改めて見上げる姉の素顔には、自然で清楚な美しさがあった。
くっきりとした眉、長いまつげ、すっきりと通った鼻筋、ふっくらとした唇。
そのすべては、もうとっくに見馴れているはずなのに、健二はいまほど美しいと思ったことは無かった。
うつ向いた健二の瞳から、ポタッ、ポタリと涙が恵の胸に落ちる。
『健ちゃんが泣いてる・・・』
恵は、胸が締め付けられるような思いで、実弟の涙を受け止めた。
胸のうちに秘めた思いを、お互い以外に打ち明けることもできず、誰にも、両親にすら祝福されぬ関係を続けることの、重荷。
同年代の青年達に比べてさして広いとは言えぬその背に、健二はその重荷を抱えていたのだ。
その事実を改めて思い知らされた恵の脳裏に、いたずらを叱られたり、同級生にいじめられたり、怪我をして泣いていたときの、幼い時分の健二の姿が浮かんだ。
「健ちゃん・・・」
そのころそうしたように、恵美は健二の背に腕をまわして、そっと抱きしめた。
漏らしそうになる嗚咽を耐えようと、健二は、姉の胸の谷間に顔を押しつける。
大理石のような乳白色の素肌から立ち昇る姉の体臭とその鼓動は、温かく柔らかく、健二の頬を包んだ。
『情けないよなあ・・・こんな惨めなかっこうで、姉ちゃんに甘えてしまうなんて・・・』
そうは思っているのに、いっそう切なく、哀しく、弟の涙は姉の胸を染めてゆく。
恵は健二の躯を、ぎゅっと抱き寄せた。
健二もまた腕を姉の滑らかな背に廻したものの、やがて力無くだらん、
と垂れ下がってしまったその掌を、姉の太腿の付け根に押し当てた。
恵はそっと瞼を閉じた。
太腿に押し当てられた指先から、弟の想いが伝わってくる。
当たり前の男女関係にはついて回る筈の、損得も打算も無い。
ただ、ずっと互いの成長を見守ってきたという安らぎと、血縁で結ばれた者のみが理解し得る心の奥底が、痛いほどに伝わって来る。
そして昨晩はあれほどにも激しく求め合い、燃えつきたはずなのに、
新たな命を宿した恵の下腹部は貪欲に疼いて弟の温もりを欲している。
恵は、健二の頬を優しく包むと、震えるその唇を塞いだ。
愛しい姉の香りが健二の肺を満たしてゆく。
しばらくして頬を押さえる指先から力が抜け、恵の唇は離れた。
「健ちゃん・・・私たちはね・・・姉弟なんだよ」
弟の目をじっとみつめて、小さな声で、しかしはっきりと、恵は呟いた。
「ただの恋人同士なら、別れてしまえばそれでお終いだけど・・・
でも私たちはそんなわけにはいかないんだよ?」
「わかってる! わかってるさ・・・」
そうは言ったものの、
『僕は本当に覚悟ができていたのか? 流されただけじゃないのか?』
そう思った瞬間、再び不安が健二の心底に湧きあがる。
婚約者も、そして成功を約束された職場すら捨てて自分との関係を選んだ姉の気持ちに、
まだ学生でしか無い自分は、どうすれば報いることができるんだろう?
「・・・姉さんは、後悔してない?」
健二は恐る恐る恵に尋ねた。
「そんな今さら・・・後悔なら、とっくにお姉ちゃんは、飽きるほどしました!」
どこか悪戯っぽく微笑んだ恵は、再び健二の頬をはさんで引き寄せた。
「それにね、健ちゃんが好きだっていうこの気持ちは、もうとめられないよ?」
優しく、小鳥がついばむような唇の触れ合いが、
いつしかむさぼるような舌の絡み合いになるまでにさして時間はかからなかった。
「あッ! そうだ、ちょっと待って?」
何事か、と訝しむ弟の目線をよそに、恵はベッド脇の机にのせた電話を取った。
「もしもし・・・フロントですか?
昨日デラックスツインをお願いした三嶋ですけれど・・・はい、三嶋恵です・・・
もう一泊延長って可能でしょうか?
あ、そうですか、ありがとうございます。お願いします・・・」
ぽかん、と突っ立ったままの健二に向かって、
恵は悪戯を告白する少女のように、小悪魔的な微笑みを浮かべた。
「もう一泊延長しちゃった! だから、さ・・・」
・・・姉は弟の手を取り、ベッドに誘った・・・
恵の電話を受け取ったのは、昨晩と同じ中年のフロントマンだった。
クリスマス前後のこの時期は、カップルで埋め尽くされるホテルだが、
昨日のその二人連れの客のことは良く覚えていた。
目を見張るような美人とはこういう女のことをいうのだろう、
と思い知らされたその客は、三嶋恵とサインした。
どうやら年下らしい青年を連れた彼女の瞳は、どこか物憂げだったが、
しかしあれ程綺麗な女性は見たことが無い、とつくづく感じたものだった。
しかもさっきの電話では、もう一泊延長するという。
なんともうらやましいかぎりだ、あの、ちょっと弱気そうな青年は幸せ者だよなあ、と軽い嫉妬を感じつつも、
そういえばあの青年の苗字も三嶋だった、とフロントマンは思い出した。
ということは、姉さん女房のアツアツ若夫婦というわけか。いやはや・・・
翌日の昼過ぎになって、
健二はバスルームから聞こえるシャワーの音で目をさました。
窓の外はからっと晴れた冬の晴天だった。
健二がベッドから出ると、シャワーの音が止んだ。
服を着替えていると、バスローブを着た恵が、乾いたタオルで髪を拭いながらバスルームから出てきた。
「もう起きちゃった? もっと寝てればいいのに・・・」
「うん……」
いつぞやもこんな会話を交わしたっけ、と思い返しながら、
着替え終わった健二はそのままベッドに腰をおろした。
恵は鏡の前に坐って、備え付けのドライヤーを使って、髪を乾かしていた。
バスローブの袖がすべり落ちて、白い二の腕がはみだし、やや乱れた裾からは艶やかに引き締まった太腿がのぞいている。
健二は眩しそうに姉を見つめた。
熱いシャワーで上気した姉の頬は、ほんのりと桜色に染まっている。
その姿をじっと見つめていると、そのままバスローブを剥ぎ取って姉の裸身を思い切り抱き締めたいという衝動が、情けないほどに込みあげてくる。
鏡の中の恵と視線が合った。
「よく眠れた?」
「うん・・・姉さんは?」
「ふふっ・・・健ちゃんが頑張ってくれちゃったからね・・・」
振り返った姉の表情は、何の屈託もなく微笑んで、まるで健二の記憶のなかにある思春期の姉の表情そのままだった。
しかし、それは一瞬のことで、再び何かを考え込むように恵は俯いて髪を乾かした。
「健ちゃん、わたし考えたんだけどさ・・・」
ブラッシングを終えた恵は立ちあがり、ベッドの角をまわって健二の傍らに腰を下ろした。
そして、そっと健二の手に、自分の手を重ねると考え抜いた決意を語った。
「一度、うちに帰ろ?」
「うちって・・・家に?」
「うん、私たちの家に帰って、そして父さんと母さんに全部話そうよ」
見上げた姉の表情は、真剣だった。
健二はいったん何かいいかけようとしたものの、しかし反論も肯定も出来ずに黙り込んだ。
「・・・わかるよ、そりゃ不安だよね・・・
でもね、もう逃げてばっかりじゃいられないと思うんだ・・・」
諭すような姉の語り口に、反論しようという気持ちは失せた。
「それにね、ほら・・・」
恵は健二の手をとると、バスローブの上から、そっと自らの下腹部に添えさせた。
姉が何を言わんとしているか、健二は良く判っていた。
判っているつもりだった。
責任をとるなどという生易しい問題ではない。
なんといっても、孕ませた相手は血を分けて、ずっと一緒に育ってきた実の姉なのだ。
だからこそ、十分な決意を持ってけじめをつけなければならぬのだ。
「・・・判ったよ。今夜の新幹線で帰ろう」
健二はしっかりと姉を見据えて言った。恵は軽く、でも満足そうに頷いた。
その日の夕方、東京駅の新幹線待合室に、一組の若い男女がいた。
年下と思しき青年・・・いや少年は、着慣れぬグレーのスーツ姿で、
そして同伴の目を見張るような美女は、
フォーマルなダークブルーのパンツスーツの上から白いコート姿で。
「・・・私達って、どう見られてるかなあ?」
「そうだなぁ・・・結婚の報告をしにいくカップル、ってとこじゃない?」
少年の軽口に、年上の女は爽やかな笑顔を浮かる。
「・・・まあ、ある意味間違っちゃいないかもね」
「けじめをつけるんだから、ちゃんとした格好で行こうって言ったのは姉さんだろ?」
周囲の雑踏から切り離されたような、二人だけの空間。
「・・・もうすぐ時間だね」
「ねえ、健ちゃん・・・父さんと母さんに会ったら、まず何て言う?」
さりげない一言だったが、その問いはあまりに重い。
「わからない・・・でもとにかく、正直に全部話すよ・・・
で、姉さんはなんていうのさ?」
「わたし? わたしはね、」
腰に手をあて、ちょっと威張るようなポーズで、
「開口一番、『息子さんを下さい!』って宣言する!」
「じゃあ僕は、」
沈みがちだった少年の顔に、呆れたような笑顔が浮かんで、
「『大事な娘さんを、お嫁に下さい! 必ず幸せにします!!』って宣言するよ!」
そのとき、列車の到着を告げるアナウンスが響いた・・・
〜終わり〜