青天の霹靂、という言葉がある。  
その日から、十四歳だった私の身に起こった一連の出来事は、まさに、その言葉どおりだ  
った。  
…想像してみて欲しい。  
『自分』というものを定義するのに必要な要素は、人それぞれ、名前とか、人種とか、宗  
教とか、所属している社会だとか、色々だろう。  
とはいえ、『性別』というものを、全く定義のなかに入れていないという人は、少数派な  
のではないだろうか。  
…では、そんなものが、ある日突然、ひっくり返ったとしたら?  
 
それが、十四歳のあの夏の日。  
私に/俺に、起こった出来事だ。  
 
 
 
Heavenly blue  
 
 
 
期末テストも終わり、一部の教員も、生徒も、夏休みを目前にいいかげんダレている。  
「…暑い」  
あまりの暑さに一段高いところにある給水タンクの影に避難する。  
中庭から聞こえるアブラゼミの声が暑苦しさを余計に感じさせるが、少なくとも教室より  
は蒸し暑さ、という点においてはまだマシだ。  
ジーワジーワ、ジ―――。と、セミの声が遠くから聞こえる。  
日差しはキツイが、給水タンクの影の中には届かない。  
風が吹いて、スカートの裾を通り過ぎるのが心地よかった。  
 
弁当をたいらげ、空箱を枕にしてウトウトしかけていたら。  
「あっ! やっぱりここに居たんですねー!」  
甲高い声に眠りを破られる。  
「…まゆこか。いったい、何よ」  
「なによ。じゃありませんよ。授業中に何してるんです、みいちゃん」  
「授業っつっても自習だろー。ちゃんと課題は出したんだから何してようとアタシの自由だ」  
「そういう問題じゃないですよー! 先生が見回りに来ないとも限らないんですよっ!  
 みいちゃん、ただでさえも生活態度の悪さで、先生の評判悪いんですから。  
 こんなところでサボってるのが見つかったら、また生徒指導の先生に叱られるじゃないですかっ」  
ぷりぷり怒りながらそんな事を言ってくる。  
…ふーん、心配してくれてたのか。  
「そんなキャンキャン怒鳴らなくても聞こえてる。…なんか、最近、気分が悪くなる事が多くてさ。  
 腹や関節は痛いし、貧血みたいな目眩はするし、教室ってうるさくて頭痛がするからイヤだったんだ」  
「え? だ、だいじょうぶなんですか? 保健室、一緒に行きましょうか?」  
「保健室って薬くさいからイヤ。それに校医のおばちゃん、すげえ性格悪いから行きたくない」  
「…わがままー…」  
「うるさい。とにかくイヤなんだって。…まあ、多分たいした事無いさ。下腹の辺が気持ち悪かったり、  
 関節が痛かったりするくらいだから。生理痛とかじゃないか? 多分」  
「え? みいちゃん、初潮来たんですか?」  
「いや、まだだけど」  
私の身体は、14になっても、未だ女としての成熟さを見せない。  
胸の膨らみなどは一切無いし、初潮が来る気配すらない。  
真由子は11歳くらいで毛も生えて、初潮を迎えていたのを考えれば、かなり遅い部類に入るだろう。  
実を言うと、そのころ一度、嫌がる真由子を無理矢理押さえつけてパンツを脱がして確認した事もあった。  
…もっとも、私自身はその事について、真由子や母が心配するほど気にしてはいない。  
むしろ、自分の胸が膨らむとか、子を生む為に生理が来るとか、そういうことに対して、違和感しか覚えない。  
 
…でも、真由子のでっかいおっぱいだけはとても好きだ。  
まるくておおきくてふかふかしている。何度かふざけて触った事はあるが、いつ触ってもとてもいい。  
でかいし柔らかいし触っているだけであそこまで幸福感を得る事が出来るものも、そうは無い。  
やっぱりアレいいなあ好きだなあ欲しいなあいつでも好きなときにさわれたらすごくいいだろうなあ。  
「――…ちゃん! ――…ぃちゃん!」  
別に私が自分で持つ必要なんざ一切無いんだよな真由子がいつでも好きなときに好きなだけ触らせてくれたら  
それで別に問題ないわけじゃんそーだよなよしそれで、  
「…みいちゃんっ! 聞いてるんですかっ!」  
「へ、あ、なに、やっぱ生は駄目?」  
「? 何の事ですか?」  
「いいや、なんでも? それより、オマエ今なにか言った?」  
ふう、あぶないあぶない。  
真由子の乳の記憶を反芻しているうちにいつのまにかトリップしていたようだ。  
ンな事考えてるのがバレたら、ぜったいもう二度と触らせてくれないだろうしなー。  
「…やっぱり、聞いてなかったんですね!」  
むー。と、ほほを膨らませ怒る真由子。  
うわクソ。かーわいいなあー、コイツ。  
「悪い悪い。…つってもよ、どうせ『早く教室に戻りましょうよー』だろ?」  
「そうですっ。言わなくても解ってるなら早く帰りましょうよ」  
「んー。ま、オマエさんにゃ悪いが、もう無駄だ」  
「無駄って、そんな―――」  
キーンコーンカーンコーン。キーンコーンカーンコーン。  
「はいっ、時間切れー。昼休みになりましたー」  
「あ、ああーっ!」  
ううー。と、恨めしそうな上目遣いでこっちを見てくる。  
…心配してくれるのは嬉しいが、こっちのペースをあわすつもりは毛頭無い。  
本当に、教室というのは息苦しいと思う。特に女子の社会というのはややこしくて仕方が無い。  
私はどうにも昔から馴染めなくて、親しい女子といったらそれこそ赤ん坊のころからの付き合いの  
真由子くらいのものだ。  
 
反面、男子とのほうがウマが合う連中が多く、昔からそっちとばかり付き合っている事の方が多かった。  
中学に上がった頃、その事で一部の女子とちょいとばかり揉めた事もあったくらいだ。  
まあ、思春期の女子の集団によくある「○○ちゃんの好きな男子を藤井瑞穂が取った」とかの、  
こっちにしてみりゃ言い掛かりに近いトラブルだ。  
私に言わせれば馬鹿馬鹿しいの一言に尽きるような、くだらない諍いだったが、ムカつく事にそいつら、  
真由子にまでちょっかいかけやがったのである。  
まあ色々、不快な思いをした分はきっちりとやりかえしたのはいいが、その件で他の無関係だった  
女子連中も私を避けるようになったため、未だに真由子以外に女友達というものは出来ていない。  
 
「…別にさあ、わざわざオマエまでここで弁当広げなくてもいいんじゃないの」  
こんなふうに、メシ食うときまで一緒じゃなくても、良いんじゃないかと思う。  
なんでこう、女の子というのは何をするにも誰かと一緒じゃないといけないのだろう。  
極端なヤツだと、弁当どころか、便所にまで手をつないで行っていて、何をしてるんだと思うのだが。  
「いいじゃないですか、別に。それともみいちゃん、教室で食べます?」  
「やなこった。暑苦しい」  
…まあ、屋上は気持ちが良いし、真由子が横にいるのは嬉しい。ちょいとばかり照れくさいが、  
この場にいるのは私たち二人だけだから、それほど気にもならない。  
その事を真由子も解ってくれているのだろう。普段は女子グループと弁当を食っているのだが、  
時々、こうして私のところで他愛も無い話をしに来る。  
普段、特に誰ともつるんでいない私の事を真由子なりに心配してくれての事なのだろう。  
 
自分の弁当はとっくに食べてしまっていたので、おやつ用に買っておいた惣菜パンを食べる。  
「…なんでそれだけ食べてるのに、太らないんでしょうね、みいちゃんは」  
うらやましいなあ、と溜息をついて、ちっこい弁当箱を同じくちっこいフォークでちまちまと突付きながら  
真由子がぼやく。  
「アタシに言わせりゃ、オマエこそまたダイエット?ってとこだけどなァ」  
むー。と睨んでくる真由子。  
「…オイオイ誤解すんなよ? 別にそんなカリカリしてダイエットするほど太ってないんじゃないかって  
 言いたいだけ」  
確かに、どっちかといえば、ぽっちゃりふっくらしてる方だとは思うけど、私らくらいの年齢ならそっちのほうが  
普通だし、腕とか胸とかふとももとか、真由子は全身どこもすべすべふかふかしていてとても気持ちが良いの  
だからそれでいいと思う。  
 
食事が終わると、真由子は鞄から雑誌を取り出して、パラパラと捲りだす。  
「…ガッコに雑誌なんか持って来ていいの? 委員長ー?」  
「んー、ホントは駄目なんでしょうけど、休み時間に広げてるくらいならそんなにうるさく言われませんよ?」  
「アタシ、前に取り上げられた事あるぞ」  
「あれは授業中にパズルなんか解いてるからじゃないですか。それより、これ見てくださいよ。  
 …みいちゃんはー、せっかくキレイなんですから、もっとこう、オシャレしたらいいと思うんです」  
「してるだろ」  
見ろこのダイバーズウォッチ。兄貴のお下がりなのだが、なかなか渋くて最近のお気に入りだ。  
「そんな男の子みたいなのじゃなくてー。…あ、このワンピ可愛いと思いません?  
 みいちゃんみたいな背が高くてスタイル良くて髪キレイな人が着るとすごく似合うと思うんですけど」  
「…いやマテ? 雑誌抱えて夢見んのは勝手だけどさ。値段ムチャクチャだよ? これ」  
よくもまあ雑誌に載ってる服だけでここまでキャーキャー楽しめるもんだ。  
そもそも女物の服だの靴だのというのは、何でこんなに高価なのだろう。  
ひらひらしたうすっぺらいワンピースだのおもちゃみたいなちっこいサンダルに、恐ろしい値段が付いているのである。  
「うわこれ母さんが好きなブランドだ…。…げえっ!」  
 
ちょっとまてオイ私のタンスの中のアレってこんな額なのか。  
…いらねえ! いらねえよ母さん!  
こんな服買わなくていいから新しい自転車買ってくれよ!  
思わず天を仰いでひっくり返る。  
くそ、あれ古着屋に持っていけばあきらめてた新刊買えるんじゃないか?  
「あ、これも可愛いと思いません? …ね、見てくださいよー、これこれ」  
私の反応にもまったく動じず、広げた雑誌を持って私の横に真由子が来る。  
ふわり。と、フローラル系の制汗剤と少女特有の体臭の混じった、ひどく甘い匂いがした。  
「――ふーん、いいんじゃないの?」  
生返事を返して、出来る限りさりげなさを装って距離をとる。  
夏という事もあって、最近の真由子からは、特にそんな匂いがするようになった。  
あの香りを嗅ぐ度に、腰のほうから何か、ざわりとした感覚が背筋を登ってくる。  
 
――ああそうだ。私は、同性である真由子に欲情している。  
 
自分の中の劣情をはっきり意識しだしたのは少し前からだが、いつからそういう意味で好きだったのかは、  
正直、よくわからない。  
それこそ、赤ん坊の頃からの付き合いだから、当たり前だけどとても好きだった。  
そもそも、人付き合いがあまり得意でなく、人間の好き嫌いの激しい私がまともに付き合える人間というのは  
貴重なのだ。  
「もー、また生返事してるでしょう。みいちゃん、本当に苦手ですよね、こういう話」  
はあ。と、呆れたように真由子が溜息をついた。  
「…ンな事言われてもさ、アタシゃ本当に服とか化粧とか、興味ないんだって」  
「…わかりました。今日のところは引き下がります。  
 ――ところで、みいちゃん、今日は一緒に寝ませんか?  
今日、おばさんお出かけになるから、ウチで夕飯にするんですよね?」  
 
あとでゆっくり話があるぞ。という顔で笑う。  
こいつといい母さんといい、私を着せ替え人形か何かだと思ってないか?  
真由子の家はおじさんは出張、おばさんは夜勤の多い看護婦さんの共働きで、ウチも、父は同じく長期出張の多いサラリーマン。  
母は料理研究家を仕事にしていて、しょっちゅう家を空けていたので、昔からお互いの家に預けられる事はよくあった。  
その事もあって、未だに何もなくてもどっちかの部屋で一緒に寝る事はしょっちゅうだ。  
そうなると、当然、風呂や布団も一緒にされる。  
異性ならば14にもなればそんな事しないのだろうが、私らはそもそも女同士である。  
真由子にしても、お泊り会というのは遅くまでお喋りできて楽しいのだろう。  
しかし、風呂にしても布団にしても、私にとっては拷問に近い。  
特に寝る前は最悪だ。  
時々ふざけて抱きついたりこっちのフトンに潜り込んできたりされる。  
はっきり言おう、たまったものではない。  
真由子にしてみれば親友同士のおふざけなのだろうが、私にしてみれば本気で拷問だ。  
 
「あ――、いや、止めとくよ、迷惑になるしさ」  
「え、別にそんな事ないですよ?  
 わたしも、おとうさんもおかあさんも、みいちゃんを  
 迷惑だなんて思うわけが無いじゃないですか。  
 そんな他人行儀なこと、言わないでくださいよ」  
「…とにかくさ、今日は止めとくよ」  
これ以上話してると、確実に泊まらされるハメになる。  
夕飯の誘いも、おばさんには悪いが断った方がいいな。  
慌ててはしごも使わず飛び降りる。  
「ちょ、あぶないですよっ!?」  
「へーき、へーき。まゆー、オマエ、アタシの運動神経見くびるんじゃ――、」  
そんな軽口を叩いた瞬間、  
ぐらり、と。  
酷い目眩を起こして、目の前が白くなり、いきなり何か、壁のような物が凄い勢いで側頭部にぶつかってきた。  
「――みいちゃんっ!?」  
真由子の悲鳴。  
――ああ、違うな。壁がぶつかってきたんじゃなくて、私が、床に倒れたんだ。  
覚えていたのは、それが最後。  
 
 
 
――かあ、かあ。  
昼間の青が嘘のように赤黒い、夏の夕暮れの空にカラスが鳴いている。  
空気がねっとりと暑く重苦しい。  
昼に学校の屋上で倒れてすぐに意識が戻らなかったため、私は救急車で病院に運ばれた。  
「―――――。」  
「……………。」  
私が病院に担ぎ込まれたという報せを受けて、わざわざ外出先から病院に駆けつけてくれた母と私の間に、  
長く沈黙が横たわる。  
「―――――かあさん」  
呼びかけると、ぎょっとしたような顔で私を見て、それからしまったという風に、ぎこちない笑顔を母は作った。  
「あ……、な、何かしら、瑞穂さん…?」  
―――ハ。  
片頬だけを吊り上げて笑いながら、「――どうしようね?」と聞く。  
そうすると、見る見るうちに、母の顔は強張っていった。  
 
 
 
さて、何故私ら母娘の間に、こうもギスギスと重苦しい空気が立ち込めているのかというと、話は数時間前に遡る。  
倒れた際、私は右半身全体をかなり強烈に打ち付けていたらしく、頭にかなりひどいコブが出来ていると言うこともあり、  
心配した母が精密検査を医者に希望したらしい。  
私も、目眩なんかの最近の体調不良が気になっていた事もあり、受けさせてもらう事になった。  
それで、血液検査だのCTだのレントゲンだの、色々されたあげく、『転んだときの怪我は異常なし』と診断された  
のだが、その後、やけに深刻な面をした医者に呼ばれたと思ったら。  
「――…先生、すいませんが、もう1回、言ってもらえます?」  
「――ですから、藤井さん。検査の結果、わかった事ですが貴女は、本当は男性という事になります」  
――なんだって?  
 
「いや、先生、確かにアタシゃ胸は無いですが、竿も玉も今までぶら下げてた事はいっぺんだってありませんよ?」  
「…いえ、ごく稀な例ですが、外見上の性別と遺伝子学上の性別が違うというケースが あるんです。  
 発生の段階で、染色体に異常があったり、遺伝子情報の伝達ミスなどの 理由で、外見は女性ですが、  
 実際は男性であるとか、あるいはその逆のケースが」  
「…あー、その、…つまり、アタシは」  
「はい。男性です。  
 …藤井さんの場合は、推測ですが、おそらく外性器の発育不全で、出生時に男性器が確認されず、  
 女性という事になったのだと思います。  
 先ほどお母様に伺いましたが、自宅出産だったという事ですし。  
 改めて詳しく検査をしないと断言しかねますが、最近の体調不良も、思春期になって、本来の男性器が  
 成長を始めた事と、それに伴うホルモンの分泌と関連があるかと思われます」  
 
それから、医者に色々と説明を受けたがアンドロゲン受容体の遺伝子異常とかテストステロンがどうとか、  
言われたところでさっぱりわからない。  
理解できたのは、  
 
一、実は私には子宮が無いこと。膣もごく短いもので先は詰まっているという事。  
一、私のような人間――半陰陽というらしい――は、今まで暮らしていたときと同じ性を選ぶケースが多いという事。  
一、ペニスと精巣は未熟なものだが身体の中にめり込んだような形で存在しているという事。  
   このまま放っておけば精巣が悪性の腫瘍になる危険性が高い事。  
一、このさき男女どちらの性を選ぶにしろ、早期の治療が必要だという事。  
 
それだけだったが、それだけ理解できれば充分だった。  
理解は出来たが、どうして良いのかわからない。  
だって、私は今日の昼までは、自分が女である事を、面倒だとは思っていても、疑った事などなかったのだから。  
それから、まず第一に思ったのは、母は何と言うだろう。という事だった。  
 
――私の母は、抑圧的な人だ。  
別に虐待を加えられたわけではないし、母にとっては深い愛情を注いだつもりだったのだろう。  
もうずっと、幼い頃から『女の子らしく』。そう言われ続けてきた。  
お茶にお花、日舞にバレエにピアノ。その他、『女の子らしい』習い事は色々やらされた。  
どれもこれもイヤでイヤで仕方が無くて、そのたび抵抗しては、母は溜息をついていた。  
私の上には兄が二人いて、私はあまり体が強いわけでもない母が「女の子が出来るまでは」と頑張って、やっとの思いで授かった娘であるらしい。  
昔、父にそう聞かされたことがある。  
誤解してほしくないのだが、別に私は母を恨んでいるわけでも憎んでいるわけでもない。  
ただ、母が私に求める『理想の娘像』に、少々ウンザリしているというだけだ。  
『女の子らしい』服、『女の子らしい』仕草、『女の子らしい』性格、『女の子らしい』容姿。  
……うんざりだ、吐き気がする。真由子はキレイだと言う、このずるずる長い髪も鬱陶しくてたまらない。  
夏場なんぞ、首筋に汗疹ができて痒くて仕方が無い。数年前、一度自分で工作バサミでじゃきじゃき切った事が  
あったが、その時母は一週間寝込んでなぜか真由子まで泣いていた。  
父にも兄たちにも説教を食らったため、大人しく伸ばしてまた腰のあたりまで伸びてきたが本当にイヤだ。  
 
そんな、母が執念深い愛を注いできた『娘』が実はやっぱり『息子』だったと知ったら――?  
 
不安と得体の知れない恐怖を抱え、診察室から出る。  
廊下で待っていた母と、一瞬目が合った。  
その母の眼にあったのは――絶望。落胆。嫌悪。――どこまでも深い、拒絶。  
 
――なんだ。  
その目は、何だ。  
あなたが。あなたが、私を拒絶するのか。この私を産んだ、あなたが!  
 
その瞬間、長い間抑え付けていた憎悪が噴き出した。  
 
――ああそうだ。この人は、私の事など何も考えちゃくれない。  
今までさせられてきた事、言われてきた事、着せられてきた服。どれだけ、何故それがイヤなのか、  
何回説明しても、あなたは聞いてはくれなかった。  
母さん、あなたは『娘』が欲しかっただけだ。キレイに着飾ってどこにでも連れ歩ける、上品で従順な人形のような  
『娘』が!  
――『瑞穂』の事なんて、ちゃんと見てくれた事なんか、1回も無かったんじゃないのか――!?  
 
私の感情が伝わったのか、先ほどまで眼に浮かんだ感情を塗りつぶすかのように、  
笑顔を浮かべようとしていたが、頬が強張り、顔を歪めたようにしか見えなかった。  
 
 
 
単身赴任中の父と、遠方に就職・進学の為に散らばっている兄達に、事態を説明し、帰ってくれるよう、電話をする。  
母は、帰ってから自室にこもってしまったし、何より、私と母だけで冷静な話し合いは出来そうに無かった。  
父も兄達も驚いていたが、すぐに帰ると言ってくれた。  
これからどうするにしても、とにかく入院する事にはなるだろうし、学校の方にも説明がいる。  
そして、それはまだ14の子供である私にはできない事だった。  
母は寝室から出てこない。  
人気の無いダイニングは、いつもよりさらに空々しい匂いがした。  
 
服を全て脱いで、自室にある鏡の前に立つ。  
真っ黒な長い髪。血色の悪い日焼けしない肌。  
骨の浮いたガリガリの平らな胸。  
「――ハ。確かにな、女の身体じゃあ、ねえなあ」  
がん! がん! がしゃん!  
拳を作って鏡を渾身の力で何度も殴りつける。  
「――はあ、はあ、は…。…はは、あははははは――!」  
何だ。  
わたしは、なんだ。  
鏡の中の自分は、あまりに歪で、醜かった。  
 
母さん。  
お稽古事はイヤだった。母さんの買ってくる服もイヤだった。  
仕草や言葉使いを『女の子らしく』と、うるさく注意される事もイヤだった。  
でも。  
「ごめんな、母さん…。アタシ、母さんの欲しい娘じゃ無かったよ…」  
できれば、私はあなたの望む存在になりたかった。  
あなたに愛されたかった。  
あなたに必要とされたかった。  
――でも、どうすればいいのかわからなかった。  
『娘』でいれば、母の望むような可愛く優しい、女の子らしい女の子でなくとも、まだ母に必要とされる気がしていた。  
女である事はイヤで。  
でも母に愛されない事がイヤで。  
男の自分に価値があるのかと、グダグダと考えている。  
 
私は歪だ。  
肉体だけではない、魂があまりにも歪だ。  
醜い。  
あまりにも――、私は、捩れている。  
 
 
――幼い頃の、夢を見た。  
そのころも、私の遊び仲間といったら、真由子しかいなくて、何を遊ぶかといえば、決まって真由子のお気に入りの『ごっこ遊び』だった。  
ままごとだのお姫様ごっこだの結婚式ごっこだの、色々とやらされた事は、よく、覚えている。  
『みいちゃん、おひめさまね、だってキレイだから』  
――ふつう、女の子というのは、自分がお姫様なんかの良い役をしようとするものだろうに。  
『まゆはね、まゆはねっ! わるいまほうつかいにさらわれたおひめさまを、たすけるやくなのよ』  
――ジャングルジムは王様のお城。シーソーは断崖の吊り橋。ポストは宝箱で、非常用の螺旋階段が魔法使いの塔だった。  
『ひめーっ! たすけにきましたーっ! さあ、まほうつかいからにげるのですうーっ!』  
――ニコニコと楽しそうに笑うまゆ。くたくたになるまで遊んで、マンションの最上階から見た夕焼けの空。  
おばさんの作る、焼きたてのホットケーキの甘い匂い。二人でいっしょにくるまった毛布の温み。  
――あの時私は、本当は山賊がやりたかったのだけれど。  
まゆが笑ってくれるなら、別にお姫様でもかまわなかった。  
まゆこのためなら、どんなモノにでもなってやろうと、そう考えていた。  
――今でもそれは、変わらない。  
 
 
「瑞穂、居るのか? …入るぞ」  
控えめなノックの音と、ノブを回す音で、浅い夢から覚めた。  
「――やあ、兄さんか…。おかえり」  
上の兄、斎一郎兄さんがぎょっとした顔で立ちすくんでいた。  
――無理も無い。  
部屋はぐちゃぐちゃで、床に鏡の破片が散らばっており、私はベッドの上に座り込んでいる。  
鏡は割ってしまったからよく解らないが、きっと、幽鬼のような顔をしているのだろう。  
「――瑞穂…。…とにかく、手を診せなさい。血だらけじゃないか…!」  
大人しく手を出して診てもらう。  
「…よかった。そんなに深く切ってはいないな。破片も入り込んではいないようだ」  
「…ごめん、斎兄さん。わざわざ帰ってきてもらって。研修医って、忙しいんだろう?」  
そう言うと、気にするな。とこちらを励ますように笑って、私の頭をぽんぽんと撫でる。  
十二も歳が離れているせいか、この長兄はどこか、もう一人の父親のような感じがする。  
「父さんと梓も、じきに帰ると僕の携帯に連絡があったよ。  
 …母さんも、今は少し落ち着いているようだから、安心しなさい」  
「――…そう。そりゃ良かった」  
自分でも驚くくらい、感情の無い声が出た。  
斎兄さんは、少し、驚いたように目を見開いてから、何事も無かったように傷口を消毒して手当てをしていく。  
「…とにかく、今日は一度皆で話し合って、病院には、明日行こう。僕が一緒に行くから」  
「斎兄さん」  
「うん? なんだい?」  
「驚かないんだな」  
「――そうだね。驚いてはいるよ」  
「そうは、見えないが」  
「僕は、お兄ちゃんだからね。僕があんまりオタオタしたら、お前や梓も不安になるだろう?」  
「――…うん。そうかも。…そうだね」  
くるくると器用に包帯が巻かれる。  
「これでよし。あまり濡らさないように注意するんだぞ」  
「うん、ありがとう。兄さん」  
帰ってきてくれて。  
 
その後、すぐに父と梓兄さんも帰ってきて、ともかく明日どうするかの相談になった。  
で、保護者説明も兼ねて、成人している兄二人に病院に付き添ってもらい、父は、母を落ち着かせる為と、  
学校に私の休学届けを出すため、家に残ってもらう事になった。  
普段、無口でいつも厳しい顔をしている父が、珍しく口を開いて「お前の好きに生きるといい」と言ってくれたことが、嬉しかった。  
嬉し、かった。が―――――  
 
―――――好きに、生きても。本当に、良いのだろうか――――?  
 
 
「――おーい、瑞穂? どうした? ぼーっとして」  
「…つい最近環境が激変したばかりなんでな。いくらアタシが頑丈でも流石に堪えるさ。  
 
 っつうかそれがストレスど真ん中に居る兄弟にかける言葉か?あとノックもしないで勝手に人の部屋に入ってくるなよクソ梓」  
「…このクソガキ。テメエそれが心配してわざわざ遠くから帰ってきた兄貴にいう言葉か?  
 梓お兄様って呼べっていつも言ってンだろがコラこのアホ瑞穂」  
この猛烈に口の悪いのが次兄の梓兄さんだ。  
「梓兄さんも相変わらず元気そうで何よりだな。――アンタも、もう二十歳なんだからいいかげんにもうちょっと  
 大人になったらどうなんだ? 六歳も年下の妹相手に言う言葉じゃァねえだろう、ええ? 梓お兄様よゥ?」  
「それだ」  
「…はあ?」  
先ほどまでがウソのように真剣な顔になっている。  
「今、妹って言ったけどよ。おまえ、結局どうすんだよ?  
 ――その、このままでいるのか、それとも男になるのか」  
 
「っ! …アンタ本ッ当にデリカシーねェなあ、オイ!  
 そんなんだから二年も付き合った彼女に『私達、少し、距離を置いた方がいいと思うの』なんて言われてフられるんだよ!」  
「まだフられてねえーっ! イヤ待て!? 何でオマエが美由紀の事を知ってんだっ!?」  
本気で殴りあいの喧嘩に発展しかけたその時、  
「はいそこまで――っ!!」  
斎兄さんの仲裁(鉄拳付き)が入った。  
「父さんも母さんももう寝てるんだぞ? 静かにしなきゃ駄目じゃないか」  
「「だってこいつが」」  
声をそろえて反駁しかけ、その事に気づいて気まずく顔を見合わせる。  
ふう。と、呆れたように溜息を斎兄さんがついた。  
「まったくお前たちは。…話なら、そんなに喧嘩腰じゃなくても出来るだろう? ずいぶん久々に兄弟三人揃ったんだ、仲良くしなさい」  
ドン。と床に酒瓶を置いてそんな事を言う。  
「――ええと、兄貴? それは?」  
「うん? お互い積もる話もあるのに、酒が無きゃ文字通り話にならないじゃないか」  
「いや、俺ァこないだ成人したけどよ、瑞穂はまだ未成年――」  
「梓」  
「うん」  
「――大丈夫だよ。僕は急性アルコール中毒の人の応急処置は何度もしたことがある」  
「全っ然大丈夫じゃねえっ!? そういう問題じゃないだろっ!?」  
「『豊葦原ノ瑞穂ノ国』の瑞穂だもんなー、米の酒くらい飲めないとなー」  
「――すでにだいぶ酔ってるな、斎兄さん」  
梓兄さんの言葉を完全に無視して、私の手に無理矢理握らせたコップに日本酒をドボドボ注いで行く。  
「ああ、さっきまで父さんとちょっとね、明日以降の段取りしながら飲んでたんだ」  
横で、梓兄さんも何かを諦めたような顔になって無言で手酌で注いでいる。  
…静かに悩む事もさせてくれないのか、この兄どもときたら。  
無言でコップの中身をすすった。  
 
 
一時間後。  
梓兄さんも相当酔ってきたらしく、斎兄さんとなにやら話し続けている。  
私はといえば、ベッドの上に座って壁に背を預けた姿勢のままでちびちびと酒を啜り続けている。  
「――梓兄さん」  
「…んあー? なんだー?」  
「梓兄さんは、嫌じゃなかったのか?」  
「…何がだよ。主語をぶっ飛ばしていきなり言うな、ワケ解らんだろ。オマエの悪い癖だ」  
「――昔さ、子供のころ。よく女の子みたいな格好させられてたろ」  
梓兄さんは、名前もまるで女性のような名前だし、幼少時のアルバムは、なかなか悲惨だ。  
斎一郎兄さんの時は、赤やピンクが多いが、男女兼用の服を着せられているのに、梓兄さんに到っては、  
フリルびらびらのワンピースや花柄のスカートなどの、完全に女児用の服を着せられている。  
しかも、梓兄さんは赤ん坊のころから眉毛も太く骨太で、どこからどう見ても男児にしか見えないから余計に  
悲惨さが増している。  
――私が生まれたとき、母はとても喜んだのだそうだ。  
母にとって、男系家族のなかで、唯一絶対の自分の味方になってくれる存在が、『娘』だったのかもしれない。  
「…あー。まーなー、でも、俺の場合とオマエの場合はまた違うだろうよ。俺ァ何だかんだ言ってもよ、  
 まだガキの時分だけだったし。オマエが生まれてからは、あんまり妙な格好はさせられなかったしなァ」  
「…梓はフリルで、僕のときは着ぐるみなんだよね…。しかし、壮絶だなァ…」  
昔のアルバムを引っ張り出しては読み出す兄達。  
…そうだった。梓兄さんの乙女チックな服も酷いが、斎兄さんのクマやらネコやらの動物着ぐるみシリーズも相当に酷い。  
「でもさ」  
「あー、そうだな、けどよゥ、なんだかんだ言っても、俺ら――」  
「「このころの記憶ってそう無いもんな」」  
覚えてなけりゃ恥ずかしくないという物でもないと思うのだが。  
これはこれで、兄達のトラウマなのかも知れない。  
 
「…アタシは、嫌だったんだよ」  
「…そうだね。僕らは、おまえが母さんの趣味を押し付けられていて、それを嫌がっているのも、知っていた」  
「別に、謝って欲しいわけじゃない。ただ――、…ただ、その…」  
うまく言えない。  
酒精で濁って、うまく頭が働いてくれない。  
ちがうんだよ、にいさん。別に、恨み言を言いたいわけじゃない。  
私は―――――――、  
「…オイ? 大丈夫か? 兄貴ー、こいつヤバイかも。おい瑞穂、吐くんならちゃんと言えよー」  
「…認めて欲しいだけなんだ」  
「認める?」  
そう。と頷く。  
頭を揺らすと世界がぐらぐらと歪んだ。  
「――好きな女の子がいるんだ」  
ぱか。と梓にいさんがマヌケ面をしているのが見えた。  
「だったら、女でいるより男になったほうがいいに決まってるんだけどさ、今までの自分を全部捨てる事に  
なるわけだろ? 正直に言うと、怖いんだよ。…母さんの態度、見ただろう?」   
そう、それが一番怖い。  
私は歪だ。14年間『女』をやってきて、いまさらちゃんとした男になれるのだろうかと思う。  
それに、生みの親すら私を拒否した。  
 
――もしも、真由子にあんな眼で見られたら、それだけで私は死ぬ。きっと死ぬ。  
 
「…どっちにしてもさ、妊娠して子供を産むってことができないんだよ、子宮が無いから。  
 …母さんはさ、『結婚して子供を産むのが女の幸せ、それが出来ない女はかわいそう』って考えの持ち主だろ?  
 このままの身体で生きようと思ったら、たぶん一生母さんには『かわいそう』扱いされそうじゃないか?」  
   
ならば。  
ならば、私は男として生きていきたい。  
もともと、女としての自分には強い違和感しか感じてこなかった。  
それは、きっと思春期特有のもので、この違和感も、この気持ちも、きっといつか自然に消えてくれるものだと思っていた。  
――だが、それは、当たり前のものだったのではないのだろうか?  
もし。  
もし、私は本当は男だった事で、『女』としての自分に馴染めなかったのだとしたら?  
それよりも、男だったら。  
――男だったら、真由子に、本当の気持ちで向き合う事が出来るのではないか?  
それは、とても魅力的な考えだった。  
 
私をいつも救ってくれていたのは真由子だ。  
彼女がいるから、この歪にも耐えられた。  
好きだ。  
好きだ好きだ好きだ、愛している。  
何度言っても足りないと思う。  
 
女同士でも、『親友』として生きていけると思っていた。  
でも違う、我慢していただけだった。  
 
――私は、真由子の全てが欲しい。  
 
話すだけ話すと、胸の中に溜まっていたもやもやした感情が抜けてくれたように感じた。  
我ながら単純な物で、そうすると今度は急に眠気が襲ってくる。  
「…あした、ちゃんと母さんと話すよ」  
半分、あくび交じりに斎兄さんにそれだけを言って、ベッドに倒れこむ。  
「――そうだね、そうしなさい。…あのな、瑞穂。母さんも、別におまえが憎いわけじゃないんだよ。  
 ただ、急な事だから、どうして良いか、分からないだけなんだ。…だから、悪く思ってはいけないよ」  
「――わかってる。憎いっていうか、いらないだけだろ」  
…おやすみ。という声がして電気が消えた。  
酔いも手伝って、あっというまに眠りに落ちた。  
 
 
――非常階段の一番上。誰も来ない、二人だけの秘密の場所。  
「…みいちゃん、もうさむいよ、かえろうよう…」  
「――いい。アタシは、かえらない」  
ひざに顔を埋め、一度も上げずに真由子にそう言った。  
いつかははっきり覚えていないが、たしか、小学2年の冬だったと思う。  
また、母さんが私に無断で習い事を決め、その事に反発して家を飛び出した時の事だ。  
――かあさんなんか、だいきらいだ。いつもいつも、私のいうことなんかちっとも聞いてくれないくせに、  
私にはあれこれとうるさく言いつけるんだ。もうあんな家になんか、ぜったい帰ってやるものか。  
膝に、ぎゅっと額を押し付ける。  
そうすると、まるで世界に自分ひとりになったような気持ちになった。  
急に、横がふわりと暖かくなって、真由子が自分に寄り添うように座ったのがわかった。  
「――まゆ」  
「なあに? みいちゃん」  
「――アンタは、かえれ」  
「かえらないよ。わたしもいっしょにいる」  
 
――だって、ひとりはさびしいでしょう?  
 
赤くなった鼻をスンスンと鳴らしながらそんな事を言う。  
「――おひとよし。カゼひいても知らないから」  
ものすごく嬉しかったのに、憎まれ口ばかりが出た。こんな事が言いたいわけじゃないのに。  
ひょっとしたら、怒って帰ってしまうかもしれない。  
そう思うと、ますます顔が上げられなくなった。  
それから、一体どれぐらい時間が過ぎたか分からなくなったころ。  
「みいちゃん、みいちゃんっ! ねえ、見てよっ! すごいよ――っ!」  
急に大声で呼ばれて肩を揺すられ、顔を上げると、そこには。  
「すごい。すごいすごいすごいっ! 流れ星っ!」  
「――――あ」  
星が流れる。何度も何度も。  
生まれて初めて、魂が震えるくらいうつくしいものを見たと思った。  
 
そのままそうして、ふたり、手を繋いで空を見ていた。  
まるで、二人だけ世界に取り残されたようで。  
真由子の手が、この世で唯一、私に残された暖かい物のように感じていた。  
いつもそうだ。真由子はとても、あたたかい。  
だから。  
だから、私は真由子が―――――――――。  
 
ジリリリリリリリリリリ。  
目覚ましの音で眼を覚ます。  
なんだか、酷く懐かしい夢を立て続けに見ているなと思う。  
「…そういや、そんなこともあったっけ」  
まったくアイツは昔から変わらないな。と思うと。  
くすり、と二日ぶりに笑みが漏れた。  
「瑞穂ー、起きてんのかー。朝飯できてんぞ、早く来い」  
温かな記憶を台無しにする梓兄さんのダミ声が聞こえる。  
「…今行く」  
朝食の席に着くと、両親と兄二人はすでに揃っていた。  
「おはようございます、父さん、母さん」  
「おはよう」  
「…おはよう、瑞穂さん」  
「実は、お話したい事があります。――私は、男として生きていきます」  
「…決めたのか」  
「はい」  
「…そうか、わかった」  
「学校の事ですが、できれば転校したいんです。どの道手術となれば、入院しなければいけませんし、  
 男になるなら長期間の薬物治療が必要だといわれました。それなら、完全に終わるまでの間、  
 どこか知合いのいない所に行きたいんです」  
「…わかった、検討しよう」  
「ありがとうございます」  
 
父の横で、俯いたままの母に視線をやる。  
「――母さん。今まで、ありがとうございました」  
「…瑞穂さん…」  
母が、俯いたまま、私の名を呼んだ。  
「瑞穂さんは…、娘でも、息子でも、私の子供だから。私の、大事な子供だから…っ!」  
わかってほしいと。ごめんなさい。と、最後の方は、嗚咽で声にならなくなりながらも、そう言った。  
横で、ずっと父が励ますように、慰めるように肩を抱いていた。母は、俯いたままだった。  
その、自分にとても良く似ている、さらさらした黒髪の頭を見つめて、言った。  
「―――うん。わかったよ、かあさん」  
まだ私たちは真っ直ぐに向き合えないけれど。  
でも、母さんの言葉は、ウソじゃないと思った。  
 
 
結局、病院には全員で行く事になった。  
子供じゃあるまいし、恥ずかしいからいいよといったが、家族の人生に関わる一大事だからと父に一蹴された。  
…どのみち、手術すると決めた以上、同意書には親のサインが必要なわけなのだけれど。  
だったら、別に父さんか母さんだけでもいいし、兄さん達が付いてくる必要もないのに。  
それから、みんなで食事をしながら今後の事を決めた。  
私は、斎兄さんに付いて行く事になった。  
検査の時に説明してくれた医者によると、斎兄さんの勤めている大学病院に、腕のいい形成外科の先生が居るらしい。  
その人も、近くそちらに出向してしばらく勉強する予定だったそうだ。  
母さんは、単身赴任中だった父さんのところに行く事になった。  
もともと、週に一度は東京にいる父さんの所へ世話をしに通っていたので、これを機会に一緒に住むのだそうだ。  
学校には、転校届けを出した。  
何度か真由子が来てくれていたが、母さんに頼んで、今はいない事にしてもらっていた。  
出発は三日後。  
真由子にも誰にも、何も告げずに行く事にした。  
 
 
 
「瑞穂ー、まだかーい?」  
「はいよー! 今行くってー!」  
あっというまに三日がたって、出発の日がやってきた。  
一週間前まで、こんな事になるとは想像もしなかったなと思う。  
かさばる物は先に送ってしまったから、持って行くのはスポーツバッグ一つきり。  
車に乗り込む直前、何とはなしに空を見上げる。  
いつかと全く変わらない青が、そこにあった。  
 
 
さて、人生の一大事と言われたが、それほど仰々しい事でもない。  
ただ、ほんの少しばかり、形が変わるだけのことだろう。  
真由子が、変わった私をどう思うかはわからない。  
何も言わずにいたから、きっと彼女は驚くだろう。  
拒否するかもしれない。受け入れてもらえないかもしれない。  
――それなら、どんな手を使ってでも、認めさせてやろう。私は、私だって事を。  
 
「…さーて、戻ってきたらまゆのヤツ、どんな顔するかなー…」  
 
願わくば、あの懐かしい青空の下。  
もう一度、俺と君の道が重なりますように。  
 

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