「……美紀、終わった」
その声に、わたしははっと我に返った。
とはいえ、まだなんだか雲の上を歩いているみたいに気持ちはふわふわしているし、どこか夢を見ているみたい。
首筋とお腹の奥が熱くジンジンと疼いていて、運動をしていたわけでもないのに心臓が激しく脈打っていた。
それはまるで量が減った分を速度で補おうとしているかのよう。
「……美紀?」
「――あ、うん、大丈夫」
わたしがぼーっとしていたからだろう、もう一度理亜がわたしの名前を呼ぶ。
それで、こんどこそ本当に意識がはっきりしてきた。
目の前には頬を少し上気させた親友の顔。
鼻を突くのは使い古されたマットの放つ、お世辞にも芳しいとはいえない匂い。
だけどこの体になって嗅覚が鋭くなっているのか、理亜の放つかすかに甘い体臭も、その奥に確かに感じることができていた。
今はお昼休みの真っ只中。
お昼休みといえばお昼ご飯、ということで、理亜に血をあげてたわけなんだけど。
ちなみに、ここは体育倉庫。
この場所を選択したのは理亜だった。
基本的に鍵がかけられているここならば、確かに予鈴がなるまではまず人が来ない。
ことがことだけに誰もいない場所を必要とするわたし達には、まさにうってつけの場所というわけだ。
「……ん」
「……ひゃん!?」
不意に理亜が顔を近づけてきて、わたしの口元をぺろりと舐める。
「……な、なに?」
「……よだれ」
昨日の朝、エリスにもされた指摘を今度は理亜の口かされてしまった。
恥ずかしさにただでさえ火照っていた頬が、ますます熱く燃えていく。
昨日指摘されたときも気をつけないとと思ったけれど、行為の最中はそれどころじゃないというのが正直なところで。
あと――、
「あ、ありがと……でも、拭うならハンカチとかでも……」
なにも舐めなくても、なんてわたしなんかは思うのだけど。
「……だって、なんかおいしそうだった」
理亜は臆面もなくそう言い放つものだから、わたしの中の恥ずかしさはもう天井知らずで積み重なっていく。
ついでに言えば、これまた昨日の朝と同じで、口元だけでなく下着の中にも湿り気があった。
ここは学校。
当然だけど替えなんてない。
休み時間の内に買ってくるというのも、それはそれで恥ずかしすぎるし、つまり午後の授業はこのまま受けるしかないというのも気が重かった。
「……美紀も飲む?」
理亜がそう言って首を少しだけ傾ける。
その仕草によって強調された理亜の首筋。
左右に括った長い髪の毛と、見事なコントラストをなしている色素の薄い彼女の肌。
だけどよくよく見れば頬と同じで、いつもより少しだけだけど上気している。
そのことが、なんだか妙に色っぽい気がして。
中に人がいるのがわかるとまずいということで、明かりは一切点けていない。
つまり唯一の光源は高い場所にある小さな窓だけ。
その薄暗さが、周囲に漂う背徳感に拍車をかける。
わたしは、知らずに喉を鳴らしてしまった。
「やっぱり、やめとく」
それでも、わたしは理性を総動員して理亜の申し出を断った。
吸血鬼としての本能は、今すぐ目の前のそれに噛み付いて血をすすれと主張している。
普通の食べ物では満たされない吸血鬼として飢え。
それが自分の中に降り積もっていくのは感じていたけど、それでもまだ吸血行為に対する人としての抵抗は大きすぎる。
されるのは、もうなし崩し的に受け入れることができるようになってきたけど、自分からするとなるとまた別だった。
でも、本当はこれじゃいけないということもわかっている。
「……」
至近距離から見つめる瞳。
そこからは、彼女がわたしと同じ危惧を抱いていることが読み取れた。
それは、昨日彼女にしたように、わたしが我を失って誰かに襲い掛かることを心配するもの。
言葉にしないのは、わたしを気遣ってくれているから。
胸が、痛んだ――。
「理亜は、嫌じゃないの? その、血を飲むなんて……」
気まずさに耐え切れず、そんな問いを口にしてしまう。
思わず言ってしまってから、それが失礼なものだと気が付いたけれど、それでも一度口にしてしまったものは取り消せない。
それに、これは確かにわたしの中にある疑問でもあった。
たった1日だけだけど、彼女はわたしより遅く吸血鬼になったのだ。
なのに、少なくともわたしから見る限り、理亜は吸血行為に抵抗をもっているようには感じられない。
「……私は、慣れてたから」
「慣れてた?」
一瞬吸血鬼になる前から血を飲んでいたのかと思った。
でもそれは続く理亜の言葉に否定される。
「血は……儀式でよく使ってた。
鶏とか、自分のとか……」
「そ、そっか……」
そういえば、理亜は吸血鬼になる前から魔女だったんだ。
それなら、まあ血に慣れているのもわからないでもない……のかも。
なんて納得していると――、
「……それに、美紀のだし」
理亜は最後に、そう付け加えた。
それから彼女は少し思案するように俯いて――、
「……美紀も、慣れるとこから始めてみる?」
そんなことを口にする。
指先に当てたカッターの刃を、表情1つ変えずにすっと引く。
ぷっくりとした指の腹に一文字の線が入って、一拍置いて赤い液体が溢れ出す。
その赤を、わたしは素直に綺麗だと思った。
また、意思とは無関係に喉が鳴る。
「……これなら、どう?」
差し出される指先。
零れ落ちる真っ赤な雫。
目が、釘付けになる。
口の中に唾液が溢れ出して、でもそれをいくら飲み込んでも喉がひりひりと乾燥する。
「……う、うん、これなら大丈夫そう。
これなら、怪我したところを舐めて消毒するのと似たようなものだもんね」
自分に言い聞かせるようにそう口にはしてみたけれど、でも本当はただの言い訳だったのかもしれない。
今のわたしの頭の中は、すぐにでもそこにしゃぶりついて、一向に止まることなく溢れ出すそれを味わってみたいという気持ちに占領されているのだから。
それを辛うじて押し止めているのは、まだかすかに残る人としての理性。
でもそれも――。
「……じゃあ、舐めてみて」
その一言が、わたしの中で引き金を引いた。
餌を前に"待て”をされていた犬のように――ううん、まさにこの瞬間のわたしはそれそのものだった。
赤く染まった理亜の指先をためらいもなく口に含み、傷口に舌を這わせる。
「……ん」
さすがにそれには痛みを感じたのか、理亜が小さなうめき声を上げる。
普段のわたしなら、それで思わず舌の動きを止めていただろう。
それどころか口を離していたに違いない。
でも、今は――そんなことができるはずがなかった。
おいしいなんてものじゃない。
生まれてから今まで口にしてきたあらゆるものと、まさに次元が違うその味覚に、わたしは一瞬で飲み込まれていた。
少しでも多くその甘露を味わおうと、ちゅうちゅうと音を立てて指を吸う。
そのあさましいとも言える行為に恥ずかしさを覚える自分も確かにいる。
いるけど、それはあまりに無力だった。
やがて傷口が閉じて出血が止まる。
その瞬間まで、わたしは一心不乱に喉を鳴らし続けていた。
※
「……ううぅ」
わたしは恥ずかしさのあまり死にそうになっていた。
「……別に恥ずかしがることじゃないのに」
だって吸血鬼はそういうものなんだからと、理亜はフォローしてくれる。
それでも、昨日のそれとは違って記憶にはっきりと残っているさっきまでの自分の痴態は、100回死んでもお釣りが来るくらい恥ずかし過ぎた。
「……ところで、美紀」
まともに目が合わせられず俯いていた私に、いきなり理亜がのしかかってくる。
「……え、ちょ、理亜?」
理亜の体は軽い。
年頃の女の子としては、もう憎たらしくなるくらいに軽すぎる。
だから、跳ね除けようと思えばそう難しくはないはずなんだけど。
いきなりの展開に、わたしの全身は硬直してしまって、そのまま押し倒されてしまったり。
「……なんだか、興奮してきちゃった」
耳元で囁かれる言葉と、不意に胸にあてがわれる小さな手のひら。
この展開は、つまり指先からだけでも、血を吸われるのは気持ちよかったということで――。
「り、理亜、でももうすぐ授業――」
まるでタイミングを見計らったように予鈴が鳴り響く。
「ほら、予鈴――」
「……我慢できない」
理亜は自分の欲求にいたって素直だ。
だから、本当ならわたしがストッパーにならないといけないんだけど。
だけど、もはや間違いなく最大の弱点になっている首筋に舌を這わせられると、わたしはもう抵抗できなくなってしまっていた。
だけど――。
「――!?」
この体育倉庫唯一の出入り口であるシャッターの向こう側。
そこに人の気配を感じた瞬間、流されつつあった理性が最大限の警鐘を鳴らした。
考えてみれば当然のこと。
ここは体育倉庫で、ここにしまわれているのは体育の授業で使うものだ。
だから、授業が始まれば誰かが来るなんて、本当に当たり前の――。
「り、理亜、隠れないと」
唯一の出入り口の前には、もう人がいる。
となれば残された道はどこかに隠れて、彼女達が用事を済ませて去ってくれるのを息を潜めて待つくらいしかない。
なのに――、
「ふぁ、り、理亜!?」
理亜は今にも入ってこようとしている人のことなんか気にも留めずに行為を続行しようとしている。
いくらなんでもむちゃくちゃだった。
もしかしたら、今の理亜は昨日のわたしのように我を忘れているのかもしれない。
さすがにこうなっては多少手荒になっても理亜を押し止めようとするのだけれど、わたしの弱点を知り尽くしている彼女にかかると途端に両腕に力が入らなくなってしまう。
「り――」
もう一度制止の言葉を紡ぎだそうとして、それをシャッターが開く騒がしい音によって上書きされる。
そこからはもう、声を出すこともできなくなった。
シャッターが開いたことで、倉庫内の明るさが格段に跳ね上がる。
その向こうに立っていたのは、ジャージの色からしてわたし達とは違う学年の女子2人だった。
彼女達の視線が、倉庫の中を一巡する。
わたし達の前に遮蔽物はない。
もう、駄目だと思った。
恐怖のあまりに目を固くつむる。
だけど――。
「えーと、あ、あった」
鼓膜を震わせたのはずいぶんのんきな聞き覚えのない声。
それはどう聞いても見てはいけないものを見てしまった人間の声じゃなかった。
「……あの子達には見えてない」
暗闇の中、今度は聞き慣れた声が耳元で囁く。
その声に恐る恐る目を開けると、入ってきた2人はわたし達のことなんて気にも留めずにバレーボールの入ったかごを運び出そうと奮戦していた。
「み、見えてないって……?」
「……そういう魔法。
厳密には、ちょっと違うけど」
悪びれもせずに教えてくれる理亜。
「そ、それならそうと教えてくれれば……」
たまにものすごく意地悪になる親友に、せめてもの抵抗と抗議する。
まあ、この調子だと声も聞こえていなさそうだけど、それでも一応念のため声を潜めて。
「今ので寿命が3年は――ひゃぁん!?」
せっかく潜めていた声が台無しになる。
原因はもちろん、すっかり意地悪モードに入っている親友だ。
「ちょ、せめてあの子達が、ってだめ、んんっ」
「……どうせ、わかんない」
「そ、そういう問題じゃ」
いくら向こうからこっちのことが見えていないとわかっていても、それでもすぐそばに他の人がいるところでこんなことをするなんてあんまりだ。
なのに、その論理は理亜にはちっとも通用しない。
ますます激しくなる舌と指の動きと比例するように、わたしの声も自然と大きくなってしまう。
挙句の果てに――、
「……美紀、もう一回ちょうだい」
なんて囁いてくる。
「も、もう一回って、まさか……」
「……魔法使ったらお腹空いた」
直後、首筋にもう何度も経験した牙の感触が炸裂する。
そして、何度経験しても絶対慣れることがない快感が、わたしの最後に残った理性を容易く押し流していったのだった。