「……雨…」
平日午後、一般的な高校生は授業を受けるか、お昼寝をするかの選択肢を与えられる時間。
ガラス窓の向こうの校庭は天からの恵みによって過剰に潤っている。
確か朝のお天気お姉さんは『今日は一日お散歩日和』とか言ってたはずだが、それは午前までだった。
「…予報を外すおドジっぷりが売りでもあるまいし……」
傘など持って来ていない。多少なら気にしないが、これは多少の域を越えている。
「……帰り……どうすっかな…」
「この問題を…今日は何日だ?…」
どうやら俺が指名されそうだ。意識を授業に戻す。
「……さて」
SHRが終わり放課後になる。カバンに道具を詰め込む。
雨は弱くならず、むしろ強くなっているようだ。
何回も帰る方法を考えたが結局答えは一つしか思い付かなかった。
──家までダッシュ──
徒歩十分。走れば数分で着くだろう。
数分でも濡れネズミになるのは予想できるがそれは傘を持たない自分が悪い。
下駄箱に到着。女子が数─十人?男子生徒…も数十人?たむろするには多すぎる。
「どうしたんだ、この人数?」
近くに同級生がいたので聞いてみる。
「あ?いや、あそこにいる人見ろよ」
「?」
あそこ─同級生が指差した所を見ると─
「あの人スゲェじゃん?なんて言うかさ、この雨の中を傘二つ持ってさ、そこは母性を匂わせて」
──俺の目がおかしくなったので無ければあそこにいるのは──
「でもよく見るとちょっとモジモジしてて、なんての?恋する乙女の告白前みたいな雰囲気出して」
変な汗が出てきた。馬鹿を言ってる奴は無視をしておいてあげよう。
「あれは見ておくべきだ!!一人の青少年として!あの美しさと可愛いさをかね揃え
「姉ちゃん……」
「は?」
目が合った。
それはもう満面の笑みで手を振ってくる─姉─
周りにいた生徒が男女問わず姉の視線を追い、その結果俺を見る。
──この衆人監視の中で手を振り返せと言うのかい、我が姉よ──
無理。勇気を最大限に振り絞っても手を上げるまでしか出来ません。
隣にいる同級生がアホな顔をしている。そんなに信じられんか。
この衆人監視の重圧。ここまで人間が恐ろしいと思ったのは初めてだ。
それでも前進。これ以上姉を雨の中に、この衆人監視の中に放置は出来ない。
近付くほどにニコニコする姉。左手には俺の傘。満面の笑みと共に差し出してくる。
「それじゃ、帰ろっか」
雨自体は嫌いじゃ無い。
雨が地を叩く音はヘタクソなアイドル歌手や芸人歌手より断然良い音色を奏でる。
雨がやんだ後の澄んだ空気は身を洗うかのように体に触れていく。
その感覚は好きだ。
そう思うようになったのはなぜか、と問われれば恐らく姉のおかげだろう。
俺が小学生低学年の頃、雨上がりによく一緒に手を繋いで散歩に出た。
空にかかる虹、ゆっくりと流れる雲、色鮮やかなアジサイや涼しく澄んだ風。
あのとき見た景色は輝いて見えた。雨が降ると姉との散歩を楽しみにしていた自分がいた。
いつからだろうか?
なぜなのだろうか?
一緒に散歩をしなくなったのは。
よく覚えていない。
だが多分、俺のわがままだろう。姉は習慣をそう変えはしないはずだ。
懐かしい。
そう思うと、姉の横を歩いている今の時間が、とても尊く感じられる。
わがままを言わなければ今も続いていたのだろうか?
それは高校生には恥ずかしいかも知れないが、家族としては心地の良いものだろう。
………
なぜわがままを言った、俺の阿呆が。
久しぶりに弟と一緒に歩いている。傘や地を叩く雨の音よりも彼の足音が大きく聞こえる。
小学生の頃はよく雨上がりに散歩に行ったものだ。
雨上がりの綺麗な景色を見せたかった。それもある。けど、それ以上に一緒にいたかった。
思い返すと小さい頃から彼が、弟が好きだった。
彼の笑顔、弟の声、彼の歩幅、弟の手の温もり。
全て記憶の中にある。なによりも大切な記憶。弟がいるだけで全てが輝いていた景色。
どうして散歩をやめたのだろう?
原因は私だ。私が中学生になり、周りの女子からは恋愛話がよく出るようになってきた。
それを聞くたびに自分がおかしいのではないかと思った。
周囲では家族など、恋愛感情の対象にならない。という見解だったから。
自分だけ違うのが怖かった。だからいっそ繋がりを断ち切りたくて散歩をやめた。
散歩をやめた日の晩は泣いた。心配して部屋の前に来た弟を怒鳴った。怒鳴ったことを悔やみ、また泣いた。
極力顔を合わさない様にした。話もしなくなった。
無理だった。
離れたら離れたで、いつも彼のことを考えていた。
無理だったんだ、彼と離れるなんて。
怒鳴ってから二週間ほど。家に帰って来て居間に入ったら弟がいた。
彼は言ったのだ「おかえり」と。何の理由も無く怒鳴り無視をした姉に向かい。
笑顔で
もう止まれなかった。
私は弟に抱きついて泣いた。久しぶりに触れた彼は暖かくて、暖かくて─
「姉ちゃん?」
「……ふぇ?」
「赤」
確かに向こうの信号器は赤い光を放っている。
どうやら赤信号に気付かずに進もうとした私を弟が手を握って止めてくれたようだ。
─手?─
大きさは変わっても、小さい頃から暖かいのは変わらない手。
「しっかり前見なよ」
ニコニコとからかう様な笑みを見せる弟。
「う…うん……」
数年ぶりの懐かしく暖かい手。彼の笑顔。
それを意識すると頬が赤くなるのが分かる。
「んじゃ行こ」
信号が青になる。離れる手。
「あっ…」
「ん?なんかした?」
「な、何でもない」
「なら良いけど…にしてもありがとね」
「何が?」
「迎えさ。走って帰ろうか考えてたとこだったし」
姉が来なければ濡れネズミだった。少々恥ずかしくはあったが、素直にありがたかった。
「いいのいいの。ちょうど暇だったし」
「それでもさ。暇と来るとはまた別の話だし」
この雨の中、迎えに来るのは近くとも簡単とは言えないだろう。
「でもさ、懐かしいよね。二人で歩くの」
「そう?お買い物とか…」
「あぁいや、こういうとき、ってこと。天気がさ」
「…うん、あの時は何も考えずに散歩に行ったよね」
「ん、んで結果また降ってきた雨に見舞われたり」
笑いながら懐かしむ弟。
「二人で…あいあい傘したよね」
「あぁ、俺が今日みたいに傘持つの忘れたときね」
「今日はしなくて良かった?」
「いや、あそこで、てかこの歳でそんなやったら恥ずかし死に出来るから」
想像しただけで赤面出来る。色々と洒落にならない。
「ふふっ」
ぐっ、おちょくられてる。なんか悔しい。
「……あ…あのさ…」
「うん?」
「ひ、久しぶりに…散歩…しない?この後…」
「……うーん」
「あ、い、嫌ならい
「良いよ」
この後予定などない。家でゲームするくらいなら、姉との散歩の方が断然有意義だろう。
「ほ…ほんと?」
「ホントホント」
「良かったぁ」
笑顔を浮かべる姉。
身内びいきもあるのかも知れないが、それはとても綺麗に見えた。
「それなら早く帰って計画立てよう!!昔は無計画も悪く無かったけど、たまには、ね?」
「う、うん」
有無を言わせず俺の手を握り、引っ張る姉。
頬がうっすらと赤いようにも見えた。
「あー、そうだ」
家の近く、川沿いの土手の上。散歩も終盤になり、前を歩いていた彼はいきなり声をかけてきた。
「どうしたの?」
「あのさ、欲しい物とか、ある?」
「なんで?」
「いや、礼がしたいな、と思って」
「礼?」
「うん。礼。このあいだは勉強教えて貰ったし、今日も迎えに来て貰ったしさ」
「別に良いよぉ」
実のところその二つは私がしたくてしたことだ。
彼に必要とされるのは嬉しい。一緒にいれるならもっと嬉しい。これで私を姉でなく一人の女として見てくれたら─
「それでもさ、俺の気が済まない……て、姉ちゃん顔赤いけど大丈夫?」
「だ、大丈夫大丈夫」
考えすぎた…
こういうのは考え始めるととんでもないところに行き着く。何故か一瞬ベットまで考えてしまった…
「でさ、うん、俺の気が済まない訳、出来ることならそれなりにするつもりだけど?」
「急に言われても…」
駄目だ……さっき考えてしまったせいで…その…考えがどうも……夜関係に……
「………寝たい…」
「寝?」
「何でもない何でもない何でもない!!」
「?…まぁ、今は無いなら保留でも良いけど?」
それが一番ありがたい。今の状態じゃ自分が何を言うかも分からない。
「じゃあ…保留で…」
「はいよ。なんか欲しくなったりしたらいつでも言ってね」
─今、ここで…あなたが欲しい。とか言ったら…彼はどうするんだろうか─
「……あ…あな
「おぉ、すげぇ」
彼が目を見張っている。何事か、とその視線を追うと
雨雲の間から覗く夕日。そのオレンジ色の光が雨に濡れた川原に反射して、言葉通りに輝いていた。
それは綺麗だったが、私の目には、それよりも、その反射した光を浴びる彼の無邪気な笑顔が綺麗に見えた。
私の急な告白は、夕日によって止められた。
今は彼の横に立つだけで我慢しろ。とでもいうことだろうか?
夕日を見つつ前を進んでいた彼が、私が立ち止まっている事に気付いた。前から呼んでいる。
「………うん」
彼の元へ走り出しながら思う。
今のところはまだ姉で我慢しよう。あくまで「今のところ」ではあるが。