私の家は洋館のつくりと武家屋敷のつくりが半々の奇妙な形をしている。
地下には狭いワインセラーがあり、庭の隅には小さな蔵もある。
先日、その蔵の整理をしていたら絵巻物が出てきた。
「古そうな巻物ですねぇ。鑑定団に出しましょうよぉ」
「キミは先ずそれか」
紐解いてみれば、縁の黄ばんだ和紙に墨で大きな円が描かれているだけだった。
「なんですかねぇ?」
「こういう作品も見たことはあるけどなぁ…」
そうしている内に、円の中心からは墨が滾々と湧き出してきていた。
「あいやー、戯画だったかぁ」
「なんですかそれ?」
「古い事は古いけど鑑定団には出せないねぇ」
何故、と朱佐多君が首を傾げた。
円はいつしか墨の池になり、池には幾匹か鯉が泳ぎ始めている。
「見ていればわかるよ。滅多に見られるものではないから、しっかり見ておきなさい」
「はーい先生♪」
余談ではあるが、私は物書きであるのに誰からも"先生"と呼ばれたことがない。
朱佐多君も担当からもだ。
"先生"とはもっと売れなければ呼ばれない、最高称号のようなものなのだろうか。
「でも、確かにこんなもの他じゃ見ないですよね」
「数自体が少ないんだ。"戯画"は一人の絵描きが一生を掛けて完成させるからね」
"戯画描き"は先の10年で自分専用の筆を作り、次の20年で特殊な墨をする。
あとはもう、死ぬまでその巻物に向かい続ける、一子相伝の技法である。
"戯画描き"は戯画以外に絵は残さず、戯画を描くためだけに生きる。
長生きした"戯画描き"程、絵のスケールが大きい。
「江戸時代中期に極められたこの技法で先代まで描き続けられたんだ」
「今も作ってる人がいるんですかぁ?」
「いや、今はもういない。先代でこの技術は途絶えてしまったよ」
「それは―――
「ほら、よく見てごらん。恐らくこの戯画を最後に…」
この戯画を最後に、二度と見ることは無いだろうから。
墨池からは葦が伸び、その先に蜻蛉が幾匹か留まっている。
白鷺が飛んできて、岸に降り立った。
首を伸ばして足下を突つくと、そこから蔦が伸びだした。
命の奔流。
ばる。
ばるばる。
蔦やシダからは巨大な華が咲き、白灰色の鮮やかな実が生り
熟した実からまた新たな芽が出、次の世代が生まれていく。
やがて湧き出す墨が止まる。
生命の絵。
輪廻の縮図。
言葉には出来ない、圧倒的すぎる躍動。
「……凄い…」
朱佐多君はまるで小学生のように目をキラキラさせて巻物を覗き込んでいる。
「見納めだ」
戯画が育つより遥かに早いスピードで枯れ始めた。
ひび割れ剥がれ落ち、只の真っ白な巻物に戻っていく。
「なんで今は描かれてないんですかぁ?」
「私に絵の才能が無かったから、先代が私を勘当したんだ」