(プロローグ/ターニングポイント) 
 
左右に雪の積もった道を、1人の少女が歩いていた。  
中学生だろうか、学校から帰宅する途中らしい。  
古風なデザインのセーラー服が、着膨れてもこもこになっているのが野暮ったくも可愛らしい。  
肩を少し過ぎる長さの黒髪に、つやつやと健康そうな赤い頬と、  
表情豊かにくるくるとよく動く大きな瞳が印象的な少女である。  
少女の名前を、斉藤静という。  
がさり。  
ふと右手の茂みから音が聞こえた。  
冬の初めのこの時期に、いったいなんだろうかと静は思わず警戒する。  
大して害の無い狐や鹿ならばいいが、猪や最悪、冬眠しそこなった熊という事も考えられる。  
このあたりで、熊が出たという話なぞはついぞ聞かないが、ありえない話ではない。  
なんせここは北海道。天下の動物王国だ。  
そして、ここ北海道に生息するエゾヒグマは本州のツキノワグマなんぞ目じゃないくらいにでかくて強い。  
成長したら軽く2メートルを超える立派な猛獣である。  
もしも、その『最悪』の部類であれば、いきなり駆け出すのはかえって自殺行為のような気がして、  
じりじりと下がる事しか出来ず、かといって、いまだがさりがさりと派手な音が確実にこっちに向かって  
近づいてくる薮から目をそらす事も出来ず、静の緊張が極限に達しようとしたときに、薮の中から、ぬうっと、  
大きな影が現れた。  
『最悪』だ。  
静がそう思い、意識しない悲鳴が喉を駆け上がりかけたそのとき、  
「シズカ?」  
名前を呼ばれた。  
いくらなんでも、熊に知り合いは居ないし、名前を呼ばれることも無いだろう。それもこんなに親しげに。  
「わーっ! 熊ぁっ!」  
頭でわかってはいても、悲鳴を止めるのは間に合わなかったらしい。  
「…誰が熊だ」  
酷く憮然とした声を聞き、ようやく、静はそれが誰か理解した。  
「あれ、よーちゃんだ」  
同級生の芝村洋大だった。  
 
「脅かすのやめてよ、もう。食われるかと思っちゃった」  
その言葉に、むぅ、と口をへの字に曲げる洋大。  
確かに、勝手に勘違いしたうえ悲鳴をあげられ、さらに熊よばわりされた上でのこの言葉である。  
むっとするのも無理は無い。  
「ホントに熊だと思ったよー。よーちゃん、図体でっかいしー」  
洋大の眉間に皺が寄る。  
「ちょっとくらい、声を出してくれたら良いのにさー、無言で近づいてくるんだもん、すっごい怖かったんだからー」  
さらに眉間の皺が深くなる。  
「よーちゃんもさ、山に行くんなら、蛍光色の服着たり、鈴とか持たなきゃダメだよ。危ないよ?」  
あ、皺が消えた。  
「…いや」  
微かに首を振って否定の意思らしきものを示す洋大。  
「あー、落としたの? 鈴。本当に熊あぶないよー。道路沿いならまだともかく、山の中まで行ってるんでしょ、  
よーちゃん」  
その言葉にこくりと、今度は先ほどよりはっきりと首を縦に振る洋大。  
さすがに小学校からずっと一緒の分校仲間の幼馴染である。洋大の言いたい事が、  
今の反応だけで概ね理解できたらしい。  
静はそんな風に心配しているが、洋大の腰には薮を払うための大きな鉈がぶらさがっているし、  
たとえ熊と格闘になったとしても充分勝てそうな立派な体格を洋大はしている。  
それでも静にとって、この友人はいまだ心配すべき対象であるらしい。  
静のほうが二ヶ月ほど年長だという事も理由なのだろうが、それにしても心配性であると言えるだろう。  
「ところで、よーちゃんはまたロケット?山に行ってたのも、回収しに?」  
先ほどから、洋大がずっと右肩に担いでいる細長い流線型の筒に三角形の尾翼が付いた、  
静の身長ほどもありそうな物体を見て、静は聞いた。  
ん。  
肯定。  
 
「やっぱりそーなんだ。ねーねー、それってひょっとして新作?」  
ん、…んん。  
肯定、やや間をおいて否定。  
「へ? どっち? 古いの? 新しいの?」  
付き合いが長いとはいえ、よくもまあ、音すら出さない口許のわずかな動きだけで、  
否定肯定の意思を見分けるものだが、さすがにあまりややこしい事は解らないようだ。  
「…改良型。パラシュートとか、エンジンとか、その…、…色々」  
「へー、今回はまたずいぶんいじったんだね。しかも、その、なんか」  
それまで左側を歩いていたが、右側に回って洋大の右肩に担がれたロケットをしげしげと眺める。  
「…また、大きくなってない?よーちゃんのロケット」  
洋大の唇が綻ぶ。静でなくても、得意そうな表情であることが解る顔だ。  
「それで、学校三日も休んだワケ? わたし、先生にプリント渡すように言われたんだから」  
途端に眉が下がる。…なんというか、無表情のようだが、意外と表情は豊かなようだ。  
「そんな顔しても駄目だからねー! ちゃんと学校には来なさい! はいこれプリント!」  
カバンからプリントを取り出し、そのまま畳んで洋大の上着ポケットに突っ込む静。  
洋大はといえば、されるがままである。この幼馴染の少女にはどうにも逆らえないものがあるらしい。  
「ノートも! 見せたげるから、ちゃんと写しなさい! というわけで、今からよーちゃんちに行くからね!」  
「…俺、今から今回の打ち上げのデータ纏めるつもりだったんだが…」  
「ノートが先! ロケットは後! 受験生なんだから我慢なさい!」  
「…わかった…」  
 
どこか、がくり、という擬音が聞こえてきそうな様子である。  
そのまま、二人は並んで歩きながら洋大の家に向かった。静の家は、洋大の家の隣にある。  
と、いっても田舎の事。  
「隣」などといっても家同士の距離はかなり離れていて、歩くと十分ほどもかかってしまう距離である。  
とはいえ、お隣さんはお隣さん。二人は子供のころから一緒に遊び、双方の親同士も交流のある、  
いわゆるところの「オムツをしていた頃からの仲」で小学校から中学三年生の今まで、  
ずっと同じクラス――クラスが学年に一つしか無いせいではあるが――という、  
まさに『鉄壁の幼馴染』という奴である。  
しかし、その関係にも、徐々に変化が訪れていた。これは、そんな二人の転換期の物語である。  
 

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