これは、私の友人から聞いた話なんですが、聞いてもらえるでしょうか。
ええ、不思議な話なんです。
……その男の人は、大学を卒業してから定職に就かずにアルバイトで生計を立てていた
んですね。いわゆるフリーターです。
ですが、稼ぎが厳しくなってきまして、家賃を滞納してそれまで住んでいたアパートを
追い出されてしまったんです。そこで、家賃の安い下宿に移ったそうなんです。
それが、破格に安い家賃でして。都内の少し不便な所なんですが、相場の約半額くらい
で借りられたんです。彼はその安さに喜びましてね。その物件に飛びついたんですよ。
実際、築何年になるのか、非常に古い木造の下宿ではあったそうなんです。よくあるで
しょう。「〜荘」といった感じの、ひと昔前の下宿。ちょうどあんな感じなんです。
その男の人はご機嫌で引っ越して、しばらくは何もなかったんですね。ところが、ある
夜から、おかしな状態になっていることに気づいたんです。
彼はそれまで、一度眠ると朝まで目が覚めない体質だったんですが、そこに引っ越して
から、必ず深夜に目が覚めてしまうようになったんです。
そして……、そんな時には、いわゆる金縛りと言うのでしょうか。身体がガチガチに硬
くなって言うことを聞かずに、まったく動かなくなる状態になってしまったんだそうです。
そうして、しばらく時間が経つとそれはふっと弛緩し、元に戻ったんだそうです。
彼は最初は気味悪く感じたのですが、元々楽天的な人だったので、すぐに気にするのを
やめてしまったそうです。ほら、金縛りは脳が半覚醒半睡眠状態なんだって言うじゃない
ですか。彼もそう思ったんです。ちょっと疲れているんだな、と……。
……ところがね、ある夜いつものように金縛りになっている時に彼は不思議な音を聞い
た気がしたんです。
ずず……っ、ずず……っ
何かを引きずるような音なんです。小さな物音でしたから、彼は気のせいかな、と思っ
て気にしなかったんです。しかし、その音は日に日に大きくなっていくんです。
そんなある夜、物音が止んだのです。ですが……、代わりに、何かスイカくらいの大き
さのモノがどすっ、と男の人の股間に当たり、彼のズボンを不器用な感じに引きおろした
んだそうです。男の人は悲鳴を上げそうになったんですが、声が出ないのです。金縛りっ
て恐ろしいですね。悲鳴も上げられないんだそうですよ。口をパクパクさせても、喉から
声が出ないんです。
そして……、何か、ぬめるようなモノが男の人の……、その、大切な部分を愛撫しはじ
めたんだそうです。そう、まるで……、舌で舐めるようにね。彼は恐怖のあまり発狂しそ
うでしたが、不思議なものでねぇ……、あれが勃つわけですよ。生命維持の本能っていう
んですかね。尋常ではないくらいの硬度になるものですから、ますます愛撫が気持ち良か
ったんだそうです。そして……、男の人は果てたんだそうです。すると……、ふっと身体
が弛緩し、金縛りは解けたんだそうです。彼が起き上がってみると辺りには何も変化はな
く、ただ彼が放出した液の残滓が散っているだけだったんだそうです。
そして、その甘美と恐怖に満ちた愛撫は毎夜続いたのだそうです。楽天的な男の人はね、
そのうちに思ったんだそうですよ。これはきっと、恋人がいない自分に神様がくれたプレ
ゼントなんだってね。だから、やがて恐怖を感じることなどなくなって、ただ未知のもの
からの愛撫を毎日楽しんでいたのだそうです。
ところが、ある夜気づいたんだそうです。そのモノが、聞き取れぬほど小さな声で何か
を囁いていることにね。
それは、女の声だったらしいんです。小さな声で「……しで、……」と囁いているんで
す。
男の人は気になって、毎晩愛撫を楽しみながら聞き耳を立てていたんですね。そうする
と、段々声も聞き取れるようになってきます。「……少しで、……る」。「……う少しで、
……れる」。といった感じでね。
それとともに、もうひとつの変化にも男の人は気づいたんです。最初は愛撫も、鈴口と
言いますか、亀頭の先端だけを愛撫していたんですが、それが少しずつ飲み込むような形
で下まで下がってきていたんだそうです。ですから、気づいた頃にはかなり根元近くまで
来ていたんだそうですね。そうすると、ますます快楽は深くなっていたんだそうです。
その頃には、なんだか女の囁きは怨嗟のこもったような、地獄の底から響いてくるよう
な声の色合いを帯びていまして、さすがの彼もこれはおかしいぞ、と思ったわけです。怖
くなって自分の家を飛び出しても、誰もいない所で眠ると例の何かを引きずるような物音
とともにあのモノが近づいてきて男の人の大切な部分を愛撫するんです。想像できますか。
金縛りにあった状態で男の最大の弱点を未知なるモノに預ける気持ちは。そして、それが
快楽となってしまう気持ちは。
男の人が管理人に訴えても、管理人は頑固な人で全く取り合ってくれないんですね。す
ぐに部屋を解約しましたが、そのモノは最早、部屋ではなく彼自身に憑いていたんです。
男の人はもう眠るまいと決心して日に日に憔悴しきっていったんですけども、遂にその
日、限界に達した彼はそのモノの正体を暴こうと一計を案じて友人の部屋で眠りこんだん
です。
そして……、深夜、金縛りとともに目が覚めたんです。
「……逃げられはしない」
ああ、今や地獄の底から響いてくるような、世にも恐ろしい声は囁きではなくはっきり
と彼の耳に届いているのでした。
ずず……っ、ずず……っ
何を引きずっているのでしょう。やがて彼のズボンが下げられ、彼の陰茎への愛撫がは
じまります。しかし、発狂せんばかりの彼は助けを呼ぼうにも喉から声が出ないのです。
彼の陰茎がぬめった何かに飲み込まれていきます。
「……う少しで、……れる」
ああ、気味の悪いいつもの声です。
「もう少しで……」
と間を置いて声は言いました。
「今日こそ、噛み切れる」
男の人は目を動かしました。するとそこには彼が昼間の内に仕掛けた秘密兵器、据え付
けの鏡があるのでした。彼は首を動かさずに鏡に映ったそのモノの姿を見ました。
そこにいたのは、長髪のざんばら髪を振り乱して彼の陰茎に奉仕する、血まみれの生首
でした。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああっ!!」
どうしたことでしょう。その姿を見た瞬間、魔法が解けたかのように彼の口から声がで
ました。生首は邪悪な視線で鏡を盗み見て、
「……もう少しだったのに」
と呟いて、煙のように姿を消しました。後には、男の人以外には何も残っていないので
した。
なぜ姿を見られたことで、そのモノが消えたかは定かではありませんが、それ以後、彼
は二度と金縛りに遭うことも、そのモノに出会うこともないそうです。
後日、図書館で古い事件を彼が調べた所、件の木造アパートでの事件の記事が見つかっ
たんだそうです。二十年前、女の人が恋人の性器を噛み切って自らの首を切り自殺すると
いう、悼ましい猟奇事件があったのだそうです。
……そして、新聞に掲載されていた被害者の男の人の顔が、彼そっくりだったんだそう
です。