唇と、唇が重なる。その熱は、暖かくも優しく。  
 
 
 
   05 : Kiss  
 
 
 
 夢ではないか、と思った。  
 幼馴染の彼女が、今、こうして自分の腕を抱きながら歩いていることを。  
 その顔はとても、とても楽しそうで。世界で一番、幸せそうと形容してもいいぐらいだ。  
 
 そして、立花美幸は確かに、幸せだった。  
 
 隣に並ぶ横顔を見上げる。その凛々しさに、どうして今まで気付かなかったのだろう。これまで  
の自分の見る目の無さに、彼女は溜息を付きたい思いだったし、実際に朝から何度も付いていた。  
 その吐息ですら、どこか艶かしく色付いている。それほどまでに、美幸は心を奪われていたのだ。  
隣に立つ幼馴染の、普段は見ない姿に。  
「そんなに……」  
「見るな、って? ゴメン、ゴメン」  
 ジッと見られることに、戸惑いを覚えたのだろう。不機嫌そうに言うその台詞の、その先を奪って  
抑える。見られるのが恥ずかしいのだろう。そんな姿も、可愛らしく思えてしまう。  
 だから、ギュッ。  
 力強く、彼女はその腕を胸に押し付ける。  
「ちょっ……」  
「エヘヘ。楽しいね」  
 言って朗らかに笑う美幸の姿に、何も言えなくなったのか、小さく肩をすくめ、帽子を目深に被って  
表情を隠してしまう。  
 そんな仕草は、何度も見ているはずなのに、とても新鮮に感じられて。  
 ああ、こんな顔をするんだ。  
 そんな風に思って、また楽しくなるのだった。  
 
「夕方まで、まだ結構、時間あるね」  
 右手の腕時計を見て、美幸は何となしに言った。今日は映画を見ることになっているのだが、それは  
夕方過ぎからのことだった。今はまだ、昼を過ぎて間もない。ついさっき昼御飯を食べ、それから駅近く  
の店をブラブラと見て回ったのだが、さすがにそれだけでは時間を潰しきれなかった。  
「カラオケは?」  
「うーん、それもいいけど……」  
 なんとなく気分が乗らず、視線を彷徨わせると、その先にあったのは、  
「あ、あそこ。あそこ行こ」  
 美幸が指差したのは、派手で大きな看板を掲げた店。  
「ゲームセンター?」  
「そ。プリクラ撮ろ。せっかくの記念だし」  
 断る隙も与えず、彼女は手を取って引っ張っていく。最初は感じられた抵抗も、小さな溜息の後に  
すぐなくなる。  
 それもまた、美幸のハッピーな気持ちを盛り上げたのだった。  
 
「ほら、もっと寄ってよ」  
「ちょ、そんな……」  
「いいからいいから。ほら、いくよ」  
 3、2、1……パシャッ。  
 無理矢理に引き寄せて撮ったので、画面に浮かび上がるのは、頬を触れ合わせんばかりに近付いた  
二人の顔の写真。  
「お、いいねいいねー」  
「…………」  
 諦めたのか、何も言わずに為すがまま。その横顔をチラリと見て、美幸は悪戯心をくすぐられる。  
 3、2、1……パシャッ。  
「…………!」  
「ヘヘッ、いいの取れたねっ」  
 我ながらナイスタイミング、と呟きながら、彼女は満足そうに写真を見つめる。シャッターが切られる一瞬  
前に、振り向いて背伸びをし、相手の頬にキスをしたのだ。  
 
 決定的瞬間は、これ以上ないというぐらいにバッチリ、ハッキリと写されていた。  
 
「よしっ、これ、一生の宝物にするねっ」  
 落書きタイムを終えて、出てきたそれを二つに分けながら、美幸は幸せそうに言う。その笑顔は、不満を  
言い募ろうとした口を縫い留めるのに、十分の力があったようだ。やれやれとばかりに首を振って、  
「まったく……」  
 こっそりそうとだけ言ったのは、しかし、店内の喧騒に飲まれて彼女の耳には届かなかったのだった。  
 
「じゃあ、そろそろ行こうか」  
「ん」  
 散々、プリクラを撮り、UFOキャッチャーに挑んでいると、時間はあっと言う間に過ぎ去ってしまったようだ。  
気が付けば、もうすぐ映画が始まりそうだった。  
「カップル割引って、いくら安くしてくれるんだっけ?」  
「普段より1000円も安くしてくれるんだって。ラッキーだよね」  
 どんどんこういうイベントはして欲しいな、という美幸の台詞に、小さな苦笑が返って来る。もっとも、それが  
恥ずかしがっているからとわかっているから、彼女はさして気にしない。なんだかんだで、付き合ってくれた  
のだから。  
 本当に、今日は楽しい一日だ。美幸は、心の底からそう思う。幼馴染の、今まで知らなかった一面を、これ  
ほどに見れたのだから。  
 知ってるようで、知らなかったんだな。と、彼女はそんな風に思う。それも、もしかしたら、仕方のないこと  
なのかもしれないけれど。  
「……?」  
 自分を見上げてニコニコとしている美幸が怪訝に思えたのか、眉を顰めてくるのに対し、  
「なんでもないよ。ただ、今日はすっごくラッキーな日だな、って。そう思ってただけ」  
 そう言ってギュッ、と体を寄せる。朝に感じられた抵抗は、もう、今はなかったのだった。  
 
 そして実際に、美幸はラッキーだった。  
「おめでとうございまーす!」  
 映画館に入り、カップル入場を頼んだ瞬間に、どこからともなくマイクを持った女性が二人の前に現れた  
のだ。  
「え? え?」  
「お二人は、本日100組目のカップルでーす! 記念に、チケット代全額無料、パンフレットの進呈、ついで  
に映画の特製ストラップと、ペアマグカップを差し上げちゃいまーす!」  
 戸惑う二人に押し付けられる、品の数々。綺麗に包装されたどれにも、映画のロゴが入っている。よく見れば  
いつの間にか、テレビカメラまで用意されている。何かの番組の企画なのだろうか。  
「いやー、本当にラッキーですねー。ちなみにお二人は、お付き合いを始めてからどれぐらい経つんですか?」  
「……すごく最近なんです。で、今日が初デートなんですよー」  
 先に動揺から立ち直ったのは、美幸だった。それまでのテンションの高さのまま、ニッコリと笑って向けら  
れたマイクに答える。  
「おおっ、そうなんですかっ!? じゃあこれで、一生忘れられない記念日になったんじゃないですか?」  
「はい、ホント、嬉しくて仕方ありません」  
 グッ、と腕を抱き寄せ、溢れる笑みを逆の手で隠す。カメラは自然とそちらに向かっていた為、撮らずに  
済んだ。その隣で、苦虫を噛み潰したようにしている顔を。  
「じゃあ、そんな初々しいカップルのお二人に、セカンド・チャーンス! カメラの前で、愛を見せ付けてやって  
下さいなっ。さらに豪華なプレゼントがありますよっ」  
「愛って……例えば?」  
「そうですねー、キスとか素敵ですよね」  
「……!?」  
 
 突然の台詞に、帽子の下の目を見開いて驚く。さすがに、そんなこと出来やしない。なにせ、これまでキス  
などしたことないのだから。  
 
「あ、無理に、とは言いませんが……!?」  
 
 その言葉にホッとした瞬間。  
 
 美幸は、軽く背伸びをして。  
 唇に、唇を重ねたのだった。  
 
 呆然とする、その耳元で、彼女が囁く。  
「ヘヘッ、私達の、ファーストキスだね」  
 
「おおおおおおっ、大胆な彼女さんですねっ! いやー、彼氏さん、羨ましいっ! そんな素敵なカップルの  
お二人には、こちらのプレゼントを差し上げちゃいます! よりどり詰め合わせですよー、映画を見終わったら、  
是非、ゆっくり中を見て下さいねー」  
 
「あ、可愛い指輪。これ、あれだね。映画のヒロインが付けてたのだ。これは……ネックレスか。男物だ」  
 映画を見終えて、すっかりと日も暮れた公園のベンチで箱を開けている美幸の横で、ぐったりとする人影  
が一つ。  
「これは……って、元気ないなー。どうしたのよ?」  
「……どうもこうもない……」  
 いつものような覇気が全く感じられない声に、彼女は苦笑する。  
「そんなにショックだったの? キスが」  
「…………」  
「なんだかなー、私だってファーストキスだったんだよ。そんなに落ち込まれると、こっちも凹んじゃうよ」  
「……そういうのじゃ」  
「じゃあ、何?」  
 からかい半分にたたみかける美幸の言葉に、返ってくるのは沈黙。  
 電灯の白い光が、辺りを照らす。空を見上げても、星の明かりはまばら。けれどすっかりと満ちたまん  
丸い月が、優しい光を降らしている。  
「もう、やめよう」  
 ようやく、ポツンと口にされた言葉に、美幸は悲しみを浮かべる。  
「どうして? こんなに楽しいのに?」  
「…………」  
「私は、今日一日、ずっと楽しかったよ。ハッピーもラッキーも、こんなに重なった日なんてないと思う。  
キスだって、強制されたからしたんじゃない。したかったらしたんだもの」  
 本音を、彼女は口にする。全て、偽らざる心境だ。神に誓ってもいい。人生において、これほどまでに  
楽しかったことはない。  
 出来れば、これからも続けていきたい。そう願っている。  
「けど……無理だって」  
 そんな彼女の願いは、しかし拒絶されそうだった。寂しい予感に、胸が苦しい。自分が悪いのだと、わかっ  
ていて、それでも足掻く。  
「確かに、悪ノリし過ぎたかもしれない。それは反省する。だからさ、これで終わりなんて、言わないでよ。  
たまにでもいいからさ、皆に秘密でもいいからさ」  
 見苦しいとわかっていて、すがる。お願いだから、と。  
 それでも首は横に振られるのだ。  
「気が向いた時でも、いいからさ」  
 最後の一言も、効果はない。ゆっくりと顔をあげたその瞳に、激しい拒絶が見える。  
「無理だって……やっぱり」  
「どうしても?」  
「……うん」  
 言いながら、ベンチから立ち上がるその姿を、美幸は物悲しい目で追った。ハッピーでラッキーな一日は、  
終ったことを肌で感じながら。  
 そんな彼女の想いに構わず、言の葉は解き放たれる。  
 
「彼氏役なんて、もう絶対、やらないからね」  
 
 そう言った忍の声音には、滅多に見せない激しい怒りが交っていた。  
 
 話は、その日の朝にさかのぼる。  
「おはよ、美幸。どうしたの? 朝から家に来るなんて、珍しい」  
「お誘いだよん。ね、忍、映画でも見に行かない? この映画なんだけど」  
「ん? ああ、これ。私も見たかったんだ……でも、パス」  
「どうかしたの? なんか予定あるとか?」  
「いや、ちょっと金欠。今月、本にお金を使い過ぎちゃったし」  
「ほほう、それは好都合」  
「……好都合って?」  
「これ、ここを見てみたまえ」  
「……カップル割引……?……何、考えてる?」  
「いやん、そんな胸倉掴まないでよ……まぁ、忍の考えてる通りのことなんだけどねー」  
 
 
「あそこできっぱりと断っておけば……!!」  
 悔やんでも悔やみきれない、とばかりに拳を固める忍に、美幸はコロコロと明るく笑う。  
「アハハ、でも良かったじゃない。映画も無料で見れたし、色々ともらえたし」  
「……映画の記憶なんて、全然ないんだけど」  
「え!? なんで!?」  
「自分の胸に聞いて……」  
 ガクリとうなだれて、彼女は自分の服装を見る。確かに体のラインが現われない服を着て、帽子で顔を  
あまり見せないようにしてはいた。とはいえ、レポーターの女性に全く疑いもされなかったというのは……  
「胸、ねぇ」  
 言いながら、ふくよかに育った胸を触る美幸の姿に、  
「なんかムカツク」  
 殺意すらこもった視線を向ける。アハハ、とさすがに気まずそうに笑ってから、  
「まぁまぁ。それに、キスって言っても、女同士のキスなんてカウントに入らないよ」  
「そりゃそうだとは思うけど」  
 フォローになってないフォローだったが、忍は渋々怒りを抑える。押し切られたからとはいえ、悪ノリを  
した自分にも非はあると感じたから。  
「今日のことが夢だったらいいのに」  
 それでもボヤくことぐらいは許してもらいたい、と思う。悪夢、という言葉は辛うじて飲み込んだが。  
「ま、滅多にない経験、ってことで」  
「くどいようだけど、もう絶対、二度とやらないからね」  
 
「でも、さ」  
 上に着ていたものを脱いで、タンクトップ姿になった忍は、帰り道の途中でふと、美幸に問いかける。  
「カップルってだけなら、正宗に頼めばいいのに」  
「まぁね。でも忍、いつか、あの映画を見たい、って言ってたでしょ? だからだよ」  
 言われてみると、確かに思い当たる節はあった。だがそれは、いつのことだったか思い出せないほど  
前で、しかもなんでもない話の流れでだったはずだ。  
 よく覚えててくれてたな。驚きながら、彼女は隣に並ぶ幼馴染の横顔を見つめる。いつも人のことを  
思っている、優しい少女なのだということに、改めて気付く。もっとも今回は、悪ノリがひどかったけれど。  
「それに、彩夏辺りに知られたら、またうるさそうだし」  
「彩夏が?」  
「うん。なんか、幼馴染モノの恋愛マンガをいっぱい勧められてね。忍は押し付けられたりしないの?」  
 
 素朴な疑問のつもりなのだろう。何気ない言葉に、しかし忍は黙ってしまう。  
 押し付けられたことなど、なかった。かわりに思い出すのは、時に彼女がこちらに向けてくる、探る  
ような視線。それは大抵、忍が正宗の姿を無意識に眺めていた直後に感じたものだった。  
 意味があるのか、どうか。わからなかったけれど、時々、不安に思うことがあったことは否定出来ない。  
 
「多分、私が恋愛とかしなさそうにないからじゃない」  
 疑惑を打ち払いながら、適当なことを言ってとぼける。きっと考えすぎと、自分に言い聞かせながら。  
「えー、そんなの差別だよ。私なんて、いい加減にしてー、って言うぐらいに読まされてるのに」  
 むぅっ、と唇を尖らせる美幸の横顔を、彼女は複雑に眺める。  
 
 
 蘇るのは記憶。ほんの数年前のこと。  
 そこにいるのは、美幸と正宗。いないのは、私。それを見ていた私。  
 当時は何でもないことと思ったのに、今は胸を苦しませる。  
 
 
「今度、彩夏に言っておくね。忍にも読ませてあげて、って」  
「それ、単に面倒を私に押し付けてるだけじゃない?」  
 心の奥に広がり始めた黒雲を、強引に打ち払う。考えても仕方のないことだから。自分にはどうしよう  
もないことだから。  
 このままでいい。このままが楽しい。バカなことを考えてたり、凹まされたりもするけれど、美幸のこと  
は大切だから。キスをされたって構わないほどに。  
 だから、このままでいい。  
 このまま、三人がいい。  
 忍はそう思った。  
 
 
 後日。  
「正宗、これあげる」  
「ん? どうしたんだ、これ」  
「聞かないで」  
「お、おう……」  
 美幸に押し付けられた、プレゼントでもらった男物のネックレスは、結局、忍から正宗へと渡り。  
「忍、こういうの、好きなんだって? 水臭いなぁ、言ってくれれば良かったのに」  
「……美幸のやつ……」  
 嬉々としてマンガを持ってきた彩夏に、忍は頭を抱えることになったのだった。  
 

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