出会いが動かす。三人の関係を変えていく。  
 
 
 
  06 : Lonely  
 
 
 
 図書室の窓から差し込む夕暮れの光に、浮かび上がるのは少女の横顔。机の上に開いた本から  
視線を上げて、忍は時計に目を向けた。  
 もうこんな時間か。思って、椅子から立ち上がる。太陽はまだ、遠くの地平に底を微かに触れさせて  
いるだけ。それでも、学校に残っていると怒られそうな時間にはなっていた。  
 もう少し、読み進めておきたかったけれど。そんなことを考えながら、借りるかどうしようかと少し迷って、  
やはり本棚に戻しておくことにする。もう少しで読み終えるから、また明日、来ればいいと思って。  
 窓際を通った時、ふと、校門へと視線を向ける。そして忍は、ピタリと動きを止めた。  
 遠い視線の先、並んで歩く二つの背中。それはよく見慣れた親友達。  
 立花美幸と、九条正宗。どんなに距離があっても、見間違える筈がない。そう自信を持って言える二人。  
 瑞々しいまでの緑が繁る、校門へと続く並木道を歩む彼らは、きっと笑顔だ。遠すぎてそこまでわかる  
はずもないのに、何故か彼女はそう確信していた。  
 それでも、忍が硬直していたのはほんの一瞬のことだった。すぐに窓から目をそらし、座っていた席に  
戻る。そして鞄を手に取って、図書室を出た。  
 その歩みは、しかし遅いものだ。まるで二人に追いつくことを、恐れているかのように。  
 
 考えてみれば、と、忍は物思いに捉われる。  
 いつもあの二人の背中を見てきたな。  
 想いが彼女の心に絡み付いて、記憶の海へと引きずり込んでいく。  
 次から次へと、少年と少女の思い出が蘇る。一つを手繰れば、そこからまた別のものがつられて。  
 幼稚園と小学校、そして高校の一年とちょっと。それだけでも、こんなにあるのかと忍自身が驚くほどに、  
正宗と美幸に関わる記憶は多い。幼馴染だから、当然と言えば当然なのだろうが。  
 だけど、その全てが均質な価値を持っているわけではない。  
 何故なら、思い出の中の正宗、美幸の容姿が少しずつ成長していくように、忍自身も変わってしまった  
から。  
 例えば、高校生になってからの記憶の中で、正宗はとても輝いて見える。理由は簡単だ。  
 恋を、したから。  
 
 だがどんなささやかな思い出の中でも、正宗の横にはいつも美幸がいるように忍は思う。  
 きっとただの勘違い、あるいは思い込みで、実際にはそんなはずはないのだけれど、何故か。  
 何故か彼女は、正宗と美幸、二人の背中を見続けてきたような気がするのだ。  
 
 ……ギターの音が響いていた。  
 図書室のある三階から、玄関へと向かう途中の階段。  
 微かに聞こえてきたアルペジオの音色に惹かれて、忍は足を二階の廊下へと向けた。  
 何か有名な映画に使われていた曲だったな。タイトルを思い出そうとするが、全く思いつかず、すぐに  
彼女は考えるのを止める。  
 切なく、物悲しい。それは決して不快なものではないのだけど、風に乗る調べは儚く壊れやすそうな  
ものに彼女は感じて。  
 そうして忍が導かれたのは、三年生の教室の前だった。ギターは、この中から聞こえてくる。  
 そっと廊下から教室の中を覗き込んだ彼女は、軽い驚きを顔に浮かべた。音が途切れるのを待って、  
そっと扉を開け、中にいた少女の名前を呼ぶ。  
「彩夏」  
「……忍?」  
 意表をつかれたのだろう、彼女以上にビックリした顔を見せた後、呼ばれた少女は照れ臭そうに笑った。  
「聞こえてた?」  
「ん。だから来たんだし……でも意外」  
 僅かに逡巡してから、忍は彩夏の隣の席に向かい、椅子を引いて腰を下ろした。  
「意外って?」  
「ギターが弾けるってことと、三年の教室にいること」  
 彼女の言葉に、彩夏は小さく苦笑して答えず、再びギターを爪弾き始める。無理に問い詰めることも  
せず、忍はただ耳を傾けた。  
 同じ曲、同じメロディ。だが今度のそれは、どこか優しい。そう感じながら、ふと横目で見やった少女の  
顔には、哀愁とも懐古の情とも言える表情が浮かんでいた。  
 
 流れる時を、忍は肌に感じる。緩やかに、緩やかに。  
 目を閉じて、彼女は揺蕩う。しばしの間だけでも、音と一つになりたいと願ったから。  
 
「元カレに、教えてもらったんだ」  
 手を止めて、彩夏が唐突に言う。半ば以上も思いに沈んでいた忍は、何も言葉に出来ず、彼女の方へ  
と視線を移した。  
「ギターも、この曲も」  
「……そっか」  
 彩夏の睫毛に、夕の日が絡む。少し俯いた彼女の表情から、忍は全てを見透かすことは出来なかった。  
どこか苦くて、けれども甘い、まるでマーマレードのような笑みを浮かべていること以外には、何も。  
「付き合ってた人、いたんだ」  
「ん」  
 沈黙が不自然に感じられて、問う忍に対して、彼女はわずかな逡巡を垣間見せる。やがて、窓の外へと  
目を向けた彩夏。それを追う、忍の視線。  
「一年生の時、ほんの半年ぐらいかな。好きになって、告白して……耐えられなくて、別れた」  
「耐えられない?」  
「居場所がなかったんだよ。アイツの心の中に、私の」  
 責める言葉なのに、憎しみはない。ただ過ぎ去った時を懐かしむような声音に、忍はわずかに惑う。  
「嫌いになったとかじゃなくて?」  
「なれてたら良かったのにね。アイツは、最初っから最後まで、変わらなかったよ」  
 それが悔しいかな。言って笑う彩夏の、その先を忍は感じ取る。  
 だけど……だから、好きになったのだ、と。  
 
 ポツリ、ポツリと、彩夏は思い出を紡ぐ。  
 一つ上の先輩だったこと。中学が一緒だったこと。だけど、高校に入るまでは知らなかったこと。  
 同じバスケ部にいたこと。ハッキリとした性格で、物怖じすることなく、例え先輩にでも間違っていれば  
間違っていると言える。そんな芯の強さに少しずつ惹かれていったこと。  
 告白をしたこと。付き合ったこと。  
 うまく、いかなかったこと。  
「求めても応えてくれる奴じゃなかったね。そういう奴だってわかってて好きになったんだけど」  
 時に、軽くギターの絃を爪弾く指と、その言葉が、やけに忍の心に印象強く刻まれた。  
 
「なんか疲れてね。付き合ってない方が楽しくいられるって思ったから、別れることにしたんだ」  
 結局、最初から最後まで、私だけが悩んでた感じだよ。おどけるその様に、悲愴はない。結果を悔いて  
いないのだと、それだけで忍にもわかる。  
「すごいね」  
 だから感想を、そのまま口にする。急に彼女が大人びて見えた。二人の位置は変わらないのに、今は  
とても彩夏が遠く思える。  
「別にすごくないよ」  
「すごいと思うよ。なんか意外だし。そんな風に見えなかったから」  
「隠してたからじゃない? ほとんど誰にも言ってないし。美幸にだって、言わなかったから」  
 その台詞に、少し忍は驚く。彼女の目から見ても、二人はいつも仲が良く、一緒にいるように見えたから。  
とはいえ、美幸も彼女に、恋の話をしていなかったから、お互い様と言えるのかもしれないが。  
「……どうして私に?」  
「そうだね……聞いてみたかったからかな」  
「何を?」  
「正宗のこと、どう想ってるか」  
 彩夏の口から出た言葉に、忍は眉を顰める。  
「それ、今、思いついたでしょ?」  
「当たり」  
 言って、明るく彼女は笑った。  
「話したことに意味はないよ。なんとなく、そんな気分になった、ってだけ。でも、せっかくだから聞いて  
みたいな、って思った。私が話したから、話してくれるかなって」  
「そういう言い方、ずるいと思う」  
「別に、話したくなきゃ話さなくてもいいけどね」  
「それもずるい」  
 忍の渋面に、クスクスと笑いながら、彩夏はギターを机の上に置いて、腕を組む。その視線は、探るでも  
なく、興味本位でもない。ただ純粋に、知りたいだけだと気付く。  
 
 夕の静けさと、彩夏が明かした秘密が、忍の心の扉を開く。  
 
「好きだよ」  
 素直に口にした想い。だが彩夏が笑む前に、厳しい口調で付け足す。  
「でも、彩夏が望んでるのとは違うと思う」  
「へぇ?」  
 首をかしげる彼女に、忍はわずかに胸を張り、真っ直ぐに目を見つめながら言った。  
 
「幼馴染だったから好きになったんじゃない。好きになった人が、たまたま幼馴染だっただけ」  
 
 それはずっと、彼女が思っていたことだった。  
 
 
 中学の三年間を、忍は正宗と離れて過ごしていた。その間に、彼のことを思い出すことは、数えるほどに  
しかなかったように思う。  
 だから高校に入り、彼と再び同じ時を過ごすようになった時、正宗のことがまるで知らない男性のように  
感じられた。  
 やがて、想いが忍の胸に宿った。それは幼馴染だったから生まれたものではないと、彼女は信じている。  
 
 
「そういうもの?」  
「そういうもの」  
 問いかけのための語尾の上がりを無くした同じ音で、忍は彩夏に返す。  
「言うまでもないけど、秘密だからね」  
「わかってる。でも、言わないわけ?」  
「……気が向いたらね」  
 浮かべた苦笑に、何かを感じたのか、彩夏はふぅん、と頷いただけだった。そして、机に置かれたギター  
の絃を一本、軽く弾く。  
 生まれた音色は、やがて空に飲まれていく。  
 
「おいこら。なにやってんだ」  
 
 その余韻を破ったのは、急に開かれた扉のガラガラという音と、呆れと怒りの交った少年の声だった。  
「勝手に人のギター使いやがって」  
「いいじゃん、別に。減るもんじゃないし」  
 一瞬、慌てたのは忍だけで、彩夏は小さく笑いながらもう一度、絃を弾く。  
「だからって、人のロッカーを開けていいってことにはならんだろ」  
「はいはい、ごめんなさいって」  
 近寄ってきた彼に向かって、彩夏は肩をすくめる。ったく、とだけ言う少年の顔から、怒ってるのは表面  
だけで、決して本気ではないことを忍は見て取った。  
「忍、忍」  
「ん?」  
「こいつが、さっき話してた奴だよ」  
 彼女が男を親指で指差すのに、忍は一瞬、硬直する。  
 さっきまで彩夏が話してた奴、と言えば、それはたった一人のことを指す。  
 これが彩夏の元カレ?  
 思わず、マジマジと忍は初対面の人の顔を見つめてしまう。  
 目付きは鋭い方、というよりは、悪い方だ。そこに宿る光も、どこか厳しいもの。背はさして高くはない  
のに、漂う雰囲気のせいか、見た目より大きく思える。そんな、パッと見、怖そうな外見なのに、近寄り  
がたいとは感じられなかった。多分それは、彩夏の話を聞いていたからだろうけれど。  
 
「話してた? どうせ悪口だろ」  
「それは内緒」  
 うんざりしたような口調の少年の肩を、楽しそうに答えながら軽く叩く彩夏。  
 そんな二人が以前は恋人同士だったとは、にわかには忍には信じられなかった。  
 だが、すぐに気付く。  
 きっと、彩夏にはこの距離が一番、心地良いのだと。  
 近過ぎず、遠過ぎず。程よい距離。それは体だけでなく、心も。  
 
 思わず忍は、自分を重ねてしまう。  
 正宗へと近付かず、さりとて去ることも出来ず。  
 心地良い距離を保っている、自分。  
 美幸という少女を交えているだけ、複雑なのかもしれないけれど。  
 
「ああ、言い忘れてた。コイツ、アタシの先輩で、吉川亮太って言うんだ」  
「お前は人の名前も出さずに、噂してたのか」  
 呆れ交じりの声を軽やかに聞き流し、今度は亮太と呼ばれた少年に向き直り、  
「で、この子は私のクラスメイトの塩崎忍。二年になってから仲良くなった子」  
「どうも」  
 微妙に困惑しながら、ゆっくりと頭を下げた彼女は、気付かなかった。彼が彼女の名前を聞いた時に、  
一瞬、怪訝そうな表情を浮かべたことを。  
 
「とりあえず、お前ら、もう遅いんだから帰れよ。彩夏はバスケ部休みだったのに、こんな時間まで残って  
やがって」  
「っていうか、そっちこそこんな時間まで何やってたわけ? 彼女、待ってるんじゃないの?」  
 自然に出てきた言葉を聞き流しそうになる。  
 彼女? それって恋人のこと? 忍の向けてくる視線に気付いたのか、悪戯っぽく彩夏は頷いた。  
 なんとなく、深く考えることが出来ず、少女は口を閉ざし沈黙を守ることしか出来ない。  
「アイツなら先に帰らしたよ。待っててもしょうがないからって」  
 亮太の言葉に対して、可哀想、と彩夏が言いかけて飲み込んだのを、忍は見て取る。きっと、同じような  
ことがあったんだろうな、と想像するだけ。  
 彼女は、前言を撤回することにした。こちらもこちらで、複雑なようだ。  
 
「それじゃ。またギター、触らせてね」  
「わかった、わかったから、とっとと帰りやがれ」  
 しっし、と追い払う亮太の耳に笑い声を残し、彩夏は教室を出て行く。最後に軽く頭を下げてきた忍に、  
鷹揚に頷いてから、彼はギターを片付けて、帰る準備を始めた。  
「……ああ」  
 そうして机の中から読みかけの本を取り出した時に、ようやく亮太は思い出す。高校の図書室から借りて  
きた本の最後に、借りた人間の名前を書く欄があるのだが、そこに書いてあったのだ。  
 塩崎忍、と。  
 それを一度ならず、何度も目にしていたから、聞いた時に覚えがあるように感じたのだ。  
 気付いてみりゃ、なんてことないな。  
 声に出さず、そう呟いて、彼は少女の名前が書かれたページを閉じた。  
 
 
 出会いが動かす。三人の関係を変えていく。  
 それは糸。少年と少女達に絡み、新しい模様を紡ぎだす糸。  
 そのことに気付く者は、誰もいなかったのだけれど。  
 

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