微かなときめき。それは想いにも似た。  
 
 
12:Over  
 
 
「――――でも、やっぱり、してやられた気になりますね」  
 そういいつつも、ふと紅い冷麦と白い素麺がくるくると水引の形に結ばれる絵が頭に浮かび、お似合いかもしれない、  
と思うのだった。  
 
 そこまで読み終えてからチラリと腕時計を見た忍は、待ち合わせの時間になっていることを確認する。名残り惜しいが、  
これ以上はやめておこう。思いながら彼女は、読んでいた本、北村薫の『朝霧』を閉じた。  
 ほぅ、と漏らすは溜息。この作者が描き出す世界は、優しい。だがそれは、現実から乖離したファンタジーではない。  
綺麗ばかりでない人の心を見つめ、浮かび上がらせ、だけど――――包み込む。読後に残るのは、穏やか。時に  
それは、切なくもあったけれど。  
「よう、早いな」  
 そんなことを考えていたせいか。間近に立たれて声をかけられ、一瞬、忍は驚く。  
「なんだ、どうかしたか?」  
 敏感にそれを感じ取ったのだろう、怪訝そうに尋ねてくる亮太に、彼女は慌てて首を横に振った。  
「別になんでも。ちょっと、ぼぅっとしてただけです」  
 答えながら忍は、自分の頬が朱に染まっていくのを感じていた。何となく気恥ずかしい思いを抱きながら、立っている  
彼の顔を見上げる。が、そうか、と言ったばかりで特に何の表情も浮かんでいなくて。  
「で、そのコルトンってのは?」  
「この近くです。そんなに遠くはないですよ」  
 応えて忍は先に立ち、彼を件の店へと連れていく。コンクリートの車道にはメラメラと陽炎が立ち昇り、照り返しすら  
眩しくて。  
「にしても、暑いな」  
 首筋の汗を拭う亮太は、ボーダーのポロシャツをラフに着こなしている。だがその色は黒。  
「黒なんて、着てくるからですよ」  
 からかうように言う忍が身にまとうのは、白のタンクトップの上に淡いブルーのシャツ、下は膝丈のデニム。見た目にも  
涼しそうな彼女の装いをチラリと見て、亮太は軽く肩をすくめた。  
「いいんだよ。好きなんだから」  
「まぁ、似合ってると思いますよ」  
 何のフォローにもならないと知りつつ言った彼女の言葉に、彼は小さく溜息をついたのだった。  
 
「ここが、そうですよ」  
 カランカラン。聞き慣れたベルの音を鳴らしながら、忍はドアを開けて店内に入る。テーブルを拭いていたウェイトレス  
が振り返って、  
「いらっしゃいませ……って、なんだ、忍か」  
「なんだ、はないでしょ。由梨さん」  
 投げやりな幼馴染の姉の態度に、忍は小さく苦笑する。  
「またうちで読書? 休みなんだから、一人で過ごしてないで、誰かと遊びに行ったら? うちのバカ妹なんて、朝から  
飛び出して行ったってのに」  
「あいにくだけど、今日は二人席で」  
 彼女がいつも一人で座るカウンター席に案内しようとした由梨を、忍は呼び止めて振り向かせる。こちらを向いて  
ようやく、亮太の存在に気付いたのだろう。由梨は、あら、と小さく呟いて二人を見比べた。  
 そして、彼の耳には届かないよう、小さな声で投げかけられる問いかけ。  
「彼氏?」  
「先輩」  
 聞かれるであろうと想像していた言葉に、あらかじめ用意しておいた答えを即座に返す。ふぅん、と頷く由梨はしかし、  
納得したようではなかったけれど。  
「知り合いなのか?」  
 案内された席に向かい合って座ると同時に尋ねてきた亮太に、忍は小さく首を縦に振った。  
「幼馴染のお姉さんなんです。ここでバイトしてて」  
「ああ、それで」  
 納得したように言った後、彼は横目でわずかに由梨を見やる。彼女は、興味津々といった態を隠そうともせずに、  
遠巻きに二人を眺めていた。  
「ほっときましょう。気にしたってしょうがないですよ」  
「まぁ、そうだな」  
 頷きあって二人は、テーブルのメニューを開いて見始めたのだった。  
 
「確かに、ここならわかる気がするな」  
 運ばれてきたアイスコーヒーに手を付ける前に、店の中を見回していた亮太が、頷きながらそう呟いた。怪訝そうに  
見つめる忍の視線に気付いて、彼は椅子に座りなおす。  
「なんつーか、いい場所だと思ってな」  
「ここが、ですか?」  
「雰囲気はいいし、値段もそこまで高くない。あんまりうるさくもなさそうだし、一人で本を読んだりするのにはむいてるな、  
ってことだよ」  
 亮太の言葉に、彼女は同意の頷きを返す。確かにここには、暖かい何かがある。ゆっくりとした時間が流れる中、好き  
な本に没頭するのはたまらなく気持ちがいいものだ。  
「よく来てんのか?」  
「ええ。一応、家族料金がききますし」  
「叔父さんだっけか」  
 ハイ、と返して忍は、厨房の方を見やる。少し客が入ってきたせいだろうか、彼の姿は全く見えない。  
「ちょっとまだ、話は聞けそうにないですね」  
「忙しそうだしな。ま、気楽に待つさ」  
 コーヒーも美味いしな。言ってアイスコーヒーを飲む亮太の、どこかおおらかな態度に忍は小さく微笑む。  
 一歩間違えれば横柄とも取られかねないその姿は、彼女の目には好ましく思えたから。  
 
「はい、これ」  
 突然、テーブルに置かれた二皿のサンドイッチに、本の話に夢中になっていた二人は戸惑う。持ってきた由梨はと  
言えば、近くのテーブルの椅子を引いて座り、食べなさいな、と促して。  
「マスターからの奢りだって」  
「そういうわけには……」  
 困惑して断ろうとする亮太を、しかし彼女は目で制す。  
「いいから食べな。ただでさえ忍が男を連れてやってきたってんで、落ち着かないみたいなんだから」  
 由梨の言葉に、忍は大きな溜息を吐く。勘違いをしたのは、由梨だけではなかったようだ。  
「いいですよ、先輩。食べちゃって下さい」  
「そうか? じゃあ、ま、頂くか。腹も減ってたところだし」  
 後でしっかりと誤解を解かないと。そう思う彼女をよそに、亮太はサンドイッチを一つ摘む。  
「うまい」  
 満足そうに言う彼に、忍は思わず苦笑する。なんだか考えているのがバカらしくなって、彼女もサンドイッチに手を  
伸ばした。  
「それで? なんでうちに来たわけ?」  
 客の波が引けたせいか、すっかりとくつろいでいた由梨がそう言ったのは、二人がサンドイッチを半分も食べてから  
だった。  
「え?」  
「何か理由があって来たんでしょ。あぁ、彼氏を見せびらかしに来た、ってわけか」  
「ちょっと、由梨さん」  
 慌てる忍を見て、由梨はからからと笑った。からかわれていたのだと知って、彼女は憮然となる。亮太はと言えば、  
呆れたように二人を見守るばかり。感じるその視線に、さらに気恥ずかしくなって、忍は目を伏せた。その頬は、  
ほのかに熱を帯びていて。  
「それで? 何があったのよ」  
「別に由梨さんには関係がないし……って……」  
 何かが引っかかった気がして、彼女は顔を上げた。きょとんとする二人に構わず、忍は問いかける。  
「由梨さんって、確かうちの学校の卒業生だったよね。戸塚秀人、って人、知らない? それか、井上玲子って子」  
「は?」  
 目を丸くする彼女とは別に、驚きの表情を浮かべるのは亮太。  
「考えてみたら、由梨さんと同じぐらいの年頃のはずなんです。この二人。だから、もしかしたら知ってるかもって」  
「ちょ、ちょっと待って。一体、何がどういうことか、説明してくんない?」  
 彼に向かって説明する忍の言葉を遮って、由梨が身を乗り出してきた。  
 そこで彼女と亮太は説明する。  
 図書館で見つけた本に、手紙が入っていたこと。その差出人が戸塚秀人で、送った相手が井上玲子という名前だった  
こと。手紙の本文は暗号だったこと。その暗号を二人で解いたこと。そこから出てきたコルトンという言葉から、彼女達は  
ここにやってきたのだということ。  
「なるほど、ね」  
 かわるがわる話す二人の話を黙って聞いていた由梨は、最後になってようやく、そう呟いた。その唇には、微笑。とても  
愉快そうに、そして悪戯っぽく、彼女の瞳は光っている。  
「何か知ってる、って顔ですね。由梨さん」  
「知ってるってなら、何か教えて下さい」  
 頼み込んでくる二人の姿を交互に見つめた後、由梨は小さく頷いた。  
「ええ、知ってるわよ、二人とも。私の同級生だったからね」  
 
 やっぱり、と思うと同時に、忍は思わぬ偶然に驚きを覚える。  
 期待をしていなかったわけではない。だが、もう数年近く前のことを、叔父が覚えているとは思っていなかった。  
毎日のように訪れる客、その中のただ一人なのだから。  
 それが、予想もしてなかった人から、情報が手に入ったのだから。  
 ふと見やると、同じように感じたのだろう、亮太も口元に微笑を浮かべていた。視線がぶつかり、彼女もまた微笑む。  
「やったな」  
 言葉と共に宙に置かれた手、それが何を意味するかをすぐに理解して、忍は同じように手を差し出した。  
 パーン。  
 響く音。ハイタッチ。掌に微かに残る痛みも、何故か心地良かった。  
「あんた達ね、他のお客さんに迷惑でしょうが」  
 苦笑と共にかけられた言葉に、二人は驚きと非難で向けられた視線に気付く。想像以上に、ハイタッチの音は  
大きかったようだ。  
「ま、気持ちはわかるけどね」  
 真っ赤になって小さくなる忍、同じように赤くなりながら照れ隠しの仏頂面をする亮太。そんな二人を交互に見て、  
由梨は小さく肩をすくめた。  
「で、あんた達はその手紙を届けたいわけだ」  
「……うん。出来れば、届けたい」  
 彼女の言葉に、亮太も頷く。  
 最初は、そこまでを求めていたわけではなかった。心のどこかでは、見つけることは無理だろうと思っていた。  
 だからこそ、こんなにも驚いたのだ。届けられると知って。  
 
 そこまで考えて、忍は戸惑う。  
 無理だと思っていたのに、どうして私は。  
 彼を、吉川先輩を誘ったのだろうか。  
 
「でもね、井上玲子って子は、もういないの」  
 物思いは一瞬。由梨の言葉に、忍は彼女を見つめる。  
「どういう……ことですか?」  
 胸のうちに浮かんだ小さな疑問など、一瞬にして吹っ飛んでしまった。次々と脳裏に過ぎる悪い予感に、唇はすっかり  
乾いてしまって。  
 だが、次に彼女が見たのは、由梨の瞳が悪戯に輝く様だった。  
「井上ってのは旧姓……ってのとはちょっと違うのかな。ともかく、古い姓でね。彼女、卒業前に親が離婚しちゃってね。  
母親に付いていくってことで、転校していっちゃったのよ」  
 だから井上玲子はもういない、ってわけ。そう続けた由梨は、楽しそうにすっかりと脱力した二人を見やる。  
「塩崎。お前の知り合いは、なんというか……悪趣味だな」  
「偶然ですね、先輩。私も同じこと思ってました」  
「あら、失礼ね」  
 心外だわ、とおどけるその様は、明らかにこの状況を楽しんでいる。  
 そう言えばこういう人だった、と今さらながらに忍は思い出し、深い溜息をついたのだった。  
「じゃあ、今の居場所は知らないってわけか」  
 憤りのせいか、ぞんざいな口調の亮太の言葉に、しかし由梨は首を横に振った。  
「知ってるわよ。あんた達のすぐ側にいるじゃない」  
「は?」  
 またからかわれているのか。そう身構える隙も与えず、由梨はゆっくりと続けた。  
 
「井上ってのは古い姓でね。今の名前は佐野玲子。あんた達の学校の先生してるはずよ」  
 

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