六月も半ばを過ぎたある日の夜。正刻は宮原家のリビングにいた。
しかしいつもは我が家のようにくつろいでいるその場所で、彼は非常に緊張し、小さくなっていた。
その原因は、テーブルの上に並べられた実力テストの成績であった。
向かいには慎吾と亜衣が座り、両脇は唯衣と舞衣に固められるという状態の中、正刻は家長である慎吾の言葉を待った。
やがて、ふむぅと一言呟くと、慎吾は正刻に言った。
「……しかし、君は相変わらず極端な成績を取るねぇ、正刻君……。」
その言葉に正刻は首をすくめて、小さな声で済みません、と呟いた。
その様子に慎吾は思わず笑った。
「いや、そんなに小さくならなくてもいいよ。トータルで見ればそれなりの成績だしね。ただ……ねぇ?」
そう言って慎吾は隣に座る亜衣に問いかけた。亜衣も苦笑しながら答えた。
「そうねぇ……。確かにトータルで見れば良いけど、それでもここまで教科によって上下がはっきりしてると……ねぇ。」
慎吾も亜衣も揃って苦笑する。それほど正刻の成績にはばらつきがあった。
正刻は得意科目は校内でもトップクラスなのだが、反対に苦手科目は赤点を取ってしまう程に駄目だった。
具体的に言うと、国語全般、英語、社会全般は得意だし好きなのだが、数学、理科系は壊滅的に苦手で嫌いだった。
一年生三学期の期末テストにおいては国語系・英語で学年トップを取ったにも関わらず、数学・理科系が軒並み赤点という、ある意味
偉業を成し遂げてしまった。
その時、数学や理科の教師達から「お前は俺たちの事がそんなに嫌いか!?」と説教されたりしたのも伝説となっている。
その教訓を踏まえ、二年一学期の中間テストでは何とか頑張り赤点を回避することに成功した。
しかし、つい先日行なわれた期末テストへの腕試しともいえる実力テストで、彼はまたやってしまった。
そのため、今宮原家で彼は小さくなっているのである。
「まぁ、君の保護者代わりである僕らに言わせると、苦手な科目があるのは仕方ないけど、せめて赤点は回避して欲しいという所かな?」
「そうね。それに期末テストで赤点取っちゃったら、夏休みは補習三昧になっちゃうでしょ? そうしたら、毎年行っている旅行にも
いけなくなっちゃうわよ? 他にも色々イベントがあるのに、全然楽しめなくなっちゃうわよ?」
慎吾と亜衣は、正刻にそう言った。
ちなみに亜衣が言っている旅行であるが、正刻と宮原家、更に場合によっては親しい人々……鈴音や佐伯姉妹や、その他の友人達……と
一緒に慎吾や兵馬の知り合いが経営している海沿いの温泉旅館へ行くものである。これは皆が楽しみにしているものであり、それは正刻
も同様であった。
「そうですね……。確かにこのままじゃ不味いですものね……。俺、必ず赤点だけは回避してみせますよ!!」
うな垂れていた顔を上げ、決然と言う正刻。すると、横からにゅっと腕が伸びてきて、正刻を抱きかかえた。
「流石は正刻だ。それでこそ私が愛した男! 愛い奴めそらそら!」
そう言って正刻を抱きしめるのはもちろん舞衣である。正刻を横から抱き、その頭を自らのたわわな胸に埋めろように抱え込む。
「ちょ、ちょっと! 恥ずかしい真似は止めなさいよ舞衣!!」
すると当然唯衣は過激に反応し、舞衣の腕をほどいて正刻を救出する。正刻の顔は、息苦しさと恥ずかしさと気持ちよさで真っ赤であった。
「……何よその顔は。あんた、まさかあのまま舞衣の胸に埋もれていたかった、なんて言うんじゃないでしょうねぇ? ええ?」
怖い笑顔を浮かべながら正刻に詰め寄る唯衣。正刻は気持ちよかったという負い目があるため気まずそうに目を逸らすことしか出来ない。
と、そんな状況を制するように亜衣が言った。
「だけど正刻君。あなた一人で勉強大丈夫なの?」
「う……。そ、そこは何とか気合と根性で……。」
「あんたねぇ……。気合と根性で何とかなるなら、そもそもこんな状態に陥ったりしないでしょうが……。」
亜衣の心配に精神論で応えようとした正刻であったが、唯衣に冷静につっこまれて沈黙してしまう。
そんな正刻を見ていた宮原姉妹は、顔を見合わせるとやれやれといった風に笑った。
「何、心配は無用だ母さん、正刻。テストまで私と唯衣、それに鈴音で正刻にみっちりと勉強を教えてやるさ。」
「ま、舞衣と鈴音がいるなら私の出番は無さそうだけどね。この際だから、あんたと一緒に私もテスト勉強をするわ。一人で集中砲火を
浴びるよりは、仲間がいた方が気が楽でしょ? ね?」
そうして二人は正刻に笑いかける。正刻はしばらくその笑顔を見つめていたが、やがてぺこり、と頭を下げた。
「二人とも、本当に有難うな。恩にきるぜ!」
「何水臭いこと言ってんのよ。困った時はお互い様、私たちの間じゃ当たり前のことでしょ?」
正刻の頭をぽん、と軽く叩きながら唯衣は言った。それに舞衣が続く。
「まったくだ。それに、君が旅行に来れなかったら私も唯衣も悲しいしな。私たち自身のためでもあるのだから気にするな。」
「ちょ、ちょっと舞衣! 私は正刻が来なくたって、別に……!」
「ふぅん? 本当か? ほんっっとーに来なくても良いのか? んん?」
「むぐぅ……そ、それは……っ!!」
顔を赤くしながら悔しそうな顔をする唯衣。それを楽しげに見ながら舞衣は再度正刻に抱きつこうとした。
しかし、彼はそれをするりとかわすとリビングの出口へと歩いていった。
「それじゃあおじさん、亜衣さん、俺は今夜はこれで帰ります。おやすみなさい。」
「何だい正刻君。せっかくだからこのまま泊まっていけば良いのに。」
慎吾にそう誘われた正刻であったが、苦笑しながらそれを断った。
「済みません。でも、おそらく明日あたりから徹底的にしごかれてしまうでしょうから、今夜は自分の布団でゆっくり眠りたいんですよ。」
そう慎吾に言った正刻は、宮原姉妹に顔を向ける。
「それじゃあ唯衣、舞衣! 明日からよろしくな!」
にっと笑ってそう言うと、正刻は家へと帰っていった。
「……さて、では私も明日からの対正刻用の勉強計画でも練っておくか。」
そう呟いて立ち上がる舞衣。その動作に何を感じたのか、唯衣は妹の肩にぽん、と手を置いて言った。
「……先に釘を刺しておくけど、正刻と二人きりで勉強をする時間を作ろうとしないでよ? というか、あんたはその時間で勉強以外の事
をする気満々なんでしょうけどね。でも、絶対にそれは阻止させてもらうから。」
思わず唯衣の顔を見る舞衣。唯衣は妹を笑顔で見つめている。しばらく見つめあっていた姉妹だが、やがて舞衣が先に目を逸らし、深々と
溜息をついた。
「全く……お前には敵わないな。分かったよ。テスト勉強中はそこまで正刻にアプローチはかけないよ。日々のスキンシップはさせてもら
うがな。」
「賢明な判断ね。というか、結局はそうした方が正刻のあんたへの好感度もあがると思うけどね。」
二人はそのまま話しながらリビングを出た。そして残された夫婦はというと……。
「いやー、やっぱりあの子達の絡みは面白いわねぇ! 下手な昼ドラよりよっぽどドキドキするわぁ!!」
「い、いや亜衣……。流石に自分の娘や親友の息子をダシにして楽しむってのはちょっと……。」
少し、世知辛いことになっていた。
次の日から勉強会が始まった。期末テストまでは二週間と少し。余裕は無い状況である。
舞衣が組んだ計画を元に、勉強は進んでいった。
ちなみに正刻以外の面子の成績はと言うと、舞衣は各教科ともに死角は無い。トップグループの常連である。
鈴音はやや国語系が弱いが、その分理数系に強く、やはりトップグループである。
唯衣はというと、特に苦手な科目は無いが、得意な科目も無い。強いていうなら現代文のみがやや強い、といったところか。
平均すると、中の上くらいの成績である。それでも正刻に数学や理科を教えるのには十分だと言えた。
そうして時間はあっという間に過ぎ、テスト開始を明後日に控えた土曜日の夕方。
高村家に宮原姉妹と鈴音が集まり、最後の追い込みが行なわれていた。
「ほら正刻! ここはこの公式を使えば……。」
「……ああ成る程! そういう事か!」
熱心に正刻に勉強を教える唯衣。その様子を舞衣と鈴音は少し羨ましそうに見ていた。
成績で唯衣より上位にある二人が正刻に勉強を教えていないのには理由があった。
舞衣も鈴音も天才肌な部分があるため、他人に上手く教える事が出来ないのである。
もちろん時間をかければ何とか教えることも出来るのだが、今回のように時間が無い場合は得策ではない。
そこで採られた方法が、一度唯衣に教え、それを唯衣が正刻に教える、または二人の言っている事を唯衣が通訳するという方法だった。
一見無駄なように見えるが、唯衣は聞き上手で話のポイントを押さえる事に長けていた。
そのため二人が直接正刻に教えるより、一度唯衣を経由した方が正刻に伝わりやすく、更には唯衣自身の勉強にもなるため一石二鳥な訳
なのである。
そんな訳で正刻に教える役を殆ど担当することになった唯衣は、熱心に正刻に勉強を教えていた。
ただ、今回はどういう訳か少し熱心過ぎるようであった。
「おい唯衣……もうぶっ通しで三時間は勉強してるぜ……。そろそろ休憩……というか晩飯にしないか? お前ら今夜は泊まっていくんだろ?
休憩がてら、腕によりをかけて美味いもの作ってやるからさ。」
深い溜息をつき、首や肩をごきり、と鳴らしながら正刻が唯衣に言った。
そう、今夜はテスト前の最後の土日ということで、三人娘は泊まりこんで正刻に勉強を教える予定なのである。
土曜の夜も、日曜の昼間もきっちりと勉強しようということなのだが。
しかし、いくら赤点を回避するためとはいえ、少々きついスケジュールではあった。
放課後は三人娘の誰かと必ず一緒に勉強させられ、部活動や委員会がテスト休みに入ってからは、高村家で連日の勉強会である。
趣味の時間はがりがり削られ、現実逃避をしたくとも女性陣がそれを許してはくれない。
故に、正刻の疲労とストレスはピークに達しようとしていた。
そんな状態の正刻が、せめてもの息抜きにと懇願した食事の準備。しかし、唯衣はすげなくそれを却下する。
「だーめ。食事は私が作るから、あんたは舞衣と鈴音と一緒に勉強してなさい。」
正刻の鼻の頭をちょん、とつついて唯衣は言った。
しかし正刻も流石にもう限界であった。唯衣に対して猛抗議をする。
「何だよ、良いじゃねーか! 大体俺はもう限界なんだよ! これ以上根をつめたらぶっ倒れちまうぜ! それでも良いってのかよこの黒い
髪をポニーテールにした悪魔め!! 略して黒ポニの悪魔って呼んでやるぜこの野郎!!」
正刻は今までの鬱憤を晴らすかのように一気にまくしたてた。それを聞いていた唯衣はこめかみをひくひくとさせていたが、正刻が疲れて
いるのも事実だと思ったのか、代替案を出してきた。
「黒ポニの悪魔って何よそれは……。まぁそれはともかく、あんたも頑張ってるのは分かってるから、今夜はあんたの好物をそろえて
あげるわ。それでどう?」
それを聞いた正刻は先程とは手のひらを返したように態度を変えた。
「……ピーマンの肉詰めも作ってくれるか?」
「もちろんいいわよ。」
「お前が作った煮物も食べたいんだが……。」
「ちょっと時間がかかっちゃうけど……いいわ、何とかしてあげる。」
唯衣が本当に自分の好物を作ってくれることが分かったせいか、正刻のストレスも幾分か緩和され、やる気が少し出てきた。
「さて、じゃあ舞衣、鈴音、悪いがもう少し付き合ってくれ。」
そう言って教科書に向かい合う正刻。
「もちろんだ。頑張ろうじゃないか正刻。」
「しかしキミは本当にお手軽だねぇ。まぁキミらしいといえばキミらしいけどねぇ。」
そんな彼を舞衣は励ましながら、鈴音は苦笑まじりで勉強を教えていった。
その後、唯衣によって用意された食事を皆で食べ終え、正刻は風呂の用意をしに行き、三人娘はそれぞれ休息をとっていた。
やがて風呂の準備を終えた正刻が女性陣に告げた。
「待たせたな、風呂が沸いたぜー。俺は一番後で良いから、お前ら入っちまえよ。」
そう言ってうーん、と伸びをし、また首や肩を鳴らす正刻。精神的には好物を食べたことで楽になったが、身体の方は疲れが
たまっているようであった。
「……よし! では久しぶりに女三人で入るとしようか! 女同士の内緒話もしたいしな。」
その様子を見た舞衣は唯衣と鈴音に言った。鈴音には、少し意味ありげな視線を向けながら。
その視線には気付かずに唯衣は首を傾げた。
「どうしたの舞衣? まぁ別に私は構わないけど……。」
「……まぁ良いんじゃない? たまにはさぁ。久しぶりにこの面子で正刻の家に泊まりに来てるんだし。じゃあ早速行こうか。」
逆に、舞衣の意図を読み取った鈴音は唯衣の腕をとって浴室へと向かおうとする。
「へぇ、お前ら三人仲良く風呂だなんて珍しいな。ま、ゆっくり入ってこいよ。」
正刻はそう言って本を読み出した。三人が入浴している僅かな時間ではあるが、趣味に当てられる時間が出来て嬉しいようである。
「……分かっているとは思うけど正刻、お風呂場には近づかないでよね。もし来たら、トラウマになるくらいの折檻をするからね。」
そんな唯衣の言葉に正刻は思わず苦笑する。
「分かってるって、んな事はしねぇよ。黒ポニの悪魔様の入浴を覗いた日には、どんな呪いをかけられるか分かったもんじゃないからな。」
「……あんた、そのフレーズよっぽど気に入ったみたいね……。私としてはその呼び名はやめて欲しいんだけど……。」
「そうか? 俺は結構合ってると思うんだがなぁ。」
本を読みながらそんなことを言ってくる正刻に、唯衣はなおも言い返そうとした。しかし。
「ほらほら。さっさと行くぞ唯衣。」
「そうだよ。ボク、早くお風呂に入りたいんだから!」
舞衣と鈴音に風呂場へとずるずると引っ張られていった。
その様子を見た正刻はくくっと笑うと、読書へと没頭していった。
高村家の浴室はかなり大きく作られている。湯船も大人が数人入っても余裕があるくらいの大きさだ。
その湯船に浸かって浴槽の縁に背を預け、両腕を乗せながら舞衣が言った。
「……さて、と。では正刻とも離れたことだし、本題を話すとしようか。」
ちなみにFカップに達する胸は惜しげもなくさらされ、ぷかぷかと湯に浮いている。
その様子を同じく湯船に浸かって羨むように、恨めしそうに見ていた唯衣(Cカップ)と鈴音(Bカップ)は、その言葉に我を取り戻し、
視線を舞衣の胸から顔に移動させた。
「……唯衣、お前、少しやり過ぎだ。これじゃあ正刻は試験前に調子を崩して結局赤点を取ってしまうぞ。」
「唯衣、悪いけどボクも舞衣と同意見だよ。熱心なのは良いことだけど、今回はちょっと熱くなり過ぎだよ。」
妹と親友に説教をされた唯衣は「うぅー……。」と唸りながら顔半分を湯に沈め、ぶくぶくぶくと水面を泡立てた。
「大体さぁ、何で今回はこんなに熱心なんだい? 何か理由があるんでしょ?」
その鈴音の問いに、唯衣は顔を若干赤らめながらも依然として泡吹きを行なって答えようとしない。
しかし、そんな抵抗も舞衣が口を開くまでの間しかもたなかった。
「何だ鈴音、分からなかったのか? 唯衣は、夏の旅行に正刻が来れなくなることが嫌で怖くて仕方がなかったんだよ。」
ぶはぁっ!!
舞衣の言葉に反応し、盛大に吹き出してしまう唯衣。舞衣の言葉が当たっているかは一目瞭然の反応と言えた。
「あぁ成る程ねぇ。だからあんなに必死になってたんだ。唯衣も可愛い所があるねぇ。」
そう言って鈴音は唯衣の頬をうりうりと人差し指でぐりぐりと押した。
されるがままになっていた唯衣であったが、いきなりざばぁっ! と立ち上がって二人を見下ろすと、怒鳴るように言った。
「な、何よっ!! 私ばっかりいじめて! 舞衣も鈴音もあいつと一緒に旅行へ行きたくないの!? あいつが来なくっても良いの!?
あいつが来ない旅行だなんて、考えたくもないわよっ!! あんた達だってそうじゃないのッ!? ええ!?」
言い終わると唯衣ははぁ、はぁと肩で息をした。舞衣も鈴音も無言であったが、やがて舞衣が言った。
「……唯衣、お前の言いたいことは分かった。だからとりあえず湯に浸かれ。丸見えだぞ。」
「うん、そうだねぇ。いくら女同士とはいえちょっと困っちゃうねぇ。」
鈴音にも言われ、唯衣は己の状態を確認する。
タオルも巻かず、湯船の中で仁王立ち。
それはつまり、胸もあそこも晒しちゃってる状態な訳で……。
「─────ッ!!!」
声にならない悲鳴を上げて、唯衣は物凄い勢いでしゃがみこむ。顔を真っ赤にして先程のように顔半分を湯に沈めた状態をとった。
そんな姉の様子に苦笑しながら舞衣は言った。
「心配するな唯衣。私もお前と同じ気持ちだよ。正刻のいない旅行なんて、これっぽっちの価値も無い。」
「もちろん、ボクだってそうさ。だけど、さ? よく考えてみなよ。正刻がボク達の期待を裏切ったことがあるかい? 自らが口に出した
誓いを、守らなかったことがあるかい?」
鈴音は優しげにそう言った。
「……無い、わよ。あいつが私たちを悲しませるような真似を……するわけがないじゃない。そんなこと、分かってるわよ。だけど……。」
「……不安、だったんだな? それも分かるよ。私だってそうだ。」
舞衣は湯の中でそっと、唯衣の手を握った。唯衣もその手を握り返す。
「だけど、もう大丈夫だよ。正刻は本当に頑張ったよ。このままなら、赤点を回避することくらい余裕さ。」
鈴音が笑顔で二人に言う。舞衣は大きく頷き、唯衣も、不承不承といった感じで頷いた。
「だけど、油断しちゃったら……。」
「ここまで来たら、あとは体調管理に気をつけた方が良いだろう。今まで何もせずにいて、一夜漬けに全てを賭けるというなら話は別だが
正刻は私たちにしごかれてちゃんと力をつけた。だから……そうだな、今夜はあいつにマッサージでもしてやって、ぐっすりと寝てもら
おう。それで明日は最後の確認をやれば良いさ。マッサージする役は、今回は唯衣に譲ってやろう。」
それでどうだ? と問う舞衣に、OK! と返事をする鈴音。
しかし自分抜きで決められていく流れに、唯衣が思わず口を挟む。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 私、正刻をマッサージしてあげるなんてまだ言ってないわよ!」
そんな唯衣をなだめるように舞衣と鈴音が言った。
「でもお前だって今までちょっとやり過ぎた、という思いはあるのだろう?」
「だったらマッサージぐらいしてあげても良いと思うけどなぁ。別に嫌だという訳じゃないんでしょ?」
「ま、まぁ確かにそうだけど……。」
今ひとつ素直にならない唯衣。それを見かねた舞衣は、挑戦的な口調でとんでもない事を言い出した。
「別に良いんだぞ? お前がやらないなら私がやるまでだ。風呂場で私自身の身体を使って、たっぷりと愛のこもったマッサージプレイを
してやろう。きっと彼も元気になってくれる筈だ。特にある一部分が、な。」
その言葉に鈴音も唯衣も仰天し、激しいツッコミを入れる。
「ちょっと舞衣! 『プレイ』って何さ『プレイ』って!! それマッサージじゃないじゃないか!! そりゃ『ある一部分』も元気になるよ!!
だけどそりゃちょっとイケナイんじゃないかなぁっ!? 大体女の子が言う台詞じゃないと思うなボクはぁっ!?」
「あ、あああああアンタはまたそんな事言ってーッ!! 恥を知りなさい恥を!! 分かったわ! そんな事をあんたがするくらいなら私が
普通にマッサージをするわよ! ええやってみせますとも!!」
勢いのあまり、自分がマッサージをすることを承諾した唯衣。それを言った瞬間に「しまった!」という思いが少しあったものの、正刻に
申し訳ない気持ちがあったのは事実なので、気持ちを切り替えて彼を癒してベストコンディションにもっていかせようと彼女は思った。
「さて、では話もまとまったことだし、さっさと上がるか。」
そう言った舞衣は微妙に残念そうな顔をしていた。アレはひょっとして本気だったのか? と、唯衣と鈴音は顔を見合わせた。
「ふいー……。いい湯だったなぁ。首や肩も少しは楽になったぜ。」
三人娘と入れ替わりに入浴し、上がってきた正刻は麦茶を飲み干しながら言った。
「さて、じゃあ夜も頑張りますかー。」
伸びをしながら言う正刻。そんな彼に、舞衣と鈴音に肘で小突かれつつ、唯衣が話しかけた。
「あ、あのね正刻……。」
「うん? 何だ?」
「う、うん。あのさ、あんた結構頑張ったからさ、舞衣と鈴音が赤点を回避するくらいならもう大丈夫だって……。」
しかし唯衣のその言葉に正刻は渋い顔をする。
「そう言ってくれるのは有難いけどな、しかし油断は禁物だしなぁ。」
「うん。もちろんそう。だけど、あんたも嫌いな教科を勉強していた所為で疲れがたまってるでしょ? だからさ、その……こ、今夜は、
わ、私……がマッサージをして、それで疲れを抜いてもらって、明日最後の見直しをしようと思うんだけど……どうかな?」
その唯衣の提案に、正刻は腕組みをして考えた。
「確かに正直言うと疲れ気味だし、首や肩も辛いが……。唯衣、お前は良いのか? 何か悪い気もするが……。」
そう答えた正刻に、唯衣は少し照れがあるせいか、まくしたてるように言った。
「い、いいの! それよりどうすんのよ! 私が折角マッサージしてあげるって言ってんのよ? まさか断ったりなんかしないでしょうね!
ええ!?」
そう言って詰め寄ってくる唯衣の迫力に押され、正刻は頷いた。
「い、いやもちろんお願いしたいぜ! お前のマッサージは気持ちよいし、効果抜群だからなぁ。よろしく頼むぜ!!」
嬉しそうに言うと、正刻は自室へと向かった。その後を追おうとした唯衣は、舞衣にがっちりと肩をつかまれた。
「な、何よ? どうしたのよ?」
「唯衣。一応釘を刺しておくが、するのはマッサージ『だけ』だからな。それ以上は……許さんぞ? というか、そんなことをしようと
しても必ず阻止させてもらうがな。」
じっと見詰め合う姉妹。やがて唯衣の方が先に目を逸らし、ふぅと溜息をついた。
「全く……。テスト勉強を始める前にはあんたに釘を刺したってのに、今度は私が釘を刺されることになるとはね……。分かってるわよ、
舞衣。大体私は変なことをするつもりはこれっぽっちも無いんだから安心しなさい。」
「だと良いがな……。ま、これ以上正刻を待たせるのも悪いか。じゃあ唯衣よ、正刻をよろしく頼むぞ。」
「舞衣はそう言ってるけどさ、たまには素直に正刻に甘えてきなよ。やり過ぎはよくないけど、ね?」
そうして二人に送り出された唯衣は廊下に出ると、頬を手でぱしん! と叩き、「よし!」と呟くと正刻の部屋へと向かった。
ノックをして部屋へと入る。正刻は既に布団を敷いて、その上に寝っ転がりながら本を読んでいた。
だが唯衣が入ってくると彼は本を枕元に置き、うつ伏せになりながら言った。
「待ってたぞ唯衣。じゃあ早速頼むぜ。」
「はいはい、今やってあげるわよ。で、どこか特に酷く辛い所はある?」
「そうだな……やっぱり首と肩かな。後はその影響で、背中も辛いや。」
「分かったわ。じゃあ力を抜いて楽にしてなさい。」
了解、と言った後、正刻は枕を抱いて目を閉じ全身を弛緩させた。唯衣はその脇に座り、正刻の肩甲骨の辺りを数回さすった後、親指に
力を込めて指圧を開始した。
「ふぅぅぅぅーっ……。はーぁぁぁぁぁあぁぁああぁ……。」
唯衣が力を込めるたびに、正刻は気持ちよさそうに声を上げる。しかしまるで頭のてっぺんから抜けるような変な声を出しているので、
唯衣は苦笑しながら注意した。
「ちょっと正刻、あんまり変な声出さないでよ。気が散るじゃない。」
「あぁすまんすまん。だが本当に気持ちよくて……ってああそこそこぉっ……!」
目を閉じたまま更に弛緩する正刻。彼は今、心も身体もかなり癒されつつあった。
しかし、対照的に唯衣の表情は沈んでいた。それは、マッサージをして正刻の身体が想像以上に疲れきっていたことが分かったからだった。
(まさか……こんなに疲れきっていたなんて……。)
唯衣が最初に指圧をした時、正刻の肩はまるで鉄板が埋め込まれているかのように硬かった。そしてそれは、他の首や背中などの箇所も
例外ではなかった。
(私が……無理させた所為だよね……。)
マッサージをしながら、唯衣は正刻に対して申し訳ない気持ちで一杯になった。その気持ちが、口をついて出る。
「……ごめんね。」
ぽつり、と呟く。それはとても小さな声だったのだが、正刻には聞こえていたようで、彼は問い返してきた。
「うん? 何がごめんなんだ?」
「あんたに無理をさせちゃってさ……。私が厳しくし過ぎたから、こんなに疲れ切っちゃったんだよね。……本当に、ごめんね。」
唯衣は沈んだ声で答えた。それを聞いた正刻は、むっくりと体を起こし、あぐらをかいて唯衣に向き直った。
そして、そのまま彼女の頭をゆっくり、優しく撫でた。
「あ……。」
「お前がそんなに気にすることじゃあねぇよ。むしろごめんなさいはこちらの方だ。俺の都合でお前たちをつき合わせちまったからな。」
「そ…そんなこと……。」
ない、と唯衣が続ける前に、正刻は次の言葉を繰り出していた。
「だけどさ。俺はどうしても、お前たちと一緒に旅行へ行きたかったんだ。いや、旅行だけじゃない。この夏の思い出を、お前たちと一緒
に作りたかったんだ。来年は受験だし、そんなに遊べねぇだろうから、な。……何かちょっと恥ずかしい物言いになっちまったけど、
でもそれが俺の正直な気持ちだ。」
唯衣の髪を優しくなぜながら、ちょっと照れたように正刻は言った。唯衣の胸が、トクン、と少し跳ね上がる。
「だから、お前はそんなに気にしなくても良いんだよ。それに、マッサージだってしてくれてるじゃねぇか。勉強を教えてもらってマッサ
−ジまでしてもらえるなんて、むしろお礼をしたいくらいだぜ。」
そう言って、にっと笑う正刻。唯衣は思わず、その笑顔に少し見入ってしまった。
と、正刻は再び枕を抱いてうつぶせになる。続きをやってくれという意思表示だろう。両足をぱたぱたとさせている。
それを見て苦笑しながら唯衣はマッサージを再開した。
「……あれ? 正刻……?」
マッサージをして少し経った時、唯衣は正刻が大人しくなっていることに気がついた。
手を離して様子を伺うと、規則正しい呼吸音が聞こえてきた。
「寝ちゃったんだ……。」
無理も無いか、と唯衣は思った。今夜はこのまま寝かせてあげよう、そう思って唯衣が立ち上がろうとした時だった。
「う……ん……。」
ごろん、と正刻は寝返りを打ち、うつぶせの状態から仰向けになった。
気持ちよさそうに眠る正刻の顔を見ているうちに、唯衣の中で、ある欲望がむくむくと頭をもたげた。
リビングの方を伺う。だが、一度抱いてしまった気持ちはそう簡単には止まらない。
構うもんか、と彼女にしては珍しく強硬な姿勢をとると、唯衣は寝ている正刻にそっと近づき囁いた。
「ねぇ正刻……。さっきあんた、お礼をしたいくらいだって言ってたよね……? そのお礼、もらっちゃっても良いかな……?」
もちろん正刻は答えない。それを確認すると、唯衣はそっと正刻に覆いかぶさるように顔を近づけた。
唇が触れ合う前に、ゆっくりと目を閉じる。そしてそのまま唯衣は、唇を重ねた。
久しぶりに感じる正刻の唇の感触は、やはり気持ち良かった。
前の時は彼が風邪を引いて熱があったせいかひどく熱く感じられたが、今は心地よい温かさであった。
二度、三度とついばむようにキスをする唯衣。
やがて満足したのか、身を起こした。
そっと手を唇に触れさせる。自然と笑みがこぼれた。
「えへへ……。またやっちゃった……。」
幸せそうに微笑む唯衣。彼女は愛おしげに正刻の髪を撫でたると、彼を起こさぬようにそっと立ち上がり、リビングへと戻っていった。
この後、唯衣は舞衣と鈴音に「貸し一つだ。」と宣告されて慌ててしまったり、日曜には差し入れに来た佐伯姉妹を交えて再び勉強会
が行なわれたり、今までのしごきの成果を発揮して、正刻は見事赤点を回避し夏休みを迎えることとなるのだが、それはまた別のお話。