夏休みに入ったばかりの、とある日の夕方。学校の弓道場で、一人で練習をしている少女の姿があった。  
「ふっ……!!」  
弓を引き絞ると的目掛けて矢を放つ。狙い過たず、矢は的のほぼ中央に突き刺さる。  
「ふぅ……。」  
矢を放った少女は、ゆっくりと息を吐いた。と、ぱちぱちぱちと拍手が聞こえてきた。  
「どなたですか?」  
彼女が問うと、弓道場の出入り口から一人の少年が姿を現した。  
 
「精が出るね美沙姫さん。皆が帰った後も一人で居残り練習だなんて。」  
そう言う少年に、少女……神崎美沙姫は笑顔で答えた。  
「そんな事はありません。それに、貴方だって同じではないですか、雄一郎君。」  
その言葉に、少年……京極雄一郎(きょうごく ゆういちろう)はまぁね、と応えてにこやかに微笑んだ。  
 
少年の名は京極雄一郎。高校二年で、美沙姫の幼馴染であり、クラスメートでもある。  
身長は180を超えるほど高く、また艶やかな髪、綺麗に整った顔を持ち、性格も温厚で優しく、そのため女性からの人気は凄まじく高かった。  
成績も全科目トップクラスで運動神経も抜群。更に彼は、合気道の天才でもあった。  
中学の時から公式戦では未だに不敗なのである。その容姿ともあいまって、高校合気道界では常に話題の中心となっていた。  
 
「それにしても、君がこんなに頑張るだなんて……。やっぱり副部長としての責任感? IH制覇のため? それとも……。」  
持ってきたスポーツドリンクを美沙姫に渡しながら、雄一郎は悪戯っぽい笑みで言った。  
「……今度のインターハイが、東京で行なわれるから、かな?」  
その言葉に、美沙姫は頬を軽く染めながら頷いた。  
 
「……インターハイ出場が決まったことと、会場が今年は東京だという事を正刻様に手紙でお伝えしたら、絶対に観に行くという返事を頂きま  
 して。これはもう、頑張るしかないなぁって。もちろん久遠寺学園弓道部副部長としての責任も果たしますが、それ以上に、あの方の前で無  
 様な姿だけは晒さないようにしようって。そう思ったらもっと練習しなきゃって、そう思ったんです。」  
 
久遠寺学園。京都にある小・中・高・大一貫教育を行なっている私立の学校であり、美沙姫や雄一郎が通う学校である。  
その規模はかなり大きく、また優秀な講師を多数集めているため、政治・経済・スポーツ等、各方面に多くの優秀な人材を輩出している。  
ちなみにスポンサーには神崎家と、京極家も名前を連ねている。  
 
そう、京極家もかなりの名家であった。神崎家程ではないが、主に医療方面でかなりの実績を築いている。雄一郎はその跡取りでもあった。  
 
彼は頬を染めた美沙姫を見ると、複雑そうな笑みを浮かべた。  
 
別に彼は美沙姫に恋愛感情を抱いてはいない。  
だが、幼い頃から仲良くしている女の子が、自分以外の男に好意……しかもとびきり強烈な……を向けているのを見ると、やはり寂しさと  
嫉妬が入り混じったような、複雑な気持ちを抱いてしまうのである。  
仲の良い友人が自分以外の者と仲良くしているのを見た時というのが、心情的には近いかもしれない。  
 
それが、自分と因縁のある相手ならば尚更である。  
 
そう、雄一郎と正刻には因縁……少なくとも雄一郎はそう思っている……があった。  
忘れもしない、幼き日の出来事。それまで挫折を知らなかった自分に、初めてそれを味わわせた男。  
 
自分に、楔を打ち込んだ男。  
 
その出来事自体は美沙姫も知っている。だが、雄一郎がその事にここまでの拘りを持っていることは、彼女にも分からなかった。  
笑顔で話を続ける彼女に相槌を打ちながら、雄一郎は頭の隅で考える。  
 
彼は……正刻は、公式の大会に全く出てこない。  
理由は美沙姫から聞いている。家庭の事情の所為だということだが、頭では分かっていても、長年抱いた想いは解消されない。  
(いつになったら彼と闘えるのだろう……。)  
知らず知らず、拳に力を込めてしまう。彼がここまでの実力を得たのは天賦の才も持ち合わせていたからであるが、それよりも、正刻と再び  
闘う日に向けて鍛えに鍛えたことが大きかった。  
 
(早く闘いたい……彼と……!)  
中学からずっと、雄一郎は公式戦では無敗であった。もちろん苦戦したことはあるし、強敵も多い。  
だがそれでも。幼い時の、あの闘い。正刻と闘った、あの試合の時のような気持ちになれた事は一度も無い。  
初めて遭遇した、同世代で自分と互角以上に渡り合う相手。  
子供離れした闘志とプレッシャー。  
そんな相手を前にした時、幼いながらも自分は確かに闘う喜びに震えていた。  
自分の力と技を全てぶつけられる相手。そして、それらを全て受け止め、更に自分の力を限界以上に引き出してくれる相手。  
雄一郎にとって正刻とは、そのような存在……まさしく『好敵手』であったのだ。  
 
「雄一郎君?」  
美沙姫に名を呼ばれ、雄一郎ははっと気がついた。どうやら考え込んでしまっていたらしい。  
「あ、ごめんね美沙姫さん。ちょっと考え込んじゃって……。」  
「いえ、別に大丈夫ですよ? それより貴方がそんなに考え込むなんて。また正刻様と闘いたいと考えていたのでしょう? 違います?」  
美沙姫にそう言われた雄一郎は、苦笑しながら頭をかいた。  
「参ったね、お見通しか。……そう、彼といつになったら闘えるのかなってね、そんな事を考えてたんだ。いけないよね、本当ならIHの  
 事を考えなくちゃいけないのに。」  
 
それに、と雄一郎は続けた。  
「彼が、今でも僕と互角以上に闘えるレベルでいるかは……疑問だしね。」  
雄一郎は、正刻が兵馬の道場で修業を積んでいることは知っていた。  
だが、それで果たして今の自分に匹敵するような腕を正刻が持っているかは、正直分からなかった。  
正刻の才能は認めている。だが、十分に修行が出来るような環境だとは言いがたい。  
それが唯一、雄一郎が不安に思っていることだった。  
 
しかし。  
 
そう言う雄一郎を見ながら、美沙姫は微笑んで言った。  
「大丈夫ですよ。正刻様は貴方の期待を裏切りません。そして貴方はきっと、再び正刻様と相見えることになります。私が彼と再び出逢う  
 ことになるように。必ず。」  
はっきりと言い切る美沙姫を、驚いた顔で見返しながら雄一郎は言った。  
「ずいぶんはっきりと言い切るんだね……。何か根拠はあるの?」  
そう問う雄一郎に、美沙姫は少し胸を張りながら答えた。  
「根拠なんてありません。強いていうなら、女のカンです。」  
 
その答えを聞いて思わず脱力する雄一郎に、にこやかな笑みを浮かべながら美沙姫は言った。  
「馬鹿にしたものじゃありませんよ? 結構当たるんですから。それに、そういう機会はふとした拍子に訪れることもありますから。そう  
 考えていた方が、その瞬間が訪れた時に適切な行動をとることが出来ますからね。」  
 
にこやかにそう言う美沙姫を見ていた雄一郎はぽかんとしていたが、やがて笑みを浮かべると、ゆっくりと頷いた。  
「そうだね。それに何より僕にはやるべきこともあるしね。まずはそちらを優先させないと、ね。」  
「そうです。団体戦は五連覇、個人戦は貴方の二連覇がかかってますからね。頑張って下さい。」  
「そっちこそ。今年こそは個人も団体もIH制覇出来るように、ね。」  
 
そうして二人はひとしきり笑いあった後、それぞれの家路へとついた。  
 
高村正刻と京極雄一郎、この二人が激突する時は、意外と早く訪れることになるのだが、それはもう少し先のお話。  
 
 
 

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