広めのワンルームマンションの一室で、汗まみれの体をシーツに横たえながら、その夜もまた悪魔は意識を喪った。
悪魔は散々に天使に責められ、イヤらしい声を叫ばされて、トロトロに溶かされてしまっていた。
涙ながらに「イかせてほしい」と懇願する悪魔の唇を奪いながら、天使は無駄に長くて硬くて太いペニスを暴れさせて。
悪魔の体の中の弱いところを知り尽くした男根で、悪魔の媚粘膜をぐりぐりと、涙が出るくらい激しく切なく責め立てて。
その夜も天使は、いつものように悪魔がぐったりと意識を喪うまで可愛がっていた。
「起きたか」
朝。ベッドのシーツの上に突っ伏している全裸の悪魔の頭を、天使が撫でる。
天使は高そうなスーツにネクタイ姿。眼鏡の下の怜悧な眼光と相まってすっかりどこかのやり手ビジネスマン風だ。
「今日も悪魔をたくさんぶっ殺してくるからな」
天使はそう言いながら悪魔の頭をぐりぐりと撫でる。
振り払おうとしても大きくて力強い手のひらは悪魔の頭を逃がさない。
はめられた首輪に繋がった鎖がジャラリ、と鳴る。
天使は目を細めつつ悪魔の顎を摘み上げると、その唇を無理矢理奪う。
抵抗できない悪魔は、その舌の動きにうめき声をあげて抗議することしかできない。
ちゅぽん、と音がして唇が離れる。
「いい子にして待ってろよ」
ニヤリと笑った悪魔は部屋を出て行く。
バタン。カチャ。コツコツコツ……
天使が部屋を出て行った。
すると、なぜだか悪魔は心の一部分が喪失したような感覚に囚われる。
――憎い、恐ろしい天使がいなくなって、ほっとするべきなのに。
――こんな感情を、人間はなんと言っていたっけ。
「なんとかホルム症候群」
――人質が犯人に、過剰な共感や好意を抱いてしまうアレだ。
こんなに長い間、同じ人間…人間じゃないけど、同じヤツと一緒にいたことなんてなかった。
生まれてこの方百年以上、自分より弱い悪魔を狩ったり、人間を騙して魂や命を奪ったり、
ずっとそんな生活をしていた。
体でたらしこんだり、魅惑の魔法を使って人間の男を騙したこともある。
夢中にさせたあとでソイツを捨てたときの顔ときたら。
絶望と衝撃と困惑の入り混じった人間どもの表情を見てるとゾクゾクするくらい、気持ちよかった。
そもそも男の体温なんて厭わしいだけだった。
自分は一人で生きてきたし、一人で生きて行けると思っていた。
でも、酒を飲んで一人で眠るとき。
暖かそうな町の灯りが目に入ったとき。
自分の体がからっぽになった気がした。
叫んでも、喚いてもなくならない、どうしようもない寂しさが自分の中にあるということを感ずいてしまった。
この悪魔は天使に捕まって羽をもがれたその日から、一ヶ月以上ずっと天使の部屋で飼われている。
何も身にまとうものも与えられず、身に着けたものは唯一首輪だけ。
その首輪も、触れると悪魔の肉体を焼き焦がす「神鉄の鎖」でベッドのヘッドボードにくくりつけられていた。
自由になるのはベッドとその周りの数メートルだけ、という状況に居ながらも悪魔はなぜだかそんなことに最近は
充足感を覚えてしまっている。
あの天使の体は温かい。
触られても不快じゃない。
天使の指は細くて、長くて、でも力強い。
悪魔はぽすん、と顔を枕に埋めてその感触を思い出す。
昨日の晩、どんな風にいじめられたのかを。
――アイツ…以前だったら私がイってもそんなのは無視して腰を突いてきたものだったのに、最近は違う。
――私がイきそうになると寸前で腰を止めて、じりじりとゆっくりと動いて一緒にイカせようとしてくる。
――キスしながらだったり、手のひらをぎゅっと握りながらだったり、そんなことをしながら私の中にぶちまけてる。
天使の陰茎で体を串刺しにされたまま、何度も一緒にイかされて。
膣の一番深いところまで入れられたまま、優しく切なく乳房を握り締められて。
思い出した悪魔は、その浅黒い肌色の細い指を裸の股間に導いた。
薄い毛しか生えていないそこをゆっくりと刺激する。
――コレはアイツの指。
そう思い込むと、悪魔にとって自分の指は天使のそれになる。
右手で淫裂をそっと寛げると、その中に指を沈みこませる。
最近大きくなってきてしまった乳房に左手指を這わせると、昨晩の感覚がよみがえってくる。
くちゅり。くちゅり。
女の湿った音がワンルームに響く。
悪魔の左手は愛しい天使の左手で。
悪魔の右手は好きな男の右手で。
揉みこむ。ここ一月であきらかに大きさを増した乳房を捏ねまわすように揉む。
いつも天使がしてくれるように。
濡れそぼった陰裂を刺激してくるのは天使の細い指で。
妄想の中で、悪魔は天使に愛撫されていた。
力強い指が、悪魔の乳房に埋まりこむ。
ぎゅうう、と握りながら、ときおり硬くなった乳首を転がすように捏ねてくる。
じゅるじゅるとよだれをたらしている女陰に、指を沈み込ませて。
充血した真珠を優しく、力強く愛撫してくる。
ぬるぬるとした愛液に塗れた指は、硬くなった女の子の芯をめくり上げ、倒し、転がす。
天使の愛撫を思い出しながら、悪魔は絶頂を迎えた。
誰もいないマンションの一室はとても寂しい。
テレビもあることはあるが、人間どものしていることなど退屈すぎて暇つぶしにもならない。
だから悪魔は、天使が帰ってくるのを心待ちにしていた。
あとどれだけしたら帰ってくるか。
あの憎らしい声で「ただいま」「帰ったぞ」「いい子にしてたか?」と言われるのを楽しみにしていた。
悪魔は気づいていない。
その感情を「人間ども」はなんと呼んでいるのかを。
――早く帰ってこないかな。
悪魔はエレベーターの音がするたびに耳を澄ましていた。
コツコツという長い足の歩く足音が、ドアの前で止まるのを待っていた。
鍵がカチャリと廻り、廊下を歩く足音がするのを。
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――早く帰ってこないかな。
悪魔はエレベーターの音がするたびに耳を澄ましていた。
コツコツという長い足の歩く足音が、ドアの前で止まるのを待っていた。
鍵がカチャリと廻り、廊下を歩く足音がするのを。
しかしその日、悪魔は違う音を聞いた。
パリン、という甲高い音が悪魔の耳に響く。
ガラスの割れる音。広めのワンルームマンションの窓ガラスが割れる音だった。
悪魔は驚いて音のしたほうを見る。
そこには赤黒い物体がうごめいていた。
――アイツだ!!
血まみれのそれは、体中に赤黒い傷跡が走っている。
赤黒く染まった、汚れた布切れと化した服で、顔も体も判らないくらいに大怪我をしている。
でも悪魔にはハッキリ判った。自分が惹かれてやまない、悪辣で大切な天使だということが。
「ねえッ! アンタ、大丈夫!?」
ベッドの上から声をかける。
「く…そ…、し、くじ、った」
奇妙な音の咳をする天使。かふ、と空気の抜ける音がして、赤い血を唇から漏らしながら咳をしている。
もはや立っていられない天使はゆっくりと床を這う。
「あ、あ、くま、に、やられ、ちまうなん、んて…な」
その這う手足も血まみれで、フローリングの床に赤い太い線が走る。
「いい、きみだと、おもってんだ…ろ」
這いながらもふらりと平衡を失った天使は、腕を折るとそのまま床に突っ伏した。
ヘンな音の咳とともに、赤黒い液体が床に飛び散る。
とろんとした力のない瞳は、あらぬほうを見つめていて、もはや焦点が合っていない。
ヒュー、という空気の漏れる呼吸音がだんだんと弱まっていく。
――助けなきゃ!
悪魔は身体が勝手に駆け出していた。
ベッドの上から飛び降りて、倒れている天使めがけて駆け寄ろうとした。
一心に。助けることだけを考えて。
だから悪魔の耳にはジャラッ、という音などは聞こえない。
駆け出した悪魔の後ろで、鎖がピン!と張って首が後ろに引っ張られる。
捕まったその日以来、悪魔はずっと神鉄の鎖でベッドに結び付けられている。
悪魔自身、そのことを忘れたことはなかった。
しかし、今は違っていた。
思いっきり背中からフローリングの床に落ちた悪魔。
しかし痛みとかそういうのは感じない。倒れた天使をなんとかしなければ、という思いだけが
この悪魔を突き動かしていた。
――クソっ!鎖!
――邪魔!! 邪魔なんだよッ!!!!
悪魔は神鉄の鎖に手を伸ばして掴む。
神鉄と触れた肌が痛い。
刺すような痛みと灼熱感が悪魔の掌を焼く。
「…ッ!!!!」
悪魔は一瞬だけ顔をしかめると、焼ける掌に鎖を一巻きさせて、左手でも鎖を握る。
ブスブスと肉の焦げる音が部屋に響く。
神鉄の鎖が悪魔の肉を焼く匂いが充満する。
皮膚がジュウと音を上げ焼け焦げる。悪魔の身体は神鉄の霊性には対抗できない。
聖なる金属が、悪魔の掌の皮膚を焼き焦がす。
しかし悪魔はそんな激痛をもものともせず、そのまま思い切り鎖を引っ張った。
重たいベッドを焼けた掌で引っ張り、ズル、ズル、と少しづつ倒れた天使のもとに
近づいていく。
悪魔の皮膚が聖なる金属で焼き溶かされる。
脳を犯し全身を責め苛む激痛。
絶叫しつつ悪魔はそれに耐える。
重いベッドが床の上をずる、ずる、と動き始める。
「うわあああああああああああ!!!!」
痛み。激しい痛み。
万力で締め上げられるような。
強烈な酸で皮膚を焼かれるような。
赤熱する石炭を素手で握らされるような。
そんな、想像を絶する痛みに悪魔は耐えている。
自分を捕らえ、身体を弄び、羽をちぎって食った天使のために。
この一ヶ月間一緒にいた、どうしようもなく凶悪で邪悪で悪辣な天使のために。
悪魔は自分の身を焼きながら鎖を引きずり、血まみれで倒れている天使のもとへと歩を進める。
ズズ、ズズ、と一度に数ミリの幅でしかベッドは動かない。
でかくて重たいベッドはまだ十センチも動いていない。
地獄の底の溶岩に両手を浸したような灼熱。発狂してしまいそうな痛み。
手から全身を苛むその痛覚だけで悪魔は死んでしまいそうになる。
しかし、悪魔は手を鎖から離さない。
「ふん!ふんあああああああああ!!!」
涙と鼻水をだらだら垂らしながら、一歩、また一歩と悪魔はベッドをひきづりながら
倒れた天使の元に近づく。
「ぐうぅぅぅぅ…」
絶叫とともに皮膚が焼け、肉が溶け、無限の疼痛にただひたすらに耐えながら、
悪魔は全力で重たいベッドを引っぱり、天使に近づこうとする。
二十センチ。二十五センチ。三十センチ。三十五センチ。半メートル。
気が狂いそうなほどの痛みと熱と激痛に耐えながら、悪魔はようやく倒れた天使の元へとたどり着いた。
悪魔はしゅうしゅうと音を立てている自分の焼け爛れた掌を顧みることなく、その倒れた天使の上体を支えて
起こそうとする。
「おい! しっかりしろよ! お前、天使なんだろ!」
天使はくたり、と座っていない首を悪魔の胸元に預けてくる。
ぼんやりと虚空を眺めている天使の目の色にはすでに光がない。
抱きとめた腕が、胸が血に染まる。
――いやだ。
――イヤだ。
――コイツが死んじゃうなんて、イヤだ。絶対にイヤだ。
――コイツが料理を作ってくれたり、身体を洗ってくれたり、そんなことをしてくれなくなっちゃうのはヤだ。
――頭をわしゃわしゃと撫でてくれなくなるのはイヤだ。
――あたしのだ。コイツはあたしのなんだ。
――死ぬな。いや、死なせない。
――死なせてなんかやるもんか。
――わたしをこんな目に遭わせた借りは絶対に返させてやる。
――わたしをこんな風に変えちゃった責任は絶対取らせてやるんだ。
――だから、絶対死なせない。
悪魔は「治癒」の呪文を口にする。ただ必死に魔力を振り絞って傷口をふさごうとする。
うまくいかない。
悪魔は今まで他人を助けるために魔力を使ったことなんてなかった。
治癒の魔法は知っていても、誰かを救うために使ったことなんて一度もなかった。
悪魔はうろ覚えの呪文で、天使の傷口を癒す魔法をかける。
息を止め、必死に呪文に集中する悪魔。
そのおかげか、割けて赤い肉の見えていた爆ぜた傷跡が徐々にゆっくりと塞がり始める。
だくだくと血を流しつづけていた傷痕が、イライラするほどゆっくりと塞がりはじめる。
――もっと。もっとふさがれ。もっと早く。
悪魔の力は生命の根源に働きかける力だ。
だから、悪魔だろうと人間だろうと天使だろうと、あらゆる生き物を癒すことができる。
でも、悪魔だからとか、天使だからとかそういうことはすでにこの悪魔の脳裏にはない。
ただ、目の前の男を死なせたくない一心で全力で魔法を使っている。
悪魔は身体の芯が空っぽになった感覚がする。
魔力が底をつきかけている感覚だ。
「ねえ、しっかり! しっかりして!! 天使! お前、天使なんでしょ!? こんな傷くらいで、
し、し、死んじゃダメなんだからッ!」
真っ白な頬。青みがかった、嫌な色をしている唇。
いつもイヤミったらしく歪むその唇が、土気色を帯びてきてしまっている。
傷はふさがってはいるが、その肌は真っ青で血色がない。
――だめだ。血が、流れすぎたんだ…!!!
血は天使にとって魔力と同じこと。
どんな高位の天使だって、魔力がなければ生きてはいけない。
――魔力…コイツに魔力を与えるには…
――肉!
――悪魔の肉を食べさせれば…
悪魔は瞬時に閃いた。
その結果がどうなるか、なんてことは悪魔の脳裏にはまったく浮かばない。
悪魔は骨が見えるくらい焼け爛れた手で辺りの床に飛び散ったガラスの破片を掴むと、
自らの尻尾の付け根にあてがった。
「んぐ・・・あああああ!!!」
悪魔の尻尾の根元にガラス片が食い込んでいく。
「ンあ、ひぅぁぁあああ!」
激痛が悪魔の尻尾に走る。
全身を責めさいなむような痛み。
痛覚反射で痙攣する背筋。
それを意志の力で押さえ込み、悪魔は自分の尻尾に割れたガラス片を押し込んでいく。
「はぁ、はぁ、んんんくっ、んぎぃぃぃぃっっっ」
脳がビリビリする。
それでも悪魔は手を止めなかった。
硬い尻尾の付け根の肉に、素手で掴んだガラス片を走らせる。
尻尾の付け根の皮を裂き、肉を切り、骨を断ち切る。
焼け爛れた指を血まみれにしながら、悪魔は自分の尻尾を切り離すことに成功した。
悪魔は痛みのあまりびくっ、びくっ、と痙攣を繰り返している。
そして切り落とされた自分の尻尾を震える血まみれの手で掴んだ。
尻尾は切り落とされたあとでも蛇のようにうねっている。
悪魔は赤黒い切り口に噛み付くと、肉を一かけら噛みきろうとする。
鼻の奥がツン、とするくらい強く噛み締めるとようやく肉片がちぎれた。
悪魔はそれを口の中で咀嚼する。
自分の血の味と、生の肉の味。
その中に間違いなく魔力が含まれている味がする。
悪魔は血まみれの掌で天使の唇を開けさせると、その肉塊を押し込んだ。
こふ、と力ない咳こみとともに肉塊は吐き出されてしまう。
「食べろ…食べろって! 飲み込むんだよ!
ナニやってんだよ、食べなきゃお前死んじゃうんだぞ!
あんなに食いたがってたじゃないか!
食べろよ…食べてくれよ……」
膝の上の天使の顔に向かって悪魔は命令し、懇願する。
悪魔の赤い色の瞳からは涙がこんこんと湧き出て、天使の血で汚れた頬に涙の河を作った。
細い顎からぽたぽたと雫を流しながら、悪魔は天使に口移しで自分の尻尾の肉を食べさせようとする。
悪魔の血にまみれた尻尾の肉。それは咀嚼されて、悪魔の唾液に塗れたまま
天使の口元に押し付けられる。
真っ赤なその肉塊を、力なく受け入れる天使の唇。
力なく唇が開けられ、口内に落ちる。
血まみれの、傷だらけの悪魔の手のひらが天使のあごを動かしその肉を噛ませる。
「飲み込め…飲んでくれよ…お願いだ。お願いだからっ……お願いっ……」
くちゃ、という咀嚼音が悪魔の耳に聞こえた。
こくん、と喉仏が動き、悪魔の肉を飲み下す音が響いた。
――食べた。
――食べてくれた。
悪魔の心の底にほんのりと暖かい火が灯る。
――もっと。
――もっとだ。
――もっと食べさせないと。
まだびくびくとうねっている自分の尻尾。さっきまでは体の一部だったその切り落とした尻尾の赤い肉に
噛み付くと、またひとかけら食いちぎった。
――お前の食べたがってた、悪魔の尻尾だ。
――食べろ。もっと食べろ。
――魔力たっぷりなんだからな。
――あたしの魔力が、全部つまってるんだからな。
――だから、こんな傷なんてすぐよくなっちまうんだからな。
――だから――おい、天使、天使、起きろよ!
悪魔はこの天使の名前すら知らない。
起きているときは「お前」とか「テメエ」と呼んでいた。
だから、コイツがなんて名前なのかも知らない。
そんな天使のために、悪魔は自らの尻尾を切り落とし、その肉を口移しで食べさせていく。
そして、何度目かの肉片を天使に飲み込ませたとき。ひく、と小さく天使の手が動いた。
「ん…」
かすかな声。小さなうめき声。
それでも、死人同然だった天使の命の徴候には違いない。
もう一欠片。もう一片。
口移しで悪魔は天使に自分の尻尾の肉を与えていく。
そのたびに、蒼白だった天使の顔に命の色が戻っていく。
岩のように冷たかった手足に体温が戻り始めていく。
――よかった……
――よかった…………コイツが、死なないで…よか
――あれ?
――おかしい。
――床が、斜めになってる……
――この建物が、傾いて…このままじゃ…
悪魔は悟った。
――違う。
――あたしが、傾いてるんだ。
――ああ。
――あたし、死んじゃうのかな。
――でもいいや。コイツが生きてくれれば、それでいい。
――短すぎる人生だったけど。
――最後のひと月は、コイツと居られてなんだか楽しかったな。
――そう、楽しい………ああいうのを「楽しい」っていうんだ。たぶん。
――いままで生きてきて、一度も感じたことがなかったけど、あの気持ちが「楽しい」って言うんだ。
――ああ…まぶたが重くて…目開けて…られない。
斜めになった床にうつ伏せになりながら、悪魔は閉じたまぶたの隙間から、愛しい天使の姿を見つめる。
――あたしが死んじゃったら、コイツは寂しいとか思ってくれるのかな?
――ちょっとでも、悲しいとか寂しいとか思ってくれたらいいな。
――こいつに手を握られたり、頭撫でられたり、もうしてもらえないのは残念だけど。
――死ぬ。
――死ぬってこんな感じなのかな。
――天使のヤツ、なんだかうめいてる。
――コイツ、元気になったんだ。
――よかった。
――コイツが死ななくて……ホントに……よかった……
悪魔の意識はそこで途絶えた。
命を終えた悪魔の顔は、微笑んでいる。
涙に塗れた頬のまま、幸せそうな笑みを浮かべて。
浅黒い肌に、天使のように澄んだ笑顔を浮かばせて。
その日、二十数年の生涯を閉じた悪魔の死に顔はとても安らかだった。