正刻が風邪を引いて家で寝ていた日の朝。大神鈴音は自分の前の席──正刻の席──を見つめて、小さく溜息をついた。  
「まったく……。ボクにも連絡してくれたっていいじゃないか……。何年同じクラスだと思ってるんだよ……。」  
登校中に宮原姉妹に遭遇した鈴音は、正刻が風邪で休むことを聞かされた。  
正刻が学校に来ないのは残念な事だったが、もっと残念だったのは、その事を正刻から聞かされていないという事だった。  
 
一緒に登校している時、唯衣は盛大に溜息をつきながら言った。  
「まったくあいつにも困ったものよね。どうせ夜遅くまでゲームやネットやアニメに狂ってたに違いないわ。駄目な幼馴染を持つと苦労  
 するわよ本当に。……早く帰って面倒見てやらなきゃね。」  
その後を受けるように、今度は舞衣が言った。  
「本当は学校を休んで正刻を看病するつもりだったんだが……正刻に『そんな事したら酷いお仕置きするぞ』と脅されてな。いや、正刻  
 にお仕置きされるのはむしろ望むところなのだが、彼の意を汲んで、な。とにかく、生徒会の用事が入らない事を祈るばかりだな。」  
 
姉妹で表現こそ違うものの、正刻を心配し、大切に想う気持ちに変わりが無いことは鈴音にも良く分かっていた。  
しかし、その気持ちなら自分だって負けてはいない。正刻を想う気持ちは揺ぎ無いものだ、という自負はある。  
 
けれど。この二人には。この二人だけには。  
 
どうしても気持ちが負けている、と思ってしまう。  
話を聞くと、生まれて間もない時に既に三人は出会っており(当然本人達に記憶は無いが)、それからずっと一緒だという。  
もちろん喧嘩や仲違いも無かった訳では無いが、三人はそれらを乗り越えるたびに絆を更に深く、強くし、今に至っている。  
 
敵わないのか、と鈴音は少し悩んでしまう。  
自分も彼とは中学の時からずっと同じクラスで、故に修学旅行などの学校行事はもちろん一緒に過ごし、ひいては学校で最も彼と同じ時間を  
共有しているのは自分だ、という想いがある。  
 
それでも宮原姉妹に比べれば距離を感じてしまう。  
それは例えば……合鍵。  
宮原姉妹は正刻から万が一の時のために、高村家の合鍵をもらっている。  
 
自分は……もらっていない。  
それは良く考えれば当たり前の事だ。どんなに仲が良いとはいえ、恋人でもない只の同級生に自分の家の鍵を渡す事など無いだろう。  
だが、それが当たり前だと分かるが故に……鈴音は複雑な気持ちを抱いてしまう。  
 
そしてある意味一番の問題は、鈴音にとって宮原姉妹は最高の親友であり、二人にとって鈴音もまた同じ存在である事だった。  
いっそ二人を嫌ってしまえば楽になれたかもしれない。しかし、それは出来ないし、したくなかった。  
だから鈴音はこういう時、道化を演じてしまう。  
 
「いやー、二人とも大変だねぇ。それにしても、二人に想われる正刻は幸せ者だねぇ。」  
自分の本心を、押し殺して。  
 
 
授業中も鈴音はぼんやりとしていた。いつもと違う視界に寂しさを感じる。  
いつもなら、あいつが居るのに。自分と同じくらいの身長しかない小さな背中だけど、でもとても安心させられる背中。  
それを思う時、鈴音はいつも思い出す。正刻と知り合った時のことを……。  
 
 
 
鈴音は幼い頃から活発で、真っ直ぐな少女であった。  
しかし、それが災いした。目立つ彼女は、いじめの標的にされてしまったのだ。  
それとともに、鈴音はその活発さを急速に失い、周りのもの全てに興味を失ったかのように冷たく、そっけない態度をとるようになった。  
 
いじめに屈服した訳ではない。ただ、周りの人間に失望したのだ。  
群れなければ何も出来ない。突出した者がいると、寄ってたかって潰しにかかる。  
そんな連中と口をきくのは無駄以外の何物でもない。そう考えた鈴音は、いつも本を読み、誰とも口をきこうとしなかった。  
鈴音が周りを拒絶するようになってからはいじめは無くなっていったが、代わりに鈴音に話しかけようとする者も居なくなっていた。  
 
そんな孤独な小学校時代を経て、中学校に上がっても鈴音は相変わらずその態度を続けており、当然友達も出来なかった。  
いつも鈴音は一人で本を読み、授業が終わればさっさと帰る。そんな毎日を繰り返していた。  
しかし、そんな生活を一変させる出来事が起こる。それはある日の放課後。珍しい事に彼女に話しかけてくる者がいたのだ。  
 
「なぁ、君こないだ京極さんの新刊読んでたろ? 実は俺もファンなんだよ! いやー、こんなところで同好の士……しかも女の子に逢える  
 なんて、俺すっごく嬉しいぜ!!」  
 
鈴音はぽかんとその少年を見た。自分の評判は他の生徒から聞いているだろうに。何故こいつはわざわざボクに話しかけてくるんだろ……?  
改めてその少年を見直す。背は低いが、顔はかなり整っている。しかし、何より目を引くのはその瞳だ。  
漆黒の色をしたその目は、しかしきらきらと輝いている。これほどまでに綺麗な瞳を鈴音は初めて見た。思わず吸い込まれそうになり……  
 
「ん? どした?」  
その少年の声で我に返る。何故か高鳴る胸の鼓動を隠すように、努めて冷たい声で言う。  
「……別にボクがどんな本を読んでようが君には関係無いだろ。ほっといてよ。」  
「おおぅ! しかもボクっ娘かぁ! 初めて見たぞ!」  
しかし折角の冷たい態度も彼にはあまり関係無いようだった。  
 
(何か調子が狂うな……。)  
鈴音は無言で少年を眺める。今まで無視してきた連中とは、何かが違う気がする。だけどそれが何なのかは分からない。  
ただ一つ言えるのは、自分はこの少年に興味を持ち始めている、という事だ。  
ずっと他人を無視し続けてきた自分が。  
その事に鈴音は戸惑いを感じていた。  
 
そんな鈴音の気持ちにはもちろん気づかずに少年は話しかける。  
「あ、そうだ! 一応自己紹介しとくな。俺の名前は高村正刻! 図書委員をやってるけど部活はやってない。身長は低いけどこれから  
 すんごく伸びる予定! 以上だ!」  
「たかむら、まさとき……。」  
無意識に鈴音は呟いていた。忘れまいとするように。その自分の行動に、ますます戸惑いを覚えてしまう。  
 
「で、君は?」  
「……え?」  
「君の名前だよ。相手が名乗ったら、自分も名乗るのが筋だろ?」  
正刻の言うことはもっともだった。だから鈴音は渋々といった調子で答えた。  
「……大神鈴音。委員会も部活もやってない。以上。」  
「おおがみすずね、か。良い名前だな。」  
「……別に。普通だよ。」  
本当は良い名前だ、と言われた時、心臓がトクンと鳴ったが……それを気のせいだ、と鈴音は切り捨てる。  
 
「しかしそんなに本が好きなのに何で図書委員会に入らないんだ? 結構楽しいぞ?」  
そう問う正刻に、鈴音は軽い苛立ちを覚える。何でこいつはこんなに話しかけてくるんだ。ボクは一人がいいのに……!  
「キミには関係ないだろ。」  
意識して冷たく突き放す。もう話しかけるな、という気持ちを込めて。  
「でもなぁ……やっぱりもったいないと思うんだが……。」  
しかし正刻は全くひるまない。その様子に、もっと辛らつな事を言ってやろうと鈴音が考えた時。  
 
二人の少女が乱入してきた。  
 
「こら正刻! 何女の子にちょっかいかけてんのよ! 迷惑そうじゃない! 中学に入って早々セクハラで停学を食らいたいの!? 幼馴染  
 がセクハラで停学だなんて恥ずかしいにも程があるんだから、やめてよね!!」  
「い、いや唯衣待て。俺はただ、本が好きなら図書委員会に入ったらって、そう言ってただけ……」  
「まぁそんなに怒るな唯衣よ。正刻も悪気があったわけじゃないだろう。ただ、私に言ってくれなかったのはいただけないな。そんなに女性に  
 飢えていたなら私に言えば良いんだ。ケダモノのような君でも、私なら全て受け入れてあげるし、望むようにされてあげるというのに。」  
 
「お前は少し黙れ! それと俺はケダモノじゃねぇっ!!」  
「そうか? 最近大きくなり始めた私の胸に、いやに君の視線を感じるようになったのだが?」  
「! い、いや、そんな事は……ない、と思うよ? 多分……。」  
「正刻……あんたって奴は……!」  
「い、いや大丈夫だぞ唯衣! お前も少しあるし、まだまだこれから……っていひゃい! いひゃいれふうぅ!!」  
「……ずいぶんとナメたクチをきくのはこの口かしら? ええ?」  
 
鈴音は唖然とした。どうやら二人とも彼の知り合いのようだ。しかも二人ともかなりの美少女だ。  
(一体どういう関係なんだろ?)  
鈴音はそう思ったが、しかしそう思った事にひどく驚いた。別にこの二人と彼がどんな関係だろうが、それこそ自分には関係無い。  
だのに自分は三人の関係を知りたがっている。本当に自分は一体どうしてしまったのか……?  
 
鈴音がそんな事を考えていると、高村に折檻をしていた娘がようやく鈴音の存在に気がつき、声をかけてきた。  
「あ、騒がしくしちゃってごめんなさいね。あの、このバカに変なことされなかった?」  
「いや、別にされてはいないけど……。」  
鈴音がそう答えると、少女はほっとしたように笑った。長い髪をポニーテールに結った彼女の笑顔に、同性である鈴音も見蕩れてしまった。  
 
「済まなかったな、うちの幼馴染が迷惑をかけて。だが彼も悪気は無いんだ。許してやってくれ。」  
「だから別にいいってば。迷惑ってほど話したわけじゃないし。」  
そうか、と言ってもう一人の少女も静かに微笑んだ。こちらの少女の笑顔も魅力的だった。  
 
「あ、折角だから自己紹介しとくね。私は宮原唯衣。正刻とは腐れ縁の幼馴染なの。で、この娘が……」  
「……宮原舞衣だ。唯衣とは双子で、彼女が姉、私が妹だ。しかし君は正刻と同じクラスで良いな。羨ましいよ。」  
「そう? 一緒のクラスだと正刻のフォローしなきゃならないから大変じゃない。」  
「何を言うんだ唯衣、それが良いんじゃないか。正刻の支えになっていると実感できるしな。大体お前だって別のクラスになって寂しそう  
 ではないか。」  
「! バ、バカ言ってんじゃないわよ! 私は清々してるわよ!」  
妹に怒鳴る唯衣を見て、でもそんなに顔真っ赤じゃあんまり説得力無いねぇ、と鈴音は他人事のように思った。実際他人事だが。  
 
と、そこで唯衣に折檻されてぐったりしていた正刻がむくり、と起き上がって宮原姉妹に尋ねた。  
「と、そういやお前らどうしたんだ? 俺に何か用事だったんじゃないか?」  
「あ、そうだ! 母さんからメールが来てたのよ。今日は父さんが早く帰って来れそうだから、みんなで外食しようって。もちろんあんたも  
 一緒にね? だから、あんたの予定を聞いておきなさいってね。」  
「今夜か? すぐに使わなくっちゃいけない具材は無いから大丈夫だぞー。喜んでご一緒させてもらうさ。」  
「よし、じゃあ決まりだな。今夜は楽しみだ。出来ればそのまま泊まっていって欲しいが……。」  
「それは却下させてもらおう。」  
 
そう言うと正刻は、鞄を手に立ち上がった。鈴音に片手を上げて別れを告げる。  
「じゃあな大神。また明日、な。」  
「本読むの邪魔しちゃってごめんね。それじゃあね。」  
「正刻が色々迷惑かけるかもしれないが、出来れば仲良くしてやってくれ。では。」  
 
 
そう言って三人は一緒に教室を出て行った。その後ろ姿を見送った後、鈴音は思わず深い溜息をついた。  
「何とも個性的な面々だったなぁ……。」  
そう一人ごちる。しかし、決して不快ではなかった。正刻に色々言われた時は少し苛立ったが、それでも不思議と不快感は無かった。  
「あいつ、またボクに話しかけてくるのかな……。」  
鈴音は自分に話しかけてきた少年を思い返す。きれいな漆黒の瞳。真っ直ぐな目。  
自分はあの少年に話しかけられたいのか、そうでないのか。  
もやもやとした気持ちを抱えたまま、鈴音は家へと帰った。  
 
 
 
「……ずね? 鈴音ってば!」  
はっ、と鈴音は回想から引き戻された。同じクラスの部活仲間が顔を覗き込んでいる。授業はもう終わっていたようだ。  
「どしたの鈴音? ぼーっとしちゃって。……ははーん、さては高村君が居ないから寂しいんでしょ? まったく可愛いんだからー。」  
からかってくる部活の仲間に苦笑を返し、鈴音は部活へと向かった。  
 
「はぁ、はぁ……。よーし、あと一本!」  
鈴音はユニフォームに着替え、練習に打ち込んでいた。彼女は短距離と走り高跳びを専門としている。今はダッシュを繰り返しているとこ  
ろだった。  
腰を落としてダッシュしようとした時、家路につく生徒たちの中に知った顔をみつけた。正確には、揺れるポニーテールで気がついた。  
「唯衣……? 部活を休んだんだ……。」  
この時間帯は合気道部も練習中のはずである。その彼女が今校門にいるということは、部活を休んだということ。そして、何故休むかと  
いえば……。  
 
鈴音は無言で頭を振り、ダッシュを始めた。余計な事を考えないように。嫌な気持ちを振り払うかのように。  
 
「あー、疲れた……。」  
鈴音は家に帰るとベッドに倒れこんだ。今日はかなり練習をした。というより、オーバーワーク気味であった。  
「何か練習に八つ当たりしちゃった感じだなぁ……。」  
ごろん、と体勢を変え、天井を見上げる。何も無い天井に、ふと正刻の背中が見えた気がした。  
 
そんな自分に鈴音は思わず苦笑いしてしまう。  
「ボクってこんな乙女チックなキャラじゃないだろ……まったく。正刻に一日会ってないだけでこんな……まったく。」  
そう言いながら鈴音は枕を抱き、ごろごろと転がる。転がりながら、ぶつぶつと呟く。  
「くそー、正刻めー。明日会ったらまず殴ってやろうかな。ボクをこんな気持ちにさせたんだから当然の報いだよねぇ。でも、あいつ明日来る  
 かなぁ……。一度体調崩すと悪化させちゃうタイプだし……。心配だなぁ……。メールも控えた方がいいよねぇ……。あーでも気になるなぁ……。」  
鈴音の独り言は、妹が食事に呼びにきてその姿を見られるまで続いた。  
 
そして翌朝。登校中の鈴音は、学校へと向かう人の波の中に見慣れた背中があるのを発見した。  
思わず笑みがこぼれる。彼女は一気に駆け出すと、その背中を思いっきりどやしつけた。  
「痛ってぇっ!!」  
「あははっ! おはようっ! 一日ぶりだね正刻っ!!」  
背中を思いっきり引っぱたかれた正刻は鈴音を睨むが、笑顔の鈴音につられて思わず苦笑してしまう。  
「まったくお前は……。」  
「あはは、ごめんごめん。ところで正刻、風邪はもう良いの? キミって一度体調崩すと長引くタイプじゃない? だいじょぶ?」  
「あぁ、心配かけて済まないな。でも今回は見ての通り、俺はすっかり完治したぜ! だけど、唯衣が軽く風邪引いちまってな。  
 俺の看病をしてくれたんだが……何だか悪いことしちまったな。」  
 
そう言って唯衣に心配そうな視線を向ける正刻に舞衣が言う。どことなく、むっつりと膨れている気がする。  
「心配は無用だ正刻。唯衣は自業自得だ。まったく、抜け駆けなんかするから……!」  
「抜け駆け?」  
鈴音は不思議そうに唯衣と舞衣を見比べる。顔が赤い唯衣。膨れている舞衣。一日で完治した正刻と、入れ替わるように風邪を引いた唯衣。  
「……まさか……。」  
思わず呟いた鈴音に、舞衣が頷きを返す。  
「現場は見ていないが……おそらく、な。」  
鈴音は思わず唯衣を見る。唯衣はバツが悪そうに目を逸らした。  
 
「なぁ、お前ら何の話をしてるんだ?」  
一人、全く話が読めない正刻が尋ねる。三人は思わず顔を見合わせ、微妙な表情を浮かべる。  
「? 何だよ?」  
『……にぶちん……』  
三人は正刻に聞こえないよう、しかし完全にハモりながら呟いた。  
 
 
その日の放課後。部活へ向かおうとする鈴音に正刻が声をかけた。  
「あ、鈴音すまん。ちょっと良いか? 話があるんだが……。」  
「うん、何? 改まってどうしたのさ?」  
正刻は周りを見ると、鈴音に告げる。  
「いや、ここじゃちょっとな……。悪いが屋上まで付き合ってくれないか?」  
その言葉に鈴音の胸がトクン、と鳴る。  
(え? ……も、もしかして……!)  
しかし、正刻の表情を見てそれはないな、と思い直す。  
「……鈴音?」  
「……何でもないよ。いこいこ。」  
そう言って鈴音はさっさと歩き出した。  
 
 
屋上には、正刻と鈴音以外には人は居なかった。告白にはもってこいのシチュエーションだが……。  
(そんな訳無いもんねぇ……。)  
ほぅ、と溜息をついた鈴音は正刻に向き直る。  
「で、正刻? 一体何なのさ?」  
鈴音に問われた正刻は、うん、と頷いて言った。  
 
「実は、これをお前にもらって欲しくてな。」  
そう言って彼がポケットから出したのは、鍵、だった。綺麗な鈴がついており、チリン、と鳴った。  
「え? これ? ……何の鍵?」  
正刻から渡された鍵を見ていた鈴音はそう尋ねた。  
「俺の家の合鍵だ。」  
正刻は何気なくそう言った。  
 
「ふーん、キミん家の……って、え? ええええええ!!?」  
鈴音は驚きのあまり鍵を落としそうになった。正刻が自分に、家の合鍵を……!?  
「いや、俺一人暮らしだろ? 何か万が一の事……例えば今回みたいに体調崩した時なんかに、唯衣と舞衣が必ず来れるとは限らないんだよ。  
 だから、あの二人以外にも鍵を渡そうと思ってさ。そう考えた時、真っ先に浮かんだのはお前だった。正直、俺はある意味じゃあお前の  
 事を唯衣や舞衣より信頼してる。何せ、中学の時からずっと同じクラスなんだからな。だから、俺のわがままではあるんだが、お前に鍵を持  
 っててもらうと安心だな、と思ってさ。」  
 
鈴音は正刻の話を黙って聞いていた。いや、正確に言うと、何も言えなかった。嬉しかったからだ。  
正刻が自分の事を、そこまで信頼してくれていた事が分かって、身震いするほど嬉しかった。  
同時に、昨日抱いた不安も消えていた。  
確かに唯衣と舞衣には敵わない部分もある。二人のほうが、自分よりも正刻と長い時間を共有してきたという事実は変わらない。  
 
だが、未来は。これからの時間で、誰が正刻と時間を共有するか、絆をより太く強くするかは、まだ決まっていない。  
ならばグダグダと悩むより、自分は立ち向かおう。自分を高めて、コイツを振り向かせてやろう。  
だって自分は……もう正刻以外、考えられないから。孤独だった自分を変え、光を与えてくれた彼無しじゃ、きっとやっていけないから。  
 
黙ってしまった鈴音に、正刻が恐る恐る声をかける。  
「す、鈴音……? その……やっぱり迷惑、だったか……?」  
その問いに、顔を上げた鈴音は……とびっきりの笑顔を浮かべてこう言った。  
「そんなことないよ! 喜んで頂くよ!」  
「そっか……ありがとうな。お礼に、今度何か奢らせてくれ。」  
そう申し出た正刻に、鈴音は意地の悪い笑みを浮かべてこう言った。  
「いやー、いいよ別にぃ。早速この鍵を使って正刻の夜のお供を探し出して弱みを握らせてもらうからさぁ。」  
 
そんな事を言われた正刻は仰天する。  
「おい! 言っとくけどその鍵はあくまで緊急用だからな! 勝手に使ってうちにホイホイ入るんじゃねーぞ!!」  
「えー、だってこの鍵もうボクのだしねぇ? どう使おうがボクの勝手でしょ?」  
「……やっぱ前言撤回! お前は信用ならねぇ! 鍵返せ!!」  
「やーだよーだ。あははっ!」  
鈴音は正刻の手をするりと避け、部活へと向かった。その姿はとても楽しくて、幸せそうだった。  
 
その日の夜に正刻からもらった鍵を見ながらニヤニヤしていた鈴音がまた妹に見つかってからかわれたり、鈴音が合鍵を持った事を聞いた  
宮原姉妹が微妙に不機嫌になって正刻が冷や汗をかいたりしたにだが、それはまた別のお話。  
 
 

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