そのあまりの悲惨さに、イザベル・クラチットは言葉を失って立ち尽くしていた。  
 手織りの絨毯の上には燭台が転がり、鏡は砕け散り、房のついた枕は群生するキンポウゲの  
ようにそこいらに点在していた。  
 寝室の主は、純白のマルセイユ織りのカバーが、無残にも引きはがされた寝台に腰をおろし  
ていた。  
 イザベルはブローン夫人にうながされるまま、おそるおそる彼に歩み寄った。  
 
 「失礼いたします、旦那様。あの、恐れ入りますが、ここを整えてしまいます間、少しお離  
れいただくようお願い申し上げます」  
 
 彼女の雇い主は、彼女の声に身を固くしたようだった。  
 彼は顔にかかる、とび色の巻き髪をはらいのけることもせず、億劫そうに杖をつくと立ちあ  
がった。  
 ハシバミ材でできた簡素なつくりのそれは、弱った足腰を支える類のものではなく、彼をぶ  
ざまな転倒から守り、忠実に防ぐ役割をはたしていた。  
 足元をすくう邪魔なものはないか、杖で丹念に確かめながら、彼は遅々とした足どりで壁際  
までさがった。  
 イザベルはめくれた掛け布団をもとに戻しながら、初めて見る主人の顔がずいぶんと若いこ  
とに驚いていた。  
 当の本人は台所女中がじろじろ見ていることなど、もちろん気にする風はなく、冬のかすか  
な陽射しが差しこむ背の高い窓の前で、打ち捨てられた彫像のように、黙然と動かなかった。  
 
 「名前は?」  
 
 イザベルはびっくりして飛び上がった。暖炉の飾りだなに置かれた調度品が口を利いても、  
これほど平静を失うことはなかったかもしれない。  
 
 破片をかき集めていた従僕や、壁のしみを拭いていた女中たちは、黙々と仕事を続けながら  
成り行きを見守ろうと耳をすましていた。  
 
 「あの、イザベル・クラチットと申します。お目にかかれて大変光栄に存じます」  
 
 束の間、彼女は自分の皮肉に気づかなかったが、おとずれた沈黙の原因をさとると、みるみ  
る血の気を引かせていった。  
   
 「旦那様、お許しくださいませ」イザベルは徒労と知りながらも深く頭を下げた。「どうか  
お許しくださいませ」  
 
 フランプトン・パークの主人にして、フェザスタンホー家の当主であるウィリアム・フェザ  
スタンホー卿は、その灰色がかった緑の瞳が、まるで見えないことに今さらながら負い目を感  
じるのか、けわしい横顔を彼女からそむけると言った。  
 
 「さがっていい」  
 「ご無礼をどうかお許しください」  
 「もうさがっていい」  
 
 彼のかたくなな言葉に、台所女中は己の失態を呪いながら部屋を辞した。  
 
 
 
 あくる日、イザベルは屋敷の長い廊下をバケツを片手に歩いていた。  
 覚悟をきめて向かったブローン夫人の部屋で、彼女は容赦ない解雇ではなく、図書室の掃除  
をいいつけられたのだった。  
 
 陰気な空からふりそそぐ午後の光は、それでも暗い半地下から出てきたイザベルには真夏の  
太陽のようにまぶしかった。  
 廊下のつきあたりにある頑丈な扉をおしあけると、そこはなんとも暖かく居心地のいい、し  
かし恐ろしく大きな部屋だった。  
 絨毯の敷きつめられた縦長の図書室は、厩舎にいる馬を放し飼いにしても、まだ余裕がある  
かもしれなかった。  
 イザベルは、炎がはぜている暖炉のかたわらにバケツをおろすと、袖をまくりあげた。  
 大釜からくんできたばかりのお湯に両手をひたすと、その温もりが凍えきった骨にじんじん  
と染み入るようだった。  
 そのとき、ひだの寄ったカーテンの一部だとばかり思っていたものが、突然こちらめがけて  
歩き出したので、イザベルは悲鳴をあげると、立ち上がりざまにバケツをけたおしてしまった。  
 杖をついていたウィリアム卿もひどく驚いた様子だった。  
    
 「怖がることはない」  
 
 「どうかお許しください」イザベルは、絨毯がぐっしょりと含んでしまったお湯を一心に拭  
きとりながらいった。「いらっしゃるとは存じあげませんものでしたから。本当でございます」  
 
 「ぼくがここにいる間は誰も入ってこない。だから慌てることはない」  
 
 イザベルはすっかり気が動転して、彼の話に耳を傾けることなどできないありさまだった。  
 
 「ぼくが頼んだんだ」彼はいったん口をつぐんでから、再びいった。「君にここで掃除か何  
かさせるよう、とにかくなんだっていいから、ここに来てもらうよう、ぼくが彼女に頼んだんだ」  
 
 「それでしたら、あの」雑巾ではたらずにスカートの裾まで使って、懸命に絨毯を乾かそう  
としていたイザベルは上の空でいった。「窓拭きをはじめてもよろしいでしょうか?」  
 
 「本当に掃除をしてもらいたいわけじゃない」ウィリアム卿は笑っているのか、イザベルに  
は見当もつかなかった。  
 「違うんだ。……ぼくは話相手がほしい」   
 「と申しますと?」  
 「君に話相手になってもらいたい」  
 「わたしが?」イザベルは信じられない思いで問い返した。「わたしがでございますか?」  
 「長い時間でなくていい。十分か、十五分だけでもいい」  
 「……急にそうおっしゃられても、わたしにはどうすればよいのかさっぱり」  
 
 イザベルは手にした雑巾を、やたらめったらにねじりながらいった。  
 
 「嫌ならいい。無理にとはいわない」  
 「ですが、あの」  
 「ほかの仕事で忙しいだろう。邪魔をして悪かった。いっていい」背を向けたウィリアム卿  
には有無を言わさぬ強引な感じがあった。  
 「それなら、なぜわたしをお呼びになったのか、それだけでもお教えください」  
 
 イザベルはウィリアム卿の勝手な振る舞いに少し腹を立てながらいった。  
 
 「わけがわからないままじゃ、すっきりいたしませんし、夜眠れなくなったら大変でござい  
ますもの」  
 
 「君は、エリザに……いや」  
 「そのお方がどうなすったのでございますか?」  
 「なんでもない」  
 「立派な紳士でおられるなら、はっきりとおっしゃってくださいな。それでも殿方でござい  
ますか?」  
 「……声が似ている」ウィリアム卿は彼女の勢いにおされたのか、渋々ながら答えた。  
 「エリザに」  
 「エリザ様というお方に、わたしの声が似ているんでございますね?」  
 「ああ」  
 「それなら最初にそうおっしゃっていただければよかったんですわ。わたしがバケツを倒し  
てしまう前に」  
 「ぼくには君を驚かせる気など毛頭なかった」  
 「あらかじめブローン夫人から伝えるなり、何なり、なさって下さればよかったんです」  
 
 イザベルは、先ほど露骨にうろたえてしまった自分を恥ずかしく思うあまり、段々と彼を責  
め立ててやりたい気持ちにかられていった。  
 
 「そうすれば、わたしだってあのように慌ててしまうことも、叫び出してしまうこともあり  
ませんでした」  
 「それはすまなかった」ウィリアム卿はむっとした素振りを隠そうともしなかった。  
 
 彼の尊大な態度に、イザベルはついつい語を荒げた。  
 
 「旦那様は本当にそう思っていらっしゃるのでございましょうか? わたし、信じられませ  
んわ」  
 
 「ぼくは心からすまないと思っている。偉大なる神の御名にかけて誓うよ」ウィリアム卿は  
殊勝にもいった。  
 「これで気はすんだか?」  
 「ええ、結構ですわ。主の御名にお誓いなすったんですもの」イザベルは鼻息も荒く答えた。  
 「わたし、話相手でもなんでもいたしますわ」  
 「よかった、嬉しいよ。それでは感謝のしるしにグランドピアノでも贈ろうか。君、ピアノ  
は弾けるかい? ああ、そうだ。その前に応接間はどこにあるのかな?」  
 「わたしを傷つけてお笑いになりたいのなら、勝手になさったらいいわ」  
 
 イザベルはどうしようもない悔しさに、自分でも知らないうちに涙ぐんでいた。  
 
 「わたし、あなたのいうことなんかもう聞かないから!」  
 「泣いているのか?」  
 「いいえ、泣いてなんかおりません」  
 
 イザベルは泣くまいと我慢すればするほど、どんどんと溢れでる涙を袖でこすりながらいった。  
 ウィリアム卿はたじろいだように、見えない瞳をゆらすと、できるだけ優しく語りかけた。  
 
 「泣かないでくれ。君を泣かすためにここに呼んだんじゃない」  
 「わたしは泣いてなんかおりません」  
 
 イザベルは笑おうと努めたが、まるでうまくいかなかった。  
 
 「それに、旦那様がおっしゃったことも、別に気にしてなどおりませんもの」そういった彼  
女は下を向いていたので、よけいに声が震えてしまった。  
 
 ウィリアム卿は手を伸ばして彼女のほうに近づくと、その頬をそっとなでた。  
 
 「やっぱり泣いているじゃないか」親指で彼女の熱い頬から涙をぬぐうと、ウィリアム卿は  
いった。「こんなに濡れている」  
 
 イザベルはひんやりとした指先に触れられて、あれ程たかぶっていた気持ちが凪いでいくの  
がわかった。  
 
 「ぼくを許しておくれ」  
 「……わたし、泣いてなんかおりませんもの」イザベルは蚊の鳴くような声で反抗した。  
 「どうして嘘をつく必要がある? 悪いのはぼくだろう?」ウィリアム卿は顔を寄せて、彼  
女の囁く言葉を聞き逃すまいとした。「許してくれるね?」  
 
 彼女はその問いに、思わずこぼれた笑みで答えた。  
   
 「よかった。嬉しいよ」手のひらから伝わる満面の笑みに、満足したように彼はいった。  
 
 ウィリアム卿は確かに笑ったとイザベルには感じられた。   
 
 
 
 
 (おわり)  
 

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