12月21日。  
 
 そうだな。  
 世の中には色々な幼馴染みの形があると思う。  
 親友もあるだろうし、ロマンティックな恋人の関係もあるだろう。  
 
 オレにとって上原優希は、ちょっとバカで気のおけない、小学一年生のノリそのままで付き合える親友だった。  
 
 「ごめん」の一言で解決しないケンカなんてなかった。  
 口にできない言葉なんてなかったし、言葉にならない想いなんてありはしなかった。  
 つまるところ、オレはあいつのことをいつまでもTシャツと短パンで走り回っていたガキンチョのままだと認識していたのさ。  
 
 時は過ぎ、いつの間にかオレ達はそれぞれに青い季節を迎え、互いに知らないことが増えていった。  
 貧乳の出目金とこきおろすのがもっぱらだったあの男女は、いつの間にか目元のぱっちりしたスレンダー美人という定評を得た。  
 オレの方はといえば小学生以来の「アホ」という称号に「スケベ」「へたれ」という不名誉なタイトルが加わわり、負の三冠王に輝くのが精一杯という有様だった。  
 
 クラスの誰にでもかまわない。優希の評判を聞いてみるがいい。  
 可愛らしくていつも明るく、スポーツもできて勉強もできる。それでいて気取ったところもない……。  
 おそらくステレオタイプの「身近なアイドル」の評価を聞けるだろう。  
 実際、そうに違いないぜ。天真爛漫な笑顔と気さくなキャラクターは、親しみやすいクラスのアイドルそのものだ。  
 
 
 「ねえねえ、純一っ。あたし、また告白されちゃった」  
 高校一年生の時に陸上部のキャプテンに告られて以来、優希は律儀にもそんな報告をオレにするようになった。  
 そして、何かを期待するようなキラキラした目でオレを見てくる。  
 「……告発されちゃった? それは大変だな。実刑が出ないように祈ってるぞ」  
 「違うよ。告白されちゃったって言ってるんだよ」  
 「独白されちゃった? そいつは面倒くさいな。聞いている振りして頷いておけばいいんじゃないか」  
 「……耳が遠いの? おじいちゃん」  
 「ちぇっ。聞こえてるよ。告白されたんだろ?」  
 白い目で見てくる優希に向かって、オレは手を振って言った。  
 「それで、オレにどうしろっていうんだ?」  
 「あたし、どうすればいい?」  
 優希はいつも真っ直ぐな瞳でオレを見つめてくる。  
 「そんなこと、オレに聞いてどうするんだよ。オレが断れって言ったら断るのかよ?」  
 「うん」  
 「じゃあ、オレが付き合えって言ったら付き合うのかよ」  
 「うーん……」  
 幼馴染みは考え込んだ。  
 「ふん、だったら断ればいいじゃねえか」  
 面倒くさくなってオレが投げやりに言うと、  
 「うん、そうする!!」  
 クラスの身近なアイドルは顔を輝かせて頷いた。  
 
 ……ちぇっ。この女の考えてることはまるでわからんな。  
 
 
 「──なぁ、浅野」  
 オレがある日の放課後帰宅しようと席を立った時、声をかけてきたのはクラスメイトの男子生徒である八木だった。  
 「おまえ、上原と仲が良いんだろう?」  
 「そうだな。仲が良いという見方もできるかも知れんな」  
 オレが言うと、八木は言い出しにくそうな様子を見せていた。  
 「なんだ、優希がどうかしたのか?」  
 「その──、上原って、彼氏いるのかな?」  
 奴はもじもじしながらやっと言った。  
 「オレの知る限りでは、いないな」  
 「そ、そうかっ」  
 八木の顔がぱっと明るくなった。  
 「で、その……」  
 と、再び奴はもじもじと身をくねらせる。男のくせに気持ち悪い野郎だな。  
 「浅野は、上原のことをどう思ってるんだ?」  
 オレは、不意をつかれて口ごもった。  
 「どうって……、言われても」  
 「上原のことが好きなのか?」  
 八木は真摯な瞳でオレを見てくる。  
 「ば、バカ。そんなわけないだろ。誰があんなバカ女……」  
 「そ、そうなのか?」  
 「おうよ、こっちからお断りだ。あんな貧乳女、洗濯板代わりが良い所だぜ。がさつで乱暴で口は悪いし、女らしさっていうものがまるでない。私服になったら男だか女だかわからないぜ」  
 「そ、そうか」  
 オレのまくし立てに若干困惑気味ではあるが、八木は安心した様子を見せた。  
 「じゃあ、悪いが上原に俺を紹介してくれないか?」  
 「……な、なんだって?」  
 オレは絶句した。  
 「俺、上原のことが好きなんだ。でも、なかなか話しかけるきっかけがないんだよな。幼馴染のおまえの方から紹介してもらえないか?」  
 八木は手を合わせて頭を下げた。  
 「や、やめとけよ」  
 オレはやっと言った。  
 「あんなアホと付き合ったら大変だぞ。デリカシーはないし思いやりもない。おまえみたいな奴はせいぜい締め上げられて尻に敷かれてたかられて、泣くのがオチだぞ」  
 「そ、そうか?」  
 「そうだよ! あいつと来たら屁はくせぇし、いつも大股開いて座ってやがるし、腹も出てるし足も太い。家に帰ったら百年の恋も冷めるぞ。いつもいつもオレの背中をどつきやがって──」  
 
     どんっ!!  
 
 「──そうだよ、こんな感じに……」  
 はっとなって振り返り、オレは目の玉が飛び出した。  
 「足が太くて悪かったわね……」  
 そこには、大魔神のようにまなじりを吊り上げた親愛なる幼馴染みが立っているのだった。  
 「げ、優希……」  
 「げ、じゃないわよ。人のいない所で散々悪口を言ってくれちゃって……」  
 不機嫌そうな優希。  
 八木が肘でオレを小突いた。  
 ちっ、アイコンタクトしなくたってわかってるよ。  
 
 オレはコホン、と咳払いした。  
 「優希」  
 「なによ?」  
 「──ここにいる八木が、おまえのことが好きなんだってよ」  
 「お、おいっ」  
 八木は顔を真っ赤にしてオレに掴みかかる。  
 「性急すぎるだろっ」  
 「別にいいだろ。さっさと済ませればいいじゃねえか」  
 「……で? あたしにどうしろって言うの?」  
  優希はさらに増して不機嫌そうな表情になっている。  
 「八木のことが気に入ったら、付き合ってやれば」  
 オレはぶっきらぼうに言った。  
 優希の顔は悪鬼のようになった。  
 「あーそう!! じゃあ、八木くんと付き合っちゃおうかなぁ!!」  
 可愛くない幼馴染みはオレに顔を近づけると、あてつけのように大声を出し  
て言った。  
 「良かったじゃねえか。おまえと付き合ってくれるようなマゾヒストがこの  
世に存在しててくれてよ!!」  
 「はん! 純一と付き合ってくれるようなマニアは当分出て来ないかもしれ  
ないけどね!!」  
 思い切り顎を突き出してくる優希。くそっ、なんて可愛くない女だ。  
 「ちっ、好きにしやがれこのアホ!!」  
 「いいよ!! 八木くんと付き合ってやるよ、バカ純一!!」  
 「あーそうかい。良かったな、八木!!」  
 空中で火花が飛びそうな勢いて睨みあうオレと優希。  
 オレ達は同時に「フン」と鼻を鳴らしてそっぽを向く。優希はどかどかと大  
きな足音を立てて歩き去って行った。ちっ、このガニマタ女。  
 ふと見ると、八木がうらめしそうにこっちを見ていた。  
 「──良かったな。付き合うってよ」  
 「アホ、あんなの口だけに決まってんじゃねーか。鈍感ヤローが。おまえに  
頼んだ俺がピエロだったよ……」  
 八木は肩を落として歩き去った。  
 ちっ、どいつもこいつも……。  
 
 もう誰でもいいから、男と付き合っちまえよ、優希。  
 そして、頼むから馴れ馴れしい態度でオレのそばにいるんじゃない。  
 そうじゃないと、オレは……。  
 
 ちぇっ、くそっ。  
 
 
 12月22日。  
 
 次の日オレが帰宅しようと下駄箱に降りていくと、そこには優希が立ってい  
た。  
 「どうしたんだ?」  
 「待ってたんだよ、純一を」  
 そう言って、生意気で可愛らしいオレの幼馴染みはにやっと笑った。そこに  
は、昨日の怒りやわだかまりは微塵も残っていない。  
 「純一、ショッピングに付き合ってよ」  
 それは、いつもの天真爛漫な優希だった。  
 この女はまるでわからんな。笑ったと思ったら泣き、泣いたと思ったら次に  
会った時には喜んでいる。  
 要するに、優希はまだまだその場の感情のみで動いているお子様だっていう  
ことなのさ。そうだろ?  
 オレは、いいぜ、と言った。  
 
 
 「──明後日はクリスマスイブだよ、純一」  
 浮かれた装飾にあふれた街を歩きながら、優希は言った。うきうきとした雰  
囲気に影響されたものか、その顔は明るい。  
 「そうだな」  
 「昔は、家族ぐるみでクリスマスをしたね」  
 優希は空を見上げて言った。  
 「ああ。おまえがうちに来て、オレと母親と、時にはふたりの親父も入って、  
ささやかなパーティーをしたな。いつから止めちまったんだっけな」  
 「中学一年生が最後だよ」  
 優希は即座に言った。  
 「純一が止めるって言い張って、それで中止になったんだよ」  
 「そうだったかな……?」  
 「クラスの女の子にからかわれて、それで怒っちゃってね……」  
 オレは頭をかいた。  
 「そんなこと、あったっけ……。中学一年生だから、きっと恥ずかしい時期  
だったんだろうなぁ」  
 「──からかったあの子、本当は純一のことが好きだったんだよ」  
 ぽつり、といった感じで優希は言った。  
 「へえ?」  
 オレは忘却の彼方に去ってしまった女の子の顔を思い出そうと試みたが、ど  
うにも浮かび上がってくる気配はなかった。  
 「後であたし、謝られたんだ。知らなかったでしょ、純一?」  
 知るも何も、その女の子の存在すらオレは忘れてしまっていたが、そんなこ  
とがバレたら何を言われるかわからないのでオレは黙っていた。  
 「あの後すぐ転校していってしまったけど、あたしはあの子と約束したん  
だ」  
 「へえ、どんな?」  
 ここまで言っておいて、意地の悪い幼馴染みは笑みを浮かべたまま、  
 「内緒だよ」  
 と言った。  
 ちぇ、最後まで話しきれないなら最初から振るんじゃない。  
 
 「──ていうか」  
 とオレは言った。  
 「そんなことをいちいちよく覚えてるな、おまえは」  
 「あたしは純一とのことならなんでも覚えてるよ。初めて出会った日から、  
今日までのこと。一日だって忘れたりしない」  
 優希は夢見るようで、そして儚げな顔つきでオレを見た。こいつ、こんな表  
情できたんだな。  
 「純一は初めてあたしと会った日のことなんて忘れちゃったでしょう?」  
 「ふん、忘れるはずなんてないさ」  
 「ウソ。絶対忘れてるよ」  
 「忘れてなんかいないさ」  
 
 
 優希。おまえと出会ったのは、そう、小学一年生の冬。ちょうど今頃だった  
な。  
 オレの家の隣に引っ越してきたのが初めての出会いだった。  
 まだ内気な少女だった優希は父親の後ろに隠れて、ロクに挨拶もできなかっ  
たのを覚えている。  
 あんまりいつも静かで話さないものだから、その、なんだ、オレは最初の頃  
少しいじめてしまった……。  
 母親を早くに亡くして、いつも昼間ひとりでいたことが関係しているのかも  
知れなかったが、、あの頃の優希は何を言われてもうつむいて無言でいる内向  
的な少女だった。  
 今思うと信じられない話だが、とにかく優希は無口で物静かだった。  
 一体誰のせいでこんながさつな女に育ってしまったのだ?  
 ……まぁ、それはいい。  
 あれは、クリスマスイブの夜だった。  
 隣の上原家からとんでもなく大きな泣き声が上がり、続いて、ドアが勢い良  
く開く音がした。  
 遠ざかっていく小さな足音。  
 こうして、よりによってクリスマスイブの夜に優希の奴は失踪しやがったの  
さ。  
 ウチの両親も一緒になって探し回ったのだが、優希は見つからなかった。引  
っ越して間もなかったから、優希自身も土地勘がなく、迷ってしまったものと  
思われた。  
 だが、子供のことは子供が一番良くわかっている。  
 そう、優希を見つけだしたのは、オレだったんだ。  
 
 …………………………。  
 
 
 「──どこで、見つけたの?」  
 優希に訊ねられ、オレは返答に詰まった。  
 「……どこだっけ?」  
 幼馴染みは肩をすくめた。  
 「ほら、忘れてる」  
 「こ、これはほら、度忘れってやつだ。そのうちに思い出すよ」  
 オレは慌てて取り繕うように言うが、優希は呆れたような、諦めたような顔  
でオレを見るだけだった。  
 「あと2日のうちに思い出してくれないとダメだよ」  
 「2日? なんでだ?」  
 「そうしないと、手遅れになってしまうから……」  
 優希は小さな声で言った。  
 手遅れだって? 何を言っているんだか。そんな昔の話、そのうちに思い出  
せればそれでいいはずさ。  
 
 
 「ねえ、何かクリスマスプレゼントを買ってよ」  
 と優希は言った。  
 「金欠高校生のオレに何をねだっているんだ。そんなもん、告発してくれた  
ボーイフレンドにいくらでも買ってもらったらいいだろうが」  
 「ボーイフレンドじゃないもん。それに、告発じゃなくて告白だって言って  
るでしょ」  
 優希は遠くを見ながら、  
 「あたし、純一からの贈り物が欲しいな」  
 と言った。  
 「あいにくとオレはロマンティストじゃないんだ。そんな洒落た演出なんて  
このオレに期待するだけ無駄だぜ。映画の見過ぎだよ」  
 優希は笑った。  
 「純一は今年のクリスマスイブ、きっとあたしに最高のプレゼントをくれる  
よ」  
 指をオレに向けてビシリと差す。  
 「ドーン!!」  
 おまえは喪○福造か。残念ながら、世の中はそんなに甘いものじゃないんだ  
ぜ。  
 オレ本人がやらないと言ってるんだから、やらないのさ。  
 間違いなんかあるはずがないぜ。  
 
 
 「──それで結局、八木の奴はお断りしちゃうのか?」  
 「当たり前じゃん」  
 優希はこともなげに言った。  
 「もったいねえな。次から次へとバイバイしてたら、男が寄り付かなくなっ  
ちまうぞ?」  
 「フン、別にいいよ」  
 この話題になるときまって幼馴染みは面白くなさそうな顔をする。最近は特  
に、情緒不安定だな。生理か?  
 「男にもてて、結構なことじゃないか。オレなんて浮いた話のひとつもない  
んだぜ?」  
 オレが言うと、優希は何を思ったか、胸を張った。  
 「あたしがいるじゃん!!」  
 「ははは」  
 「……な、なによ、今の乾いた笑いはっ!!」  
 「オレとおまえじゃ、誰が見たって兄妹にしか見えないぜ」  
 オレが言うと、むっとした顔になる優希。  
 「なんであたしが純一の妹扱いなのよっ!!」  
 「そんな貧乳の幼児体型じゃあ、絶対に年下に見えるさ」  
 オレがからかうように言うと、優希は意地になったようだった。  
 「むう。こうすれば、絶対に恋人同士に見えるよっ!!」  
 「あっ、バカっ」  
 何も考えていない幼馴染みは、オレの腕を取ると、それに抱きついてきた。  
 「や、やめろっ」  
 オレは突然の凶行に慌てふためき、腕を振り解こうとするが、確信犯である  
優希はがっちりとしがみついたままだ。  
 「どうだ、まいったか!」  
 幼馴染みは楽しげに目を細める。  
 「誰がまいるか、バカ」  
 オレは一瞬考え、  
 「……天保山、てところか」  
 と言った。  
 「なによ、それ?」  
 きょとんとした顔をする優希。  
 「日本で一番低い山」  
 オレが答えると、彼女は無言でオレの頭をばしっとはたいた。  
 「もっとちゃんと触りなさいよ、ほらほら」  
 
     ぐりぐり  
 
 「や、やめんかアホっ」  
 胸の隆起をオレの二の腕に押し付けてくる。な、何を考えてるんだこのアホ  
女。  
 「ほらほら、これでもDカップは一応あるのよ。着痩せするだけなんだって  
──」  
 そんな情報いらん!  
 まったく、こんな胸に、誰が参るというのだ。くそっ。  
 
 い、意外に……、胸、でけぇじゃねえか。けしからんぜ。まったくけしから  
ん……。  
 
 
 「あー、君達、公衆の面前であんまりやりすぎてはいかんよ」  
 オレ達に声をかけてきたのは、中年の警官だった。  
 そりゃあ、街中で乳さわり(?)を公然と行っていたら声もかけようというも  
のだ。  
 気付けば、オレ達は周囲の視線を一身に集めていた。  
 「す、すみません……」  
 すっかりと恐縮して頭を下げる優希。  
 「けっ、ちびっちゃいものをちびっちゃいと言っただけじゃねえか」  
 オレはそっぽを向いて言った。  
 「こ、こらっ。純一、ちゃんと謝りなさい」  
 警官を見ると条件反射で反抗したくなる困った体質のオレは、「けっ」とも  
う一度吐いた。  
 「す、すみません……」  
 すっかり常識人サイドに立った優希はオレの代わりに頭を下げる。  
 「はは、いいんだよ。仲が良いのはいいことだ」  
 クリスマスシーズンという時節柄もあるのかも知れない。人の良さそうな中  
年警官は笑って言う。  
 「ありがとうございます」  
 他人の前では意外に人当たりの良い優希はそつなく笑顔を作る。  
 「これからも姉弟で仲良くしてくださいね」  
 警官は言った。  
 
 あ……っ  
 
 、とオレは思った。  
 
「誰が姉弟だ、この節穴っ!!」  
 
     どすっ  
 
 優希は条件反射的に警官の股間を景気良く蹴り上げた後、しまったという顔  
をして口に手をあてた。  
 オレは顔に手をあてた。  
 このバカが。そんなに怒る必要なんて、どこにもないじゃねえか。  
 
 ………………………。  
 
 ……優希、おまえはそんなにオレと姉弟に見られるのが嫌なのかよ?  
 
 
 
 12月23日、日曜日。  
 
 その日は、朝から冷たい雨が降っていた。  
 オレは昼ごろにゴソゴソと起き出し、居間のテーブルに座ると、頭をぼりぼ  
りと掻きながら、  
 「母ちゃん、飯」  
 と言った。  
 「台所にあるおにぎりを食べな」  
 母はアイロンをかけながら言った。  
 オレは台所から皿を持ってくると、無言でおにぎりを頬張っていた。  
 「──純一」  
 母は言った。  
 「最近の優希ちゃん、浮かない顔をしていることが多いね」  
 「そうかい」  
 オレは一フレーズで会話を打ち切ると、黙っておにぎりを口に運び続けた。  
 「優希ちゃん、最近よく丘の上の造成工事現場に顔を出してるんだって」  
 オレの母は、一度言おうとしたことは、相手がどんな反応を返そうとも言い  
切る胆力の持ち主だった。  
 
 今年に入ってから始まったこの街の再開発計画は順調に進み、長い間手つか  
ずだった雑木林の茂る小高い丘にもその波が迫り始めた。  
 先月くらいから、ブルドーザーが入って次々と伐採を始めたという。  
 「なんだ、土方仕事にでも憧れてんのか?」  
 「アホ。よくわからないけど、工事の中止を頼んでいるらしいよ」  
 「何考えてんだ、あのバカ。頼んだくらいで開発計画が止まるとでも思って  
るのか?」  
 「優希ちゃんにバカなんて言うんじゃないの。あんた、何か心当たりでもな  
いの?」  
 「心当たりか……」  
 昔からずっと住んでいるオレ達にすれば、街が急激な変化を遂げていくのに  
は一抹の寂しさがある。  
 だが、それも時の流れというやつだ。  
 とは言え、優希があの丘に人一倍の思い入れを持っていたとしてもおかしく  
はない。  
 あいつは昔から何か悲しいことやひとりになりたいことがあると、必ずあの  
丘にひとりで登っていた。  
 ひとりになりたい時とはつまり、いつも相談相手になっていたオレとケンカ  
した時に他ならないわけだが。  
 
 
 「優希ちゃんを守るのは仮面ライダージュンイチの役目なんでしょ」  
 母は言った。  
 「ちぇっ。そりゃガキの頃の話さ」  
 「今だって十分ガキでしょうが」  
 母の言い草はいつだって容赦がない。  
 「今の優希にはいくらでも王子様の立候補者がいるんだよ。  
 間抜けなヒーローの出る幕なんてありはしねえんだ」  
 「このバカ息子が、女の子の気持ちがわからないような木偶の棒に育てた覚  
えはないよ。  
 ガタガタ言ってる暇があったら、さっさと優希ちゃんを元気づけてきなさい。  
 それがあんたの唯一の存在意義でしょうが」  
 「実の息子と近所の女の子のどっちが可愛いんだ、あんたは!?」  
 「優希ちゃんに決まってるでしょうが。ほら、さっさと行け。今日も丘に行  
ってるみたいだよ」  
 「この鬼母が……」  
 
 オレは半ば追い出されるようにして、雨の降りしきる十二月の外へと足を踏  
み出した。  
 
 
 ………………………。  
 
 ああ、わかっているさ。  
 
 優希は、オレに好意を持っている。  
 だが、それは幼馴染みとしての延長線上にある感情だ。  
 
 オレ達、変わってしまったんだ──。  
 
 優希。おまえはいつまでもお子様のつもりなのかも知れないけれど、おまえ  
がオレに言っていること、じゃれついていることは、とてもとても重い意味を  
持っているんだぜ。  
 みんな、おまえのことが女として好きなんだ。  
 子供の頃、一緒に走り回っていた時の「大好き」とは違うんだぜ。  
 オレ達、友達以上だけど、決して恋人でもないんだ。  
 微妙な関係さ。  
 誰よりもお互いのことをわかりあっているし、誰よりも長い時間一緒にいて、  
いつでも信頼しあえる。  
 けれど、肩を寄せていることはできるのに、もう一歩踏み出して肩を抱くこ  
とは決してできないんだ。  
 その一歩は近くて、遠い遠い距離なんだぜ。  
 
 なのにおまえは、どうしてそれを簡単に踏み出して来れるんだ?  
 
 
 雑木林が伐採され、地肌が露出を始めている。  
 あたりにはブルドーザーが入り、その強力な刃はオレ達の思い出を一瞬にし  
てゼロへと還元していく。  
 優希は、大人の男ひと抱え分もある大きな石に座って、その光景を黙って見  
つめていた。  
 「風邪ひくぞ、優希」  
 オレは自宅から持ってきたコートを無鉄砲な幼馴染みの肩にかけてやった。  
 彼女はこちらを見ると、少しだけ笑った。その笑顔がひどく寂しそうに見え  
たのは、オレの気のせいだろうか。  
 「工事を止めさせるなんて無理だから諦めろよ」  
 オレは言った。  
 「オレだってこの場所がなくなっちまうのは寂しいけどさ。いつまでも同じ  
ものなんてないのさ」  
 優希はオレの目を見た。  
 「せめて明日まではここに残っていて欲しいの」  
 「明日?」  
 「クリスマスイブまでは……」  
 「ちぇっ、またそれかよ。クリスマスイブがなんだって言うんだ?」  
 フン、と鼻を鳴らすオレ。  
 「……純一はあたしと話す時、いつも不機嫌そうだね」  
 「そんなことはないさ」  
 「そうだよ。いつも『ちぇっ』とか『ふん』って言ってるよ」  
 「それは──ちぇっ。なんでもないよ」  
 「ほら、また言った」  
 優希は笑った。  
 ふん。なんでオレが優希と話す時、いつも不機嫌そうかって?  
 オレはおまえと違うのさ。  
 「いい加減、大人になれよ」  
 オレが言うと、優希は不思議そうな顔をした。  
 「大人ってなに?」  
 「何って、おまえ……、そりゃあ。オレもわからないけどさ」  
 「純一、言ってることがおかしいよ」  
 「う、うるせえな」  
 
 
 オレだってわかんねえよ。  
 わかんねえけど……、きっと、好きなものをただ好きと言えなくなることじ  
ゃないだろうか。  
 だってオレ達は、仮面ライダーとお姫様から、ひとりの女と男になってしま  
ったのだから。  
 その秘密はいつだってオレを苦しめ、無邪気な好意を寄せてくる優希の誘惑  
はオレを苛立たせるんだ。  
 
 
 「あたし、八木くんと付き合っちゃおうかな。純一にも言われたし」  
 優希は白い息を吐きながらそんなことを言った。  
 「ふん、好きにしたらいいだろう」  
 「好きにするよ」  
 優希は珍しく投げやりな口調で言った。  
 「明日、純一に会えなかったらそうする」  
 「なんだよ、明日って。なんの約束もしてないだろう?」  
 「純一が忘れているのなら、それでいいんだよ。きっと、そうなるべくして  
なったんだよ」  
 優希は何かを決意したような真面目な顔つきをしていた。そしてその表情は  
オレの心をかき乱し、ひどく落ち着かない気持ちにさせるのだった。  
 幼馴染みは大石に腰掛けたまま、上を見上げた。  
 
 それは……、一本のもみの木だった。  
 
 今までオレは、明るくて可愛らしくてそのくせやたらと寂しがりやな幼馴染  
みに声をかけるために、何度ここを訪れただろう。  
 いつも彼女はこの石に座ってもみの木を見上げていた。  
 一体この木にどんな信仰を抱いているのか定かではないが、まるで神にすが  
るかのように優希はこのもみの木にいつも何かを祈っているようだった。  
 オレ達が出会った頃からずっと立ち続ける老木。オレ達の成長も喜怒哀楽も  
すべて丘の上から見下ろしてきた祖父のような存在。  
 これだって、もうすぐ切り倒されてしまうだろう。優希の気持ちもわからな  
いでもないが、仕方のないことなんだぜ。  
 
 
 「クシュッ」  
 優希はくしゃみをした。  
 「雨も降っているし、あまり濡れると風邪ひくぜ」  
 「もう少し寒くなればきっと雪に変わるよ。明日は雪が降ればいいな」  
 「暢気だな、おまえは。そんなこと言ってて、高熱出して寝込んでも知らな  
いぞ」  
 「大丈夫だよ。クリスマスイブの雪は大好きなの。なんだかとっても安心で  
きるの」  
 そう言って、優希はまたもみの木を見上げた。  
 オレは強引に優希を立たせ、自宅に送っていった。  
 なんだか優希は少しだけふらついているような気がした。  
 
 
 深夜の丘の上。  
 工事を終えた作業員達が車両の点検を済ませ、帰り支度をしている。  
 「……なぁ、ブルドーザーの調子、悪くないか?」  
 ひとりの作業員が言った。  
 「そうだな。火花が出てるじゃないか。こりゃ修理が必要だな。とりあえず、  
電源だけは切っておけよ」  
 「オーケー」  
 作業員がひとり残る。  
 彼が車両の電源を落とそうとすると、携帯電話の着メロが流れた。  
 恋人からの電話だった。  
 「──えっ!? 今日約束してたっけ!? い、いやっ。忘れてなんかいな  
いよ。  
 ちょ……っ、明日のホテルキャンセルなんてそんなのないよっ。ま、待て、  
話し合おうっ!!」  
 彼は冷や汗をびっしょりとかきながらいずこかへ走り去っていった。  
 
     バチバチバチバチバチバチッッッ  
 
 残されたブルドーザーの駆動部から、青白い火花が散った。  
 
 
 
 オレにはいつも肌身離さず持っている首飾りがある。  
 
 どこで手に入れたものなのか、いつから身につけているものなのか、なぜい  
つも身につけているのか、定かではない。  
 
 その首飾りはどこかおかしな形をしている。  
 そう、まるで、元々は一つの物だったのを二つに割ったような、そんな不思  
議な形をしているのさ。  
 周囲の人間には、そんな古くて汚い首飾り、さっさと捨てるように言われて  
いるのだけれど、なぜかどうしても捨てることができない。  
 
 何か、絶対に捨ててはならないもののような気がするんだ。理由は思い出す  
ことができないのだが、とにかくこれはオレにとってとても大切なもののよう  
な気がしてならないんだ。  
 そういえば優希がいつも使っている髪留めも、これに良く似ていたような形  
がする。  
 
 けれどそんなこと、ほんの偶然に過ぎないんだろうな──。  
 
 
 
 12月24日。夜。  
 
 「天にまします我らが父よ、アーメン」  
 「アーメン」  
 
 なにげに熱心なカトリックの信者である母親に連れられ、毎年24日の夜には  
オレは教会へと連れて来られ、神父様のありがたいお話を聞かされることにな  
っている。  
 自分で言うのもなんだが馬耳東風とはこのことで、どんなにありがたい話も、  
聞く者に教養がなければ豚に与えられた真珠も同じだ。  
 オレは、まるで話を聞かずに考え事をしていた。  
 それは、昼に携帯で交わした優希との会話の内容だった。  
 
 
 「なぁ、オレとおまえって、今日何か約束してたか?」  
 「してたよ」  
 優希は即座に答えた。  
 「ぜってー、してねえ」  
 オレは、反射的に答えた。  
 「ウソ、絶対絶対絶対した!!」  
 「オレのシステム手帳をなめるなよ。約束関係はきっちり書き込んでるんだ  
ぞ」  
 「それでも絶対したもん!!」  
 「どこで、何時に待ち合わせなんだよ?」  
 「そんなこと、もう言わないもん!!」  
 「じゃあ、行けねーだろーが!!」  
 「だったら、来なくていいもん!!」  
 「そこまで言われて誰が行くか、このわがまま女っ!! 寒い中いつまでも  
ひとりで待ってやがれ!!」  
 「いいよ。いつまでだって、純一が来るまでひとりで待つもん!!」  
 「けっ。せいぜい風邪でもひいて正月はずっと寝込んでろ!!」  
 「純一はきっと来るもん!!」  
 「本人が行かねーって言ってるだろーが!!」  
 「この、バカっ!!」  
 
     ぶつっ  
 
 こうして乱暴に携帯は切られた。  
 なんて意地っぱりだ。今年から使っているこのシステム手帳にはどんな些細  
なことも書き込んでいるんだ。書き漏らしなんてことは絶対にない。  
 去年以上前からの約束でもない限り、さ。  
   
 
 昨日からの雨はいよいよ激しさを増していた。  
 外は暗く、気温は急激に下がっている。  
 
 関係を修復しようとしてかけた電話が物別れに終わった以上、残念ながら今  
年のクリスマスはお互いに寂しいものになることが決定したようだ。  
 
 ……………………………けっ。  
 
 バカヤローが……。  
 
 オレも一級品のバカヤローだが、優希も相当のバカだと思う。  
 
 とにもかくにも、仲直りしておけばいいはずだ。そんなに意地を張るまでに  
大切なものが今日にあるとでも言うのかよ?  
 たかがクリスマスイブだろうが。  
 少しだけ浮かれて楽しく過ごしたらそれでオーケーだろ?  
 ただそれだけのものであって、それ以上でも以下でもないもののはずだろう  
が。  
 
 
 ………………………………。  
 
 ……まさかと思うが、このクソ寒い中、約束したというどこぞの場所でひと  
り待っているわけじゃないだろうな?  
 いくらなんだって、そこまでバカなわけじゃないだろう?  
 
 なぁ、 そうだろう? 優希。  
 
 
 「──クリスマスイブというのは特別な夜なのですよ」  
 どんな話の流れなのか、神父様は前列の席に座っていた子供と対話する形で  
話を行っていた。  
 「皆を幸せにしてくれる夜なのです」  
 「知ってる! プレゼントをくれるんでしょう」  
 子供は、自らの経験をもとに返事した。  
 「はは、違いますよ。  
 イエス様は世界中の人を幸せにしてくれるけれど、それはお金をくれたり、  
手を出して助けてくれることではありません。  
 パンひと切れ、ぶどう酒ひと口でも幸せな気持ちになれるようにしてくれる  
ということなのです」  
 「つまんないの」  
 「そんなことはありません。  
 あなたは気付いていないかも知れないけれど、いつでもあなたのそばにいて、  
笑っていてくれる人がいるでしょう?  
 ──それが最高の幸せなのです。  
 ほとんどの人は失ってしまってからその大切さに気付くのですよ」  
 その言葉を聞いて、オレの胸に何かの違和感が生まれ始めた。  
 この言葉、以前にも聞いたことがある気がする。  
 すでに爺さんになっている神父様、あんた、もしかするとクリスマスの説教  
は一定の周期で使いまわしているんじゃないのか?  
 そうだな。  
 たとえば、12年前の今日、もしかしてあんた、この話をしているんじゃない  
のか。  
 次に来る言葉はこれだ。  
 「クリスマスイブは魔法の夜なのですよ。人を幸せにしてくれる魔法」  
 
 ──クリスマスイブは、魔法の夜なんだって、神父さんが言ってたぜ。  
 
 忘却の彼方から甦ってきた記憶が収束し、オレの脳裏で像を結び始める。  
 この言葉は、オレが自分で言った言葉。  
 バカで無鉄砲で、ひどく落ち込んでいた少女に送った初めての激励の言葉。  
 
     がたーんっ!!  
 
 静かな教会の中に響き渡るような大きな音を立てて、椅子を蹴倒し、オレは  
立ち上がった。  
 周囲の視線が一身に集まるる  
 「気でも違ったの、バカ息子?」  
 隣にいた母親は目を丸くした。  
 「うるせーな。たった今、オレは自分が大バカ野郎だって、気付いたんだ  
よ」  
 「何を今さら──」  
 「オレが自分で気付いたのが手遅れじゃないって、神に祈ってろ、アーメ  
ン!!」  
 オレは捨て台詞を残すと、教会を飛び出した。  
 
──目指すは、あの丘!!  
 
 
 クリスマスイブの浮かれた街を疾走していく俺の視野は狭窄していく。  
 見えているのは、丘の上に一本立つもみの木だけ。  
 目の前など確認せずに全力で走る。  
 
     どんっ  
 
 女連れの男に肩をぶつける。  
 「いてーな、ちゃんと前見ろっ」  
 「うるせえっ。急いでんだよっ」  
 走れ。  
 急げ。  
 一分でも、一秒でも早く着け。  
 そしてこのたとえようもない不安よ、止まれ!  
 
 そうさ。  
 オレと優希が初めて心を通わせたのは十二年前のクリスマス・イブ。  
しんしんと雪の降る聖夜。  
 
 優希が家を飛び出したあの夜。  
 ちょうどこんな風に、オレが全力で走った夜。  
 
     ◇  
 
 あの夜、6歳のオレは大人達に混じって夜の街の小さな捜索隊に加わってい  
た。  
 今思うと見当外れもいい所なのだが、優希の家出の原因は、自分が彼女をい  
じめてしまったことだと思ったのだ。  
 ひどい罪悪感に駆られ、オレは必死で無口な少女を探し回った。  
 一緒に遊んだことのある公園や学校、駄菓子屋を巡回する。  
 だが、優希は見当たらなかった。  
 ジャンパーを着てマフラーを巻いていたものの、オレの手は冷たさにすっか  
りいうことをきかなくなっていた。  
 そろそろ諦めるしか選択肢がなくなった頃のことだった。  
 オレはふと立ち止まり、丘の上に立つもみの木に目を止めた。  
 あそこには一度も行ったことがないはずだった。  
 だが今日の昼、あれを見ながら優希が、「あの木はもみの木なの?」と一言  
だけ口にしたのを思い出した。  
 あまり話すことのない優希だったから、その一言が妙に重いものに感じられ  
た。  
 オレは本能に導かれるようにして、もみの木の丘へと駆け出し始めた。  
 
 
 街を見下ろすもみの木の横に6歳の優希はいた。  
 すべすべとして座り心地の良い、大きな石に腰掛けて街の灯りを見下ろして  
いた。  
 それはその後、何かあるたびにあいつがいつも座って考え事をしているお気  
に入りの石だ。  
 
 「こんな所で何やってるんだよ? みんな、探してるぜ」  
 優希は、いつもの静かで暗く何かを背負いこんだかのような表情でオレを見  
た。  
 「──家に帰りたくないの」  
 と、彼女は小さく言った。  
 「なんでだよ?」  
 「お父さんが、学校に行けっていうから」  
 「なんだ、行けばいいじゃんか」  
 オレは大変にデリカシーのない発言をした。  
 「……」  
 優希は黙ってうつむいた。  
 「行きたくないのか?」  
 彼女の沈黙は、肯定のように思われた。  
 「なんで、行きたくないんだ?」  
 しばらくの沈黙。  
 「……嫌なことをあたしに言って、いじめる人がいるから」  
 「ぎくっ」  
 オレは胸に手を当てた。  
 「あたしにお母さんがいないのをバカにしていじめる人がいるの」  
 「……な、なんだって」  
 オレはその頃から大バカヤローではあったけれど、そんな人でなしみたいな  
ことをする子供ではなかった。  
 なぜならオレは、大人になったら仮面ライダーになるのを夢見た自称正義の  
味方だったからだ。  
 「──そんなクソ共、気にすんなよ。今度やったらオレが退治してやるから  
さ。この仮面ライダージュンイチがな」  
 オレはポーズを取り、常に装着していたベルトの変身ベルトのスイッチを入  
れた。  
 するとそれは、くるくると頼りない回転を始めるのだった。  
 「本当に、あたしを守ってくれるの?」  
 優希は顔を起こして、目を大きく開いてオレを見た。  
 「任しとけ。どんな悪党共が来ようとも、オレが叩きのめしてケツの穴から  
手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタいわしてやる」  
 「純一くん、台詞がヤクザ映画とごちゃ混ぜになってるよ」  
 優希は小さく笑った。その安心した顔から、涙の雫が落ちた。  
 なんだこいつ、こんな顔で笑えるのかよ。  
 知らない街に引っ越してきて、母親もいなくて、そんなに不安だったのか?  
 「よし、わかったら、家に帰るぞ、優希。みんな心配してる」  
 オレが言うと、優希はまだためらっているようだった。  
 「帰るのが怖い」  
 「大丈夫だよ。いつだって、何があってもオレがずっとそばにいるから」  
 今思い返すと、ずいぶんと過激な発言をする6歳だったものだ。  
 だがその時のオレは、要するに家が隣だ、ということくらいの認識でしか話  
をしていなかったに違いない。  
 
 「うん、わかった。帰る」  
 と優希は嬉しそうに言って立ち上がり、オレの手を握った。  
 彼女はもみの木を見上げた。  
 「──でも、純一くん」  
 「なんだよ?」  
 「いつでも何があってもずっとあたしのそばにいるって、約束をして欲しい  
の」  
 「おう、いくらでも約束してやるぜ」  
 「証拠は?」  
 「オレは約束なんて破らないぜ」  
 「そうであっても、信じられるものが欲しいの」  
 なんだこいつ、すっかり不信感の塊だな。そんなに不安で不安で仕方ないの  
かよ?  
 「指きりしてやるよ」  
 「そんなんじゃダメ。もっと、形のあるものにしてくれなきゃ」  
 「うるせえなぁ。わかったよ。今、形のあるものを用意してやる……」  
 
 
 …………………………。  
 
 ……ああそうさ。  
 
 バカなおまえは、誓いの証を求めた。  
 その証は今もあのもみの木の丘に眠っている。  
 なあ、優希。  
 だからおまえは、いつもあの丘にいたのかよ?  
 あの丘を守りたいのかよ?  
 寒さに震えながらあの丘にいるのかよ?  
 
 ふたりで街を見下ろしたもみの木の丘。  
 ふたりで共有した初めての秘密。  
 出会いの思い出。  
 あれからたくさんの秘密基地を作って、たくさんの宝物を埋めて、たくさん  
の悪戯を含み笑いとともにばらまいてきたな。  
 もみの木にはオレ達の十二年を閉じ込めた記憶が眠っている。  
 6歳、小学生で知り合った。今、18歳。  
 
 
 あの遠い日の約束と誓いの証。  
 オレは今はっきりと思い出せる。  
 だが、あれは子供の時の話なんだ。  
 ほんの少しだけれど世の中のことがわかりはじめた今、その約束はあまりに  
も重い意味を持つ。  
 
 わかるだろう? 優希。  
 ただの幼馴染でいるには、おまえは眩しすぎるんだ。  
 
 
 出会ってから12年後の今夜。  
 
 再び息せき切って駆けつけたオレの前で、優希は12年前のあの時と同じ姿勢  
と同じ表情であの石の上に座り、じっともみの木を見上げていた。  
 
 雨はいつしか雪に変わっていた。  
 積もり始めた白い雪はすべての音を吸収し、この幻想的な空間に静寂をもた  
らした。  
 綿雪がしんしんと降り続ける。  
 今日は天候不順のため、どうやら工事は中止になったようだ。  
 優希だけがひとりこの丘にいて、後はブルドーザーが止まっているだけだ。  
 
 オレは、優希の前に音もなく立った。  
 こいつ、まさか朝から待ってたんじゃあるまいな?  
 漆黒の髪の上には粉雪が積もっている。  
 
 優希はオレに気付いて見上げた。  
 「ね? 約束してたでしょ……」  
 愚かな幼馴染みの浮かべた笑顔は太陽よりも輝いていて、オレの胸をまっす  
ぐに貫くのだった。  
 
 「……待たせたな」  
 とオレは言った。  
 「遅いよ、バカ」  
 口ではそう言っているものの、優希の顔からは怒りのようなものは見られな  
かった。  
 オレと同じように、どんな態度をとったらいいものか、わからないのかも知  
れない。  
 オレは時計を見た。午後11時55分。ギリギリ24日の間には到着できたようだ。  
 「──どれくらい待った?」  
 「そうね。ほんの十二年くらいよ」  
 オレは黙って優希の肩にコートをかけてやった。  
 彼女の頬に手が触れると、ひどく冷たかった。  
 「オレが忘れてしまって、ここに来ないとは思わなかったのか?」  
 「純一はきっと来るって思ってた。来なかったら、来るまでいつまででも待  
ってるつもりだった」  
 「ちぇっ、底抜けのバカだな、おまえは」  
 「えへへ」  
 なぜか優希は嬉しそうに笑った。  
 そうさ。巷では、こういうのを真性のバカと言うんだ。  
 真性というのは、手がつけられないバカという意味だぜ。  
 口で言ってもわかりゃあしない。  
 何度言ったってわかりゃあしないんだから、しょうがない。  
 
 ──ずっとそばにいて、見守っているしかないんだ。  
 
 手がかかることこの上ないぜ。  
 
 本当に……。  
 
 
 オレは、無意識のうちに首飾りをそっと外していた。  
 何かに衝き動かされるような不思議な感じがした。  
 優希も髪留めを外して同様の飾りを差し出してくる。  
 ふたつを噛み合わせると、一本の鍵になった。  
 
 優希がお気に入りの石から立ち上がった。  
 オレは屈み込んでその石に両手をかけると、勢い良く転がした。  
 長い間大きな石の下敷きになっていた部分には草が生えず、見たこともない  
ような小さな虫が大挙して逃げ去っていく。  
 オレは近くに落ちていた「ゴミ捨てるな」という立て看板をスコップ代わり  
にして、土を掘り起こし始めた。  
 一連の動作は神聖な儀式のように、沈黙の中で粛々と進行していく。  
 じっと固唾を呑んで見つめている優希。  
 
     ガシャッ  
 
 すぐに看板は硬い感触に突き当たる。それを掘り起こしていくと、オレ達の  
目の前には古ぼけてすっかり錆び付いた金属製の箱が姿を現した。  
 
 
 ………………………………。  
 
 
 「これが、誓いの証だ」  
 
 12年前の夜。  
 オレは優希に言った。  
 「これが……?」  
 彼女は、オレの差し出したものを見つめながら言った。  
 「知ってるか? 結婚指輪って言うんだぜ、えっへん」  
 得意げなオレ。  
 「結婚ていうのは、要するにずっと一緒にいるってことだからな。約束の証  
拠になるだろ?」  
 その発想に、幼い優希は夢中になったようだった。瞳を今まで見たことがな  
いほどにキラキラと輝かせ、穴が開くほどに指輪を見つめている。  
 「婚約指輪は給料の三ヶ月分で買うんだって、誰かが言ってたよ」  
 「……オレの小遣い3日分150円で我慢しとけよ」  
 オレが買ったのは、近所の駄菓子屋で買ってきた玩具の指輪だった。  
 小学一年生の個人的な買い物のフィールドは駄菓子屋に限定されていて、そ  
れ以上は守備範囲を超えていた。  
 「あたし達、結婚、できる?」  
 優希は魅入られたように150円の指輪から目を離さないまま言った。  
 「できるさ。だって、クリスマスイブは魔法の夜なんだって、神父さんが言  
ってたぜ。  
 誰だって幸せになれるんだ。みんな笑えるんだ。だからきっと、どんな願い  
だって叶うはずさ」  
 「うそ。大人にならなきゃ結婚できないもん。そんなことも知らずに約束す  
るなんて本気じゃない証拠だよ」  
 「……うぐっ、細かい奴だな。いいよ、わかった。何歳になったら結婚でき  
るんだよ」  
 「女の子は16歳。男は18歳」  
 「誓ってやるともさ。18歳になったら、結婚してやる」  
 優希は少し考えた後、  
 「しょうがないなぁ」  
 と、オレに初めて満面の笑みを見せた。  
 「じゃあ、約束だよ」  
 「ああ。この指輪は18歳のクリスマスイブにこの場所で、オレがおまえに渡  
す。それが結婚の約束だ」  
 オレは誕生日に親からもらった玩具の鍵付きケースの中に指輪を入れ、施錠  
した。そして、プラスチック製の玩具のキーをふたつに折り、片方を優希に差  
し出した。  
 「──受け取れよ。12年後の今日、たとえ片方が約束を忘れていたって、ま  
たここで出会えるための、時を越えた秘密の切符だ」  
 今まで暗くて寂しげな様子ばかりが印象的だった優希は、今や魔法の道具を  
手にした子供のように、頬を紅潮させているのだった。  
 「ありがとう」  
 「ははっ。おまえ、いかにも間抜けで忘れっぽそうな顔してるもんなぁ。  
 オレひとりで寒い中待たされたらイヤだろ? はははっ」  
 
 ……………………………。  
 
 
 「その……なんだ。  
 忘れてたのはオレの方だったな。まぁ、許せよ。なはははははっ」  
 笑って誤魔化そうとしたが、うまくいかなかったようだ。優希は白い目でオ  
レを見ていた。  
 
 長い年月の間にケースの鍵はすっかりと錆び付き、乱暴に割ってしまった鍵  
などとうの昔に合わなくなっていた。  
 
 がちゃがちゃがちゃがちゃ、がちゃがちゃ………………………ボキッ  
 
 元々チャチな造作の錠前は、長い年月の腐食によって、本体ごと壊れて外れ  
てしまった。  
 12年間ふたりが大切に肌身離さず持っていた鍵は、役目を果たす前にめでた  
く用無しになった。  
 
 「……さすがは魔法の夜だな。うん、これは神の大いなる意思だな」  
 「……うん、そうだね……」  
 優希は若干同情して、話を合わせてくれるような口調で言った。  
 
 ケースを開くと、中からやはり錆び付いて真っ黒になったおもちゃの指輪が  
姿を現した。  
 何の合金でできているものか、すでに変色しきっている。  
 オプションで買い求めたJとYのアルファベットのブロックがくっついている  
のが辛うじて結婚指輪らしさを主張していた。  
 指輪は素っ気無く転がっていて、それの持つ意味の重大さを考えるといかに  
も安っぽい作りだった。  
 だが、とオレは思う。  
 何百万円もする虚しい指輪もあれば、人生の中で最も大切で温かい意味を持  
つ150円の指輪もあるんだ。  
 
 クリスマスイブは魔法の夜。  
 
 150円の玩具の指輪を、世界で一番貴重で美しくて涙が出るほどに優しい芸  
術品に変えることだってできる。  
 オレは、震える手でその指輪をつまみ上げた。  
 優希は物も言わずにそっと左手を差し出してきた。  
 その瞳は、潤んでいた。  
 いつの間にかあたりは一面の雪化粧。  
 世界はどこまでも白く、透き通っている。  
 ああ。街はあれから大きく変わったけれども、この丘だけはまだ何も変わら  
ない。  
 あの夜と同じだ。  
 あの夜と同じ空と、同じ雪だ。  
 ふとオレは優希の目を見つめた。  
 
 ああ、なんだ。  
 そうかい。そうだったのかよ。  
 優希、おまえも同じだ。  
 あれから元気で明るくなって、少し乱暴になって。  
 いつの間にか女らしくなって。  
 すっかり遠くに行っちまったのかと思っていたよ。  
 でも、おまえの瞳も12年前のあの夜と同じだよ。  
 同じさ、みんな同じ。  
 
 ただ少しだけ──オレが素直じゃなくなっただけだったのさ。  
 
 オレが優希の薬指に、遅れてきた結婚指輪を通す。彼女はそれを顔の前にか  
ざして見せた。  
 次の瞬間、笑顔のまま優希の目から大粒の涙が流れ落ちた。  
 
 オレは、優希を抱きしめた。  
 優希は、驚いたように俺を見た。  
 
 身体が冷たいよ、優希。  
 どれだけ待っていたんだ?  
 でも、ぎゅっと抱きしめていると、その芯から温かさが伝わってくるんだ。  
 
 オレ達は12年間、誓いの番人となっていた石の上にふたりで腰掛けた。  
 有無を言わせず優希を抱きしめ、オレは顔を寄せた。  
 びくり、と身を硬くする優希。  
 「なんだよ、怖いのか?」  
 オレがからかうように囁くと、幼馴染みは目を三角にして、  
 「怖いわけないじゃない。ずっとこの時を、待っていたんだから」  
 オレが唇を寄せていくと、彼女は目をぎゅうっと瞑って少しだけ顔を振るわ  
せた。  
 やっぱり怖がってるじゃないか。  
 散々、オレを誘惑し、葛藤し、悩ませた可愛らしい子悪魔は、いざその場に  
なれば震えるチキンだった。  
 「純一のキスくらいで、緊張なんてしないわ」  
 おまけに、口だけは悪い。  
 「きっと優希は、キスの後オレに惚れるね」  
 オレはニヤリと笑った。  
 「純一のキスごときであたしはおかしくなったりしないわ」  
 「キスした後に同じ台詞が言えるか、試してやるぜ」  
 オレは、ゆっくりと唇を近づけていった。  
 「……っっっっっっっ」  
 もみの木から、ひとかたまりの雪が地面に落ちてどさりと音を立てた。  
 
 ああ、魔法の夜。  
 
 電撃のように甘い快感が走り、今オレ達はすべての鎖から解き放たれ、空に  
舞い上がるよう。  
 優希は目を開いた。  
 「──純一のキス一回くらいで、あたしは惚れたりしないわ」  
 彼女は頬をリンゴのように紅潮させ、白い息を吐きながら言った。その目は  
薄い油を張ったようにとろんとしている。  
 「一回くらいでは無理だから……」  
 と言う。  
 「もっと、いっぱいキスしてみたら」  
 どこまで行っても優希は優希。  
 いいさ、今日は12年越しの特別な夜。  
 徹底的に、おまえをとろかしてやる。覚悟しやがれ。  
 
 
 「──優希、愛してる」  
 数え切れないほどのキスをする合間に、オレは幼馴染みの耳に囁いた。  
 「ずっと、その言葉を待ってた」  
 優希は言った。  
 冷え切っていたはずの彼女の身体は内側から熱を持ち、今では全身紅潮して  
降り積もる雪を溶かし始めていた。  
 「どうして、今まで言ってくれなかったの?」  
 「オレ達は幼馴染みだからだよ」  
 「幼馴染みだと、言ってはいけないの?」  
 「幼馴染みは恋人じゃないからだ」  
 「……だから、いつでもそばにいるのに近づいて来なかったの?」  
 「ああそうだ」  
 優希は空を見上げた。  
 「純一は、あたしが男子に告白されるたびに、どんな気持ちだったと思  
う?」  
 「そりゃあ、嬉しかったんだろ?」  
 「バカ、違うよ」  
 怒ったような目で幼馴染みはオレを睨む。  
 「寂しかったよ。あたしを好きだと言ってくれたのがどうして純一じゃない  
んだろうって、いつも思ってた」  
 ちっ。だから、いつもいちいちオレに報告してやがったのか。そんなこと、  
考えもしなかったんだぜ……。  
 「バカだな、おまえは。空気が読めないことこの上ないぜ。オレがどんな気  
持ちでおまえを見ていたかなんて、まるでわかっていないんだろう?」  
 「純一の方がバカだよ。あたしがどれだけ、純一のことが好きで好きで仕方  
なかったか、まるでわかってないんでしょう?」  
 優希はオレの身体に手をまわすと、渾身の力で抱きついてきた。  
 それは、二度と離さないことを主張するかのようで、痛くて、熱くて、そし  
て、今までどれだけ寂しかったかを表現するかのようでもあったのさ。  
 
 
 結局、オレも優希も底抜けのバカだったということなのかも知れない。  
 優希がオレを想って行動すればするほどに、オレは身を引いて距離を取ろう  
とした。  
 優希が寂しげな態度をとるほどにオレは身を引き裂かれるような痛みに胸を  
焦がし、いよいよコントロールできない恋の感情は暴走し、それは天邪鬼なオ  
レの口を介して悪態となって飛び出した。  
 どちらかがもう少し大人だったなら、もう少し状況は変わっていたかも知れ  
ない。  
 だが、優希は身体ばっかり大人になって空気の読めないお子様のままだった  
し、オレはオレで、アホに拍車がかかるばかりでいつまでも素直になれないガ  
キンチョのままだった。  
 なんて悪い組み合わせなのだ。  
 絶対にまとまるはずがないぜ。  
 
 そうさ、すべての人が幸せになれる奇跡の夜でもない限りな……。  
 
 
 「純一のバカ。大嫌いだよ……」  
 と優希は言った。  
 「そうかい」  
 オレは言った。  
 「まだ、キスが足りないみたいだな」  
 唇を再び奪う。啄ばむような軽いキスから、いつしかずっと唇を合わせ、舌  
と舌を絡ませる濃厚なキスへと変化している。  
 どうして、優希の口はこんなに甘いんだ? 砂糖菓子よりも甘くて、優しく  
て、ほっとするような温かさなんだ。  
 初めてのはずなのにどこか懐かしくて、オレの琴線を切なく奮わせる。  
 唇を離した。  
 熱い息が白く煙った。  
 「純一のバカ。世界で一番嫌いだよ。純一は、今まで、世界で一番あたしを  
不幸にしてきたよ。  
 あたしの悲しみの9割は純一のせいだよ」  
 「そ、そんなにかよ」  
 「そうだよ」  
 と優希は言った。  
 「だってあたしは、どんなことがあっても、そばで純一が笑っていてくれれ  
ば悲しくなんてないんだから。あたしが悲しいのは、純一が離れていくことだ  
けなんだから」  
 「な、なんだよ、そりゃ」  
 「だから、あたしを不幸にできるのは純一だけなんだから。  
 ──だから、純一なんて世界で一番大嫌いだよ」  
 受け取りようによっては180度逆にも取れる言葉を聞きながら、オレは優希  
の頭を撫でていた。  
 
 「バカ、バカバカ」  
 オレの胸の中で言う優希。  
 うるさいので、オレはキスで彼女の口を塞いだ。  
 「ん……うんっ」  
 「……」  
 さあ、これで黙ったな。  
 「──バカバカバカバカバカバカバカバカバカバカ」  
 ますます悪態を続ける優希。  
 「バカって言いすぎだろ」  
 「だって、バカって言ったら、純一はキスしてくれるんでしょう? 本当に  
純一はバカだね。もう一生、バカって言われ続ける運命に決まったよ」  
 優希は笑った。  
 「それに、まだまだキスも、愛の言葉も足りないよ」  
 「もうたっぷりしただろう」  
 「全然足りない。12年間分には、全然足りない。毎日1回として、365×12は  
──」  
 愛すべき幼馴染みは指を折って計算を始める。オレはそれをやめさせて、い  
つの分かはわからないキスの清算を始めた。  
 そんなオレ達を上から見つめるのはもみの木。  
 いつでもオレ達を見下ろし続けたふたりの誓いの物言わぬ証人。  
 
 
 出会ってから、12年。  
 オレは、優希のことはたいがいのことはわかっているつもりだった。わから  
ないことが増えてきてはいた。  
 それでも、概ねはあいつのことはわかっているつもりでいたのさ。  
 オレはとんだ節穴の目の持ち主だってわけだ。  
 これからオレは、改めて幼馴染みを知ることから始めなければならない。  
 
 
 その時、少し離れた位置で工事用のブルドーザーが青白い火花を上げた。  
 だがオレと優希は互いを見つめることに夢中で、背後の危険な光景にはまる  
で気がつかなかった。  
 
     バチバチバチッ  
 
 小さな火花は音を立てていたはずだったが、それはちょうど夢中になって優  
希を抱きしめたオレの背後だった。  
 優希はしっかとオレの背中に両手をまわし、抱きしめ返してくる。  
 
バチバチバチバチッ  
 
 オレが優希にキスしようとした時、彼女が目を見開いてオレの背後を見てい  
るのに気付いた。  
 振り返り、はっとなる。  
 
     バチバチバチバチバチバチバチバチバチバチッッッッ!!!!  
 
 小さな稲妻が走る。  
 それはオレ達を一直線に目指し──  
 
 「うわあああああああああああああああああっっっ」  
 「きゃあああああああああああああああああっっっっ」  
 
 灼熱感がオレの背中を突き刺した。  
 
 
 
 
 「まったく、まいったね」  
 翌朝、病院で背中のガーゼを替えてもらいながら、オレはため息をついた。  
 「もうちょっとキスしてもらいたかったのに、残念だったなあ」  
 隣で手の包帯を替えてもらうのを待ちながら、優希はそんなことを言った。  
 「あら、ふたりはそういうカンケイなの?」  
 オレ達の包帯を替えてくれてくれる看護師は悪戯っぽく笑った。まだ20代ら  
しい女性看護師は興味を覚えたらしい。  
 「そういうカンケイなの!!」  
 優希が輝くような笑顔で言う。  
 「ちょっと待て。そういうカンケイがどういう関係なのかを確認してから肯  
定はしろよ?」  
 オレは釘を刺すが、恋愛話の始まった女性達を止める手立てなどない。  
 オレの制止など聞かずに優希の話は暴走していき、すっかりと看護師を引き  
込んでしまうのだった。  
 
 オレも優希も、軽症の火傷を負っただけで無事だった。  
 すぐに雪で冷やして病院に駆け込んだのが良かったのだろう。そういう意味  
では不幸中の幸いだった。  
 応急処置だけしてもらって、クリスマスの朝にこうしてふたりで外来通院し  
て改めて処置してもらっているのだった。  
 しかし、こんな所で口の軽そうで恋愛話好きな看護師を相手にするとは想定  
外だったが……。  
 
 
 「──そうか」  
 と、看護師は手を打った。  
 「昨日の指輪は、彼氏からのプレゼントだったのね?」  
 「うん、そう。とっても大切な指輪だったの」  
 ブルドーザーから飛んだ小さな稲妻は正確には優希の左手にあった指輪を直  
撃した。  
 それは彼女の指を灼き、密着していたオレの背中を灼いた。  
 元々腐食の進んで脆弱になっていた指輪は壊れてしまった。  
 当然のように医者は指輪を外すように言ったが、優希は全力で抵抗したのだ  
った。  
 あいつは真性のアホに違いない。  
 電撃を受けて熱を持っていた指輪を握り締めて、火傷を助長したというのだ  
から救いようがない。  
 熱を受けたとはいえ、12年の時を経て不潔極まりない状態の指輪だったから、  
化膿の原因になっても困る。  
 当直の看護師が総動員されて優希を押さえつけ、指輪を砕いて外したのだっ  
た。  
 日勤の看護師まで知っている所を見ると、すっかり病院中の噂になっている  
可能性がある。  
 オレは頭を抱えたくなった。  
 「かけがえのない大切な指輪だったから、どうしても外したくなかったの」  
 優希は少しだけさびしそうな表情で言った。すると看護師は、  
 「また、もっと良いのを彼氏に買ってもらえばいいのよ。今度は雷に打たれ  
ても壊れないようにダイヤモンドの入ったやつにすればいいわ」  
 と、勝手なことを言い出す。自分が金を出すわけじゃないと思って言いたい  
放題だ。  
 しかし、優希はにこっと笑って首を横に振った。  
 「もう指輪はいらないわ」  
 「へえ、どうして?」  
 看護師は首を傾げた。  
 「んふふ。だって、あたしは神様に二度と壊れない永遠の結婚指輪をもらっ  
たんだもの──」  
 と優希は無邪気な笑顔を浮かべると、指の包帯をくるくるとまわして外して  
いった。  
 ああ、実際優希は、真性のバカに違いない。  
 熱を持った指輪を握り締め、かえって火傷を助長してしまった。  
 そのために、彼女の薬指には、指輪の痕が残ってしまった。  
 その指には、くっきりとオレのイニシャルを示すJの文字が刻印されている。  
 看護師はぽかんとしながらそれを見た後、たった今ガーゼを取り外したオレ  
の背中に視線を戻す。  
 そこには、優希にまわされていた手を介して刻印された、Yの火傷。  
 「んふふ」  
 と再び笑う優希と、ため息をつくオレ。  
 
 ああそうさ。  
 クリスマスイブは魔法の夜。  
 こんな、ほんの小さな奇跡のおまけをくれたって、おかしくはないだろう。  
 ちぇっ。  
 でもな、神様。こいつはいくらなんでもサービス過剰なんじゃないのか?  
 
 
 優希は愛おしげに自らの薬指を眺め、うっとりとした。  
 「純一、昨日の続きをして」  
 オレは自分の耳を疑った。  
 「はあ!?」  
 「キス、して」  
 オレは目の前の看護師と優希を交互に見る。  
 看護師は止めるどころか興味津々といった様子で事の成り行きを見守ってい  
る。職場なんだから止めろよ。  
 「人前で何言ってんだよ!!」  
 「人前だって、あたしは恥ずかしくないもん!! だって今はただの幼馴染  
じゃなくて、恋人で婚約者なんだもん」  
 優希は子供のように頬をふくらませて口を尖らせる。  
 「あ、後でな!」  
 オレが言うと、優希は頑なに首を横に振った。  
 「少しぐらい待てるだろ!」  
 「もう12年も待って、待つのは嫌になっちゃった」  
 「20分くらい待てるだろ」  
 「純一は昨日みたいに約束を忘れちゃうから信用できない」  
 オレはうぐっ、と言葉に詰まった。  
 いまや看護師はニヤニヤしながら、目でオレに何かを迫っている。  
 
 …………………………。  
 
 わかった、わかったよ。  
 オレは疾風のように唇を優希の顔に近づけると、その唇を奪ってさっと離れ  
た。  
 優希は陶酔したような表情になり、オレを見た。  
 「うれしい」  
 ちぇっ。熱に浮かされてすっかりおかしくなってしまっている。こんなの、  
普段の優希じゃない。  
 普段の優希はもっとがさつで、乱暴で、女らしくなくて、空気が読めなくて  
……。  
 
 …………………………。  
 
 ……本当は知ってるよ。  
 
 世界で一番可愛らしくて健気な素敵な女の子だってな。  
 
 「ありがとう」  
 優希の目からまた涙がこぼれた。  
 「純一、愛してる」  
 どこまでもまっすぐな幼馴染の愛の言葉に、オレは気恥ずかしくなって目を  
そらした。  
 
 
 さあ、これで今回のオレの話は終わりだ。  
 その後どうなったのかって?  
 そうだな……。  
 
 
 「純一、恥ずかしがらないでちゃんと腕を組んでよっ」  
 「ば、バカっ。そんな恥ずかしいことができるかっ」  
 「大声出して抵抗する方がよっぽど恥ずかしいでしょっ!?」  
 ふたりで遊園地を歩く12月25日。  
 今までだって休日にふたりで遊びに出かけることなんて頻繁にあった。特別  
なことではない。  
 いつもと同じ行動なのに、同じじゃない。  
 「純一、あたし達、恋人になったんでしょ? だったら、今までとは違って  
腕を組んだりしないとおかしくない?」  
 「そんなの、別にいいよ……」  
 オレは周囲の目を気にしながら、もごもごと拒絶の言葉を口にする。  
 「じゃあ、幼馴染と恋人って、どう違うのよ?」  
 優希は腰に手をあてて仁王立ちになり、怒ったように言う。  
 「そりゃあおまえ、恋人だったら誰も見てない所でふたりきりでキスしたり  
エッチしたりするんだろ」  
 「なんで純一の発想はいっつもエッチなことばっかりなんだよ!!  
 『人妻ぬっぽり温泉』とかそういうのばっかり見てるからそんなになるんだ  
よ!! バカバカ、この母乳マニア!!」  
 「……てめえ、またオレの部屋を勝手に漁ってエロビデオ探したろ」  
 「………………」  
 オレの険悪な視線にまずいと思ったのか、はたと優希は黙り、そしてしばら  
くしてから言い訳のように口を開いた。  
 「………………好きな人のことは何でも知りたいの!!」  
 「このアホーーーーーーーーーっっっっ!!!!」  
 
 
 うん、なんだ。  
 こんな感じだよ……はぁ。  
 要するに、ファーストキスの時と同じさ。変化なんて何もない。  
 幼馴染から恋人に、ただ肩書きが変わっただけだ。結局オレ達はお互いにア  
ホでバカなお子様に過ぎないんだ。  
 それと、丘の上は造成が進み、オレ達の約束のもみの木は切り倒された。  
 優希はやはり全力で反対しようとした。  
 だが、オレがそんな彼女を押しとどめたのだ。  
 「優希」  
 オレは言った。  
 「誓いの指輪はもうあそこにはないんだから、気にするな。あの指輪は今は、  
ここと……」  
 と優希の薬指と、自分の背中を示す。  
 「オレの背中にある。これからは、オレがおまえのもみの木の丘になる。も  
しさびしかったり、悩み苦しむ時には──」  
 ぎゅっと抱きしめる。  
 「──いつでもオレの背中に来ればいい」  
 優希は小さく、「ありがとう」と押し殺したような声で言った。  
 
 
 それから数日後、もみの木はオレ達の目の前で倒れていった。それはまるで、  
老兵がひとつの重責を果たして安心してへたりこんでいくような感じがした。  
 
 今日もなんていうことのない、365日のうちのただの1日。  
 オレ達は1日分大人になる。  
 そしてやがて、いつか本当の大人になっていく。  
 そうさ、それでいいはずなのさ。  
                          了  
 
 

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