(ある晴れた冬の日に)
太陽はずいぶん西へと傾きはじめている。
もう、あと何時間もしないうちに、夕日は雪原を紅く染めるだろう。
昨日、受験を終えて、旭川から帰ってきた洋大は、久しぶりに愛犬と共に『打ち上げ場所』にやってきていた。
雪原を走り回るルークを横目に、雪原にごろりと横たわる。
――あの日以来、ずいぶんと久しぶりに、空を見上げた。
静とは、もう一ヶ月以上、まともに顔をあわせていない。
本当に、幼い頃からの付き合いで、今までに幾度と無くケンカをしたことはあったが、
いつも次の日には仲直りをしていた。
こんなに長い間、会わないことは、初めてだった。
いや、顔を合わせない、という事だけなら、初めてではない。
二人が十三歳だった、あの夏も、一ヶ月近く会う事は無かった。
洋大が、静の背丈を追い越した、あの夏の日。
思えば、あの頃から二人の関係は変わっていたのだと思う。
ただ、お互いその事をごまかし続けていたというだけの話だ。
いつか、破綻は来るはずだったのだ。それが、たまたまあの夜だったということだ。
…ただ、それだけの事だろう。
洋大は、静をただ守りたかった。
それと同じくらい、壊してもみたかった。
その、捩れた衝動は、洋大の背丈が静よりも大きくなるごとに、同じように大きく強くなっていった。
自分自身でも制御できない感情。魂が根こそぎ惹かれ、奪われる感覚。
そんな感情を起こさせる静に対する苛立ちを覚える、自分自身への嫌悪感と怒り。
それが、あの夜、ついに弾けた。
――傷つけたく、なかった筈なのにな――。
約一ヶ月と半分。
短いといえば短いが、洋大にとっては凄まじく長かった。
その間、静が自分を徹底的に避け、教室でも自分が近くにいると、緊張している様子が、
洋大には手に取るように解った。
夜もよく眠らずに勉強しているのだろう、静の顔色が悪くなって、笑顔が無くなっていくのを見るのは辛かった。
何故、夜も眠らずに勉強しているとか、そんな事が解るのか。
答えは簡単。
自分も、そうだからだ。
静のことを徹底的に避けた。近くにいると、ひどく緊張した。
自分がしでかした事を考えるのが嫌で、受験勉強に逃避した。
あのときの静の泣き顔と泣き声を夢に見るので、自分をギリギリまで追い込むように机に向かい、
ネジが切れるように、夢も見ない眠りについた。
そのおかげか、試験の出来は上出来だった。自己採点が間違っていなければ、合格は確実だろう。
四月が来れば、自分はこの町を離れる。
そうすれば、静に二度と会う事も無く生きていく事は可能だろう。
――そうしようと、決めた筈なのに。
胸が痛い。自分の未練がましさに吐き気すら覚える。
自分は取り返しの付かない失敗をしたのだ。彼女の気持ちは解っていたのに。まだあんなに幼かったのに。
シズカにとっては、手酷い裏切りだっただろう。あの優しい世界をくだらない劣情で穢したのは自分だ。
なのに。
それなのに、自分はまだシズカが、好きで好きで仕方が無いのだ。もう、気持ちを押し込める事は
できそうに無かった。
――だからもう、二度と。
分厚いコートに、雪の冷たさが凍みこんでくる。
――会うことは、できない。
感情の堰が切れてしまった今となっては、いままでの関係を何食わぬ顔で続けられるほど、
自分は器用では無かった。きっとまた、傷つけてしまうだろう。
それなら、二度と会わないほうが、まだマシだと、洋大は思ったのだ。
空は、地上の人間の気持ちなど余所に、ただただ、どこまでも青かった。
その眩しさに、目を閉じていると、ふいに、耳慣れた軽い足音が聞こえた。
一秒で、誰が来たのか解った。
二秒間、自分の判断が信じられなくて、呆然とした。
三秒、逃げるかどうするかを迷った。
そこで、まぶたの裏が暗くなって、人影が自分を覗き込んでいることが分かり、観念して、目を開けた。
「…そんなとこで寝てたら、風邪、ひくよ?」
静だった。
円の家からの帰り道、そのままの足で芝村家に向かった。
最初は普通に歩いていたはずが、いつのまにか走り出していた。
息を切らして玄関に駆け込んできた静を迎えたのは、洋大の妹の遥だった。
昨日が試験日だった事は知っていた。遥に、洋大は帰ってきているか、と聞くと、
ルークを連れて外出した。どこにいったかは解らない。という答えだった。
あそこだ。
何故か、直感した。
ひさしぶりに、大好きな『シズねーちゃん』が来てくれて、遊んで遊んでとなついてくる遥に、
ごめんねごめんね今日はお兄ちゃんに大事な用事あるからまた今度ね。といって、芝村家の玄関を飛び出した。
そこからまた、走って走って『打ち上げ場所』に行くと、見覚えのある大きな身体が雪原に横たわっており、近くでルークが走り回っていた。
心臓が破れそう。
たぶん、これは、必死に走って来たからだけではないと、静は思った。
どうしようどうしようと、いまさら意気地なく、回れ右して逃げ出したくなる気持ちを押さえつけ、
洋大の元へゆっくりと向かった。
本当に、眠ってしまっているのだろうか?
自分が、雪を踏みしめる足音が聞こえない筈も無いのに、目を瞑って横たわっているので、
ふと、不安になって横に立って顔を覗き込む。
そうすると、気配を感じたのか、洋大が目を開いた。
安堵して、声をかけた。
目を開けて、静を見上げた洋大が口を開いた。
「――どうして」
ひどく呆然としたような、何が起きているのか、よく解らないような声音だった。
俺の顔など、二度と見たくは無いだろうに。
洋大は、そう思った。本当に、何故静がわざわざ来たのか、解らなかった。
ここは、思い出したくも無い場所のはずだ、静にとっては。
いたたまれなくなって、立ち上がる。
静に見下ろされて、表情を悟られてしまうのが嫌だった。立った状態でいれば、
身長差のおかげで顔をまじまじと見られることは無い。
「――どうして、来たんだ」
そう、繰り返す。
「謝らないといけない事と、伝えなきゃならない事があるから。今日、どうしても会わなくちゃいけなかったの」
洋大の問いに、ふわりと微笑んで静かは答えた。
「――別に、おまえは、何も」
謝る事なんて、ないだろう。と言いかけた洋大を遮るように言葉を続ける。
「わかったから。わたし、自分が何してたのか、何を望んでたのか、やっとわかった。…ごめんなさい」
それは、ひどく抽象的な言葉の断片。
でも、それでも。洋大には静が何の事を言っているのか、何を言いたいのか、解ってしまった。
もう一度、ごめんなさい、と、呟く静。
「ごめんなさい、…わたし、わたしね、よーちゃんの事が、怖かった。どんどん男の人になって、
知らない人みたいになっていくよーちゃんが怖かった。――わたしが、変わってしまう事が。
大人になって、この町から離れることが、今、大事に思ってる気持ちも忘れちゃうかもしれない事が、
すごく怖かった。 …自分で、夢のために選んで決めた事なのに、おかしいけどね…。
だから、せめてよーちゃんとだけは、子供のときのままでいたかったんだ。きっと」
いちばん大切な思い出たちは、いつも洋大と一緒のものだった。だから、余計に執着した。
「巻き添えにしちゃった。絶対やっちゃいけない事だったのに。よーちゃんの事、全然考えても見なかった。
…本当に、ごめんなさい」
「謝るのは、俺の方だ。…おまえが、悪いわけじゃない」
「…よーちゃんは、そうやって、ずっとわたしの事、気にして、守ってくれてたよね。
…わたし、全然気が付かなかった」
「シズカ、違う。俺は」
もう一度、シズカはにこりと微笑んだ。洋大が何を言いたいのかは解っているつもりだ。
伊達につきあいは長くない。
――ああ、こうやって、わたしは、よーちゃんに守られてたんだ。
今までの自分の不甲斐なさが情けなかった。
言わなきゃ駄目だ。決めたんだ。
ちゃんと、対等の立場で、手を繋いで、これからもずっと、一緒に歩いていけるように。
顔を上げて、まっすぐに洋大の目を見て、言った。
「あのね、わたし、よーちゃんが好きよ。…ちゃんと、よーちゃんとおんなじ意味で」
何が起きたか本気で解らなかった。
泣かれるだろうと思っていた。
怖がられるだろうと思っていた。
びんたの一発くらいは来るかもしれないと思っていた。
洋大にとって、静のこの言葉は本気で予想の範囲を軽く超えていた。
なんせ、自分は手前勝手な恋心を、相手の気持ちも碌に考えずに押し付けたあげく、
いきなり押し倒すわキスはするわ、そのうえ初めてなのに舌は入れるわなんぞという事をしでかしたのである。
だから、二度と顔を合わせられないと、思ったのだ。
「シズカ、おまえ――。自分の言ってること、解ってるか」
自分と、同じということは、つまり。
「うん、ちゃんとわかってるつもり。…今までが今までだったから、信用されてなくてしょうがないと、思うけど。
一ヶ月以上、ずっと考えて、でも自分ひとりじゃわかんなくて。えんちゃんに、相談しにいって。
…それで、ようやく答えが出た。…あの、あのね、よーちゃん、わたし、よーちゃんのこと――」
「シズカ。俺は、おまえが好きだ」
静の言葉を遮って、洋大がいきなりそんなことを言った。
必死の告白の途中で遮られて、きょとん。と静が固まる。
「え、う」
驚きすぎて、意味の無い音しか口から出ない。そんな静に構わず、洋大はさらに言葉を続けた。
「…スマン。…あの時の、あんな、どさくさでしか、ちゃんとおまえの事が好きだとも大事だとも言っていない。
そんなのは、嫌だからな」
けじめの問題だけじめの。と、何かよくわからないことを、ぶつぶつと呟く。
憮然としたような表情だが、顔色は真っ赤である。
「よーちゃん――」
「俺にとって、おまえの事は、いちばん大事とか、いちばん好きだとか、それもあるけど、それだけじゃなくて」
上手い言葉が見つからなかったのか、ここで、困ったように口ごもって、天を仰ぐ。
ややあって、真っ赤な顔で、静の目をまっすぐに見つめて、口を開いた。
「俺は、おまえに、さわりたい」
好きだとか愛してるとか大事だとか離れたくないとかだけじゃなく。
身体目当てと罵られるかもしれない。それも確かにあるけれど、その前の、いちばん正直で単純なきもち。
『大好きなひとに、さわりたい』
その言葉を聴いて、静は洋大の身体に手を回し、力いっぱい抱きついた。
「シ、シズカ――」
うろたえる洋大の胸に頬をつけ、ぎゅうぎゅうと抱きついた後、勢い良く顔を上げて、こう言った。
「わたしも! よーちゃん、大好きー!」
弾けるような、笑顔だった。その行為が、その笑顔が、なにより雄弁に静の洋大への気持ちを語っていた。
そのままぎゅうっと。洋大は、静を抱きしめ返した。
いつのまにか、夕日が白い雪原をあかくあかく染めていた。
その、茜色の大気の下で、二人は二度目のキスをした。
今度は、小鳥のついばむような、優しい、優しい、キスだった。