首都東京から遠くはなれたこの岩手にも、新時代大正の世態風俗の情報だけは入ってくる。  
明治帝御崩御から数年、岩手の生活はなんら変わることもないが、  
さすがに東洋一の大都会東京では、地下鉄が走るだの銀座にはパーラーだのモボだのモガだのどうのこうの。  
いろいろと騒がしそうで馬鹿馬鹿しく、想像も出来ないような楽しさがあるようで、  
そのの匂いだけが伝わってくるようなこの岩手県に居る身としては、  
もどかしいような、別世界のことのような、なんだか言いようの無い気持ちに陥る。  
 
「エロ、グロ、ナンセンスねぇ……」  
僕は東京から二週間遅れの雑誌の頁を親指と人差し指だけで挟んで、  
光に透かすようにして眺める。  
この三つが今の東京で流行しているものだということだ。  
春の日曜日のお日様はぽかぽかとして、厚ぼったい窓ガラス越しでも、体に受けたその陽は充分にあたたかい。  
窓の外には淋しく青稲の育つ「ぬまばたけ」と、之も寂しく成長している短い杉の木立が並んでいる。  
 
「ねえ、どう思う?ハル」  
さっきから部屋の掃除をしているハルを、僕は視界の隅に捕らえていた。  
春というのは僕の家のお手伝い……というか、所謂「ねえや」で、  
なにかと僕の世話や、細かな仕事をやらせるための、おんなだ。  
 
呼ばれたハルは、こっちが見て驚くほどにびくっとし、驚いた表情でこちらを振り向いた。  
「あああ…あ、あの、坊ちゃま、ワタクシ、そういったことはその、よくわかりません。……おもさげながんす」  
「ほら、また方言が出た。そこは『申し訳ありません』っていうところだよ。東京では」  
 
「ねえや」とは言うけれど、ハルはまだ13歳の少女で、ぼくよりも3つも下だ。  
今は僕の家で働いているけど、小さな頃はよく一緒に遊んだ。  
友達というか――妹分というか――なんというか、気の置けない、やつだ。  
これからは何事もどのようなことでも、東京にいたほうが有利だということは明白な事実で、  
そのために僕や僕の家族は、複数居るお手伝い――そして僕ら子供たちにも――岩手弁でなく、標準語を使わせようとする。  
 
「ま、そうだろうなあ。ハルにはまだ、わかんないだろうなぁ」  
僕は少しだけ満足げにうなづく。  
そりゃそうだ。  
ハルにこんな低俗で不埒な都会の風俗がわかってたまるものか。  
まぁ、低俗で不埒でも、そこに権力と情報が集まる以上、そこを目指すべきなのはある意味当然ともいえる。  
僕はわりと、この岩手が好きなんだけどな。  
確かに田舎で、夜は足元も見えないほど暗くなることもあるけど。  
それでも月が大きく出ている日や、夏の夕日が沈んだあとなどは、電気もランプも無くても本が読めるほど明るいし、  
冬にまたたく星空は全く格別の様子で――世界は美しい――僕は澄んだ夜空を見て、何度もそう再認識させられる。  
だから僕はこの岩手が好きだ。  
情報も届かない、不作が続くとすぐに財政がゆきづまってしまう田舎だとしても。  
 
それに――ハルもいるし――  
少し思って、自分でもあまりに感傷的なその考えに、顔が熱くなってしまう。  
ハルの純朴な笑顔。  
ハルは、春に生まれたから、ハルだ。  
これ以上簡単な名前も無いと思う。  
でもそのハルは、自分が生まれた春という季節が本当に好きで、春の野原のシロツメクサが満開の中でこっちを向いて  
「ケンおにいちゃん、ねぇ、きれいだね、ここ。濃いぃ緑の中に、すごく白い花が咲いて、  
それがずっと続いて……」  
にこにこと笑ってくるくると回るハルの姿は、今でも僕の心の中で、その輝きを失わない。  
 
「あの…ケンさま…」  
ハルが話しかけてきていた。  
ちょっと気づかなかった。  
「ああ、悪い、なんだった?」  
いまではハルは僕のことを『ケンおにいちゃん』と呼ぶことは無い。  
僕は地主の息子で、彼女は小作の娘で、僕の家のお手伝いだ。  
仕方ない、とも思う。  
 
「……あの、その…こ、これなんですけど」  
彼女がおずおずと控えめに出した右手には、僕の秘蔵の画版本がぶら下がっていた。  
なんというかその、「かなり薄着の」女性の絵や写真が多く載っている、非常にその、興味深い、雑誌だ。  
ハルの手からひったくるようにして奪う。  
「どわあああああああああああああ!!ハ、ハル!どこからこれ――」  
「……その、もう綿入の半纏を片付けようと思いまして……」  
 
まずった。そうだ、もう春だったのだ。  
あたたかで分厚い半纏の奥に隠しておいたのが裏目に出てしまった。  
「いやその、なんだ、これはその、あの、ほら、都会のね、世態風俗をね、研究しようと思ってね……」  
僕がそこまで言うとハルは、青森特産のりんごのように頬を赤らめて、  
「はい、わかってます。から…その……ケンさ…さえ良ければ、わだすはいづでも……」  
なんてことを言う。  
 
え、今なんて言った?  
「あらやんだ、わだすったら、はしだね。坊ちゃま、忘れてくだっせ」  
ハルは両手を上気した頬に当て、じっと床を見つめている。  
本気で自分の言ったことに困惑している表情だ。  
なんというかそれはその、こう、かわいらしい。  
ハルは自分でも思わないことを言ってしまう時、ついついなまりが出てしまうくせがある。  
つまりなまっている時のハルは、これ以上ないほど僕にその本心を伝えていて、僕はそれがわかる。  
 
その様子を見て僕はこう思うのだ。  
やっぱり僕はこの岩手が、ハルの居る岩手が好きなんだ。って。  
 
それにしても、えーと、その……ハル、いま、何ていった?  
 
…………だめだだめだだめだ。  
ハルはまだ13歳なんだったら!  
ほらみろ!自分の言ったことにあんなに頬を赤く染めて!!  
 
それはその、之ぐらいの年齢になれば……関係を持つことはこの地方では珍しいことではないんだけれども!  
でもダメ!僕はもっと都会風にソフティケイティッドされた人間にならなきゃいけないんだから!  
だからダメ!ダメだって!だめなんだでば!こら、いうごどさぎげ!!おらの色情狂!  
なしてこげなぁ言うことさきがねがぁ!いぐらオラがまだわげぇづっでも……!!  
 
……僕とハルはそのまましばらく、それぞれ別の理由で固まっていた。  
窓からはうららかな陽が差し込んで、なにはなくとも僕の世界は平和だった。  
 
 
 

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