(パンドラ) 
 
 
その日、円谷円(十五歳)はひたすら惰眠を貪っていた。  
苛烈な受験戦争に身も心も磨耗しきった哀れな受験生が、  
全てが終わってひさびさにありついた泥のような睡眠である。  
結果なんぞ、今は考えたくも無い。もう何も考えずに、スイッチが切れたように、ただ眠りたかった。  
神様だってアメリカの大統領だって、たとえ怒れる母親であっても邪魔をする権利は無いはずだ。  
と、いうわけで、円はたとえ火事になろうが大地震が起きようが斧を持った殺人鬼が乱入して来ようが  
あたしは絶対に眠り続けるぞ。という不退転の決意を持って、太陽が中天に差し掛かろうかという今も、  
ひたすらに眠り続けている。  
だというのに、その眠りに邪魔が入った。  
ピリリリリリ。  
部屋の隅で充電器に挿しっぱなしにしていた携帯電話の着信音だった。  
半覚醒の意識の中で、ああ、そういえば電源を切るのを忘れていた、しまったな。まあいい、  
誰か知らないが直に諦めるだろう、と見当をつけて布団に深く潜りこむ。  
ピリリリリリ。  
ピリリリリリ。  
電子音は鳴り止まない。  
ピリリリリリ。  
ピリリリリリ。  
ピリリリリリ……。  
「ぬがあーッ! くそったれえッ!」  
十五歳の、花も恥らう年頃の乙女としてはいささか適切ではない雄叫びと共に布団から這い出す円。  
 
我が眠りを覚ます者に呪いあれ。そんな気分のまま携帯電話の通話ボタンを乱暴に押す。  
「はい円谷ですっ!!」  
「…え、えんちゃん…? あ、あの、あのね…」  
「…静か?」  
友人の斉藤静だった。はっきりいって、彼女が携帯に掛けてくる事は珍しい。  
何か、緊急事態でも起きない限り、掛けてくる事は全く無いと言っていい。  
つまり、静にとってはよっぽどの事があって掛けてきたという可能性が極めて高いという事だ。  
数瞬の間にそこまでの結論に辿りつく。その思考を裏付けるかのように、電話の向こうの静の声は、  
どこかひどく切羽詰っているようだった。  
「今どこに居るんだ? 家? …ああ、うん。とりあえずあたしの家に来いよ。話くらいなら聞けるから。  
…ああ、解ってるって。じゃあ、待ってるから」  
ぴ。という音と共に電話が切られる。  
ありがとう。  
最後に聞こえた静の声は、円には、どこか泣くのをこらえているように聞こえた。  
普段のどこかぽややんとした雰囲気と、落ち着きの無い挙動のせいで、誤解されやすいが、  
ああみえて静は結構我慢強い。  
何か、悩んでいる事があってもギリギリまで自分で何とかしようとするし、人一倍涙もろい癖に、  
人前で泣く事は我慢しようとする。  
つまり。  
「――やーっぱ、なんかあったんだろうなー、こりゃ」  
ぼふ、とベッドに頭をもたれさせてから、よいしょっと気合を入れて立ち上がる。  
つー事は、洋大の事かなあ、冬休みが終わってからあいつらどうも変だったし。などと考えつつ、  
すっかり冷え切っていた部屋の温度を上げるために暖房をつけてから、暖かい居間で着替るために部屋を出る。  
正月が明けて冬休みが終わって、中学生活最後の記念すべき新学期。  
洋大と静、二人揃ってあからさまに様子がおかしかった。  
何も無かったように振舞えている、と思っているのは本人たちだけで、クラスメート、つまり、三年生全員が、  
「ああ、何かあったな、こいつら」と悟るのには一時間もかからなかった。  
なんせ、普段しょっちゅう洋大にかまう静が、一日中洋大を避けていた。  
洋大は洋大で、普段から置物のような男(ちなみに、彼のあだ名は『モアイ』である。命名者は円だ)ではあるが、それがさらにひどかった。  
 
しかも、その日から二人とも、異常なまでに勉強をしはじめた。  
今までも、比較的真面目に受験勉強に勤しんでいたほうだったが,常軌を逸していると思うくらいだった。  
『まるで、何かから逃げているみたいだ』そういったのは誰だったか。  
とにかく、いくら本番一ヶ月前だからという事を差し引いても、異様な熱の入りようだった。  
二人とも、冬休み前の模試では、第一志望の合格圏内に余裕で入っていたのだ。油断するべきではないが、  
無理をすることは無いだろう。  
静はどんどん顔色が悪くなって、おまけに日に日に笑わなくなっていった。洋大の表情や顔色はよく解らないが、それでも何か悩んでいる事くらいは皆、解った。  
普段から人数の少ない分、団結力がやたら強い学校である。  
クラスメート達は、そりゃもう心配した。  
それが一日二日なら、何も言わなかったかもしれないが、三日も続くと流石に何があったのか気になった。  
野次馬根性も多少あったのは確かだが、それ以上に二人のことが、みんな心配だった。  
心配はしたが、いつにも増して、異様にテンションの高い静は、  
あからさまに空元気で――「だって、洋大の『よ』の字が出ただけであからさまに固まるんだぜ?」  
とは円の談である――あまり突っ込んだ事はとてもじゃないが聞けなかった。  
かといって、もう1人の当事者であろう洋大から何か物事の詳細を聞きだすのは、  
ゾウリムシに芸を仕込むよりも困難だろうと、全員の意見が一致した。  
そして、一週間が過ぎた頃の、二人を除くクラス全員の事態の対応への結論は  
「とりあえず、静観」という物だった。  
薄情と言うなかれ。  
受験前の一番ピリピリした時期にそこまでのおせっかいを焼くほど余裕のあるやつは誰一人としていなかったし、本音を言えば、はっきりした事態の解らない第三者が首を突っ込んで余計に拗れさせるよりも、放っておいたほうがいいだろう。という事もあった。  
 
円も、そのことに付いては激しく同感ではあったが、相談されれば力になってやりたいという気持ちはあったのだ。  
「…さーて、なにがあったんだーろねーい」  
――まあ、静のこったから、十中、八九、洋大のことだろけどなー。  
妙にウキウキしたような口調で呟きながら、もそもそと着替える円。  
完全に面白半分である。…心配も半分はあると信じたい。彼女達の友情のために。  
 
 
静が来たのは、それから30分後だった。  
上下ジャージにどてらという、着替えたことに何か意味があるのか本人以外には激しく疑問のある格好の  
円が玄関を開けると、面接官の前でもここまでの緊張はしないんじゃないか、と思う、まさに『決死の覚悟』としか表現の仕様の無い異様な面持ちで静が立っていた。  
こりゃ、相当だなーと内心思いつつも、とりあえず、自室に通しておき、茶と茶菓子を出す。  
「とりあえず、番茶とせんべいなんつー色気の無いモンしかないが、構わないよな?」  
「え、あ、うん。あの、さっき電話で言いかけた事、だけど、なんていうか、ちょっと、うまく言えないかもっていうか、その、あの、ちょっとね、なんていうかあの」  
「…いや、まあ、とりあえず、茶ァ飲め、茶。ちょっと落ち着いてから話そうぜ? あたしも喉は渇いてたんだ」  
「あ、うん。ごめんね…」  
しばし二人で茶をすする。  
暖かいお茶が、少しは緊張をほぐす役に立ったのか、目に見えて静の表情がやわらいだ。  
 
「…よし、ちったあ、落ち着いたみてえだな」  
「う、うん。お世話かけましたー…」  
「別にいいさ。…ま、前置きすんのも、いまさらアレだし、単刀直入に聞くぜ?『相談したいこと』ってなァ、洋大の事か?」  
一瞬、顔を強張らせて、ぎこちなく微笑む静。  
「――直球だね、えんちゃんは」  
まあ、いつもの事だけど。と呟く静。  
へっ。と鼻で笑って、円は先を促す。  
「――あのね、冬休みの話なんだけど――」  
そこまでは、円の予想の範囲内だった。  
そこから先は、少々予想を越えていた。  
一ヶ月と少し前の、三学期が始まる少し前の晴れた夜の事を、静は話した。  
自分が癇癪を起こした所で、自己嫌悪がよみがえってきたようだった。  
洋大にいきなりキスをされた所の話では『キス』という言葉のところで必ず口ごもってつっかえた。  
まあ、我慢してたほうだよな、洋大も。とりあえずそこまでで止まって良かったな。とか、  
静がそこまでこの町を離れることにプレッシャーを感じていたとは知らなんだ。とか、我慢強いヤツほど、  
切れるときは意外とあっさり行っちまうものなのかなあ、とか。とてもじゃないが、静には言えない感想をいくつか円は抱いたが、流石に口には出さなかった。  
そのかわり、こんな事を聞いてみた。  
「その調子じゃ、自分の問題はわかってんだろ?」  
こくり、と頷く静。その後で、自信が無さそうに、たぶん。と呟く。  
「で、相談ってのは、自分じゃ無くて、あくまで、洋大との事なんだな?」  
これまた、こくり、と頷く。  
ふん、と鼻を鳴らして、静の顔をまっすぐに見て、円は口を開いた。  
「――それで、おまえはさ、どう思ってるんだ?」  
「――え?」  
わざと、突き放すような、冷たい口調を作って、静に聞く。  
「え、じゃないだろ? 無理やりキスした洋大が許せないか? 嫌いになったか? それとも違うのか?   
おまえの気持ちはどうなんだって聞いてるんだ、あたしは」  
なにも答えられず、うつむく静。  
「――わたし」  
「わたし、よーちゃんのこと、きらいだなんて、おもえない。ゆ、ゆるせないとか、も、たぶん、ちがうと、おもう…」  
 
訥々と、せいっぱい声を絞り出すようにして、話す静。  
「めんどくさい事、考えない方がいいぞ。好きな男にキスされりゃ嬉しいもんだし、嫌いな男だったら  
それこそタマ引きちぎって息の根止めても腹の虫が納まらねえってモンだ。  
――で、お前は別に嫌じゃなかった。それ以上の事、考える必要があるとも思えねェがな」  
「――う、けど、わたし、よーちゃんが、あ、あんな事するなんて、思っても見なかったから…、  
嫌と か、う、嬉しいっていうか、その、すごく、びっくりして――」  
それを聞いて、先程の突き放すような声音ではなく、少し優しい声になる円。  
「な、静。おまえさ、なんていうか――、洋大のこと、幼馴染としてだけ、見ていたいんだな」  
びくり、と怯えるように静の肩が震える。  
「――えんちゃん」  
やめて。と声にならない声で嘆願する静。  
「いいや、止めない。おまえも――、いや、おまえが一番解ってて、望んでるはずだ。  
答えはすでに見つけてんだろ? おまえは、その答えを直視するのが嫌で、自分で認めるのが嫌で、  
箱に入れて、鎖を巻いて、鍵を何個も何個も掛けちまって、最初から無かったって事にしたいだけさ。  
それを、洋大が鍵を開けちまったから、そんな風に、慌ててるんだろう?   
――あの野郎は、箱の蓋を開けはしなかったみたいだがね」  
まったく、妙に詰めの甘いヤツだ、と独り言のように呟く円。  
「もう一回、聞くぞ? おまえは、洋大の事を、どんな存在だと、思っているんだ?」  
静は、呆然としていて、言葉もでない。大きな目をさらにまんまるに見開いて、じっと円を凝視している。  
数分が経過してから、ようやく静が口を開く。  
「――えんちゃん、わたしね」  
黙ったまま、ただ静の言葉だけを聴く円。円に呼びかけてはいるものの、円に対してというより、  
自分自身に言い聞かせるような口調だった。  
「わたしね、よーちゃんの事が、怖かったよ。いつのまにか、知らない人みたいになっちゃってて、  
すごくすごく怖かった。そんな風に思っちゃ駄目だって思うのに」  
 
箱の蓋が開く。  
「よーちゃんが、男の人になっていくのが怖かった。わたしの身体が、どんどん変わって丸くなっていくのが嫌だった。大人になったら」  
そこで一旦、息をつき、深呼吸をする。その先を口に出すのは、自分で認めるのは、少しばかり、勇気がいった。  
「――大人になって、よーちゃんと、みんなと。この町を離れるのが、すごくすごく嫌で、寂しくて、悲しくて、怖かった」  
「だから、昔のままで、ずっと、いたくて、よーちゃんにもそれを強制しちゃってた。わたし、ひどいことしてた――」  
――ああ、言葉にしてしまうと、こんなにも簡単な事だったのか、と静は思った。  
夜、暖かな布団で眠りに引き込まれる瞬間の、形の無い悪夢のような不安。それは、ひどく子供じみて、  
愚かしくて。――だからこそ、切実な恐怖感だった。  
認めてしまえば、こんなにも簡単な事だったのか。今まで訳もわからず怖がってばかりいた自分がひどく滑稽に思えて、静は思わずふきだした。笑いながら、泣いていた。  
「…なんかさ、ばかだよねえ、わたしってさ」  
帰ったら、よーちゃんのところに行こう。そして、ちゃんと白状して、今までの事を謝らないといけない。  
怖がったりして、ごめんなさい、と。  
「――いや、まあ。おまえがあいつのこと怖かったのって、本能的に危険を察知してたからってのもあると  
思うんだが――」  
小動物が、自分を捕食する肉食獣を見て怯えるように。  
そんな事を円は思ったが、静には伝わらなかったようだ。  
何かを決意したらしく、ひどく懸命になって、肩に力が入っているのが、傍から見てもよく解る。  
 
静は思う。  
押し込めて、蓋をした。  
無かった事にしようと、鍵を掛けた。  
――そして、存在すら忘れてしまっていた。  
そんな気持ちを、救ってあげないといけない。  
自分を甘やかす嘘をついて、ごまかし続けて逃げるのは、もうやめた。  
こんな、ずるい自分をいままでずっと見ていてくれた、いちばん大切な男の子に、言わなければならない事もある。  
「あとね、いちばん大事なことも言わないとダメだし。――わたしは、よーちゃんの事が男の人として好きなんだって」  
少し照れくさそうな、はにかむような笑顔だった。  
間違いなく、円がいままで見てきた中で、いちばん良い笑顔だった。  
「ありがと、えんちゃん」  
「ああ、頑張れよ。要はさ、おまえ、洋大と離れるのが嫌なだけだったわけだし。両思いってやつじゃねえか。  
大丈夫、旨くいくさ」  
うん、と微笑む静。うん、でもね。と続ける。  
「わたし、えんちゃんと離れるのも、つらい。今日は、いきなり押しかけてきたのに、ありがとう」  
「本当に、えんちゃんと友達で、よかった」  
そんな、ずるい自分の本当の気持ちに気づかせてくれた親友に、心の底からの礼を言った。  
いままでの、あまったれで子供過ぎた、情けない自分から抜け出すための、最初の一歩の言葉だった。  
 

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