今日は二月十四日。俗に言うバレンタインデーである。
この日、世の男子は二つに分かたれる。勝ち組と負け組。まぁつまりはチョコをもらえる者ともらえない者、という事であるが。
そして周りから見れば勝ち組どころか超・勝ち組といえるであろう少年、高村正刻は、しかし登校途中の通学路で盛大な溜息をついていた。
「あーあ……。遂にこの日が来ちまったか……。」
彼の足取りは重い。何故ならば、これからいかに阿鼻叫喚な光景が展開されるか予想がつくからだった。
そう、毎年バレンタインデーは、正刻にとってはかなり辛い日であった。それはチョコをもらえないからではない。むしろ、その逆ゆえに、
であった。
彼の幼馴染二人は必ずチョコをくれる。だが、やや問題のある渡し方をする事が多かった。
特に酷いのはやはり舞衣で、幼稚園の頃から段々と渡し方がエスカレートしていた。去年などは、大きなメロンのような球形のチョコを二つ
持ってきたかと思えば、「さあ正刻! 私の胸から直接型を取った乳型チョコだ!! 私の愛がたっぷり詰まっているぞ!! 遠慮なく食べる
いい今ここで! さあ!! さあ!!!」……とあまりにもな暴言を吐いた。その直後に唯衣と鈴音に取り押さえられたためにその場は収まっ
たが、後に残された空気は気まずいなどというレベルを遥かに超えていた。友人達も冷やかす気力も湧かなかったようで、ぐったりと俯く
正刻の肩を皆無言で叩いていった。
では唯衣はまともかと思うとそうではない。彼女は学校でそのような行為に及ぶ事は無いが、その分家に帰った後が凄かった。
大体バレンタインの日は宮原家で食事をする事が多いのだが、その日、夕食に呼ばれた正刻が見たモノは、何層にも積み上げられた見事な
……見事過ぎるチョコレートケーキであった。
唯衣の場合、積極的なアプローチを出来ない鬱憤が、どうもチョコ製作の方にいってしまうようで、毎年凄まじいチョコを作り上げてしまう
のである。対して舞衣は、チョコを上手く作れない鬱憤が、過激な渡し方に繋がっているようである。
そして正刻は、巨大なチョコを二個(しかも舞衣の胸型)、更に巨大なチョコレートケーキを一人で食べる羽目になったのである。
ちなみに残す事は許されない。これも毎年の事であるが、必ず二人の前でチョコを食べなければならず、しかも「完食しろ」というオーラ
を二人で撒き散らすのである。食べたら食べたで「美味しかった? 美味しかったでしょ?」という無言のプレッシャーを放ってくる。
そのプレッシャーに抗う事など出来る訳がなく、毎年正刻は笑顔で「美味しかったぞ、二人ともありがとな!!」と言うのである。
まぁもちろんその気持ちに嘘偽りは無いが、しかし毎年バレンタインの日から一週間以上胃薬の世話になる事を考えると、もう少し何とか
してほしい気も当然する。
「でも……二人とも俺のためにわざわざしてくれてるんだもんなぁ……やめろ、とも言えないしなぁ……。」
はぁ、と再び溜息をついた正刻であったが、いきなりその背中をばしんと叩かれて仰け反った。
「いってぇな!! 何すんだ鈴音!!」
「おはよう正刻! いやー、朝っぱらから煤けた背中をして歩いているもんだからさぁ、つい元気を注入したくなっちゃって!」
あっはっは、と正刻の背中を叩いた張本人……鈴音は、悪びれた様子もなく笑った。
その笑顔をむすっとした様子で眺めていた正刻であったが、やがて彼女につられたように苦笑を漏らした。
「まったく……お前には敵わないな。」
「そいつはどーも。あ、そうだ正刻、はい、これ。チョコだよ! 甘さ控えめの奴だから、胃にも優しいよ?」
そう言って手渡されたチョコを正刻は笑顔で受け取った。
「おう、ありがとな! 毎年義理なのに気をつかわせちまって悪いな。」
そう、鈴音は唯衣と舞衣に比べ、チョコは割りと普通の物を、普通に渡している……ように正刻は思っていた。確かにチョコは、唯衣と舞衣
の物で手一杯の正刻の事を考え、少量で甘さ控えめな物を選んではいたが。
「良いって別にー。ボクが好きでやってるんだから、さ。」
義理じゃなくって本命なんだから、それくらいの気配りは当然だよ、と鈴音は心の中で付け加えた。
ちなみに一見普通に渡しているようだが、実は鈴音なりの拘りがあった。彼女がチョコを最初にあげたのは正刻で、正刻が今日最初に受け取
ったチョコも、実は鈴音の物である。つまり彼女は、バレンタインの日に正刻が初めて受け取るチョコを、自分の物になるようにしていたの
である。準備に時間がかかる唯衣と舞衣は朝一番から正刻にチョコを渡しはしないので、今のところここ数年間は正刻が最初に受け取るのは
彼女のチョコとなっている。その事に軽く満足感と勝利感を得ながら鈴音は言った。
「で、そんなに暗くなってる理由は、やっぱり唯衣と舞衣のチョコが原因?」
「まぁな……。本人達に悪気がないのは分かってるんだが、でもなぁ……。」
そう言う正刻に、鈴音は意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「ふぅん……。ふふ、それじゃあ正刻、今年は結構予想外の事が起きるかもよ? 色々と、ね。」
その鈴音の意味ありげな物言いに、正刻は不審そうな顔をして言った。
「おい鈴音……お前また変な事してないだろうな? お前がそういう言い方する時って、大概ロクでもない事考えてる時だよな? ええ?」
その正刻の詰問に、猫のような笑顔を浮かべた鈴音はおかしそうに言った。
「さーてねぇ? 心配しなくても、キミに不都合な事は起きないよ、多分ね。」
「……今でも十分不安になったんだが……。」
そう言って三度溜息をついた正刻を、鈴音は面白そうに眺めていた。
「おかしい……。」
正刻は洗い物をする手を止めて呟いた。既に帰宅し、夕食を終え、更には後片付けまでしている正刻だが、実はまだ唯衣と舞衣からチョコ
を受け取ってはいなかった。
学校では舞衣からどんなアプローチをされるかと戦々恐々であったが、彼女は正刻に何のアプローチもしなかった。
その事を不審に思いながらも帰宅した正刻であったが、またも予定外の事が起こる。
唯衣から、今日は夕食は自分でとってくれとメールが送られてきたのだ。それ自体は何てことはないのだが、バレンタインに宮原家で食事
をしないのは随分久しぶりなため、何だか調子が狂ってしまっていた。
いや、それよりも、この時間になるまで唯衣と舞衣からチョコをもらえない時など無かった。いつも学校で、遅くとも夕飯の時にはくれて
いて、それで……。
……と、そこまで考えた時、正刻はとある事に思い至り、ぽつり、と呟いた。
「そっか、俺……何だかんだ言って、あいつらからチョコをもらうの楽しみにしてたんだ……。」
最近があまりにもな事が多かったためにバレンタインが辛いなどと思ってしまっていたが、それでも自分はバレンタインにあの二人にチョ
コをもらうのが楽しみだったのだ。
過激な行動を取りつつも、受け取ってもらえるか不安な目をした舞衣が可愛くて。
チョコを食べる自分をじっとみつめる唯衣が健気で。
今まで当たり前過ぎて気がつけなかった、忘れていた事に気がついて。正刻は、ぽりぽりと頭をかいた。
「全く俺って奴は……。もらえなくなって気がつくなんて、な……。」
明日、二人に何て言おう、そう考えていた正刻の耳に、玄関のチャイムの音が飛び込んできた。
「はい、どちら様……って、お前ら……。」
玄関の戸を開けた正刻の目に入ったのは、唯衣と舞衣であった。二人とも、制服の上からエプロンをつけている。よく見ると、所々に茶色い
物体……チョコがついていた。
「……どうしたんだお前ら? そんな格好で……。」
呆然と呟く正刻に、舞衣が口を開いた。
「うん、そのな? 実は、今年は唯衣と二人でチョコを作ろうという話になってな? いや、話せば長くなるんだが……。」
舞衣の話を要約するとこうであった。ニ週間程前、バレンタインの計画を練る二人に鈴音が釘を刺した。去年あれだけの事をしでかして今年も
また酷い事をしたならば、正刻といえどもチョコを受け取ってくれないかもしれない、と。
去年の正刻の有様を見ていた二人は流石にやりすぎた感は持っていたらしく、その意見を否定出来なかった。そこで鈴音から出された案が、二
人で一つのチョコをあげる事であった。今まで二人で一つのチョコをあげた事は無かったため、新鮮であるだろう、と。更に彼女からはもう一
つの案がだされた。正刻の方ももらう事に慣れているようだから、あげる時間を遅らせてやるといい。そうすれば彼も、キミ達のチョコの有り
がたみを思い出すだろう、と……。
ちなみに「貸し一だからねぇ、忘れないでよ?」と言われた事は、流石に言わなかったが。
話を聞いた正刻は、苦笑を禁じ得なかった。
(野郎……ハナッから全部こうなるって分かってやがったんだな……! まったくあいつは一度お仕置きしてやらなくっちゃだな……。)
脳裏であっはっはと笑う眼鏡っ娘にどう報復してやるかを考えつつ、正刻は言った。
「で、ここに来たって事は、チョコを俺にくれるんじゃないのか?」
正刻にそう言われた二人は、ぴし、と身を固まらせた。不思議そうに首を傾げる正刻に、唯衣が言い難そうに切り出した。
「その、ね? 二人で作るのって、案外難しくって……その……。」
そう言いながら唯衣はおずおずとチョコを差し出した。
「…………。」
正刻は無言で受け取り、それを見た。おそらくハートを模した形なのであろうが、ひどく歪になっていて、でこぼことしていた。表面もざら
ざらなままだ。
「あ、無理に食べなくていいんだぞ? 流石にこれは……どうかと思うし、な……。」
舞衣が力なくそう言った。だが。
ぱくり、と正刻は齧りついた。
驚きに目を見開く双子の前で、正刻は続けて齧っていく。
やがて全部を口に納め、飲み込んだ正刻は二人を見ると、にっと笑って言った。
「美味いぜ、このチョコ。ありがとうな、唯衣、舞衣!」
その笑顔に二人は見蕩れたが、すぐに表情を暗くし、俯いた。
「いいんだよ正刻、無理しなくても……。」
「そうだ。そんなもの、美味いはずが……。」
しかし二人はそれ以上何も言えなかった。正刻が、二人をそっと抱きしめたからだ。
「美味かったぜ、本当にな。……それによ、俺……嬉しかったんだ。お前らからチョコをもらえてさ。今年はもう、もらえないんじゃないかっ
って思ってたから、さ。」
そう言う正刻に、唯衣と舞衣は驚いたように言った。
「そんな、正刻……!」
「そんな事……!」
だがそんな双子に笑いかけると、正刻は続けた。
「いや、さ。正直に言うと俺、ここ数年はバレンタインの日はちょっと憂鬱だったんだよ。けどさ、今日気がついたんだ。いや、鈴音の奴に
気付かされたのかな? まぁとにかく、俺はお前たちからチョコをもらうのが、楽しみだったんだよ。なのに、バレンタインが憂鬱だなんて
思っちまってさ。だから今年もらえなくても、それは仕方が無い事なんだって思った。自惚れた俺への罰だってな。……だけど、お前達は
チョコをくれた。それが凄く……嬉しくってさ。だから、さっきのチョコが不味いだなんて、そんな事は無いぜ。本当に……美味かった。
心に沁みたよ。」
正刻の独白を黙って聞いていた二人であったが、やがて、二人ともぎゅっと正刻を抱きしめ返した。
「全く馬鹿だね、あんたは……。私達があんたにチョコをあげないだなんて、そんな事ある訳ないじゃない。あんたにチョコをあげる物好きは
そう多くないんだから、私達があげなくなっちゃったらあんたはきっと、誰からももらえなくなっちゃうんだから……だから、私達はずっと
あげるわよ。あんたが嫌だって言っても……絶対あげるんだから……!」
「全く君は相変わらず私達の愛を過小評価しているな。もっと私達の事を信頼しろ。私達の、君への愛が薄れる事は無い。君が君である限り、
私達が私達でいる限り……ずっとだ……!」
二人の言葉を聞いた正刻は胸が一杯になり、黙って二人を抱きしめた。二人もまた、正刻を抱きしめ返した。
二月の夜に相応しい寒い夜であったが、この時の三人は、そんな寒さなど感じない程に暖かかった。
ちなみに佐伯道場の双子からとんでもないチョコをもらったり、京都からメッセージと写真付きのえらく豪華なチョコが送られてきたりして、
また一騒動あったりしたのだが、それはまた別のお話。