
 
「……大神。俺は確かにお前とは何の関係も無い、只の他人だ。……だがな? だからこそ分かることもある。俺はさっき君を臆病だと言ったが、  
 何の根拠も無しに言ったんじゃあない。」  
正刻の口調は軽めだったが、その目は真剣そのもので、正刻が軽い気持ちで言っているのではないことを鈴音に理解させた。  
 
「今までひどい態度でいたから友達など出来ないと言ったな? だが君は、その態度を改めようと思ったことはあるか? ただ単に、そうする    
 のがみっともないと、そう思ったんじゃないのか? それに友達が裏切るかもしれないというが、そうなった場合、自分に原因があるかも、  
 とは思わないのか? そういったことを全て踏まえた上で、俺は君を、臆病だと言ったのさ。」  
鈴音は正刻の言葉を黙って聞いていた。正刻が言ったことは、実は全て的を得ていた。鈴音自身も、そう思うことはあったのだ。  
だが今までは、その思いを気の迷いだと切り捨てていた。そう、今までは。  
 
だが今、そのことを初めて他人から指摘され、鈴音は揺らいでいた。そして、本音が彼女の口から漏れ出す。  
「……確かに君の言うとおりかもしれない……。だけど……怖いんだ。やっぱり怖いんだよ。君は臆病だと笑うだろうけど、でもやっぱり  
 ……拒絶されるのが……怖いんだよぉ……。」  
鈴音の目から、涙が溢れ出た。  
 
ずっと抱えてきた想い。冷たい態度の下に隠されてきた、本当の想い。  
他人を切り捨てるのではなく、他人と関わりたい。仲良くなりたい。  
だけど一度傷つけられたから、再び傷つけられないように固い鎧を纏わねばならなくて。  
そのお陰で傷つかずに済むようになったけれど、でも自分の望みからはどんどん離れていって。  
でも再び傷つけられるのが怖いから、自分から鎧を脱ぐことは出来なくて。  
いつの間にか自分の本当の想いを隠し、鎧を纏った理由を忘れ、鎧を纏うこと自体を目的にすりかえて。  
どこかでそのことに気づいていたけれど、自分ではどうしようも出来なくて。  
……だから、自分は待っていたのかもしれない。この鎧を砕いてくれる人が現れるのを……。  
 
ぐじゃぐじゃになった頭でそんな事を考えながら、鈴音は泣きじゃくった。  
と、ぽん、と頭に手を乗せられた。  
「……誰が笑うもんかよ。」  
その優しい声に、鈴音は正刻を見た。正刻は、優しい笑顔を浮かべながら鈴音の頭を撫で、言った。  
「偉そうなこと言ったけどな、俺だって同じ立場だったら絶対に怖ぇよ。間違いなく怖ぇよ。だから、そのことは恥ずかしいことでも何で  
 ない。むしろ……見直したよ。」  
正刻のその言葉に、鈴音は不思議そうな目を向ける。  
 
「君は、自分の素直な気持ちをちゃんと口に出した。言葉に出来た。凄いと思うよ。尊敬する。」  
鈴音はその言葉を聞いて、少し苦笑気味に笑った。  
「……何だい君は。人の事を貶したり褒めたり……。ボク、どういう反応すれば良いか分からないじゃないか。」  
確かに、と鈴音に同意して小さく笑うと、正刻は言った。  
「それで、な? お詫びといってはなんだが、俺に友達になってくれそうな人を紹介させてくれ。実は二人ばかり心当たりがあるんだ。」  
「……二人? それってひょっとして……。」  
「ああそうさ。俺の幼馴染、宮原唯衣と舞衣さ。あの二人なら大丈夫。必ず君の友達になってくれる。……実は、あの二人はずっと君  
 のことを心配していたんだぜ? で、何かあったら力になるからって言ってくれてたのさ。」  
「……ボクのことを……そんなに……。」  
 
鈴音は胸が熱くなるのを感じた。実は宮原姉妹は、彼女に挨拶をしてくれたり、話しかけたりしてくれていたのである。  
だが鈴音はそれも冷たく切り捨てていた。だから、彼女らが自分を気にかけてくれていたことを知り、感謝の気持ちで胸が一杯になった  
のである。  
そんな鈴音を見ながら正刻は言った。  
「あの二人と仲良くなれたら、少しづつ友達増やしていこうぜ。な?」  
そう言ってウィンクをしてくる。それを見ながら、鈴音はふと思いついた疑問を口にした。  
 
「……君は……。」  
「うん?」  
「君はボクの友達に……なってはくれないの……?」  
そう言った後、鈴音ははっとし、急速に顔を赤らめた。  
(な、何を言ってるんだボクは!? こ、こんな恥ずかしいことを何で……!!)  
ちらりと正刻を見ると、驚いた顔をして固まっている。鈴音は慌てて弁解をした。  
「い、いや高村! こ、これはその、あの……!」  
しかし気が動転して上手く喋れない。そうしている内に、硬直から回復した正刻が口を開いた。  
 
「驚いたなぁ……。」  
その言葉に鈴音は身を竦ませる。しかし、その後に続いた言葉は鈴音の予想を超えたものだった。  
「俺はとっくの昔に……それこそ君と初めて会話した、あの時から友達のつもりだったんだが……。」  
その言葉に、鈴音は驚いて正刻の顔を見ようとした。  
しかし彼は俯き、鈴音から顔を背けてしまった。  
「ちょ、ちょっと高村……。」  
「そうかぁ……。友達だと思ってたのは俺だけだったかぁ……。悲しいなぁ……。大体友達じゃなかったら、ここまで親身になって君の  
 ことを考えたりしないしねぇよ……。あぁ世知辛いなぁ……。切ないなぁ……。」  
その正刻の様子に、鈴音は慌ててフォローに入る。  
「そ、そんなことないよ! ボ、ボクだってずっと君のことを友達だと思ってた……というか思いたかったさ! 君と本のことについて話す  
 時は、凄く楽しかった! もっとキミと話したいって、そう思った!! だけど、それを認めるのが怖くて、ボクは! ……って、おい、  
 高村?」  
 
そこまで話して鈴音は正刻の異変に気がついた。  
自分から顔を背けている彼の肩が、小刻みに揺れているのである。  
泣いているのかと一瞬思ったが、微かに聞こえてくる彼の声が、そうではない事を示していた。  
その事に気づいた鈴音は、急激に不機嫌な顔をすると、同じく不機嫌な声で言った。  
「おい高村。こっち向きなよ。」  
しかし正刻はいやいやをするように頭を振って振り向かない。業を煮やした鈴音は、彼の頭を掴むと強引に自分の方へと振り向かせた。  
その顔を見て、鈴音の顔が凶悪な相を帯びた。  
 
正刻は泣いていた。しかし悲しみのためではない。思いっきり笑いすぎて、その所為で泣いていたのだ。  
「何っっっなんだいキミはッ!! あんだけ感動的な話をしといてこんな事してッ!!」  
「いやすまんすまん。まさかこんなに綺麗に引っかかるとは思わなかったから……! くくっ……腹痛ぇっ……!」  
「キ、キミという奴は……! もういい!キミとなんか友達になるもんか! もうこの場で絶交してやる絶交!!」  
「おいおい勘弁してくれよ大神さん。そんな事されたら、俺寂しくって死んじゃうじゃないか。許しておくれよぅ。」  
「今更何だい!! 土下座したって許してやるもんかッ!!」  
 
正刻が許しを請い、鈴音がそれを突っぱねる。しかしその様子は、学校を出た直後とは違い、仲の良い友人同士がじゃれあっているようであった。  
そして、その事に気をとられていた二人は、一人の少女がすぐ傍まで来ていたことに気づかなかった。  
「二人とも、凄く仲が良いんですね……。」  
少女が笑顔と共に、そう話しかけるまでは。  
 
 
「いやー、良い思い出だよなぁ。」  
「どこが……! 本当、昔っからキミは最悪な所があるよね、本当に!」  
あっはっは、と笑う正刻に、鈴音が猛然とツッこむ。  
しかし二人の距離は、四年前と比べて遥かに縮まっていた。  
そう、仲の良い友達というより、むしろ……。  
と、その時正刻が口を開いた。  
「……うん? おやまぁ、こんな所まであの時と一緒か。」  
「え? 何のこと?……って、そっか、確かにそうだねぇ。」  
正刻の言葉に首を傾げた鈴音だが、正刻の目線を追って、その先にいた人物を見つけるとそう言った。  
 
二人の前には一人の少女が立っていた。正刻は少女に声をかけた。  
「よっ! 久しぶりだな朱音ちゃん!」  
「ご無沙汰してます、正刻さん。」  
そう言って少女はぺこり、と頭を下げた。  
 
少女の名は大神 朱音(おおがみ あかね)。鈴音の妹であり、香月の同級生にして親友である。  
姉と同じさらさらとした髪を、一本のおさげにして背中に垂らしており、やはり姉と同じように眼鏡をかけていた。  
ただし雰囲気は大分異なる。鈴音が活動的な眼鏡っ娘だとするならば、朱音は落ちついた雰囲気を醸し出しており、典型的な文学少女的な  
眼鏡っ娘と言えた。実際彼女は図書委員を務めており、進学希望先も正刻達の学校であるのだが、その理由も当然図書館目当てである。  
 
「で、どうしたのさ朱音? こんな所まで。」  
そう問う鈴音に朱音は苦笑を返した。  
「何言ってるのよお姉ちゃん。お姉ちゃんが傘忘れていったから、困ってるだろうと思って迎えにきたんじゃない。メールだってちゃんと  
 送ったんだよ? 返信が無かったから来ちゃったけど。」  
そう言われた鈴音は慌てて自分の携帯電話をチェックした。確かにメールが届いている。  
「流石だぜ鈴音! やっぱりドジっ娘はやることが違うな!」  
「あ、あうう……。」  
正刻の嫌味にも、鈴音は頭を抱えることしか出来なかった。  
 
「じゃあ俺はここで。二人とも気をつけて帰れよ。」  
「分かってるよ。キミこそ気をつけなよ。」  
「お姉ちゃんを送ってくれて、本当に有難うございます正刻さん。またうちに遊びに来て下さい。美味しいお菓子を作って待ってますから。」  
朱音の言葉に、そいつは楽しみ、と笑顔を浮かべた正刻は、二人に再度別れを告げ、自分の家へと歩きだした。  
 
二人は正刻の背中が小さくなるまで見送っていたが、やがて朱音が囁くように言った。  
「ねぇ、お姉ちゃん。」  
「うん? 何だい朱音?」  
「私……邪魔しちゃったかな?」  
妹にそんなことを言われた鈴音は慌ててしまう。  
「な、何を言ってるのかなキミは!? お姉ちゃんをからかうもんじゃないよ!?」  
そんな姉の様子を笑顔で見ていた朱音は、更に言った。  
「えー、だって二人とも、まるで恋人同士みたいだったよ?」  
鈴音の顔はもう真っ赤だ。妹に言われて恥ずかしい気持ちと、正刻とそんな風に見られて満更でもない気持ちがごちゃまぜになってしまって  
いる。  
 
そのまま真っ赤になった姉を笑顔で見ていた朱音は、しかしちょっと意地の悪い笑顔になって言った。  
「でもお姉ちゃん、もっとチャンスを生かさなくっちゃ駄目だよー。ライバルは多いし皆強力なんだから。まだまだ増えるかもしれないしね。」  
その言葉に鈴音も苦笑する。  
「はいはい、分かっているよ。でもこれ以上増えるのは勘弁してもらいたいなぁ。」  
「そうは言っても仕方ないでしょ。……案外、すぐ近くにライバル候補がいるかもよ?」  
そう言って朱音は小悪魔的な笑みを浮かべる。  
その笑みを見た鈴音は、厭な予感が背筋を走り抜けるのを感じた。  
「あ、朱音。まさかとは思うけど、もしかしてキミも……?」  
「さぁ、何のことかな? それよりお姉ちゃん、早く帰ろうよ!」  
そして朱音は雨の中走り出す。鈴音も慌ててその後を追って行った。  
 
 
この後、小悪魔の笑みを浮かべた朱音に色々からかわれたり翻弄されたりして鈴音がぐったりしたり、今度は正刻が傘を忘れて鈴音の傘に  
入れてもらうことになってしまい、ここぞとばかりに鈴音に散々「ドジドジ」と連呼されて正刻はぐったりしてしまったが、それはまた  
別のお話。  
 
 
 

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