「ただいま」  
 いつもと違い静かな玄関。  
 出来る限り静かに廊下を歩き自室に、鞄を投げ込む。  
 風呂へ。  
 洗面器を手にとる。水をくんでハンドタオルを掴み、廊下に出る。  
 姉の部屋の前に。  
「入るよ?」  
 返事は無い。少し申し訳ないが、勝手に入らせてもらう。  
 ベットに姉。寝ている。寝息が少しばかり苦しそうだ。  
 カゼをひいてしまったらしい。買い物のときにでも拾ってきてしまったようだ。  
 顔に汗がにじみ、うっすらと赤い。症状は熱と軽い頭痛。咳は無い。  
 洗面器の水にタオルを浸し、絞る。  
 冷却シートはちょうど無くなっていた。買いに行こうかとも思ったが、出来れば姉の側についていたかった。  
 すっかり熱の込もってしまった額のタオルをとり、絞ったばかりの冷たいタオルを入れ替わりにのせる。  
「ん……あ…おかえり…」  
「うん、ただいま」  
 やはり元気はない。  
「ごめんね……迷惑かけて……」  
「なに言ってんのさ、迷惑なんかじゃない、いつも世話になってるし。恩返しさ」  
「でも……ご飯も作れないし……」  
「俺はインスタントでも大丈夫だから。姉ちゃんは茶漬けでいい?」  
「うん」  
「……ごめんね。ホントはもっと、俺がちゃんとしたもん作れればいいんだけど……」  
 後で料理の勉強くらいしておこうと思う。今よりマシになるくらいには。  
「ううん、こうして世話をやいてくれるだけでも充分だよ」  
「そう言ってもらえると、少し気は楽かな。それじゃ、ちょっと茶漬け持ってくる」  
「いいよ、私が行くから……」  
「ダメ。ほら、病人は安静にしといて。どうせ何分もかかんないんだからさ」  
 冷やし直したタオルで姉の顔ににじんだ汗を軽く、優しく拭ってから部屋を出る。  
 
 彼が額においてくれたタオルが冷たくて気持ち良い。  
 弟は、優しい。  
 どんなときでも、彼は優しく、暖かい。  
 その優しさが好き。  
 その暖かさが好き。  
 私を真っ直ぐに見てくれる瞳が好き。  
 優しい言葉をくれる口が好き。  
 暖かい手が好き。  
 優しくて暖かい、弟が好き。  
 どんな言葉を使っても伝えきれないほど、好き。大好き。  
 そんな彼につい甘えたくなってしまう。きっと甘えさせてくれるだろう。優しいから。  
 けど、それじゃあちょっとヤダ。  
 向こうからも甘えて欲しい。甘えさせてあげるから。  
 私だけが必要としてるだけじゃ嫌。私を必要として欲しい。  
 互いに欲しがって、互いに与えあって、互いに支えあって生きたい。ずっと。  
 弟は、私を好きだ、と言ってくれた。それは嬉しい。だけど、もっと好きになって欲しい。  
 愛して欲しい。  
 あぁ、贅沢を言っている。ワガママだ。自分がこんなにワガママな女だと思うと、少し自己嫌悪。  
 こんなワガママ女を、彼はどう思うだろうか……  
「……ゃん?」  
 
「姉ちゃん?」  
「……ふぇ?…」  
「俺がいるの、気付いてた?なんかぼんやりしてたみたいだけど……大丈夫?」  
 はたから見たらまるで銅像の様にうごかなかった。  
「あ……ごめん…」  
「別に謝る事じゃ無いって。やっぱり調子悪い?」  
「ちょっと悪いけど、今のは考え事してただけだから」  
「そう?なら…まぁ、良いけど……ほい」  
 とりあえず盆の上の茶漬けを渡す。  
「……ありがと」  
 やはり笑顔にも元気がない。  
 なんとなく、嫌だ。  
 俺は、元気な姉ちゃんの笑顔が、好きだ。  
「ここに薬と水も置いとくよ。じゃあ、後でまた来るから。なんか欲しいものあったら呼んで…呼べる?」  
「うん、それくらいなら」  
「んじゃ、ゆっくり休んでください」  
 そう言って、姉の部屋から出る。  
 我慢しすぎなのだ、姉は。  
 家事全般を任され、その休み時間に勉強を教えてくれと言っても嫌な顔一つせずに付き合ってくれる。  
 好きでやってるから。きっと彼女はそう言うだろうが、不平不満が全く無いとは思えない。  
 常にそれを我慢してる。きっと今も、何かを我慢してる。  
 役に立ちたい。そう思う。  
 よく考えれば、甘えっぱなしなのだ。何から何まで。  
 だからせめて、こういうときくらいは、こっちに甘えて欲しいと思う。  
 出来る事なら何でもしよう。彼女の為なら、何でも。  
 自己満足でも、恩返しくらいにはなると、彼女のためになると、思いたい。  
 
 買い置きのインスタント食品を適当に食べて、改めて姉の料理の美味さを実感出来たことは喜ばしい事だろうか。  
 とりあえず姉の部屋から出て三十分程たってる。そろそろいいだろう。  
   
「食い終わった……よね」  
「うん」  
 姉は綺麗に米粒一つ残さず、薬もしっかり飲んでくれたようだ。  
「後はゆっくり寝てもらうくらいかな?風呂は……湯冷めとかあるから入らない方がいいとは…言ったりするけど……」  
「そ、それは……」  
 そうだよな。女性は、風呂に入れないのは色々と辛かろう。  
「んじゃさ、今日だけは体を拭くくらいで我慢してもらえないかな?」  
「それなら……うん…」  
「それじゃ、お湯とタオル、持ってくるから」  
   
 チャンスだろうか?少しだけ、彼に甘えたい。  
 少しだけ。少しだけだから。このくらいの甘えは、許して欲しい。  
   
 温度と湿り気を失わず、水滴が落ちない程度にお湯で濡らしたタオルを絞る。  
「このくらい…かな?……うん、ほい、姉ちゃん」  
 適度な温もりと湿り気のタオルを姉に渡す。  
「う、ん……」  
「じゃ、俺は退散するね」  
 服を脱がずに体は拭けない。退室するのが当たり前だ。  
「あ、ちょ、ちょっと……待っ、て…」  
「ん?なんかした?」  
「あ、あの、さ」  
「うん?」  
「その、ちょっと、力が入らないから、えっと、代わりに、その……せ、背中…拭いて…くれない、かな?…」  
 

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