靄がかったような視界の中、俺の周りで何人もの人が動いている。
─ああ、俺はまたこの夢を見ているのか。
最早恒例となったこの夢。
相手がいつものように球を投げ、俺は迫るそれの前に……。
「……っあ!」
そこでようやく…いや、いつもの場面で目が覚めた。背中にはじっとりと寝汗が滲んでいる。
広いとはいえない、学生寮の個室。
カーテンの間からは仄かな朝の光が漏れている。時刻は、午前6時前。
何でこんな早く目が覚めたのか、俺のぼんやりとした頭では皆目見当がつかない。
「あー……ったく。ぅぅ……もう二度寝しよう、二度寝」
ばたん、とベッドに顔を伏せて、今度こそは心地よい眠りに……
「はーい! みんな起きた起きた!」
…と、そこで部屋の外─寮の廊下から大声と、金属のバケツをガンガンと叩く音が聞こえてきた。
「……」
ひどくうるさい上に何か起きないとまずい気がするのだが、眠気でそれどころじゃない俺は聞かなかった事にして寝る。
ああ、このすーっと落ちていくような眠りの感覚がまた何とも…。
外はなんだかうるさいと言うか慌しいような気もするが…まあいいや。
・
・
「……こらぁーっ! ユウ、また寝坊なの!?」
「どわっ?!」
心地よい眠りに落ちていた俺の耳元で、急に思いっきり叫ぶ声。
それで、ようやくと言うのもなんだが、目が覚めた。
「うぅ……もう朝か?」
うつぶせの姿勢から起き上がり、欠伸の涙でぼやけた視界の中で声の方を見る。
ショートカットにジャージ姿。そんな見慣れた姿で。
彼女─霞はそこにいた。
「…ああ、おはよう霞。朝っぱらから何か用か?」
何事もなかったかのような口調でそう言う。何となく嫌な予感もするが、今は気にしないでおこう。
すると、予想通りと言うよりはいつもの通りの対応で、こう答えが返ってきた。
「バカ、何言ってるのよユウ! この時間を見なさいってば!」
ずい、と置き時計を俺の目の前に押し付けてくる。時刻は……朝の六時半過ぎ。
「……」
「……」
しばし呆然とする俺と、むっとした表情を崩さない彼女。
やがて、はっと思い出す。
「……って霞、今日は部活の朝練の日だろ! 何で起こしてくれなかったんだよ!?」
一気に意識を覚醒させて慌てふためく俺に、一方の彼女は冷ややかな視線を向けてきた。
「ユウが『明日こそは自分で起きる!』なんて言ったからでしょ。私がわざわざ朝練遅刻者が出ないように寮を巡回したって言うのに、
結局直接起こしに来ないと、ずっと寝たまんまじゃない。もう…情けないんだから」
呆れたように頭に手をやると、彼女は溜め息の後でこう言った。
「ほらほら、さっさと着替えてグラウンドに行くの! みんなもう練習始めてるわよ」
「あー、わかったわかった。着替えるから出てってくれよ」
「はいはい」
一秒でも早く来いとだけ言い残して、彼女は出て行った。
「……あー、やれやれ」
ユニホームに着替えて、グラウンドの端でウォームアップにいそしむ俺。
グラウンドの真ん中辺りからは、既によく乾いた金属音が響いている。
俺の名前は、柴草祐。清進学園高の二年生である。
県下でなかなかの強豪である野球部に所属しているのだが、今日は見事朝練に遅刻し、こうして皆に遅れてランニングをしている。
もっとも朝とはいえ八月の陽気の下では、たいした運動をせずとも身体すぐに暖まるのだが。
「それにしても…」
ちらり、とベンチの方を見る。
四人いるマネージャーの中に、腕を組んでいるのが一人。
それが、さきほど俺をわざわざ起こしに来たマネージャー、永井霞だった。
霞と俺は幼稚園時代からの幼馴染…というよりは最早腐れ縁に近い存在である。
おまけに双方の親同士が仲が良かった事もあって、この十数年間の人生の中でかなり多くの部分を共有してきた。
その上、なぜか小中高とクラスも一緒だった事も多い。
幼馴染と言っても、昔から霞は何かと姉ぶっていて、俺をあっちこっちに引っ張ったり色々と教えたりしてきたんだが。
それはこの学園に入ってからも変わらず、こうして朝の弱い俺を起こしに来てくれるのである。俺はそのせいか、霞にあまり頭が上がらない。
他のチームメイトやらに言わせれば「羨ましすぎる状況」らしいが、ガキの頃から霞と一緒に居た俺にとっては、
あいつが優等生と呼ばれようが、あるいは学校屈指の美人と言われようが、どうにもピンと来ないのだが。
そんなこんなでウォームアップを終え、誰かとキャッチボールでもしようかと辺りを見回す俺。
と、その時俺の肩を後ろから叩く奴がいた。
「おっす。まーた寝坊かよ、祐」
「……悪いな、篤司。こればっかりはどうも駄目なんだよ。俺が低血圧なせいだろうけどさ」
くるりと振り返り、俺はそいつに向かって苦笑する。
「……仕方ねえな。まあいいや、ブルペンに行く前にお前のキャッチボールに付き合ってやるよ。まだなんだろ?」
「ああ、頼むわ」
軽くストレッチをし、使い慣れたグローブをはめてから、篤司と向き合い、ボールを投げ合う。
俺もそれなりの肩は持っているつもりだが、こいつの球は別格だった。
よくテレビの解説者が言う、剃刀のようなキレとか言う奴だろう。チームの中で、こいつほど「背番号1」が似合う奴も居ないと思う。
今俺とキャッチボールしているのは、稲峰篤司という同い年のチームメイト。こいつも霞と同じく、幼稚園の時からの付き合いである。
野球を始めたのもほぼ同時期。それ以来小中高と、同じ学校、同じチームでプレーしている。
県下でも甲子園を狙えるレベルに位置する清進学園に俺がスカウトされたのも、入部と同時にエースの座を勝ち取ったほどの実力者である篤司と同じチームに居たからだろう。
勉強も出来る文武両道の男であり、さらにまだ2年生であるにも関わらず、各種スカウトが訪れる事もそう珍しくない。
「……っと。篤司、もう肩も暖まったわ。サンキュ」
二三十往復のやりとりの後、最後にふわりとした球を投げて、篤司に礼を言った。
「おう。気にすんなよ。つーか祐、お前も早く打撃練習やってこいよ。本職だろ?」
独特のニヤリとした笑いを浮かべて、篤司がボールを受け取る。
「…長年の付き合いを抜きにしたって、俺はお前の実力を買ってるんだからな。とっとと復調してくれよ」
「へいへい。清進学園が誇るエースさんも頑張って下さい」
冗談っぽく応えて、俺は急いでバッティングケージに向かう。
バッティングマシンから放たれる無機質な球を二十球。そのうち二球を外野のフェンスまで弾き返して、俺はケージを後にした。
「お疲れ、ユウ。……結構調子いいじゃない。ちょっとは練習の成果出たの?」
霞がヘルメットとバットを受け取りに、こっちまでやってくる。
「……うーん。どうだろうな。まだ監督も見てないし、本当に良くなったのかは分からない」
「そう? 私から見たら、夏の大会が終わった頃よりは振れてると思うよ?」
汗に濡れたヘルメットの内側をタオルで丁寧に拭き取りつつ、霞がそんな事を言った。
気にしてくれてるのかどうかは分からないが、とりあえず俺は霞にこう聞く。
「……霞、今時間あるか? ちょっと練習手伝ってくれると助かるんだけど」
「ん? うーん、監督がグラウンドに来るまでは自主練習だろうから、大丈夫だけど?」
ぱらぱらと「永井用マネージャーノート」なる手帳をめくり、今日の練習スケジュールを確認する霞。
「うん、OK。ここは後輩に任せるから、何でも手伝うよ?」
「悪いな。んじゃトスバッティングするから、ボール投げてくれないか?」
「はーい、任せといて」
ボールの入ったかごを軽々と持ち上げると、霞は俺より先に歩き出してしまった。
「はい、次でラストよ、ユウ」
「わかった……! …それっ!」
金属バットに弾かれた硬球が、勢い良くネットに突き刺さる。
合計七十球ほど打って、ようやく一段落の休憩をする。
「どうだ? …やっぱりまだ、力みがあるかな」
30度近い気温の中で一緒に練習したせいか、顔がうっすらと汗ばんでいる霞に聞いてみる。
「えっ? 私になんか聞いたってわからなくない? フォームの話なら監督とか篤司に聞けばいいんじゃない」
「いいだろ。いつもフォーム見たりこうやって自主練手伝ってくれてるのは霞なんだし。今俺の動きを見てたのはお前だけだろ。
……それに、霞だって中学校の時はソフトボールの女松井とか言われてたろ」
霞は中学校まではソフトボールで活躍していた。清進学園に進学してからは、すっぱりソフトとは縁を切って野球部のマネージャーをしているのだが。
「……そのあだ名、私は今でもイヤなんだけどね。……なんか、女なのにゴジラみたいで」
「はいはい、いつもの愚痴はいいから。どう思う?」
この話は、昔から大抵長くなる傾向があるのでとっとと切り上げにかかる。
「うーん。まだちょっと力入ってるかな。もっと自然体でいいと思うんだけど」
「自然体、か……」
二三度、軽くバットを振ってみる。
「そうそう、そんな感じかな。昔のユウはもっとゆったり構えてたよ?」
うんうんと頷く霞。まるで専属コーチにでもなったかのような態度だ。…でも、俺を知ってくれているという安心感のせいか、それなりに頼もしい。
…と、そこにボールが一球転がってくる。振り返れば、30メートルほど向こうで篤司がこっちに手を振っていた。
「悪い悪い!拾ってこっち投げてくれよ」
どうやら、珍しく暴投をしたらしい。
「はーい。ちょっと待ってて篤司………あっ」
霞がすぐにボールを拾い上げ、投げようとして…止めた。
「ごめん……ユウ、これ悪いけど投げてくれる?」
「ん。了解……っと」
霞からボールを受け渡されて、何も言わずに俺はボールを投げる。表情を微かに曇らせる霞の方をちらりと見てから、俺は言った。
「……大丈夫か?」
「……うん。…よし、続き続き! ほらもうさっさとやるよ、ユウ」
にこり。
さっき一瞬だけ見せた表情が嘘のように、晴れやかな顔で霞が微笑んだ。
それからまた練習を手伝ってもらっていた所で、ようやく監督がグラウンドに来た。
我が清進学園野球部の監督は、その一見ボケているかと思えるほどの柔和な顔つきと性格で、密かに「仏」なんて呼ばれていたりする。
もっとも、昔は社会人野球で鳴らしたらしく、実績と指導力は確かだ。
そんな監督の下、俺達は二時間ほど様々な練習に取り組む。
ギラギラと照りつける真夏の太陽。流れる汗。
ベンチには、霞が書いたのか「目指せ甲子園!」などと言う垂れ幕が掛かっている。
そう、甲子園。高校球児たちの聖地と言える領域。
俺達、そしてこの夏引退した先輩達が、惜しくも逃した場所だった。
地区決勝戦のあの時、俺はレギュラーで出ていた。
しかし、相手に決勝点を献上したきっかけのエラーをしたのも、俺。
最終回のチャンスで三振に倒れたのも、俺。
その時の事を、俺は今でも夢に見る。
グラウンドにうずくまる先輩達や、泣きじゃくる霞達マネージャー。
勿論俺も、ただ自分の不甲斐なさが悔しくて、泣いた。
俺さえしっかりしていれば…と良く思ったものだ。
でも、その時も二人の幼馴染である霞と篤司が励ましてくれたのだった。
(本当にあの二人には助けられてるよな…)
監督の打ったノックを軽快にさばきながら、俺は思う。
小さい頃から、友達─いや、親友として付き合ってきた二人。
霞とも、篤司とも、兄弟姉妹のような親しい感情がある。それはきっとこれからも変わらない─
「柴草っ、危ないっ!!」
「へっ?」
ゴン、と耳元で鳴る鈍い音。
チームメイトの声に気付いた時には、とっくに俺の側頭部に硬球がぶち当たっていた。
「……ああ、痛てててて……」
「ユウのバカ。練習中に余所見なんかしてるからよ」
俺は、ベンチに横になって頭に氷嚢を乗せられていた。
どうやら外野を守っていた奴の投げた球が逸れて、内野にいた俺に当たったらしい。
幸い大した勢いでもなかったのだが、少し腫れてきたので念のためにこうして寝かせられているというわけだ。
そしてベンチの横には、俺の担当を命じられた霞が呆れ顔で座っている。
「まったく、昔から世話のかかる男の子なんだから」
「おいおい霞、なんでそこで年上ぶるんだよ」
まあ、霞の姉気質は昔からなんだが。
「決まってるじゃない。私は四月生まれ。ユウは十一月生まれ。この差は大きいわよ?」
「大きくないだろ。…大体、早く生まれたって事はそれだけ早く老化してばーさんになるって事だろ」
つい煽るように言ってしまったせいか、霞の整った眉がぴくりと動く。
「何ですってえ?」
「別に。年上なんだろ? そのくらい受け流せばいいだろ」
そう言うと、霞がふっと黙り込む。…そして。
「そうよね。年上なんだから大人の対応をしないと。…さっさと治療しちゃわないとね、ユウ?」
にこにこと毒気のない笑顔。いや、それがかえって恐い。と言うか何なんだその怪しげなマキ○ンと消毒用の綿は。
「さあユウ、ボールが当たって擦り傷になった所、消毒しましょっか♪」
やけに楽しげに、霞が俺の傷口に消毒液をぶっかけ、綿で擦る。当然沁みる。
「いたたたたたた! お前、加減ってもんを…」
「ん? 何か言った?」
ごしごしごし。
「ーーーーーーーーーっ!!」
声にならない声を上げて、俺はその場で悶絶した。
結局、俺はあの後練習に復帰した。
霞と半ば口喧嘩状態になっているのを見かねた監督が「柴草も永井も、夫婦漫才する余力があるなら練習に入れ」などと言った事もあるのだが。
「ふぅ……」
学園の寮で部員みんなで夕飯を食べ、俺は今日二度目の風呂に入る。
ボールが当たった部分はまた少し腫れているが、それほど気にならなかった。
「しっかし、今日も疲れたな…」
誰も居ない浴槽に身体を沈め、一人呟く。
でも、頑張っているのは俺だけじゃない。
篤司達他のチームメイトもそうだし、霞のようなマネージャーもそうだ。
「そういや、今日の飯時は篤司と霞が随分喋ってたな…」
俺は他の奴と飯を食っていたから会話の内容は分からないが、篤司がやたら楽しそうにしていたと印象が残っている。
まあ、幼馴染だし当然といえば当然なのだし、別に何とも思わない…けど。
そう言えば、その時篤司と霞、そして俺とを見比べていた一年のマネージャーがいたはずだけど…名前が思い出せない。
けど、まあ別にいいか。
第一、霞と俺、篤司の三人は今までずっと一緒だったにも関わらず、関係に決定的な亀裂が走った事は無い。
それは三人がうまく均衡をとりあっていた事もあるんだろうけれど…。
篤司はどう思っているかは知らないが、俺は霞に恋愛感情は持ってはいないと思う。
そもそも、今までろくに恋という恋をしていないから良く分からないのでもあるが。
だから、他のチームメイトやクラスメイト達に何だかんだ言われても、別にその気も起こらない。
「ま、ずっとこのままの感じで行くんだろうな、やっぱり」
幼馴染なんてそんなものだろう。大体、昔も今も信頼し合える関係があるだけ贅沢ってものだ。
俺はそう結論付けて目を閉じ、無心で疲れた身体を暖めていった。