彼女は空を眺めるのが好きだった。  
いや、正確に言うと、空を眺めて想い人が今何をしているか、何を考えているのかを想像するのが好きだった。  
 
彼女の名は「神崎 美沙姫(かんざき みさき)」。美しい少女だった。長く艶のある黒髪を後ろで一つにまとめている。  
肌は雪のように真っ白であり、そして凛とした顔つきでありながらもその笑顔はとても優しいものであり、周囲の人間をいつも和ませてきた。  
 
性格はおしとやかで、昔ながらの大和撫子、といえば良いだろうか。丁寧な言葉遣いと落ち着いた物腰は、幼い頃より厳しく躾けられた事  
により身についたものだ。  
さらに、すらりとした細身の身体でありながら、出るべきところはしっかりと出て、くびれるべき所はしっかりとくびれている見事なプロポ  
ーションをしていた。  
 
当然男子からの人気は高く、告白は日常茶飯事、下駄箱からはラブレターが溢れ出る始末であった。  
しかし彼女はそれらの申し出を全て断り続けている。理由はただ一つ。彼女には愛する人、許婚がいるからだ。  
 
────私には、愛する人……心に決め、将来を誓い合った許婚がおります────  
 
────故に、貴方の申し出を受け入れることは出来ません────  
 
────お気持ちだけ、有難く頂戴いたします────  
 
────ごめんなさい────  
 
これが告白の場で行なわれる会話であった。  
 
振られた男子生徒のみならず、友人達もそれが誰なのか知りたがった。  
すると、決まって彼女は微笑みながらこう言うのだ。  
 
ここにはいません、ずっと遠くにいるのです、と。  
 
それが微妙に抽象的な言い方なので、様々な説が流れた。  
 
普通に遠距離恋愛をしているという説。  
実は相手は既に亡くなっているという説。  
相手は実は彼女にしか見えない妖精さん説。  
 
しかし、真実を知っているのはごく近しい友人、家族のみであった。  
 
 
弓を構え、引き……そして放つ。  
ひゅんっ、と風切り音が鳴り……狙い過たず、的の中央に矢は突き刺さった。  
 
それを見て美沙姫は一つ息を吐き、的の上方、空を見上げた。  
今は放課後。彼女は所属している弓道部の練習に精を出していた。  
 
彼女の家はいわゆる旧家であり、更に日本でも有数の財閥を形成していた。  
その一人娘であった彼女は、様々な教育を受けた。礼儀作法、活け花や茶道などの教養、そして、弓道や長刀、合気道などの武術、護身術  
などである。  
その中でも彼女が特に好きだったのが弓道であった。実は彼女の想い人は合気道の天賦の才を持っており、彼女もその傍にいたいがために  
練習に打ち込んだ時期もあったのだが、残念ながら彼女には合気道の才能は無かった。  
 
そこで彼女は方向を転換した。向いてないものをやるよりは、得意なものに打ち込んで、それで輝いてやろう。そして、彼と並んでも恥ず  
かしくない自分になってやろうと決意したのだ。  
 
その甲斐あってか、彼女の腕前はめきめきと上達し、高校二年となった今ではインターハイの優勝候補の筆頭である。  
その腕前と性格が買われ、部でも副部長を務める彼女は傍から見ると充実した生活を送っているように見えるが、しかし今の彼女は少し  
落ち込んでいた。  
 
何故ならば、数日前に彼に出した手紙の返事が来ないからである。  
彼女は想い人に、いつも手紙を書いていた。頻度は月に一、二回というところだ。  
もちろん彼女は想い人の家の電話の番号や、携帯電話の番号やアドレスも知っている。  
しかし、それでも彼女はいつも手紙を書いた。自分の手で書いた方が、想いがより伝わると信じているからだ。  
 
そして彼女が手紙を出すと、数日後には彼からの返事の手紙が送られてくる。  
彼女はそれが楽しみであった。彼の手紙はいつも面白く、そして暖かい。読んでいるだけで彼女は幸せな気持ちになり、そして安心する。  
 
それが今回に限っては来ない。もう一週間にもなる。彼女は溜息をつきながらタオルで汗を拭う。  
彼女の心に黒い雲が広がっていく。彼は……もう自分と手紙のやりとりをするのが嫌になってしまったのではないだろうか。  
彼は幼い頃に両親を亡くし、一人暮らしをしている。その生活が大変なのは、容易に想像出来る。手紙を書くのも、きっと楽ではないだろう。  
 
もちろん彼が、忙しいからといって返事を書かないような、そんな人間ではないことは分かっている。  
自分もそれが分かっているし、信じているから催促など決してしない。それでもやはり、不安に思ってしまう。  
 
部活を終え、帰宅した彼女は、ベッドにごろんと横になった。そのまま天井を見上げながら物思いに耽る。  
 
彼との初めての出会い。それは幼稚園に上がる前ほどに遡る。  
彼の祖父と美沙姫の祖父は親友同士であり、自分達の子供を結婚させようと約束をしていたのだ。  
だが、お互いに息子しか生まれなかったため、今度は孫を結婚させようという話になったらしい。  
そして今度は男と女に分かれたため、その約束を果たそうと孫同士を引き合わせたのが初めての出会いであった。  
 
「許婚」の意味を幼いながらもある程度理解していた美沙姫は、興味半分、怖さ半分であった。自分が添うことになる人がどんな人なのか。  
当然と言えば当然である。  
そして彼の家で二人は初めて顔をあわせた。その時の彼女の記憶は流石に曖昧だが、しかしはっきり覚えている事がある。  
彼の漆黒の瞳がきらきらと輝いていた事。そして自分が……その瞳に一瞬で引き込まれた事。  
 
その日は色々なことをして遊んだ。彼は本が大好きで、色々な本を一緒に読んだ。いつのまにか、彼と一緒にいることに全く違和感を感じ  
なくなっていた。出会ってまだ数時間だったというのに。  
帰る時には寂しくて、思わず泣いてしまった。そんな美沙姫を彼は困ったように見つめながら、手を伸ばして頭をわしわしと撫でた。  
そして優しく告げた。また遊びに来い、と。そして、俺も遊びに行くから、と。  
 
その後、彼とは何回も一緒に遊んだ。彼だけではなく、彼の幼馴染である双子の少女達とも一緒に遊んだ。  
彼女達は、美沙姫にとっては大切な友達であり、そして同時にライバルでもあった。  
双子が彼に好意を抱いていることは初めて会った時に、すぐに分かった。幼くとも、女はやはり女なのだ。  
しかし同時に、二人ともとても良い子達であることも分かった。だから、美沙姫は少し複雑な気持ちを抱きながら双子に接していた。  
 
そしてその後、小学三年生の時に彼は両親の仕事の都合で一年間、京都の美沙姫の家で過ごした。  
この一年は、美沙姫にとっては至福の一年と言えた。  
 
だがこの後、大きな不幸が彼を襲う。飛行機事故で、両親が亡くなってしまったのだ。  
美沙姫は彼を案じた。これからどうするのだろう、と。彼を引き取ろうとする人達は多く、神崎家もその中の一つであった。  
もし彼がここに来る事になったら、許婚として彼を精一杯支えよう、と美沙姫は固く心に誓っていた。  
 
しかし、彼は神崎家には来なかった。いや、神崎家だけではない。引き取りに来た人達全ての申し出を、丁重に断ったのだ。  
当時美沙姫は何故そんなことをしたのか理解出来なかったが、今なら少し分かるような気がしていた。  
彼はきっと、両親を安心させたかったのだ。自分は二人がいなくてもちゃんとやっていけると。強く生きていけると。  
 
しかし当時の美沙姫にはそんなことは分からず、ただ自分の家に来てくれなかったことを悲しく思っていた。  
そして更に彼女を悲しませることが起きた。祖父が、彼と美沙姫を許婚ではなくしてしまったのである。  
 
美沙姫は深く悲しみ、そして激怒した。彼女は家族を大事にしており、当然祖父にも敬愛の念を抱いていた。  
それゆえに裏切られた気持ちで一杯になってしまった。生まれて初めて自分に怒りを向けた孫を、しかし彼は静かに説き伏せた。  
 
お前が彼に深い愛情を抱いているのは分かる。  
自分も彼のことは気に入っている。親友の孫というのを差し引いても、将来が楽しみな少年であることは間違い無いし、お前と結婚  
してくれたらどんなに良いかとも思う。  
だが、それらは全てこちらの都合だ。  
今彼は、絶望に叩き落されながらも必死でそこから這い上がろうとしている。  
ならば、余計な荷物は持たせない方が良い。負担は少しでも軽い方が良い。  
 
それが祖父が語った理由であった。  
美沙姫は唇を噛んだ。祖父の言うことも一理あることは分かる。しかし到底納得出来ない。  
だから美沙姫は祖父に言い放った。  
 
自分と彼を許婚でなくしたいのならば、すればいい。  
だが、例え祖父がそうしたとしても、自分にとって彼は、許婚以外の何者でもない。これから一生を連れ添って過ごす、パートナーである  
ことに変わりはない。少なくとも私はずっとそのつもりでいたし、これからもそうだ、と。  
 
祖父は目を細め、痛ましいような、眩しいような表情を浮かべていた。  
 
それからは手紙が彼と美沙姫を繋ぐ手段となった。  
彼は東京に住み、美沙姫は京都に住んでいたため中々逢えなかった。小学校の卒業後の春休みに一度会ったきりである。  
その時は、お互いに通う中学の制服を着て見せ合った。彼が着ていた学ランがぶかぶかで、思わず笑ってしまって怒られたのを覚えている。  
 
そこまで思い出し、美沙姫はふぅ、と溜息をついた。  
自分はずっと、彼の許婚であることに誇りを持ち、それにふさわしい人間になるべく努力してきた。だがそれは、結局は自己満足だったの  
ではないか。彼はずっと……私を重荷に感じていたのではないか。  
 
悪い想像は止まらない。美沙姫は食欲も無くし、ただ布団にくるまって……泣いた。  
 
翌朝の体調は最悪だった。学校に行くことも出来ず、美沙姫は横になっていた。  
これくらいのことで体調を崩す自分が不甲斐ない。美沙姫はぎゅっと布団を握り締めた。  
だが、どうせ自分は彼に嫌われてしまったのだ。もう、何を努力しても……。  
 
また気持ちが落ち込みかけたその時、美沙姫の下に使用人が手紙を持ってきた。  
差出人の名前を聞いた美沙姫は飛び起きた。何故ならそれは、ずっと待ちわびていた彼からだったからだ。  
 
手紙の他に、写真が数葉同封されていた。  
まず彼女は手紙に目を通す。  
 
『美沙姫へ。返事が遅れてしまって申し訳ない。だが忘れていたわけじゃないから安心しろ。まさかとは思うが、俺からの返事が遅れたくら  
 いで寝込んだりしていないだろうな?』  
まさしく現状を当てられ美沙姫は顔を赤らめる。  
『まぁそれはともかく、遅れてしまったのは久しぶりに酷い風邪をひいちまったからだ。全く情け無いぜ。お詫びといっては何だが、俺の  
 貴重な風邪っぴき写真を同封する。ま、笑ってやってくれ。それじゃあな。   
 追伸:そのうち久しぶりに会いたいもんだな。酒は飲めるようになったか? 飲めるようになったら夜明かしして色々話そうぜ。じゃ。』  
 
美沙姫は同封された写真をみる。そこには死にそうな顔をした彼や鼻のかみすぎで鼻の頭を真っ赤にした彼、風邪薬を栄養ドリンクで飲む  
彼などが写っていた。  
美沙姫はそれらをひとしきり眺めた後、肩を震わせて笑い始めた。そして同時に涙も流した。  
 
彼は私の事を忘れてなんかいなかった。それどころか、会いたいとまで言ってくれた。  
なのに……私は何をしている? 勝手に落ち込んで、一人ですねて……。こんな女が彼の許婚に相応しいか?  
否! 断じて否!! 美沙姫はゆっくりと立ち上がった。目には強い意志の光が宿っている。  
私は……もう迷わない。彼とこの先もずっと連れ添って生きていくために。彼に愛される自分であるために。  
頑張ろう私! そしてまずはお酒に強くならなくちゃ!  
そうして彼女は酒を飲むべくキッチンへと向かいながら呟いた。  
「見ていて下さいね……正刻様。私、きっとお酒に強くなって見せますから……!」  
 
 
 
「ぶえっくしょい!!」  
同時刻、東京。学校の屋上でいつもの面子と食事をしていた正刻は、盛大なくしゃみをした。  
「うわっ! アンタ、ちょっと何やってんのよ! 汚いじゃない!!」  
そう言いながらも唯衣は正刻にティッシュを差し出す。正刻は礼を言うと、口元を拭き、鼻をかんだ。  
 
「凄いくしゃみだったねぇ。きっと誰かが噂してるんだよ。」  
きっと良くない方だよ、そう言って鈴音は笑った。  
「何を言う。きっと正刻に想いを寄せる少女が……って、それはちょっと良くないな……。」  
フォローを入れようとした舞衣だったが、しかし失敗したようで、逆に考え込んでしまっている。  
 
そんないつもの平和なやりとりに苦笑していた正刻だったが、ふと、空を見上げた。  
(あいつも……この空を見ているのかね……。)  
奇しくも同じ頃、同じ想いで美沙姫も空を見上げていた。  
 
高村正刻と神崎美沙姫。この二人は数ヵ月後に運命的な再会を果たし、そこから新たな物語が紡がれることとなるのだが、それはまだ  
もう少し先のお話。  
 
 

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