(そんな冬のはなし) 
 
 
がたがたと玄関から音がする。  
芝村家の主婦、八重子が何かと思い、玄関をのぞくと、最近とみにでかくなった彼女の息子が  
靴の紐を結んでいる最中だった。  
この寒い中、また星を見に行くらしい。私には理解できない趣味だ、まったくあきれたものだ、  
と思いながら、注意をしようと玄関まで行く。  
「――洋」  
紐を結び終えて振り返る。目線だけで何だ? と問う表情。  
「――これ」  
靴箱わきの戸棚から靴下用カイロを取り出し渡す。凍傷で足の指をうっかり無くす奴は意外と多い。  
首を軽く左右に振る。  
へいき。  
そう言いたいらしい。  
そんなわけがないだろう、とずい、とカイロを差し出す母。  
自分の足元を指差し、もう貼った。と主張する息子。  
そうか、と納得してうなずく母・八重子。  
そうだ、と心配無用とばかりにうなずく息子・洋大。  
…なんというか、独特すぎる芝村母子の無言のコミュニケーションである。  
 
 
裏庭の物置からひさびさに引っ張り出した愛用のそりに荷物を積む。  
そり自体も金属製の頑丈なもので、大人が四人は余裕で乗れるほど大きなものだ。  
それに、断熱素材のマット、折りたたみ椅子、熱い紅茶の入った魔法瓶、  
乾電池式のランタン、スコップと、天体望遠鏡のケースを積み込む。  
プラトロンMSZ‐400。  
去年のお年玉でようやく買った、洋大の一番の宝物の一つである。  
ちなみに、もう二つの宝はいままで作ったロケットたちと、  
そのデータをまとめたノートであるのだが、それはまた別の話。  
 
月は満月。一月の、呼吸すると肺腑が凍る、ガラスのような大気の中、雲もなく、  
蒼く蒼く澄み渡る空に、化石のような皓い月が浮かんでいる。  
確かに、この寒さは堪えるが、天体観測にはもってこいの、実にいい夜である。  
洋大は思う。この一ヶ月と半、自分はよく頑張った。真面目に受験生らしく毎日、  
一日たりとて休まずに学校に行き、冬休みに入っても、大晦日の大掃除はあっても正月は無いというくらい、今までに無く勉強した。  
――たまのガス抜きも、必要だよな。いくら受験生だからってそう毎日机にかじりついていられるもんか。  
つまるところ、現実逃避である。確かに、こんないい夜に部屋にこもって机に向かえというのは、  
洋大にとっては拷問に等しいだろう。  
ふと、夜空を見上げる。  
どこまでも蒼い空に、星が無数に輝いている。  
洋大は空を見上げるのが好きだ。  
昼間のどこまでも透明な青い空も、夕方の茜色の空気の中、柔らかな藍色に星が瞬き始めるころの空も、  
すべてが好きだった。  
その中でもとりわけ好んだのは、今日のような晴れた夜空だった。蒼いビロードに描かれた砂絵のように、  
無数に瞬く星々の群れ。  
――いつか、自分で作ったエンジンを積んだ宇宙船に乗ってあそこまで行く。  
子供じみた夢と言わば言え。  
それが、洋大の野望だった。  
大気の底から、空を見上げるたびに湧く感情。いつか、必ずあの場所まで行ってやる。  
しばらくぼんやりしていたらしい。ルークに袖口を引っ張られて、ふと我に返った。  
――ああ、悪い。  
そりのハンドルを掴み、さっきからしきりに横で尻尾を振っていたルークと一緒に歩き出す。  
ルークはよくこうして、洋大の突発的な天体観測に付き合ってくれる。…いや、洋大の天体観測に付き合いたがる物好きがもう1人いた。  
 
「おーい! よーちゃーん!」  
静が自室の窓から声をかけてくる。  
…説明すると、洋大がロケット打ち上げポイント及び観測場所としてよく使う空き地へは、  
芝村家からはどうしても斉藤家の前を通る事になる。  
ちなみに芝村家からは徒歩四十分。斉藤家からは三十分かかる、  
空き地というより「原野」と表現したほうが正しいくらい、周りに人家や畑の一切無い場所である。  
まあ、そういった位置関係により、洋大が突発的に思いついたことでも。  
「星、見に行くんでしょー!? わたしも行くから、10分だけ待っててー!」  
とまあ、こういうことになる事もままあるわけである。静は、洋大のように天体に関する知識を  
持っているわけでもなんでも無いが、星を見るのは好きだった。  
というより、洋大の影響だろう。  
それにしても、普段からちゃんと勉強しろとうるさいシズカが珍しい事もあるものだ、と洋大は思う。  
やはり、こんな夜に星を見ないというのはあまりにももったいなさ過ぎる、ということだろうか。  
そんな事をぼんやりと考えていると、もこもこに着膨れた静が玄関から飛び出してくる。  
「おまたせー! あ、ルークもこんばんは!」  
しっぽをぶんぶか振って歓迎の意を示すルークに今気づいたらしく、嬉しそうに頭をなでくりまわす静。  
芝村家の愛犬、ルークはかなりの大型犬である。  
血統書付きでも何でもない純然たる雑種犬ではあるが、力が強くて足が早く、勇敢で頭も良けりゃ鼻も  
利く、その上性格は温厚で飼い主に従順という、まさに理想の犬である。  
ルークがこうして洋大の夜歩きや、遥の遊びに付き合うのも、単なる飼い主とペットのコミュニケーション  
だけで無く、ボディーガードの意味もあったりするのだ。  
ちなみに何から守るのか、というと、一番には変質者などではなく、主に野犬や猪や熊なのであるから、  
このあたりの平和さが解ろうというものである。  
 
で、それがどういう事かというと。  
「おかあさーん! 今日はルークも一緒だから、よーちゃんが遅くまで残ってても、わたしとルークで  
帰って来れるもん大丈夫だよー! ねえ、行っていいでしょー!?」  
こういう事だ。  
たとえ洋大が朝まで望遠鏡の前から動かなくなって、1人で帰るのが怖くても、  
ルークに送ってもらえば問題は無い。  
今までにも散々前例のあることである。  
ルークも子犬の頃から静のことは知っているので、静の言うことは実によく聞く。  
結局、斉藤家の母からはあっさりと了解が出た。  
…まあ、洋大が信用されているという事だろう、たぶん。  
それはさておき、観測ポイントまで二人と一匹、大きいのと小さいのと四本足のと三つの影が歩く。  
まったくもっていつもの冬の光景。  
いつもの空き地に着いて、洋大が望遠鏡を設置して、椅子を置く場所の雪を足で踏み固め始める。  
この作業を怠ると、後で椅子や望遠鏡がひっくり返って悲惨な事になったりするのだ。  
その間に、静は荷物をそりからいったん降ろし、断熱マットと持参した座布団をそりの底に敷いて、  
ルークと共にそりの中に座る。  
これが、いつもの二人と一匹の天体観測の光景である。  
 
静は、そりの中で寝転びながら星空を見上げていた。  
二人の間に沈黙が横たわる。これも、いつもの事だ。慣れた沈黙は、かえって心地良いものである。  
「…ね、よーちゃん」  
うむ、何だ。と望遠鏡を覗きこんで顔も向けないまま合槌を打つ洋大。解っているのかいないのか、  
静は言葉を続ける。  
「もうじき、受験だし、その後は卒業でしょう? …こんな事するのも、もう後何回も無いんだよねえー…」  
静が、そんな事を言い出すのは初めてだったので、洋大は驚いて、静のほうに顔を向けた。  
そんな洋大を見て、慌てたように上半身を起こし、ぱたぱたと顔の前でごまかすように手を振る。  
「あ、ち、違うのよ? 別にさ、ただ、ちょっと、もうじき、こんな事できなくなるんだなーって思っただけで、  
 別に、平気よ?」  
「…別に」  
「う、うん! そーだよね! 別にさ、二度と会えないって訳でも無いもんね! 同じ道内なんだしさ。  
 だから、何が変わるって物でも、無いわよ。あは、あはははー…」  
何故か、妙に感情的になっていく静。  
「違う。俺は、別に」  
「だから、へいきだってば! 寂しくなんて、ないんだからっ!」  
静の眉間に皺がよって、口をぎゅうっと引き結ぶ。  
完全に癇癪を起こしている。  
「聞け!」  
物凄く珍しい洋大の大声に、びくり、と、まるで引っ叩かれたように身体を縮こませる静。  
「…俺は、別に、寂しくて当たり前じゃないか、と言いたかっただけだ。まるっきり平気だ、  
 なんてヤツ、いないだろう」  
その、洋大の言葉に、へいきだもん、と返す静。  
「…シズカ」  
「…へいきだもん。また、夏休みになったらみんなと会えるもん。だから、へいき――」  
「…シズカっ!」  
「だって! 寂しいなんて思ったら、もう二度と会えないみたいじゃない! 今と変わっちゃうみたいじゃない!」  
「…新しい場所に行けば、それは、変わるだろう。変化しないなんて、無理な話だ」  
「そんなの、やだよ。…よーちゃんは、変わらないよね? ずっと、ともだちだよね?」  
今までと、変わらず? 触れる事もできない、距離のままで?  
「…シズカ、俺は」  
「…よー、ちゃん?」  
 
目の前の少女の肩を掴んで、抱き寄せた。  
「…俺は、ともだち、なんかじゃない…!」  
息が、詰まる。  
腕の中の、まるで骨が無いみたいに柔らかな身体。  
力任せに抱きしめているのは自分の方のはずなのに、なぜこんなに息が苦しいのだろう、と、  
洋大はぼんやりと思った。  
「俺は、おまえが好きだ。…友達では、いられない」  
 
いきなり抱きしめられた。  
苦しくて、離してほしくて、必死に暴れた。  
耳元に熱い息がかかって、ぞわり、と、鳥肌が立つ。  
そのとき、信じられない事を、言われた。  
びっくりして、呆然としていたのだと思う。  
次の瞬間、がつん、と歯と歯があたって目の前に火花が散った。  
力任せに強く掴まれた腕がひどく痛い。  
圧倒的に暴力的な男の力。  
ぬるり、とひどく気持ちの悪い感触が口内に入ってきて、静は反射的に歯を立てる。  
洋大の肩がぎくり、と一瞬震え、鉄錆びた味が口腔の中いっぱいに広がった。  
それでも、洋大はやめてくれなかった。  
いつのまにか、顎を掴まれていて、口を閉じる事もできない。  
なにがなんだかわからない。  
何故か、こめかみのあたりがひどく冷たかった。  
怒ったような、泣き出す直前のような、奇妙な表情をした洋大と、その後ろに煌めく星空が見えて。  
そこでようやく、静は自分がべそべそと、子供のように泣きじゃくっていたことに気がついた。  
 
洋大が上体を起こしてくれて、上着のポケットから取り出したハンカチを渡す。  
静が顔を拭っている間に、そりにルークを繋いだ。  
ハンカチに顔を埋めたまま、身じろぎもしない静を抱き上げようとすると、目に見えて静の体が強張った。  
洋大は一瞬躊躇したが、静を抱き上げると、そりに乗せる。  
ルークの背中を軽く叩くと、そりは静の家に向かって走り出した。  
家に向かって走るそりの中、抱き上げられたときの「ごめん」と言う洋大の声を、静は思い出していた。  
 
 

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