雨の調べは寂しい。時に。
02 : Rainy Tunes
「あれ、もう帰るんだ?」
鞄に教科書を詰め込む正宗は、かけられた声に顔を上げた。扉から覗いているのは、部活の途中なのだろう、
Tシャツにハーフパンツ、そして長い栗色の髪をポニーテールに結った少女。
クラスメイトの宮村彩夏だった。
「でも珍しいね、九条君が一人なんて」
「……どういう意味だよ」
悪意はないのだろうが、気になる言葉を投げかけてくる彼女に視線を返すが、
「別に深い意味はないって。たださ、九条君っていつも、忍か美幸ちゃんのどっちかと一緒にいるイメージがある
から」
正宗の席からほんの二つほど隣にある自分の机に、軽く腰掛けて彩夏は笑う。彼女は、彼の愛想の無い見かけ
と態度に、物怖じしない数少ない女子の一人だ。
「そんなことか」
正宗はそう言って、肩をすくめて見せる。
「でも実際、そうでしょ? よく一緒に帰ってるし」
楽しそうな、それでいて探るような目で見つめてくる彩夏に対して、正宗はしかし、動揺することなく、
「そりゃ帰り道が一緒だからな。忍なんて、ほんの目と鼻の先に住んでるし」
「ふぅん?」
まだ満足しなさそうな彩夏に、鞄を肩にかついでから彼は向き直る。
「昔っから一緒なんだ。時間が合うんだったら、今さら別々に帰る方がおかしいだろ」
「うーん、つまんない」
正宗の言葉に対して、返ってきたのはひどく身勝手な感想だった。なんだそれは、と、さすがに呆れながらも、
目で彼女に先を促す。
「だってさ、照れるか恥ずかしがる九条君を見てみたかったし」
「なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだよ」
「子供の時から一緒だけど、年をとるにつれて一緒にいるのが恥ずかしくなって、わざと冷たくする……とかさ」
大きな身振り手振りを交えた彩夏の熱演を、彼は冷たく、アホか、と切り捨てる。
「少女マンガの読みすぎだ」
「でも実際、そういうことだってあると思うけど」
「ガキじゃあるまいし。仲のいい奴を減らすことないだろ」
「へぇ。人の目なんか気にしないって? それ、なんかちょっとカッコいいよ」
からかう彩夏に、もう付き合っていられないとばかりに正宗は戸口へと向かう。さすがにそれ以上、追及してくる
ことはなかったが、クスクスと彩夏は声をあげて笑い、片手をひょいと軽く挙げた。
「じゃあね。また明日」
「ああ、お疲れ」
校門を出て歩き出すのとほぼ同時に、ポツポツと雫が彼の頭を濡らし始めた。見上げると、青い空に唐突に
黒い雲が広がっていく。
舌打ちをする間もなく、墨色の天が泣き出した。
天気予報、あてにならないな。思いながら彼は、鞄の中から折り畳み傘を取り出して開く。出掛けに母が持って
いけと渡してくれたものだ。何故か、正宗の母の勘は天気に関してだけはよく当たる。今回もそれに助けられたわ
けだが、帰ってきた時の彼女の得意そうな態度を思い出すと、なんとなく渋い顔になってしまう。だから言ったでしょ、
とばかりに、調子に乗って恩を売ってくるのだから。
とはいえ、それでも濡れるのよりはマシだと云えた。そしてふと、思う。あの二人はどうしているだろうか、と。
確かに、彩夏が指摘したように、正宗が一人で帰るのは珍しい。大体いつも、幼馴染の二人の少女のどちらか、
あるいは両方と一緒だから。今日一人なのは、本当にたまたまなのだ。
美幸はクラスメイトと買い物に行くとメールが来ていた。忍は調べたいものがあるから、と図書室に向かった。
広い水溜りを避けながら、正宗はゆっくりと歩く。急ぐことはない。ただ、のんびりと。こうして帰るのも、たまには
悪くはないか。そんなことを考えながら。
ふと、彩夏の言葉が脳裏を過ぎる。
『忍か美幸ちゃんのどっちかと一緒にいるイメージがあるから』
あの時は頷いて肯定したが、改めて考えてみると少しだけ不思議な気分だった。
幼馴染だから、一緒にいるのが当たり前だ。そう正宗は心の中で呟く。
『人の目なんか気にしないって?』
必要がないからだ。例えそれでからかわれたところで、さっきのように聞き流せばいいだけ。相手にするから悪い。
そう思う。
噂が無かったわけではない。中学の時はもっとひどかった。忍がおらず、美幸と二人だけだったからだ。人の口と
妄想は、止められない。
だが彼女は、そんな噂を気にも止めようとしなかった。正宗も同じだった。やがて噂が静まった理由は、彼らがいつも
二人きりだったわけではなかったからだろう。途中まで二人と一緒に帰る友人も、数多くいたから。
高校になっても、同じだった。勘繰る連中がいなかったわけではないが、美幸の天真爛漫、正宗の無愛想、そして
忍のクールな態度は、火種を消すのに十分だった。
三人。一緒。
その関係を心地良いと、彼は感じている。
だが。
スッ、と正宗の目が細まった。鋭い瞳は、しかし何物も捉えていない。ただ心の内側を覗いている。
だが一方で。
想いは、確かにある。
陽炎のように揺らめいているけれど、そこには人の影がある。
「美幸?」
角を曲がった瞬間に目に飛び込んできたのは、たった今まで思っていた少女の姿。それと同時に、彼の口から名前
が漏れる。
「あ、正宗。よっす」
パン屋の軒先で、長い髪から水をしたたらせながら雨宿りをしていた美幸は、彼の声に携帯から顔を上げてニコリ
と笑った。
「何やってんだ?」
「やー、カラオケ行こうと思ったら雨が降ってきてさ。今日はやめとくか、って別れてから走って戻ってきたんだけど」
トホホ、と言いたそうな顔で美幸は空を見上げた。
「結構、強くなってきたでしょ? もうビショ濡れだし疲れたしで、ここで休んでるの」
確かに、彼女の言う通りだった。半袖の白のシャツはピッタリと肌に張り付いているし、ローファーは浸水がひどく、
紺のハイソックスを絞ったら滝のように水が出てくるだろう。
「大変だな」
いつもよりしっかりと美幸の顔を見て話すのは、油断をすれば、透けて見えるピンクのブラに目が行ってしまうから
だ。かなりの努力が必要だったが、それでもなんとか正宗は見ないようにしていた。出来るだけ。
「朝のテレビで、今日は晴れって言ってたのになー。正宗は用意いいね」
「またうちのお袋だよ。持ってけ、って言われてな」
「あー、やっぱり。正宗のお母さん、ホントに天気をよく当てるよね。元・天気予報のお姉さん、だったりしない?」
「テレビとかでか? 冗談じゃない、想像出来ねぇよ、そんなの」
軽口を言いながら、ふと、気付く。彼女がアーケードから出て来ないことに。
何の気はなしに、誘う。
「ほら。送ってってやるから、入れよ」
「ん? ああ、いいよ、別に」
メールでも来たのか、携帯から顔を上げずに美幸は応えた。
断られたという事実が胸の奥におさまるまで、少しの時間が必要だった。
拒否されるなどと、まるで思い浮かべていなかったことを、改めて知る。腹の底に、何か重いものが生れて、心を
圧迫する。
「見られたら困る奴でもいるのか?」
冗談めかして問いかけるのが、精一杯だった。
自分だけだったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。仲が良すぎるとか、付き合ってるとか。そんな誤解など、
気にしていなかったのは自分だけで、美幸は実は気にしていたのか、と。
もしかしたら、好きな人が出来て、その男に見られたくないのかもしれない。相合傘なんて、カップルがするような
ことだから。
寒い、と正宗の体が訴える。それは決して、雨に濡れたからだけではなかった。
「え?……ああ、そんなんじゃないよ」
明るく言って、美幸は笑いながら携帯を閉じた。そして、
「ちょっと用事が出来て、家に帰る前に寄るとこが出来たの。だからね」
途端に、彼は脱力する。考えすぎだったのか、ただの。思った瞬間、自分がおかしな表情をしてたのではないか、
そんな不安が襲ってきた。それを誤魔化す為に口を開くが、
「なら……」
「なら、そこまで送ってってやる」
台詞を先取りされて、正宗は目を軽く見開いた。少し滑稽な彼の姿に、ではないだろうが、軽く美幸は笑う。
「そう言うと思ったんだ、正宗なら」
なんとなく、頷く。確かに、そう言おうとしていたのだから、反論のしようがない。
「けど、ちょっと遠いしね。その後は、そこから一人で帰ることになるでしょ? さすがにそこまで付き合っても
らうわけにはいかないもの」
風邪でもひかれたら嫌だしね。と、そこだけは真面目な顔で言う。
「普通に帰るなら、送ってってもらってたんだけど。でも」
一度、言葉を区切って、彼女は。
「ありがと」
真面目な顔だったその次の瞬間には、ニコリと満面の笑みなのだ。ありがとう、という言葉、そして感謝の気持ちが
心の底からのものだとわかる。そんな笑顔。
胸の奥の黒く重い霧が、一気に晴れていく。
それは灯火のようなものだった。癒しなどという、簡単な言葉では言い尽くせない。極上で最高なハッピーが、
体全体に広がっていくのだ。
「にしても、よくわかったな」
彩夏が見たがっていた照れ臭そうな表情を、手で鼻をこする仕草で隠しながら、正宗は美幸に言う。
すると、またあの笑顔で。
「だって、ちっちゃな頃からずっと一緒だったもの。正宗のことなら、何でもわかってるよ」
悔しいが、かなわない。正宗はそう思う。
こんな風にされたら、想わずにはいられない、と。
「あ、それに、姉さんが迎えに来てくれるっぽいし」
そんな彼の想いに気付くことなどなく、携帯に届いたメールをチェックして、美幸が言った。
「由梨さんが?」
「そ。用事って、姉さんの買い物に付き合うのだしね」
思わず正宗が顔を顰めるのは、一度、無理矢理に同乗させられた時の彼女の運転がひどかったからだ。
「正宗も乗ってく? ちょっとぐらいなら平気だろうし」
「いい。やめとく」
即座に断ると、姉の運転の荒さを知ってるだけに、さすがに美幸も引き止めたりはしなかった。ただ苦笑するばかり。
「じゃあ、早く行った方がいいよ。姉さんに見つかったら、絶対に乗ってけ、って言われるし」
「悪い、そうさせてもらうわ」
互いに手を振り合って、足早にその場を立ち去るのとほぼ同時に、車のブレーキの音が背の向こうに聞こえた。
走り去る車を遠くに見ながら、正宗は拳をグッと握り締める。
『正宗のことなら、何でもわかってるよ』
多分、そうなんだろうな。美幸の言葉に、彼は心の中で同意する。が、同時に、だけどな、と否定する。
知らないことだってあるぞ。
口には出さずに思いながらなぞるのは、鎖に縛られながらも跳ねる心臓と、マグマのように紅く熱い想い。
まだ知らないだろ。俺の気持ちを。お前を好きだって言う、この想いを。
当然だ。隠してきたのだから。決して彼女には気付かれないようにと。
そうすることで報われると思ったわけではなかった。
ただ、側にいたかったから。幼馴染でしかなかったのだとしても。
想うことで身を焼かれるのは辛くない。彼女の存在が遠くなることに比べれば。
もし、誰かのものになったとしたら。
それはきっと辛いこと。だけど。
側にはいれる。
正宗はそう思い、想う。
何でもわかっている。そんな風に言われるほど近い存在には、きっと、他の誰もなれないと。
何故ならそこは、彼の、九条正宗の場所だから。