「っきしょー、寒くて仕方ねぇな……。」  
そう言って正刻は布団をかぶり直した。  
 
今は平日の午前中。本来なら学校へと行かねばならないのだが、風邪の症状があまりにもひどいため、流石に学校を休んでいるのだ。  
熱は38度を超えており、汗を異常にかいているのに寒くてたまらない。薬は飲んだがまだ効いてきてはいないようだ。  
 
「ったく……。こんなにひどく体調を崩したのはいつ以来だっけな……。」  
熱で朦朧とした頭でそんなことを考える。正刻は元々体が丈夫な上に、体調管理をしっかりしていたために体調を崩すことは殆ど無かった  
のだが、それ故に一度寝込むと悪化してしまうことが多かった。  
 
「とにかく早く寝て回復しないと……。あいつらが心配しちまうからな……。」  
そう言うと正刻は苦笑を浮かべた。  
唯衣と舞衣には学校を休む旨をメールで伝えたのだが、二人とも心配して学校を休んで看病すると言い出したのだ。  
「一応は腐れ縁の幼馴染だしね。あんたの世話を出来るのは私ぐらいのものだし……。それに、あんたが早く良くならないと、図書館の業務  
 にも支障が出るでしょ? 言っとくけど、仕方なくだからね、仕方なく!!」  
「君以上に大切なものなど私には存在しない! だから看病させてくれ! どうせこのままでは勉強など手がつかないし……。今すぐそちらへ  
 行って私の肌で暖めてやろう!」  
 
そう電話を寄こした二人に、気持ちは嬉しいが学校はサボるな、学校が終わったら看病に来てくれと正刻は伝えた。  
二人とも大層不満そうではあったが、正刻の説得に不承不承といった様子で了解し、学校が終わったらすぐに来ると約束して電話を切った。  
 
「全く、ありがたいんだか迷惑なんだかな……。」  
そう言って少し笑うと、正刻はやがて眠りに落ちていった。  
 
 
 
目を覚ますと、両親がいた。  
自分はいつの間にか制服に着替えており、テーブルについていた。向かいには父が座っており、新聞を読んでいた。  
と、横から料理を出す手が伸びた。見ると、母が料理を作り、運んでいる。目が合うと、母は優しく微笑んだ。  
やがて料理が全て並び、皆で朝食をとった。他愛無い会話。どこにでもあるであろう日常的な光景。  
 
ああ、幸せだ。  
 
正刻はそう思った。そして同時に理解した。これは夢だと。もう自分が手にすることの出来ない、幸せな夢だと。  
 
夢でも良い。少しでも長くこの幸せを感じていたい。  
しかし、それも長くは続かない。  
やがて朝食が終わると、父と母は立ち上がり、玄関へと歩いていく。  
それなのに自分は椅子から立ち上がることが出来ない。出来るのは、ただ手を伸ばすことのみ。  
 
待ってよ。俺を置いていかないでよ。もう一人ぼっちは嫌なんだよ。一緒にいてよ。一緒に連れてってよ……!  
 
懸命に手を伸ばす。しかし届かない。やがて両親はどんどん小さくなって、見えなくなっていき……。  
 
「父さん! 母さんッ!!」  
喉を嗄らして叫ぶ。それと共に、どこからか、声も聞こえる。何だ? 誰だ? 邪魔するな、俺は今父さんと母さんを……!  
 
 
「正刻! しっかりして正刻っ!!」  
はっ、と正刻は目を覚ました。心配そうな顔をした唯衣がこちらを見下ろしている。見慣れた自分の部屋。時計を見ると、午後4時少し前だった。  
「大丈夫? 凄くうなされてたけど……。」  
そう聞いてくる唯衣に大丈夫だと答えて、正刻は深く溜息をついた。朝に比べれば体調はまだマシだったが、悪寒は収まっておらず、回復したとは  
言えない状態であった。  
 
「そういや舞衣はどうした?」  
正刻は唯衣に尋ねた。朝の様子なら、授業が終わった瞬間に飛び出していそうなものだったが……。  
「うん、生徒会でどうしても外せない用事が出来ちゃってね。あの子はサボろうとしたんだけど、そんなことしたら正刻が怒るって言って説得したの。」  
「そっか……。ありがとうな唯衣。でも、お前も部活が……。」  
「私の方は大丈夫。部長からちゃんと許可をもらってるから。」  
「そっか……。すまないな、本当に……。」  
 
そう言うと正刻は額の汗をぬぐった。汗をひどくかいている。正直気持ち悪かった。  
「唯衣、悪いが着替えをとってくれないか?」  
「うん、分かった。……はい、これで良い?」  
そう言って唯衣は着替えを差し出した。ご丁寧にトランクスまで用意してある。  
宮原姉妹は正刻の家に来て掃除や洗濯の手伝いをよくしていたので、この家のどこに何があるのかは大体把握しているのだ。  
 
「ありがとな。早速使わせてもらうよ。」  
そう言うと正刻は、パジャマのボタンを外し始めた。その様子に唯衣は顔を真っ赤にする。  
「あ、あんたねぇ! 女の子の前で堂々と脱ぎ始めるんじゃないわよ!!」  
「お、そうかすまん。じゃあ着替えるからちょっと部屋から出てってくれ。」  
「遅いのよバカ!」  
唯衣は肩を怒らせて部屋を出て行く。それを見届けた正刻は着替えを再開した。  
 
「おーい、もう良いぞー。」  
着替えを終えて布団にもぐった正刻は、唯衣に声をかける。唯衣はまだ顔を赤くしていた。  
「何をそんなに照れてるんだ。俺の裸なんて見慣れてるだろうし大したもんでもないだろ。トランクスは平気なくせに。」  
そう言う正刻に唯衣は猛然と噛み付いた。  
「あんたと一緒にしないでよ! 女の子はデリケートなんだから!」  
 
そんな唯衣に正刻は苦笑する。その様子を憮然とした顔で睨んでいた唯衣だったが、やがて少し表情を緩めて言った。  
「正刻、お腹空いてない? 食欲があるなら何か作るけど?」  
その提案に、正刻はほっとしたように答える。  
「実は腹減りまくりなんだ。おかゆなんか食べたいな。」  
「分かったわ。すぐに作ってくるからちょっと待ってなさい。」  
そう言って唯衣は立ち上がった。正刻が脱いだパジャマやトランクスも持つ。それを見た正刻が慌てて言った。  
 
「おい唯衣。それ汗が染み込んでて汚いから、持っていかなくても……。」  
しかしそれを遮るようにして唯衣が言う。  
「だから、よ。こんな汚いものを部屋に置きっぱなしじゃ病気も良くならないわよ。病人は大人しく、言うこと聞いてなさい?」  
そう言って正刻に軽くデコピンをする。正刻は額を押さえてむー、と唸った。  
「……分かった。じゃあ頼むな。」  
「了解。じゃあゆっくり寝てなさい。」  
そう言って唯衣は正刻の部屋を出る。少し歩いてふぅ、と溜息をついた。  
ここまで具合の悪い正刻を見るのは久しぶりだったため、内心心配でたまらなかったのだが、それを表に出しては正刻を不安にさせるだけだと  
思い、努めて普段どおりに振舞っていたのだ。しかも。  
 
(父さん、母さんって呼んでたわよね……間違いなく……。)  
そう、唯衣が合鍵(万が一の時のため、宮原姉妹は正刻からもらっていた)を使って正刻の家に入った時、  
うなされるように両親を呼ぶ正刻の声が聞こえたのだ。  
驚いた唯衣は急いで正刻の部屋に向かい、彼を起こした、というわけだ。  
 
(やっぱり、まだ引きずってるんだね……無理もないけれど……。)  
唯衣は正刻のパジャマをぎゅっと抱きしめた。彼の力になりたい。彼の悲しみを癒してあげたい。なのに自分は今一つ素直になれない。  
そういった意味ではいつも自分の好意を素直に正刻にぶつけられる舞衣のことが、とても羨ましかった。  
 
「私にも……あんな強さがあったら……。」  
そう呟くと唯衣は、さらに正刻のパジャマを抱きしめる。すると。  
 
「あ……。」  
抱きしめたパジャマから、正刻の汗の匂いがした。かなりの量の汗をかいていたため匂いは結構きつかったが、唯衣にとってはとても良い匂いであった。  
パジャマに顔を近づけ、その匂いを嗅ぐ。  
 
「正刻……。正刻の匂いだ……。」  
不思議な感覚だった。もし他の人間のものなら不快以外の何物でもないだろう。しかし、それが愛する人のものであるだけで、とても安心し、安らぎを  
感じるとは。  
と、しかしそこで唯衣は我に返った。顔が見る間に赤くなっていく。  
「な、何やってんのよ私……! これじゃあまるっきり変態じゃない……!」  
そう呟くと、唯衣はそそくさとパジャマを洗濯機に放り込み、おかゆを作るべく台所へと向かった。  
 
「おまたせー。持ってきたわよ。」  
その言葉に正刻はむっくりと上体を起こした。良い匂いが食欲を刺激する。  
「あー、美味そうだな。早くくれよー。」  
「慌てないの。ちょっと待っててねー。」  
そう言うと唯衣はおかゆをスプーンで一さじすくうと、息を吹きかけて正刻へと差し出した。  
 
「ほら。あーん。」  
そう言って差し出されたおかゆと唯衣とを交互に見比べて、正刻は思わず訊いた。  
「ゆ、唯衣? どうしたんだお前? 舞衣ならともかく、お前がこんなことするなんて……。」  
すると唯衣は、顔を真っ赤にして言った。  
「う、うるさいわね! 私だって好きでやってんじゃないわよ! ただ、あんたが食べにくいかもって思ったからやっただけで……。  
 い、嫌なら良いわよ、別に……。」  
 
そう言いながら唯衣は、こんな行為をしたことを後悔した。やっぱり自分にはこんなことは似合わないのだと。しかし。  
ぱくり。差し出されたスプーンに正刻はかぶりついた。唖然とする唯衣を尻目にもぐもぐと咀嚼する。  
「ま、正刻!?」  
「うん、やっぱりお前の料理は美味いな。誰かに食べさせてもらうってのも、体が弱ってる時には良いな。……ほら、もっと食わせてくれ。」  
あーんと口をあける正刻を見て、唯衣はほっとしたように笑い、言い訳や文句を言いながらも唯衣は楽しそうに正刻におかゆを食べさせた。  
 
食事が済み、薬を飲むと正刻は再び横になった。唯衣はその傍らで本を読んでいる。静かな時間が流れていた。  
と、その静寂を破るように、正刻が口を開いた。  
「……唯衣。」  
「……ん? なあに?」  
「手を……握ってくれないか?」  
突然の申し出に、唯衣は頭が真っ白になる。  
「……駄目、か?」  
いつもより弱弱しい様子の正刻の申し出を断れるはずもなく。唯衣は差し出された正刻の手をそっと握った。  
 
「……どう? これで良い?」  
「ああ、ありがとな。……やっぱり、お前の手は良いな。凄く落ち着くぜ。」  
そう言って正刻はつないだ手にきゅっと力をこめた。唯衣は顔を赤くしながらも言った。  
「な、何を言ってんのよ! 大体、特別だからね、今だけだからね!」  
そう言う唯衣に苦笑しながら正刻は言った。  
「特別、か……。じゃあ特別ついでに、少し話を聞いてくれよ。」  
つないだ手に、更に力がこめられる。ただならぬ様子に、唯衣も真剣な顔になって頷いた。  
 
それを見た正刻は天井を見上げ、淡々と話し始めた。  
「今日、夢を見た。……父さんと母さんの夢だ。」  
唯衣の肩がぴくり、と震えた。それに気づかず、正刻は続ける。  
「俺と父さんと母さんとで朝食をとっている夢だ。話していることは、本当に……本当に他愛も無いことで、多分、どこにでもある日常  
 って奴で……だけど、俺には、もう、二度と訪れない、得られない幸せで……。」  
「…………。」  
「だけど、朝食が終わったら父さんも母さんも俺を置いたままどこかに行こうとして……なのに俺は動けなくて……一生懸命手を伸ばしても、  
 二人を呼んでも俺の元には戻ってくれなくて……そ、それで……俺……!」  
気がつくと正刻は泣いていた。慌てて涙をぬぐう。  
「す、すまねぇ。泣いちまうなんて、いい歳してみっともないよな。すま……」  
正刻の謝罪は途中で遮られた。唯衣が正刻の頭を抱きしめたからだ。  
 
「ゆ、唯衣!? 何だ、どうしたんだよ!?」  
舞衣ほどではないが、それでもしっかりと膨らんだ胸に顔を埋める形になり、正刻は慌ててしまう。  
そんな正刻の髪を撫でながら、唯衣は優しく囁いた。  
「みっともなくなんかないよ。」  
正刻は、ぴくり、と体を震わせた。唯衣は更に続ける。  
「あんたが一人でずっと頑張ってきたこと、頑張ってること、私はちゃんと知ってるよ。私だけじゃなく、舞衣や鈴音、父さん、母さんもね。  
 だから、こんな時くらい弱音を吐いたって良いんだよ。泣いたって良いんだよ。大丈夫、大丈夫だから……ね?」  
そう言って正刻の髪を優しく撫ぜる。その優しい仕草に。抱きしめてくる体の温かさと柔らかさに。  
正刻は言葉で言い表せない程の安らぎを感じ……そして。  
「うっ……ぐっ……父さん……母さん……っ!!」  
唯衣を力一杯抱きしめ返し。正刻はその胸で泣いた。ひたすらに。思い切り。子供のように泣きじゃくった  
 
「……畜生。でかい借りを作っちまったな。」  
ようやく泣きやんだ正刻は、バツの悪い表情で言った。ちなみに手はまだつながれている。  
唯衣は微笑むと、囁くように言った。  
「全くね。これでもうあんたは私に頭が上がらないわね。」  
恨めしげな目線を向けてくる正刻に噴き出すと、唯衣は言った。  
 
「……冗談よ。さっきのことは、私とあんただけの秘密ってことにしておいてあげるわよ。」  
その言葉に心底安心したのか、正刻は欠伸を一つした。  
「唯衣、すまねぇ。少し眠っても良いか?」  
「いいよ。あんたが起きるまでここに居てあげるから……安心して眠りなさい。」  
「あぁ……ありがとうな……。」  
そう呟くと正刻は、ほどなく眠りに落ちていった。  
 
規則正しい寝息を立て始めた正刻を、唯衣は愛しげにみつめた。  
「でも、私があんな大胆なことするなんて……。」  
そうして唯衣は、先ほどの行為を思い出した。泣いている正刻を見た瞬間、自然に体が動いたのだ。そしてそれは、決して嫌な感覚ではなかった。  
自分の胸で泣きじゃくる正刻に、愛しさが溢れ出るのを押さえ切れなかった。  
 
唯衣は正刻の顔を見つめる。大分楽になったのか、安らかな顔をしている。  
唯衣はその横顔を眺めていたが……やがて一つ頷くと、自分の顔を近づけた。  
 
正刻の額にかかった髪を軽く払いのけ、自分の髪も押さえる。そして、顔を……唇を近づける。やがて。  
 
正刻の唇に、唯衣の唇が押し当てられた。  
正刻の唇は熱のせいか、ひどく熱かった。しかし、その感触は大変心地よく、病み付きになりそうだった。  
唯衣は二回、三回と唇を押し当てる。唇の間から、どちらのものとも分からない「ん……」という吐息が漏れ出る。  
 
唯衣は正刻の顔を見下ろすと、くすり、と笑った。  
「ふふ……正刻……。私のファーストキスをあげたんだから、ちゃんと責任とってよね……?」  
眠っている正刻はそれでも何かを感じたのか、「うぅん……。」と寝返りをうつ。それを見て、唯衣はまた笑った。  
 
その後、もう一回キスしようとしたところを帰宅した舞衣に見られて必死に弁明したり、その騒ぎで起きた正刻に舞衣が「唯衣だけずるい!  
私もするぞ!」とキスをせまってアイアンクローをされたり、翌日全快した正刻とは裏腹に休むほどではないが風邪を引いてしまった唯衣を  
舞衣がからかったりしたのだが、それはまた別のお話。  
 
 
 

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