正刻が佐伯家の道場で稽古に励んでいた頃、高村家に一人の少女がやってきた。
さらさらのショートヘア。猫のようなしなやかな肢体。眼鏡の奥の目はこれからの事を考えて、楽しそうに細められている。
少女の名は大神鈴音といった。
鈴音は高村家の玄関に近づくと、正刻からもらった合鍵を取り出した。
合鍵には、正刻がつけていた鈴と、鈴音が選んだお気に入りの鈴の二つがつけられていた。
それを見つめてにんまりと笑うと、鈴音は鍵穴に鍵を差し込んだ。
かちゃり、と鍵が開く。当たり前のことなのだが、鈴音はとても嬉しかった。
自分一人で、正刻の家に入ることが出来る。それが実感出来たからだった。
「お邪魔しまーす……。」
引き戸を開けて、鈴音は高村家に入る。
高村家は、少し大きめの日本家屋であった。
風呂やキッチン、トイレなどの水周りは最新式のものとなっており、部屋も、畳の所もあれば、フローリングになっている所もある。
正直な所、正刻一人で住むには広すぎる家である。掃除や管理などの手間も非常にかかる。
しかし、正刻はこの家を離れようとはしなかった。
祖父母や両親達との思い出が詰まったこの家を手放すことは、正刻には出来なかった。
しかしその結果、学校において正刻が課外活動に割ける時間は著しく少なくなった。
正刻が図書委員会にしか入らず、合気道部に入っていないのはこれが原因であった。
高校に入り、正刻はどちらもやりたかったが、しかし家事その他の事を考えると片方が限界であった。
その結果、正刻は図書委員会を選んだ。合気道は兵馬の道場でも出来たからだ。
もっとも、今だに男子合気道部からのラブコールは続いているが。
余談はともかく。鈴音はぺたぺたと廊下を歩く。
この家にはもう何度も遊びに来ているし、唯衣や舞衣達と共に泊まったこともある。勝手知ったる何とやら、だ。
本来なら今日は勉強会なのだが、実は集合時間にはまだ大分早い。何故鈴音がそんなに早く来たかといえば……。
「んふふー。さーて、じゃあ早速侵入しちゃおうかなーっと!」
そんな事を言いながら鈴音は正刻の部屋に入っていく。合鍵をもらった時に正刻に言ったことは、実は半分本気だった。
「まずは相手のことをもっと良く知らないとねー。あいつが最近エロ方面でどんな趣味を持ってるか、興味あるし。……それにしても。」
相変わらずの部屋だねぇ、と鈴音は呆れ返った。
正刻の部屋は、10畳程の大きな和室であった。しかし、部屋中に溢れかえった私物の所為で、もっと狭く見える。
テレビ、ビデオ、更に文机タイプのパソコンデスク。その上には正刻が組み上げた自作パソコンが鎮座ましましている。
壁の一面は本棚になっている。漫画・小説・ゲームの攻略本など、その種類と数は膨大だ。
テレビにはゲーム機がつながれており、近くには携帯ゲーム機も転がっている。
部屋の中央には本来ならテーブルが置かれているが、今は部屋の隅に置かれており、代わりに布団が部屋の中央に敷かれていた。
鈴音はゆっくりと正刻の部屋に入る。胸の鼓動がいつもより早い。正刻の部屋に入ったことは何度となくあるが、自分一人で入るのは初め
ての経験だったからだ。
パソコンデスクと対になっている座椅子に座る。この部屋で自分や唯衣や舞衣、その他の友人達と話す時、正刻はいつもこの座椅子に座る。
いわばここは、彼の指定席であった。
その椅子に、自分も座っている。
それを思うと、鈴音の鼓動は更に早まった。興奮のあまり、少し頭がくらくらする。
(うわー、とてもじゃないけど正刻の夜のお供を探すどころじゃないよぉ……。)
鈴音は落ち着こうと深呼吸するが、その拍子にふと正刻の匂いを感じてしまい、更に興奮してしまう。
彼女は思わず匂いの元を探す。すると、部屋に敷かれている布団が目に入った。
「正刻の……布団……。」
鈴音は立ち上がると、ふらふらと歩き、布団の傍にぺたんと座り込んだ。
正刻はこういう片付けはしっかりとするタイプなので、布団が敷かれたままだというのは珍しい事だった。
鈴音はしばらく布団をぼーっと見ていたが、何かを決意したように頷くと、掛け布団をめくった。
そして周りをきょろきょろと見回して、誰も居ない事を確認すると、顔を赤くしながら布団にもぐりこんだ。
(うわー、ボク今正刻の布団で寝てるんだー……!)
鈴音は恥ずかしい気持ちと幸せ一杯な気持ちがないまぜになって、布団の中でごろごろと転がってしまう。
更に枕に顔を埋めてその匂いを胸一杯に吸い込んだ。
枕からは、リンスの良い匂いと、更に正刻自身の匂いもした。
鈴音は思わず恍惚としてしまう。
「あー、いけないなぁ。これじゃあボク、まるっきり変態みたいじゃないかぁ……。」
そう言って足をバタバタとさせる鈴音。言ってる事とは裏腹に、彼女はとても幸せそうな笑顔を浮かべた。しかし。
「……全くだな。いや、『変態みたい』ではなく『変態そのもの』と言った方がしっくりとくるな。」
「鈴音……。まさか親友であるあなたがこんな駄目人間だったなんて……。私はとても悲しいわ……。」
不意に背後からかけられた声に、鈴音はびっくん! と体を震わせた。
ぎりぎりぎり、と音がしそうな動きで振り返る。
そこには、心底参ったといった様子で手を額に当てている唯衣と、腕を組んで仁王立ち、更に半眼になって鈴音を見ている舞衣がいた。
鈴音は無言でもぞもぞと布団から這い出すと、衣服の乱れを直し、ついで眼鏡の位置も微調整して咳払いを一つした。
二人と目を合わせずに尋ねる。
「……どこから見てたの?」
「お前がちょうど布団にもぐりこんだ所からだ、な。」
舞衣が答え、唯衣が無言で頷く。鈴音はがっくりとうなだれ、搾り出すような呻き声を上げた。
「……モロ最初っからじゃないかぁ……。だったら声かけてよぉ……。」
そんな鈴音の様子を見て少し気の毒になったのか、唯衣がフォローを入れる。
「まぁ、誰にでも気の迷いってやつはあるわよ。ね、舞衣?……ってアンタは何やってんのよォッ!?」
唯衣が怒鳴るのも無理はない。いかなる早業か、舞衣は正刻の布団にもぐりこんでいた。まるでさも当然だといわんばかりの顔だ。
その顔が、にやけ始める。
「ほほぅ、コレは良いな。鈴音が我慢出来なかった気持ちも分かるぞ。」
「何だよキミは!! さっきボクの事を『変態そのもの』だと言ったくせに!!」
「いや、さっきの発言は取り消そう。正刻の布団が敷いてあるなら、それに潜り込むのは当たり前の行為だな。」
「んな訳ないでしょ!! いーからアンタはさっさと布団からでなさい!! 服が汚れるでしょ!!」
その後、一向に布団から出ない舞衣に業を煮やした唯衣と鈴音によって舞衣は布団から引きずり出された。
ぶつぶつと不平を垂れる舞衣を引きずるようにして、二人はリビングへと向かう。
「……でも、ボクが言うのも何だけど、二人とも何でこんなに早く来たの?」
リビングで舞衣が淹れたコーヒーを飲みながら、鈴音が二人に尋ねた。
彼女が集合時間より早く来たのは下心があったからだが、二人が早く来る理由が分からない。
すると、唯衣が苦笑まじりに答えた。
「舞衣がね? 『何だか嫌な予感がする。早めに正刻の家に行こう。』って言い出したのよ。それで来てみたら、あなたのあの痴態に出く
わした、って訳。……本当にこの娘は、正刻がらみだと超人的な力を発揮するのよね……。」
「ふふん。まぁ、これも愛の力だな。しかし鈴音よ、抜け駆けは許さんぞ?」
そう言って舞衣はウィンクをする。その様子に鈴音も苦笑した。
「全く、キミには敵わないなぁ。……でも、正刻の事、譲るつもりは無いからね。」
鈴音の告白に、宮原姉妹は驚いて顔を見合わせる。
「す、鈴音。あなた……。」
「うん、そうだよ唯衣。ボクは正刻が好き。友達としてではなく、ね。」
少し顔を赤らめながらも、きっぱりと言い切る鈴音。そんな彼女を見て、舞衣は微笑んだ。
「そうか……。ようやく覚悟を決めたんだな、鈴音。」
「うん。今までは迷うところもあったんだけど……でも、これをもらって気持ちが決まったよ。」
そう言って鈴音は高村家の合鍵を取り出す。
「ボクは正直、君たち二人に気後れしている所もあったんだ。ボクよりも遥かに長い時間、正刻と過ごしてきた君たちには勝てないんじゃ
ないかってね。だけど、大切なのは、これからなんだってことに気がついたんだ。幼馴染である君たちには敵わない部分もあるけど、で
も未来は決まってないもんね。正刻から合鍵をもらうぐらいには信頼されてるって分かったし。だからボクは、立ち向かう事に決めた
んだ。」
それに……と、鈴音は恥ずかしそうに微笑んで続けた。
「もうボクは……正刻以外、考えられないから、さ。」
その鈴音の告白を、唯衣は複雑そうに、舞衣は微笑んで聞いていた。
そして鈴音が語り終えた後、舞衣は、すっと右手を差し出した。
「? 舞衣……?」
「握手だ鈴音。そしてお互いに誓おうじゃないか。正々堂々と正刻を巡って戦うこと。そして、これからも変わらず……いや、これまで
以上に、私達は良き友であることを、な。」
その舞衣の言葉に、鈴音はこれ以上ないくらいの笑顔を浮かべ、そして舞衣と固い握手を交わした。
「うん! これからもよろしくね! 舞衣!」
「さて、後は……。」
鈴音と握手をしながら、舞衣は視線を唯衣に向けた。つられて鈴音も視線を唯衣に向ける。
二人に視線を向けられ、唯衣はたじろいだ。
「な、何よ……?」
「唯衣。お前も握手しろ。そしてさっきの事を誓うんだ。」
「な、何でよ!? 私は別に、正刻の事なんか……!」
顔を赤くして言う唯衣に、鈴音が言った。
「唯衣……。いい加減に素直になりなよ。大体、君が正刻を好きなのは、少なくともボクらの間じゃあもうバレバレなんだからさぁ。」
その言葉に更に何かを言おうとする唯衣を舞衣が制した。
「唯衣。正刻の前ならばともかく、今は私たちしか居ないんだ。もう少し、素直になっても良いんじゃないか? このままではお前、ず
っと素直になれないぞ? それでも良いのか?」
舞衣の言葉は唯衣の胸を締め付けた。素直になれない。それは、以前に正刻の看病をした時に自分も痛感したことではなかったか。
唯衣は鈴音をちらり、と見た。彼女はこちらを真っ直ぐ見つめていた。彼女が正刻を好きなのは気づいていたが、しかしここまではっきり
と想いを露わにするとは考えていなかった。
自分も勇気を出す時なのかもしれない。
唯衣は目を閉じた。胸に浮かぶのは、正刻のこと。彼の笑顔が、ふくれっ面が、寂しげな顔が、泣き顔が、そして真っ直ぐな目が、彼女の
胸を駆け抜ける。
そして再び開かれた彼女の目には、強い意志が宿っていた。
「分かったわよ。私も誓うわ。……だけどあなたたち、覚悟しなさいよ? 私は絶対に負けないんだから!」
そう言いながら唯衣は、舞衣と鈴音の手に、自分の手をそっと重ねた。舞衣と鈴音が嬉しそうに頷く。
「望むところさ唯衣! ボクだって負けないよ!」
「やっと本音を口にしたな唯衣! だが、私は嬉しいよ。お前が本気になってくれて、な。やっぱり、お互いの本音をぶつけ合わなければ
本当に幸せにはなれないからな。」
そう言って舞衣はシニカルに笑う。つられて二人も笑った。
「しかし、そうなると問題なのは正刻自身だよねぇ。あいつ、意外とモテるんだよねぇ……。何か、ウチの妹も興味あるような事言ってた
し……。」
コーヒーを飲みながら、鈴音が呟いた。その言葉に舞衣も頷く。
「全くだ。正刻の魅力を理解してくれる人が多いのは嬉しいが、しかし多すぎても困るな。実際、図書委員会なんかにも正刻に気がある娘
はいそうだしな。」
「……ウチの部にもいそうね……。あとは佐伯先生のとこの香月ちゃんや葉月ちゃんも絶対そうよね……。」
唯衣も愚痴をこぼすように言う。三人はそろって顔を見合わせると、一斉にはぁ、と溜息をついた。
正刻は確かに変わり者ではあるが、しかし同時に人気者でもあった。
誰に対しても分け隔てなく接し、困っている人を放っておけない。
そんな彼を慕う者は、男女問わずに実は多いのであった。
しかしそんなマイナス要素を吹き飛ばすように舞衣が明るく言った。
「何、しかし大丈夫だ。どんなに正刻に好意を持つ者がいようが、私たちが正刻の恋人に近い、いわゆるトップグループなのは変わらん。
何といっても、 私達はここの合鍵を持っているのだからな!」
そう言って舞衣は自分の合鍵を取り出して掲げる。ある意味、高村家の合鍵を持つ者は、確かに正刻と深い絆を持つ、と言っても過言では
ないかもしれない。
しかし。
「まぁ確かにそうね。……でも、そうすると『あの娘』もそうなるわよね。」
「『あの娘』? 唯衣、誰のこと?」
唯衣の発言に首を傾げて尋ねる鈴音とは対照的に、舞衣は全てを分かっているように頷いた。
「確かに『彼女』もそうだな。……しかし、彼女はもう何年もこちらには来ていないようだが……。」
「だからって、諦めてると思う? ……絶対に諦めてないわよ、あの娘。」
舞衣は、確かにな、と呟いて腕を組んだ。その様子に、再度鈴音が疑問の声を上げる。
「ねぇ、二人とも! 一体誰のことなのか教えてよぅ!」
「ああ、ゴメンね鈴音。実は……。」
鈴音に唯衣が答えようとしたその時、玄関の方から「ただいまー」と、正刻の声が聞こえてきた。
「あ、正刻が帰ってきたみたい。……ごめんね鈴音、また今度話すね。」
そう言って唯衣は正刻を迎えに玄関へと向かった。その後を当然のように舞衣も追いかける。
一人残された鈴音は、むーっと不機嫌な顔をしながら、それでも玄関へと向かった。
その後、正刻は汗を流そうとシャワーを浴びようとした所、舞衣が乱入してきて大騒ぎになったり、そのせいで不機嫌になった唯衣や鈴音に苦手
な数学や化学でびしびしとしごかれたりしてぐったりしてしまったが、それはまた別のお話。