(近くて遠いひと) 
 
 
二人並んで芝村家までの道を歩く。洋大の家は、学校からの帰り道だと、静の家の手前になる。  
歩いている間も、静がひたすら喋り、洋大はそれにときおり相槌を打つ。  
幼い頃から変わらない、二人の帰り道の光景である。いや、一つだけ、変わった事があった。  
静は昔から、話をするときには相手の顔を見ながら話そうとする。特に他意は無く、癖のようなものである。  
洋大の背がひどく伸びた今でも、そうやって話そうとするため、足元がおろそかになる事がたびたびあった。  
今日も、いかにも危なっかしい様子で歩いているので、洋大が注意を促そうとした矢先に、  
静がいきなりバランスを崩した。  
わあとひゃあの中間のような、妙な悲鳴をあげて静がコケる、  
「…っ!」  
寸前。洋大の左手が、静の右上腕をしっかりと掴んでいた。そのまま引っ張りあげて、  
まっすぐ立たせる。  
大きな目をまんまるに見開いている静。よほど驚いたらしく、顔が強張っていた。  
「…あ、ありがと、よーちゃん。びっくりしたー」  
びっくりしたのはこっちだ、という目を向ける洋大。  
「うん、ごめん。気をつけ、マス」誤魔化すような妙な笑顔になって、今度はおとなしく前を向いて歩き出す。  
静が黙ると途端に静かになる。二人はそのまま家に向かって歩き出した。  
 
――やっぱりな。と洋大は思う。  
何の事かというと、ここ一年程の、静の自分に対する態度の事だ。  
静は昔から人懐っこく、スキンシップを好む傾向があった。  
それは、同性の友人だけでは無く、洋大に対してもそうであったのだが、最近少々変わりつつあった。  
静のほうから触れてくることは変わらない。  
ただ、洋大のほうから触れられる事に対して、過剰な反応を返される事が多くなった。  
さっき、転びかけた静を支えるために腕を掴んだ事もそうだ。以前なら、あそこまで何かに怯えるような、強張った表情はしなかった。  
要するに、俺がシズカを怖がらせてしまっているのだ、と洋大は思う。  
そのくせ、静のほうからは幼い頃と同じように洋大に触れてくる。  
そう、幼い頃と、同じように。である。  
――つまり、そういうことなんだろうな。  
幼い、どこまでも幸福で、今日と違う明日が来るなどと思っても見なかった優しい季節。  
性別の違いなどという事を考えもしなかったあの頃。  
静はあのころのままでいたいのだろう。そんなことが出来るはずも無いのに。  
洋大は思う。  
――もし、今のバランスを崩すような事があったら。  
自分たちは一体、どうなってしまうのだろう。そんな事を考える事が、最近多くなった。  
 
 
洋大の横顔を仰ぎ見て、よーちゃんは、変わったな、と静はこっそりと思う。  
今でこそ、静の身長では見上げる事になってしまう、背の高い洋大だが二年前、  
中学一年生までは、クラスで一番小さかった。  
153センチ。  
当時の静の身長である。十三歳の少女としては、大きくも小さくも無いくらいだろう。  
その、大きくも小さくも無い、平均並みの身長しかない静が、それでも簡単につむじを  
見下ろせるほどの背丈しかなかったのだ。  
――ずるい。  
それが、今の洋大への静の率直な本音であろう。  
――だって、わたしはあれから三センチしか大きくなってないのに、よーちゃんだけ、ずるい。  
 
たかだか二年で五十センチ近く。  
月平均二センチなんていう、無茶苦茶な速さで洋大の背は伸びて行った。  
そうして、洋大の頭の位置が自分より低いところから、高いところへと遠くなるごとに、静は置いていかれたような気持ちになった。  
当時の、静よりたっぷり頭ひとつは背丈の低かった頃の十三歳の洋大は、もとより内向的な性質で、不必要なおしゃべりをする子供ではなかったが、それでも今のように必要なことすら滅多に喋らない、というほど無口では無かったと、静は思う。  
中一の終わりごろ、洋大の背丈がぐんぐんにょきにょきと野放図に伸びだしてから変わってしまった。  
二人が通っている中学校は、全校生徒合わせても二十人ほどしかいない小さな分校で、それも小学校からずっと同じ面子という、学校全体が幼馴染みたいなところである。そんなこともあって、洋大がどれほど無口でも、みんななんとなく彼が言いたい事は解ったし、そのまま普通に受け止めてもいた。  
そして、静はまるで気がつかなかった。その頃の洋大が、今までよりもさらに口を開こうとしなくなっている事に。  
静が、そのころの洋大と自分を思い返してみると、確かにしょっちゅう一緒にはいたが、彼の声を聞いた覚えはまるきり無かった。  
だから、二年生へ進級する新学期に、そのころからロケットフリークで、春休み中種子島の親戚の家へ行っていたという洋大にしばらくぶりに会ったとき、静は心底仰天したのだ。  
まるきり声が変わっていた。  
今まで静が覚えていた洋大の声とはまるで違う、低い声になっていた  
 
そのときになって、やっと静は洋大が最近やけに無口になっていた事と、それが何故だったかという事。  
さらにいえば、その事実に気づいて居なかったのが自分だけだったということに、激しくショックを受けたのだった。  
その事から、疎遠になったりするという事などは無く、以前と変わらず仲の良い幼馴染として過ごしている二人ではあったが、静はふと、自分の記憶にある高く澄んだ幼い洋大の声を思い出し、今の低い洋大の声が、まるで見知らぬ男の声のように聞こえてしまい、奇妙な居心地の悪さを感じてしまう。  
そして、そんな風な居心地の悪さを感じる自分自身に罪悪感を感じてしまい、ひどく落ち着かない気持ちになる事が、静にはあった。  
――いくら見掛けが変わっても、よーちゃんはよーちゃんなのに。  
そんな風に思っては、幼馴染に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまい、静は、洋大に対して幼いころと全く変わらない態度をあえてとる事をするようになった。  
それは、いってみれば、じきにこの場所を離れて別れてしまう寂しさへの反抗のような感情から来たものだったのだと、後になって静は思う。  
静にしろ洋大にしろ、本人たちはよく解ってはいないが、この冬が終わって春になってしまえば、洋大は旭川の高専へ、静は札幌の女子高へ、それぞれ進学する予定である。  
同じ道内だから、休みには帰ってくるから。『だから、いつでも会える』そんな風に思っている。  
でも、そんな事は間違いだ。二人にとって、これが『最後の季節』で『お別れの日』はびっくりするほど近いのだ。  
そして、そうなればもう二度と今の関係には戻れない。  
意識には登らなくても、その事が二人の仲を、一見は、静の望んだ『一番良い季節』のころのように見えるが、実際はどこか奇妙な齟齬のある関係にしてしまっていた。  
 
 
芝村家は共働きである。  
家族構成は両親に、長男長女次女に犬。  
そのうち、長子たる姉(十九歳)は、とっくのとうに家を出て東京に進学し、ごくたまにしか帰ってこない。  
妹の遥(七歳)は大抵、帰るなりルーク(飼犬・オス三歳)と遊びに行って、日が暮れるまでは帰ってこないのが常だ。  
そんなわけで、洋大が玄関に投げ出してあった遥のランドセルを回収しながら、二人は洋大の部屋に向かっている。  
重ねて言おう。二人っきりである。  
普通なら、それなりに意識したり緊張したりするのだろうが、二人とも、お互いの部屋に行き来するのは当然のようなところがあってか、特に何も感じていないようだ。  
つまらない連中である。  
「えーと、これがお知らせのプリント。…風邪が流行ってるから、ちゃんとうがいしろってさ。で、こっちがこないだの小テスト。やり直しするようにー、だって」  
静が三日分のプリントを先ほど自分が突っ込んだ洋大の上着ポケットからバサバサと取り出し並べ始める。  
「で、これがノートね。今日と、昨日と、一昨日と――、…ん、これで全教科」  
バインダーからルーズリーフを外して纏める。  
「はい! すぐに写す! 待ってるからね」  
む。とする洋大。  
明日の朝すぐに返すから、今すぐじゃなくても別にいいだろう。  
「だって、よーちゃんの事だから、おいて帰ったらどうせ後回しにしちゃうでしょう? 今すぐロケットの飛行記録まとめたいーって、そう顔にかいてあるもん」  
「…………。」  
図星だったらしい。  
「それで、途中でノートの事なんかきれいさっぱり忘れちゃって朝になるんだわ。…前にも、何回かあったもんね?」  
 
ぐうの音も出ない洋大。そのまま大人しく回れ右して机に向かい、自分のノートを取り出す。  
今回も全面的に洋大の敗北である。  
「あ、そうだ、忘れるとこだった。明日の体育、スキーだからちゃんと一式持ってきてねー」  
肩越しに軽く手を上げる洋大。了解した。という事らしい。  
もとより無口な性質ではあるが、それに加えて、いったん本気で集中しだすと、周りの音すら耳に入らなくなる、という所が洋大にはある。  
もう今からは何を言っても認識しないだろうな、と静は思い、勝手知ったる幼馴染の部屋の本棚から適当に本を取って洋大のベッドに寝転がった。  
……しばらくして、洋大はノートを全部写し終えた。たかだか三日分とはいえ、静のノートは実に細かいのでそれなりに時間がかかる。  
終わったぞ、と言おうとして背後を振り返ると、静が自分のベッドで熟睡していた。  
時間がかかったといっても、それはあくまで、「それなり」である。現に、時計を見ても一時間程しか経ってはいなかった。  
いつのまに寝てたんだろう。と思いながら、静を起こそうとベッドに近づく。  
 
「…シズカ」  
静は目覚めない。  
白くやわらかそうな頬と少女らしい、ふっくらと優しげな唇に、艶々した柔らかい黒髪が、掛かっていた。  
髪を払って耳に掛けてやる。そのまま、首筋に指を滑らせると、一掴みに出来そうなほど細く、白い頸を指に感じる。  
静は目覚めない。  
「シズカ…」  
指先だけで頬に触れる。…想像通り。すべすべして、ひどく柔らかい。  
静は目覚めない。  
唇が、微かに開いて、可愛らしい小さな歯が覗いている。…まるで誘っているかのようだ。  
そんなふうに、思ってしまった。  
――そんなことが、あるはずなどないのに。  
親指で、下唇をなぞる。…自分のものとは、まるで違う。  
綺麗な桜色で、ほんとうに、とても、やわらかな――。  
そこで、今まで一定だった静の呼吸がふいに変わった。  
目覚める前兆だ。  
そのことに気づき、はじかれたように手を引っ込める洋大。  
いつのまにか、ひどくベッドに――静に、近寄りすぎていた。慌てて少し遠ざかる。  
むー、と可愛い唸り声を出す静。ふう、と自分を落ち着かせるように息を吐いてから、声をかける。  
「シズカ、起きろ」  
「…うー? なーにー? よーちゃん…」  
何? じゃない、と言いたげな洋大の顔が目に入る。  
「……? …! …あー、ごめん。寝ちゃってたー」  
 
あははー、と誤魔化し笑いをする静。洋大は静にノートを渡す。  
「あ、写し終わった? それじゃ、わたしもう帰るねー」  
送ってく、と上着を手に取る洋大。  
短い冬の日はすでにだいぶ傾いた。静の家まで約十分。  
女の子ひとりで帰らせる事など、到底出来ない距離と時間である。  
他愛も無い話をしながら短い距離を並んで歩く。十年以上、何も変わらない、いつもの二人の光景。  
――そう、思っているのは、静だけだ。洋大にとって、静は十分にただの幼馴染などではない「特別」だった。  
静は気づかない。洋大が気づかせない。  
――そうして、いつも通り、静の家の前で別れる。いつもの挨拶。いつもの「また明日」。  
一体、いつになれば変えられるのか。  
誰よりも、一番近くて遠すぎる「幼馴染の距離」を、どうすれば埋める事が、出来るのか――。  
答えは、出ない。  
 
 

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