妹と喧嘩をした。  
いつものことだし、始まりは些細だった。  
彼の妹は、学校においても家庭においても優秀と呼ばれる人間  
だったので、兄の素行の悪さに嫌気がさしてお小言を言いたくなる  
のも当然のことだと、彼には分かっていた。  
その彼が、理解していながらあのような暴挙に及んだのは、  
どうやら理性の範疇外のことだったらしく、後日、彼はそのことに  
対して少し後ろめたさを抱いた。  
もちろん周囲の誰にも、まして当の妹本人には、そんな感情の  
一端も握らせはしなかったが。  
彼は自分ではそうと意識しないながら、誰にも内側を覗かせない  
人間だった。  
幼い頃からの癖で、それは染み付いているものなので  
自分ではどうしようもないことだった。  
どうかしようと思ったこともなかった。  
ただ、育ててくれた父が亡くなり、もう一方の家族と同居する  
ことに至った際には、己のそのような部分が面倒を引き起こすかも  
しれない、という危惧を抱いたことはあった。だがこれもまた  
手の打ちようのない問題だったので、はなから直すのを諦めて  
居直ることにした。  
 
するとやはり面倒事は生じた。  
面倒は、彼の妹にあたる少女に関してがほとんどだった。  
彼女は、彼を兄と思ってはいないようだった。  
11年の年月を経ての再会で、どうやら初対面から警戒心を抱かせた  
らしく、どんなに交流を図っても親しくすることはなかった。  
いや、もしかしたら、親しくしようという努力なら彼女も試みた  
かもしれない。  
事実、同居してから最初の3日間は、特別用もないのに向こうから  
話しかけてきた。  
だが、彼が手の内をまったく明かさずに接していることを悟ると、  
努力は無駄だと思ったのか笑顔すら滅多に見せなくなった。  
彼はそのことに対して、特にこれといった感想を抱かなかった。  
記憶も定かでないような昔に引き離された二人が、思春期に差し  
掛かった今の時期になんのこだわりも持たずに仲良くすることは  
無理だろうと、どこかで分かっていたからかもしれない。  
 
だが、深く沈めて浮上させることもしなかった記憶の底、  
澱んだ泥濘の中にあるぼやけた輝きを、彼の中枢はまだ消し去って  
いなかった。  
彼女の方は頭の隅にも記憶していないだろう過去の交差を、彼の  
方は確かに覚えていたのだ。  
その過去を思えば、今の兄妹の温度は少しだけ、彼にとっては  
哀しい温度かもしれないことを、ほんの僅かの間ではあるが思った。  
そんな気持ちも、目まぐるしい日々はぎこちない家族をさらって  
置き去りにした。  
そしてその日々は、兄と妹をゆっくりと、しかし確実に成長させる。  
結果として、その成長は兄にとってまったく迷惑極まりない、  
予想外の事態を呼び寄せることになった。  
先日の喧嘩も、まさにその予想外の事態が影響した末のことだった。  
彼は、己が日一日と変わっていくのを感じ、その焦りと恐れから、  
つい妹に八つ当たりしてしまったのだ。  
それも、押し倒して脅す、という形で。  
 
『私は、兄さんにとって何なの?』  
 
短い髪をわずか揺らし、黒目がちの瞳をひたとこちらに見据えた、  
彼の妹。血の、確かに繋がった。  
彼の中には、もう一つの家族と初めて会った日から抱えている、  
激しい感情がある。  
深い青色をしたそれは、しっかりと管理してあるものの、何かの  
拍子に飛び火したなら取り返しがつかないほどタチが悪い。  
それこそが予想外の事態の元凶だった。  
だから彼は、妹にとっては理性的で、常に余裕を持った、  
無関心の兄という立場を貫かなければならない。  
成り行きで押し倒してしまった先日の喧嘩も、その為の抑制剤だ。  
彼の激しい感情を揺さぶるのは、妹の優しさに他ならないからだ。  
だから彼は、どんな失態を犯そうとも妹とは険悪な状態を保ち、  
たとえ僅かであっても彼女からの信頼を根こそぎ刈り取らなければ  
ならなかったのだ。  
 
 
「たーかーお。何読んでんの?」  
甘い香水の香る女友達の気配が、右肩に乗っかった。  
香水は、彼女がベビードールと呼んでいるものだ。  
高尾はその香りを他の女からもかぎとったことがあるが、それは  
あまり彼の好まない匂いだ。  
素直な感想を述べてもいいのなら、鼻がひん曲がるという形容詞がつく。  
だから香水の感想を暗に求められた時には、高尾は何も言うことはなかった。  
「エロ本」  
女友達の声に遅ればせながら答えを返すと、彼女は「うっわ」と  
低い声で唸った。  
「普通さー、女の子の前で堂々と見る?ったく無神経なんだからさ」  
「その無神経にくっついてきたんはお前やろ。うるさく言うんは  
筋違いやぜ」  
「まあ、そーだけどさぁ」  
家に両親のいないとき、高尾はたまに女を連れてきた。  
家に呼ぶ彼女たちの基準は邪魔になるかならないか。  
それでないなら声もかけない。  
今回はハズレだったかもしれないと、高尾は密かに嘆息した。  
「ねー、…あたしとエッチするために呼んだんじゃないの」  
あまりにも突然であからさまな誘いに、思わずズッコケた。  
「あ、あんなぁ、薮から棒に何を言い出すんや!  
本破けてまうとこやったやないかい!」  
「だって、え?じゃなんで連れてきてくれたの?」  
「そりゃ…」  
 
逆に聞き返されて答えに窮してしまった。  
確かに目的はそれだ、恥ずかしながら。  
高尾は、彼女のずば抜けて開けっ広げな性格と、天井知らずの明る  
さが好きで付き合い出したのだが、たまについていけなくなる。  
今がまさにそうだ。  
しかしここでなんだかんだ理由を述べてムード(?)をシラケさせて  
もなんなので、高尾は渋々の体を装って女の提案に乗ることにした。  
「それもそうか。しゃーない、ヤるか」  
すると女は、何よしゃーないって、と憤慨したが、  
そのときにはすでに制服を脱ぎはじめていた。  
首筋に口を寄せ、ぬめる軌跡を施したとき、  
「ただいまー」  
という少し無愛想な声が聞こえた気がしたが、構わなかった。  
妹のものだったからだ。  
 
女を送っていってから、ふと思いたってドラッグストアに寄った。  
そう前に買ったものでもないのに、ゴムはさっきできれてしまった。  
我ながら節操がないと思いながら、改善しようとは露とも思わない。  
もし女を連れこむのをやめる時がくるとしたら、  
それは家を出るときと決めていた。  
在学中、いや、親の手を離れて許してもらえる日までは、  
彼が女の噂を途絶えさせることはないだろう。  
それが高尾なりの対策だった。  
あの他人行儀な家で生活するため、やむなく身に付けた知恵だ。  
だから女もコンドームも、今はまだ切らすことができない。  
 
「ただいま」  
一応の挨拶を告げて家に入ると、中はシンとして薄暗い。  
人の気配がしないのがすぐに分かった。  
妹の靴は確認したが、もしかしたらつっかけを履いて  
どこかへ行ってしまったのかもしれない。  
さっきの行為の声は、妹の部屋まで安々と届いていたはずだ。  
妹の不在を知って、高尾はどこかでほっとしている自分に気付いた。  
それは、矛盾した感情だった。  
わざと妹に聞かせようとしたのに、はっきりとは聞かなかったのか  
もしれないと考えると、それが最善のようにも思われた。  
煩わしい考えだったので、首を振って少し嘲笑する。  
長くはその思いにとりつかなかった。  
自室に戻って雑誌を片付けていると、紙屑が落ちているのに気付いた。  
それはくしゃくしゃに丸められていて、どんなものか分からない。  
高尾は紙屑を手にとって広げ、中を確かめた。  
―――変態。  
その二文字だけが、黒く細いペンで、しかしはっきりと  
怒りを表した様に乱暴に殴り書きされていた。  
それは、先日妹との喧嘩の原因になった、女からの短い手紙だった。  
高尾は忌々しい思いでそれをくしゃくしゃに丸め戻し、  
今度こそ永久に目につかぬように力をこめてゴミ箱に捨てた。  
 
変態。  
まあ、そうだろうと高尾は思う。  
認めたくはないが、高尾は自分をそのように思いはじめていた。  
妹に欲情するような人間は変態以外の何者でもない、と。  
とどのつまり、高尾にとって妹は妹ではないのだ。  
彼女にとって高尾が兄ではないように。  
あの偽りの家族を装い始めた日から、二人はその事実をどこかで  
周到に嗅ぎとっていたので、迷わず互いを嫌悪の対象にした。  
顔を合わせれば挨拶より先に小言が口をつく。  
兄の態度ややり方に我慢ならない妹は邪険にし、  
そんな分かりやすい妹の反応を馬鹿にする兄は無視を決めこむ。  
両親は常々それを不安に思い、険悪な実の兄妹の関係を心配していた。  
だが、最悪なまでの仲の悪さは露呈せずに置いたので、  
若い兄弟にはよくあることかとどこか楽観してもいた。  
兄弟仲が悪いのは、世間一般的には普通の範疇に入るからだ。  
その範疇に入らないのは、むしろ異常に仲の良い兄弟の方だった。  
高尾も妹もそれを十分理解し、世間の目を気にする余裕を持って  
いたので、半ばわざとらしいくらいに仲の悪さを露呈させていた。  
そんな兄妹の違和感を、敏感に感じ取ってしまった者がいた。  
その者こそ手紙の主、高尾の元カノの女だ。  
 
つ、とこめかみに汗が伝って、高尾はそれをとっさに拭った。  
手紙の主の執念には、身の毛もよだつ思いがした。  
あの際どい二文字が綴られた手紙を妹に渡した真意は、  
恐らく妹と高尾の両方を傷つけさせることにあったからだ。  
だが高尾は、その手口を正直甘いと馬鹿にした。  
彼女は妹が高尾を気にして手紙を盗み見ると踏んだようだが、  
妹はそんな卑しいことはしない。  
少なくとも高尾に関しては、だが。  
三年という月日は、妹を知るに十分とは行かないまでも、  
決して短くはない。  
彼の妹は実に聡明でありながら、反対にどうしようもないほど  
鈍くもあった。  
高尾が関心のないフリをしたらそれを額面通りに受け入れ、  
必要以上に介入しない。  
暗黙のルールであり、共に暮らすために引いた一線だった。  
だからたとえ元カノらしき人物からワケありげなものを渡されたと  
しても、それを確かめるような愚を妹が犯すはずがない。  
聡明にして鈍感な妹は、同時に憎らしいほど優しいのだ。  
その優しさが向けられることを、高尾は良しとしない。  
結果として兄弟仲は悪くなる一方なのだが、この前の手紙の件の  
ようなことが起こった場合は、そうでないと  
困ることになる。  
いっそ視界に入れたくないと言われるほど嫌われた方が、  
潔いのかもしれない。  
そうでもしないと、彼女は嫌悪を越えた持ち前の優しさを高尾に  
示してくるかもしれない。  
あの喧嘩での妹は、高尾が不安になるほど頼りない声を投げてきた。  
高尾は、そんな妹の情をはねつけることがこの所難しくなっていた。  
 
* * *  
 
『兄さん』  
抑揚のない声が扉の向こうから聞こえてきた。  
用のない時以外滅多に訪れない妹は、その声から察して不機嫌で  
あることが予想された。  
『兄さん、居るんでしょ』  
返事がないのに苛立ったのか、今度は強い響きだった。  
仕方がないので面倒そうに答えて、机のスタンドのスイッチを押す。  
微かな明かりを受けて、暗闇に浸っていた部屋がぼんやりと輪郭を  
現した。  
『少し話があるんだけど』  
堅い口調は、その話とやらの内容がまず面白くない内容であること  
を高尾に伝えた。  
妹が、また兄の素行をいさめに来たことは間違いなかった。  
ガチャ、とドアノブが回る音の後に『入るよ』という無遠慮な  
確認で妹が入ってきた。  
『勝手に入るなて言わへんかったか』  
もしナニの最中やったらどないすんじゃ、と意地悪な気持ちに  
なって不機嫌な声を出す。実際はベッドで不貞寝していただけだった。  
『勝手じゃないわ。入るよって言ったもの』  
ひねくれた兄の第一声にうんざりとした様子で、妹…千世(ちせ)が  
不遜な言い訳を告げる。  
『了承なしに了承得た、言う奴のことを勝手っちゅうんや』  
あからさまに不機嫌を表に出す千世を無視して、高尾は溜め息  
混じりに言った。  
こんな風に、顔を付き合わせては喧嘩腰に話すのも相当に疲れる。  
冗談の一つも言いたくなるのを堪えて、高尾は千世を一睨みし、  
それからまたベッドに寝転んだ。  
千世に背を向ける様に寝返りを打つと、正面の壁に小柄な影が  
映っているのが見えた。  
『まぁええわ。話ってなんや。お前が話ある言うんは大抵くだらん  
ことか報告してほしくもないことのどっちかって相場は決まっとる  
けど、今日はどっちなん?』  
穏やかな声で妹が早く出て行きたくなるような言葉を並べ立てた。  
背中越しの対話で済むよう、さっさと用を済ませてほしかった。  
 
『どっちでもないよ、私にとっては。でも強いて言えば報告しなく  
ちゃいけないことを話にきた、かな』  
嫌々口に出す千世は、段々と苛立ちを顕著にし始めていた。兄より  
も感情を隠すのが下手な妹は、負けたくない故に嫌な役を演じている。  
本性は穏やかな少女のそんな真実に、高尾はもちろん気付いていた。  
けれどどうすることも出来ない立場だから、もう三年も気付かぬ  
フリを続けたままだ。  
『あ、そ。聞きたくもない話の方な』  
『あのさ、兄さんが誰とどうしようと私の知ったことじゃないけど、  
そっちの私情に巻き込まないで欲しいんだけど。今日、兄さんの  
彼女を名乗る人が教室にきて、これ。渡してくれって頼まれた』  
素っ気ない返事を返すと、千世は何やらを机に置いてそう言った。  
やはり女絡みの話だったか、と高尾は舌打ちをしたい気持ちになる。  
妹が苦情を言ってくるのは大抵がそれ関係だが、今回ばかりは  
触れられたくなかった。  
昨日別れを告げた女とは、常になくまずい別れ方をしたからだ。  
それも、妹に無関係ではない理由で。  
高尾の内心の焦りなど露知らぬ千世は、一区切りつけるように  
溜め息をつき、皮肉っぽい声で言った。  
『それと、兄さんの噂聞いててあんまり気持ちいいものじゃないよ。  
私が口挟むようなことじゃないかもしれないけど、でもこういう  
トラブルに今までこっちが何回付き合わされたと思ってるの?  
お母さん達の前でいい顔出来るんだったら、自分の彼女にだって  
出来るでしょう。別れるんだったらもっとうまくしてよ』  
高尾は、それを聞いて一瞬呆気にとられた。  
妹がこのように突っ込んだ小言を言ってくるのは珍しいことだった。  
『やかましわ、それだけやったら早う出てってくれへんか』  
動揺から、少し情けない声になってしまった高尾だった。  
まるで身内らしい文句を言う千世は、挑発しているかのようだ。  
この話題について高尾が避けたがるのを、知っていて言ってる  
様に聞こえて。  
 
『【あんたの兄貴は残酷な奴よ】』  
追い討ちをかけるように千世が尖った声で誰かを真似た。  
聞き覚えのある語尾の上がり方は、話題の中心の元カノに違いない。  
『だって、今日その手紙渡した人が』  
その手紙というのは、恐らく先ほど千世が机に置いたものだろう。  
だが今の高尾には、そんなことはどうでもよかった。手紙の内容  
より、元カノの過激な発言より、何より気になるのは千世の挑む  
ような口ぶりの方だ。  
今日に限って、何故。  
『じゃかぁしいなぁ…』  
ゆらりと起き上がった高尾は、その時には動揺から解放されていた。  
考えるのはいつでも出来る、と理性が訴えた。  
ともかくは、この幾分不利な状況から脱出するのが先決だった。  
その為には早いとこ妹を追い出さなければならない。  
普段なら決して合わせようとしない視線を、高尾は久々に妹へ向けた。  
『なんや。千世ちゃんは、そないに俺に相手して欲しいんかぁ?』  
意識して、小さな子供を相手にするような甘ったるい声を出す。  
『女の話なんぞしよって、それがタブーやてエエ子ちゃんの千世は  
よう分かっとるよなぁ。そのおつむでわざわざ薮へびなこと言い  
よるんは、俺にかまって欲しいからなんやろ?』  
ベッドの上で両膝を立たせ、その上に両腕を置き、ことさらに  
皮肉に見える笑みを浮かべる。  
そうすることでどれほど凄味のあるハッタリをかませるか、  
高尾はよく知っていた。  
そんな顔を向けられれば、さすがに千世も怯むように肩を縮めた。  
だが怖じけながらも立ち去ることはしなかった。  
『べ、別に。兄さんが自分の行動に責任持ってくれたら、私だって  
こんな話しない。でもいい加減うんざりしてるのも分かって欲し  
かったの。一応私は兄さんの』  
高尾はハッとした。  
千世が何故これほどつっかかってきたのか、高尾はやっと悟ったのだ。  
『妹なんだから』  
おそらく、この一言を伝えるために違いなかった。  
 
『………』  
サー、とカーテンの閉じられた窓の向こうから、控えめな雨音が  
響いてきた。  
雨季に入ったこのところは、じっとりとして空気が重くなる。  
この場の気まずさを助長するかのような雨音に嫌気がさしながらも、  
高尾は部屋を出ようとする千世を帰すのを、やめにした。  
『そんなん、嘘やろ』  
先ほどとは打って変わって芯の通った張りのある声は、物の少ない  
すっきりとした部屋に怖いほどよく響いた。  
『どうして』  
振り返らずに聞き返した千世の声は、こちらも先ほどと違って  
嘘のように頼りなかった。  
そうして、気付く。  
優しい千世を駆り立てた不安。  
『どうして…てなぁ。自分の胸に聞いてみろっちゅうヤツや。  
ほんまは分かっとんねやろ?俺がお前んこと妹や思うてへんて』  
『……!』  
見据えた先の小さな肩は、その瞬間にびくっと揺れた。  
そんなことは出会って数日して互いに気付いていたはずなのだが、  
改めて口に出されるのは違う心地がするものだったらしい。  
相変わらず分かりやすい妹の反応に、高尾は笑いを噛み殺した。  
『ほら、な。やっぱ分かっとるやん。でもって自分も俺んこと兄貴  
や思うてへんのやろ。ま、当たり前やろな。三年そこそこ一緒に  
居っただけの兄妹なんぞ、どんだけ取り繕っても親戚以上にはなれ  
へんわ。ダチのがまだ兄弟ごっこできるん違うか』  
十年以上離れていたこと、方言が違うこと、生活の重点が違うこと。  
その全てが紛い物の兄弟を示している。  
『そんなんやったらお互い干渉せん方がよっぽど仲良う出来る  
やんか。せやからこっちもお前に余計な口出しせんとあったかーく  
見守っとるやろ。それが賢いやり方っちゅうもんや』  
『でも、今日みたいなのは不可抗力だもん!何よ、私が悪いって  
言うの?』  
堪り兼ねたように叫んで振り返った千世の瞳に、きらりと涙が  
膜を張っていた。  
 
そんな妹の様子をちらと見て、高尾は机の上の白い紙切れを手にとった。  
何の気なしに、その中身を確認してみた。  
―――変態。  
黒い文字で、汚く、しかしはっきりと、紙切れにはそう書いてあった。  
ぶわ、と、額に汗が吹き出た。  
千世は、これを読んだのだろうか。  
そして実の兄が抱いている彼女への劣情に気付いた上で、こんな  
逃げ場のない状況を作っているのだろうか。  
『兄さんのとばっちりをなんで私が受けなきゃならないの!?確かに  
私は兄さんが嫌いだし、兄だと思ってない!でもそれとこれとは別の話じゃない!  
必要以上に干渉するのはどうかと思うけど、そうでもしなきゃ私が  
巻き添えくうんだよっ。妹じゃなくても!兄さんは私のこと何とも  
思ってないのにさぁ!』  
何を言っているのだろう、と、頭のどこかで高尾は思う。  
子供みたいに、駄々をこねるように、高尾には  
千世が愛情を欲しがっているようにしか聞こえない。  
『なんやそれ』  
久しぶりに、高尾は理不尽な怒りを抱いた。  
手のつけられない激しい感情が、のそりと首をもたげようとしていた。  
理性が追いつかない。  
『俺のことが、嫌いや、言うんやったら』  
三歩でその距離をつめた高尾は、拳を握って仁王立ちしている千世  
の細い両手首を掴んだ。  
そして逃げられぬようにと、白い顔の両脇で背後のドアに縫いつけた。  
『兄貴やない、思うとるんやったらな』  
『に、兄さん…?』  
突然の高尾の行動に頭がついていかないらしい千世は、涙を浮かべ  
たままで呆然としている。  
されるがままの今の事態がどれほど危険か、まったく気付いては  
いない様子だった。  
『中途半端に関わんな。…妹やないて思うとる奴が、ナニしようと  
気にせんの知っとるか?』  
『………』  
拳の中でくしゃくしゃになっている紙切れを意識しながら、高尾は  
妹の鼻先三寸の位置まで顔を寄せて、低く笑った。  
妹は涙を流すどころか、驚き過ぎて口を開けたままじっと高尾を  
見つめている。  
 
高尾は固まっている千世に構わず、縫いつけていた腕をぐっと下に  
引っ張って、段々と体勢を低くしていった。為すがままの千世は  
至近距離の兄を見つめながら、かく、かくっとぎこちなく膝を  
折ってぺたりと腰を下ろした。  
『女連れこんで俺がナニしとるんか、お前ちゃんと分かっとんのか?  
オママゴトと違うねんで』  
『だっ、でも…だってっ』  
『教えたろか?』  
言って、高尾は華奢な体を片手で抱き寄せて、床に押し付けた。  
『こうやってなぁ、体をまさぐってくんや』  
両腕を一まとめに掴んで頭上で押さえ付けると、開いた手で首筋  
から鎖骨までをつーとなぞる。  
ふるる、と千世の体が反応した。  
『エエ気持ちになるまで丹念に愛撫したってな、そんで鳴き始めた  
とこをいただく』  
ぐ、と、ほっそりした太ももを割って己の硬い膝を押し付けた。  
半袖短パンというラフな格好の千世には過ぎるほどの刺激だったの  
か、大げさなほど体を震わせた。  
もちろん、高尾の相棒もこの思いがけない体勢に起ち上がって硬く  
なっている。  
その興奮に任せ、高尾はぐらりと千世の首筋に顔をのめらせ、  
はあっ、と荒い息を吐き出した。  
手を当てがったままの鎖骨の下で、激しく鳴っているリズムの速度  
が、また一つ上がった。  
自分の鼓動と重なるリズムの心地良さに、高尾はめまいがした。  
『めっちゃ気持ちエエで。…なんなら味わってみるか?』  
高尾は鼻先を千世の耳の下辺りに潜り込ませ、かすれた声で囁いた。  
このまま、本当にそうなれたら、とたぎる欲望を解放しようとした  
時だった。  
千世が、小さく何かを呟いたのだった。  
『…何?』  
これほど近くにいるというのに聞こえないそれは、空気に触れぬ  
音だったのかもしれない。  
『ごめんなさい…』  
今度こそはっきりと紡がれた声の弱々しさに、高尾は冷水を浴びせ  
られた様に我に返った。  
急いで身を起こすと、下にいる千世の青ざめた顔にやっと目が  
行って、自分のやらかした行動をようやく自覚した。  
『千世…』  
『ごめんなさい、兄さん。私…っ』  
弾かれたように、千世は高尾の下から抜け出した。  
 
ぼろ、と大粒の涙を溢れさせ、千世はガタガタと震えていた。恐怖  
で満足に体を動かせないのか、すがりつくように扉の取っ手に手を  
かけて、ゆっくりと立ち上がる。  
覚めやらぬ興奮の代償を、高尾は見せ付けられたような気がした。  
自分で仕掛けたとはいえ、千世のこんなにも傷ついた顔を見たかった  
わけではないのに。  
だが牽制と罪悪感は別には出来ない。  
いつの間にか鎮火していた感情の戒めと引き換えに、高尾は千世  
の信頼を奪った。  
『…分かったら、二度と余計なこと言うんはやめぇ。妹面すな』  
高尾は立ち上がりながらそう言って、千世から目を反らした。  
見ていられないというのもあったが、なによりうまく無表情を作る  
自信がなかったのだった。  
返答のないまま静まり返った部屋で、相変わらず鈍く響く雨の音  
だけがやけに耳についた。  
『…兄さん、私は』  
震えている千世の声。  
兄弟の縁を断ちたいと言われてもなんら不自然でない空気を裂いて、  
千世は懇願するように呟いた。  
『私は、兄さんにとって何なの?』  
高尾は思わず千世を見つめた。  
ひたと向けられた無垢な瞳は、黒く強い輝きを放っていた。  
無邪気な残酷さから逃げるように背を向けた高尾は、  
『妹や。大事な大事な妹』  
と、嘲笑を交えて答えた。  
皮肉に聞こえたかどうか分からなかったが、千世はそう、と呟いて  
部屋を出ていった。  
高尾がぐっと拳を握りこむと、くしゃ、と紙がひしゃげる音がした。  
そういえば受け取った手紙を握っていたのであった。  
衝動的に、高尾は大きく腕を上げて叩きつけるようにそれをゴミ箱  
に投げつけた。  
だが的を外れたそれは床に音もなく着地する。  
耳鳴りの様に鳴る雨が苛立ちに拍車をかけた。  
ガン、とゴミ箱を蹴りつけて怒りを紛らわそうともどうにもならない。  
『妹のわけないやろ』  
誰にも届かない呟きが、虚しさを増した。  
その晩、妹の泣き声が聞こえた気がしたが、雨に紛れて判然と  
しなかった。  
 
 

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