未来の形なんて、まだ見えてこない。
07:Walk This Way
「はぁぁぁぁ」
椅子に座ると同時に大きな溜息をついた美幸は、そのままテーブルの上に突っ伏して全身で疲れを
表した。
「どうしたんだ、急に」
彼女の突然の行動に、さっと自分のコーヒーをソーサーごと持ち上げた正宗は、小さく苦笑しながら
問い質す。それに、んー、としばらく呻いて答えてから、ようやく美幸は体を起こした。
「ちょっとさ、ヤなことがあって」
「それはわかるが」
でなければ、待ち合わせの場所に遅れて現れて、唐突にうなだれたりはしないだろう。ここが馴染みの
喫茶店、コールド・ストーンでなければ、店員から奇異の目で見られていたに違いない。いや、彼女の
ことをよく知っているバイトの女性でさえ、美幸の行動には溜息と苦笑を浮かべていたが。
「……って、あれ? 忍は?」
「いつもの病気だよ」
カップを口元に運びながらの彼の言葉に、美幸は、ああ、と頷く。
「本の虫?」
「図書室で見つけた本が、随分とお気に入りらしくてな」
「じゃあ、しょうがないね」
彼女は諦めと苦笑の入り混じった表情で、肩をすくめる。正宗は、少女をチラリと眺めて、まったくな、
と呟いた。
本の虫、というのは、幼馴染の忍の行動に二人が付けた名前だ。
読書好きで、放課後に図書室に入り浸っている彼女は、気に入った本や、続きが気になって仕方ない
本に出くわすと、それ以外のことが目に入らなくなる。文字通り、本を手放せなくなるのだ。学校の休み
時間は勿論、昼休みも食事そっちのけだし、下校途中も歩きながら読み続けている。恐らく、帰ってから
もずっと読み続けているのだろう。授業中はさすがに控えているが、完全に上の空状態になっているら
しく、指名されても問題に答えられず、教師に呆れられたことが何度かあった。
歯医者に行って順番を待っていたのに、自分の名前が呼ばれたことにも気付かず読み続け、結局、
治療を受けることなく帰ってきたこともあるという。
実際、彼女がその状態になると、正宗や美幸といった仲の良い友人の声も遠くなるようで、何度も呼び
かけてようやく気付いてもらえる程だった。それも本当に、しょうがなく顔をあげる程度。
もっとも、そんな本に出くわすことはそうそうあるわけではなく、三ヶ月に一回、あるかないか、という
程度だ。だが、その時の集中力の高さを、二人はすごいことだと思っているし、尊敬もしていた。
ただ、一つ難点があった。
その本を読み終えた後、忍は周囲にその本を勧めまくるのだ。
普段、口数の少ない彼女が、一生懸命になって、その本の良さと自分が感じた感動を伝えようとたく
さんの言葉を費やす姿は、二人とも感じ入るものがないではなかった。
しかし彼女のお勧めの本は、読書と言えばマンガぐらいしかない美幸や、読む本の嗜好が偏っている
正宗にとっては、それほど食指が動く内容でないことの方が多かった。為に、どんなに勧められても読む
ことはほとんどない。もうこれは、趣味の違いとしか言い様がないのだけれど。
最近ではさすがに、自分と二人が求めているものが異なることがわかってきたのか、忍も強いて勧め
たりはしなくなってきた。残念そうな彼女の姿に罪悪感を覚えつつも、二人は内心、ホッとしてもいたの
だった。
「それじゃ、今日は来ないかな、忍は」
「だろうな。あいつがいないと出来ない話か?」
彼の問いかけに、ううん、と美幸は首を横に振る。
「大したことじゃないんだけどね。今日、サノセンに呼ばれてさ」
「佐野先生? 現国の?」
そう、と頷いた彼女の前に、アップルジュースが置かれる。どうも、と頭を下げる正宗にニッコリと笑って、
その馴染みのウェイトレスは元いた場所、二人のいるテーブルからさほど遠くない所に戻っていく。チラリ
とそれを見てから、美幸はストローくわえてジュースを一口、飲む。
「なんで呼ばれたんだよ?」
「んー、まぁ、大したことじゃないんだけどさ」
テストの点数が悪くてさ、と声を潜めて美幸は言う。なるほどな、と頷きながら、正宗はジッと彼女を見つ
める。
流れるBGMはジャズの音。サックスの力強い響きとは裏腹に、目の前の少女の吐く息は、重い。
「で、しぼられた、ってわけか?」
「それもあるけど、他にも色々とね」
また一つ、重い溜息を吐いてから、美幸はゆっくりと語りだした。
「どうして呼ばれたか、わかってるかしら」
「はぁ、まぁ。なんとなく」
椅子に座るよう促され、腰を下ろした途端の質問に、美幸はあまり気のない返事で答えた。目の前の
若い女性――現国の教師、佐野玲子――は、それに不満を抱いたのか、一瞬、眼鏡の向こうの瞳を
軽く吊り上げたが、グッと怒りを飲み込んで手元のテストを彼女に差し出してくる。
「昨日やった小テストのことだけど」
ざっと目を通すが、実はそんな必要もなかった。そこにあるのは、自分の白紙の解答用紙なのだから。
当然、丸があるわけがなく、バツばかりが並んでいる。
「どうして何も書かなかったのかしら?」
「わからなかったからですけど」
至極、真っ当な答えだと美幸は思う。わからない。だから書けない。その結果、白紙になったというだけ
のこと。
だが佐野には、それが理解出来なかったらしい。パンツスーツの足を組み替えて、身を乗り出してくる。
「漢字が読めないのならわかるけれど、これ。この問題」
赤ペンで彼女は、トントンと解答用紙の一部分を指し示す。大きなカッコがあり、その横にはこう書いて
あった。
『傍線の部分の文章を読んで、主人公がどのように感じたかを答えよ』
「この問題もわからなかったの?」
「はい」
率直に答える。恥じることなど、何もない。だから、美幸は佐野の顔を、目を、ジッと見つめた。
「……そう」
ギシッ、と音を立てて背もたれに体重をかけた彼女は、何を言うべきかを迷うかのように、眉間に皺を
寄せていた。
放課後の教官室に、珍しく他の教師の姿はない。外から聞こえてくるのは、部活動に励む生徒達の声。
だがこの部屋の中は、張り詰めた、重い空気が漂っている。もっともそれは、教師である彼女が一方的に
作り出したもので、少女は多少の居心地の悪さを感じている程度だけれど。
悩む佐野の姿をボンヤリと見ていた美幸は、ふと思い出す。彼女は確か、自分たちと一緒にこの高校に、
新任教師として入ってきたのだ、ということを。
まだ若くて年の近い女教師の存在に、生徒達、特に男子生徒は盛り上がったものの、それは一過性の
波に過ぎなかった。佐野が極めて真面目で、厳格な女性だとすぐにわかったからだ。面白味のない退屈
な授業に、生徒からの人気は下がる一方だった。それでも、一部の男子の間では、その厳しさがいいと
いう声もあがっていたのだけれど。
こうして間近でじっくり眺めていて、美幸もなんとなくそれはわかる気がした。眼鏡の下の目は鋭く、きつい
ものだし、化粧っ気も薄いものの、よく見ればそこそこ美人なのだな、と。もっとも、普段の言動や真一文字
に結んだ口が、それを台無しにしてしまっているのだけれど。
「私の授業は聞いてなかったのかしら?」
「聞いてたような、そうでないような……」
もったいないなぁ、等と考えている最中に声をかけられたせいで、思わず本音で答えてしまう。言ってから、
しまったと思う美幸だったが、彼女は眉を軽く跳ね上げただけだった。
「立花さんは、理系志望だったかしら」
「はぁ」
急に質問のベクトルが変わって、美幸は戸惑うが、それに構わず佐野は続ける。
「だったら、現国なんて必要ないのかしらね」
その言葉はどこか、心に絡んでくるような、粘りのあるもので。
咄嗟の一言に詰まる少女だったが、やはり彼女は構わず、手元の答案用紙を眺めている。
「でも、入試で必要になるかもしれないんだから、せめて解答は埋めるようにしてちょうだい。点数が入る
かもしれないんだから」
厳しいながらも、どこか諦めたような声に、先ほど感じたような不快感はなく、美幸は釈然としないなが
らも、はい、と頷く。
そのまま佐野を見つめるが、彼女の表情は凍りついたように変わらず、何を思っているのか、はっきり
とは読めなかった。ただ、忍や正宗の無表情とは違い、明らかに外界と自分とを遮断しているのだという
ことだけは、おぼろげに理解出来た。
「次から気を付けてちょうだい。行っていいわよ」
「はい、それじゃ失礼します」
何だったのだろう、思いながら立ち上がった瞬間。
一瞬、美幸はゾクッとする。
「そういえば、立花さん、随分と男の子達と仲が良いみたいね」
何気ない風を装って、しかし、確かにその言葉は少女の心臓を掴んで絞る。
自分が感じた寒気が何だったのか、佐野の台詞の前と後、どちらだったのか。それすらもわからぬまま、
彼女は固まってしまう。
「良いかもしれないですけど、何か?」
知らず強張る声を何とか搾り出すが、振り返る気にはなれなかった。
否。
佐野の漏らしたたった一言、そこには毒が含まれていたに違いない。足が縫いとめられたかのように、
動かなくなってしまったから。
「別に。ただ、その時間をちょっとでも勉強に回して欲しい、と思っただけ」
佐野が、背の向こうで肩をすくめたのが、気配でわかった。スッと解ける緊張、だが背筋に残った嫌な汗
が、今、起きたことが本当にあったことなのだと知らしめる。
「月並みだけど、楽しむのは自由よ。けれど、やることはやって頂戴」
「はい。気をつけます」
そのやり取りを残して、美幸は逃げるように教官室を飛び出した。
外の空気を思いっきり吸い込むと、カラカラに乾いた喉が少し痛かった。気だるい夏の湿気がシャツに
まとわりついてきて、その不快さに彼女は思いっきり、顰め面をしたのだった。
「それで、疲れた顔、してたのか」
「うん。けどまぁ、話してたら随分と落ち着いてきたけど」
美幸の言葉に、正宗は怪訝な顔をしながら、そうなのか、と頷く。
ストローをくわえながら、彼女は目の前の幼馴染の顔をジッと見つめた。その視線に応えるように、
彼も見つめ返してくる。
話して落ち着いたのは、本当のことだ。胸の中でモヤモヤと溜まっていた、怒りにもやるせなさにも
似ている感情を吐き出すことが出来たのだから。もっとも、それを受け止めてくれる人がいなければ、
ここまでサッパリと出来なかっただろうということを、彼女は理解していた。
「だいたいさ、男の子と仲良くしてるだけで、悪いことしてるわけじゃないし」
「そうだな」
「勉強はまぁ、好きじゃないけれど。でもわかんないものはわかんないし」
「確かに」
「まぁ私も反省しなきゃいけないかもしんないけどさ、それとこれとは別ってもんだよね」
「ああ」
「だからこれからも、男友達とは仲良くしてくよ、私」
「いいんじゃないか?」
「私、間違ってないよね?」
「間違ってないと思うぜ、俺はな」
マシンガンのように放たれる自分の言葉、その全てを正宗は受け止めてくれている。
美幸は、思う。
彼がいてくれて、良かったと。
だから、告げる。
感謝の気持ちを。
「ありがと、正宗」
「どういたしまして」
「そういえば」
一通り、佐野を始めとした教師達の悪口に花を咲かせた後、ふと思い出したように正宗は疑問を
口にした。
「今日、ここで集まろうっていうのは、何か理由があったんじゃないのか? サノセンのこと以外に」
「ああ、うん。実は、正宗に協力して欲しいことがあってさ」
「協力……? って、もしかして」
不自然にニコヤカな彼女の表情に何かを感じたのか、正宗はわずかに身を引いた。
「多分、当たり。恋のお手伝い、ってやつ」
「またか……」
深い、深い溜息を付く。
恋のお手伝い。文字通りの意味だ。美幸の男友達の恋愛をバックアップする、というもの。これまで
にも何度か、彼女に頼まれて協力したことがあるのだが。
「ダメかな?」
「駄目ってことはないが」
普段の正宗ならば、美幸の願いを断ることなどない。決して、と言っていいだろう。
にも関わらず、今の彼は、気が進まなかった。なんとなれば、理由は一つ。
彼女が応援するのが、彼女が好きになった男だからだ。
勿論、その男が恋しているのは、美幸ではない。彼女はただ、女友達として相談を受け、協力を
約束しただけだ。
「……いいのか?」
「何が?」
あっけらかんと答えられて、逆に正宗は言葉に詰まる。そんな表情をされては、聞くことがいけ
ないことのように思えてしまうから。
「好きな男の恋の手伝いなんてして、アンタはそれで満足なのか、ってことよ」
救いの手は、意外なところから訪れた。正宗の空になったコーヒーカップにお代わりを注ぎながら
そう言ったのは、先ほどから話を聞いていたらしいウェイトレスだった。
「姉さん、盗み聞きしてた?」
「アンタの声が大きすぎるのよ」
美幸の非難を意に介さず、彼女の七つ年上の姉であり、この店のウェイトレスをしている由梨は、
そのままテーブルの脇に立って動かない。
「ほら、答えなさいって」
「もう、仕事しろっての」
ぶつくさと言いながらも、妹は決して嫌な顔をしていない。なんだかんだで、仲の良い姉妹なのだ。
昔から変わらない光景に、正宗は何となく、安心する。
「好きな人が幸せなら、それで満足! これでいい?」
ツンと澄ました顔をする美幸に、だってさ、と由梨は彼に振ってくる。
「まぁいいけどな」
「じゃ、協力してくれるってこと?」
「わかったよ」
渋々といった正宗の言葉に、美幸は満面の笑みを浮かべて言う。
「ありがと、正宗」
「……どういたしまして」
「妹が迷惑かけるね」
トイレに行ってくる、と美幸が席を立つと、由梨は笑いながら彼にそう言ってきた。
「別に、構わないっすけどね」
苦笑と共に返す他、正宗はなかった。何より、どうしたって彼は、美幸の頼みを断れないのだ。
これはもう、しょうがないことだ。
「あの子はまだ、本当の恋愛を知らないね」
正宗のそんな思いをよそに、由梨はポツリと何気なく、そう言った。正宗は、コーヒーカップを
ソーサーに置いて、テーブルの脇に立つ彼女を見上げる。
「そういうものっすか」
「そういうもんよ。だてに学生結婚してるわけじゃないって」
無駄に胸を張る彼女の姿は、彼には少し眩しく思えた。大学四年の時に入籍した彼女は、二十四歳
の今、立派な人妻なのだから。
「でもアイツ、本気で好きになってると思いますよ」
「それもわかるわ。けど、本気で恋はしてないと思うよ」
謎めいた言葉に、正宗は首をかしげる。肌では理解出来ている気がするのだが、実際はどうなのか、
心もとなかったのだ。
ただ、思うのは一つ。
もしも美幸が恋をするのならば、その相手が自分であって欲しいということ。
同じ頃。
「彼女が絶望から立ち直るとこ、あったじゃないですか。あそこですごく、胸が締め付けられて、泣いちゃい
そうになって」
「あそこは良かったよな。その後、何度、打ちのめされそうになっても、あのシーンの想いを大事にして立ち
上がるって意味でも」
「そうそう、そうですよね。吉川先輩、結構、読み込んでるんですね」
「ま、な。三回ぐらいは読み返したか」
夕暮れの光差す高校の図書室に。
夢中で話し込む塩崎忍と、吉川亮太の姿があった。