同じ価値観を持つ人に、出会えることの幸せ。
08:Changing Seasons
本を閉じて、一つ、ほぅ、と溜息。噛み締めるは物語。そこに描かれた人々の想いと心が、全身に染み
渡るのを感じながら、忍はもう一度、最初のページを開く。
なんて優しい物語。忍は一つ一つの文字を大切に、慈しむように目で追う。
この本に出会えて良かった。しみじみと幸せを噛み締めながら、忍は、読み終えたばかりの小説を、
もう一度、愛し始めるのだった。
時を忘れて。
そしてふと思う。
この本を、あの人は知っているのだろうか?
もしも知らないのならば、知って欲しい。
世界にはまだ、こんなにも素敵な本があるということを。
あの人とは正宗のこと、ではなかった。
忍が思い描いたのは、一つ年上の少年の姿。つい最近に初めて出会ったばかりとは思えない程、
彼女に近しくなった人。
そもそものきっかけも、やはり本を通してだった。場所が図書室というのも、出来すぎといえばそうだが、
ある意味、当然のことなのかもしれない。
「……あ」
いつものように放課後を本を読んで過ごそうと向かった図書室、その入り口。扉を開けようとして、廊下
の向こうから歩いてくる彼の姿に気付いて、忍は思わず小さく声を漏らした。
「おう」
「どうも」
軽く片手を上げてくる吉川亮太に、彼女は小さく目礼する。近付いてきた彼は、その顔に小さな笑みを
浮かべている。
「やっぱり図書室か?」
「そうですけど……やっぱりって?」
先日、知り合ったばかりの筈なのに、まるで旧知かのような亮太の言葉に、忍は軽く目を見開いて
怪訝な顔つきになった。
「黒後家蜘蛛の会」
返って来た答えに、一瞬、キョトンとした後、それが彼女がつい先日に読んだ本の名前だと気付く。
「前にここで借りて読んだろ?」
「え、あ、はい」
「貸し出しカードに名前があったからな。何となく、覚えてた」
それだけじゃないぜ、と小さく笑いながら、彼は続けて幾つかの本の名前を挙げた。どれもこれも、
忍がここで借りて読んだことのあるものばかりで、さすがに息を飲む。
「よく見つけましたね」
驚きに目を丸くしながら言うと、亮太は小さく肩をすくめて、たまたまさ、と呟く。
「けど、たまたまにしたって、こうも自分と同じ本を読んでるとなると、少しは気になるもんだ」
言った後、小さな苦笑交じりに続ける。
「それも、マイナーであんまり知られてない本ばかりだから、余計にな」
彼の言葉に、思わず、忍も吹き出してしまった。
確かに彼女が借りる本は、どうしてこの本が図書室にあるのだろう、というようなものが多い。あまり
知られていない作家のものや、あるいは有名な作家が書いた無名のシリーズものなどだ。
元々、それほど本が好きな生徒が少ない学校なのか、忍の前に借りられたのは、五年や十年も
前という本も多い。確かに、それだけマイナーな本を借りようとした時、つい最近、同じように借りた
人がいたのならば、その名前を覚えていてもおかしくないかもしれない。
「吉川先輩も、マイナー好きですか」
「マイナーだから好きってわけじゃなくて、好きな本がたまたまマイナーなだけだ」
並んで席に座りながらの忍の言葉に、亮太は軽く目を吊り上げながら反論する。が、それは決して、
不快に思っているからではなく、むしろ楽しげに彼女には見えた。
「じゃあ、あの本とか読みました?」
忍の挙げたタイトルに、彼は首を横に振る。そして、
「面白いのか?」
「ええ。今までの本、ああ、私と被った本ですけど、それが楽しめたなら、面白いかと」
「ふぅん? まぁ、それなら読んでみるか」
その日、忍は結局、一度も本を手に取ることなく図書室で放課後を過ごした。二人以外、他に誰も
いないことを幸いに、延々と好きな本の話題と情報交換をしていたから。
時計の針が、てっぺんで重なる。さすがにそろそろ眠くなってきて、忍はベッドに横たわった。
時々、美幸が遊びに来ては、女の子らしくないと呆れるほど機能的に整頓された部屋には、所狭しと
本棚が設置され、多くの本が並べられている。目を閉じる前に、適当に本をとってパラパラとページを
めくるのがいつもの彼女の癖なのだが、今夜はそうする気にはなれなかった。それだけ、今日、出会った
本が心を暖めてくれたからだ。
ほぅ、とまた溜息をついて天井を見上げながら、宙に描くのは彼のこと。
吉川亮太。
今まで、彼ほどに話が合う人はいなかった。正宗も、美幸も、こと読書に関しては、まるで彼女と趣味が
合わなかったから。どれだけ忍がいい本だから読んでみて、と勧めようと、苦笑いと共に、いつかね、
とかわされるだけだった。
仕方ない、と忍も頭では理解している。人の好みの問題だから。押し付けることは良くない。
ただ少し、寂しくもあった。同じ話題で盛り上がりたい、いや、同じ感情を共有したいと思っていたから。
知って欲しかったのだ。こんなにも素敵な世界が、本の中には描かれているのだということを。もし
それを分かち合えたら、どれだけ楽しいだろう。
だが正宗達には、彼女の願いは伝わらなかった。幼馴染達に対して忍が感じる唯一の不満は、そこ
だった。もっとも、そんな不満を吹き飛ばしてしまうほど、彼らと過ごす時間は楽しいものだったのだけれど。
それでも、不満があったのだ。
そこに現われたのが、一つ上の先輩である吉川亮太だった。
彼は、わかってくれた。彼女の世界観を。
彼は、理解してくれた。彼女が望む物語を。
彼は、わかちあってくれた。彼女が感じた想いを。
それがどれだけ楽しくて嬉しいことかを、忍は言葉に言い表せられない。
だから忍は、最近、放課後に足繁く図書室に通うようになっている。彼と、吉川亮太と本の話をすることが
楽しかったから。
「なんか最近、忍、一緒に帰ってくれなくなったよね」
ポツリと呟いたのは、美幸だった。目を伏せた彼女は、その唇を小さく尖らせている。
「図書室に行くって言って、放課後もすぐにいなくなるからな」
答える正宗も、どこか落ち着かないと思う。喫茶店コールド・ストーンに三人で来るといつでも、美幸の
隣には忍が座った。そうして、美幸が喋り、正宗が受け、忍が冷静につっこむ、というのが当たり前に
繰り返されてきた風景だった。
「なんだかね、隣がスースーする感じ」
とても感覚的な言葉だったが、彼にもそれは理解出来る。これだけ長い間、忍が二人から離れて
行動したことはなかった。だから、彼女がいる筈のスペースが空いていることが、ひどく不自然に思えて
しまうのだ。
実際、それは正宗や忍だけに留まらず、この店で働く由梨もまた、
「忍ちゃん、最近、どうかした?」
と心配そうに尋ねてくるほどなのだ。
何となしにざわめく気持ちを振り切るように、努めて明るく彼は振舞う。
「よっぽど好きな本があったか、長いシリーズにはまったかだろうな」
「……ホントに本なのかな?」
美幸が呈した疑問に、正宗は怪訝そうに眉を顰めた。
「どういうことだ?」
「例えばさ、好きな人が出来たとか? こっそり付き合ってるとか? だから一緒に帰れないとかっ」
考えているうちに盛り上がってきたのか、疑問系が最後は断定になる少女を、彼は目で抑える。
「落ち着け。勝手に妄想してやるなって」
「む、ゴメン、ゴメン。でも、ホントにそうだったらどうしよー。やっぱ応援したげないとね」
「だから、決め付けるなって。あんまりそんな風には見えなかっ……」
言いかけて、口ごもる。考えてみれば、いつもの本の虫の病気だと思っていたが、以前とは違って
最近の彼女は楽しそうに見えた。図書室に向かうのも、本以外に目的があるかのようで。
もしかして……?
「まぁでも、私達に何も言ってこないんだったら、こっちからも何も言わない方がいいのかな。実際は
どうだかわかんないわけだし」
「あ、ああ。そうだな」
熱くなった時と同じように、唐突に冷静になる美幸の言葉に、正宗は翻弄されながらも、なんとか
頷き返す。
それでも、ほんの少しだけ、一瞬だけ。心は、捉われていた。
もしも、忍に好きな人が出来たら……?
胸の奥に砂を撒かれたような、微かな不快を覚える。ザラザラと流れる砂が、小さな傷となって心を
痛めてきた。
「でさ」
その不思議な違和感は、しかしすぐに目の前の少女の笑顔に吹き飛ばされた。
「今度のデートだけどさ」
「ああ」
デート、という言葉を、何とか彼は左から右へと受け流す。受け止めてしまったら、きつく結んだ口が
ゆるんでしまいそうだったから。
勿論、デートと言っても、本当のデートではない。以前のお願いの一環だ。彼女が好きだった男子と、
その彼が好きになった女子。それに美幸と正宗の、四人で出かけようと言うのだ。見方によっては、確かに
ダブルデートと言えなくもない。
もっとも、ただ響きだけが良くても、意味がない。美幸と正宗は、確かに二人でいることが多くなるだろうが、
それは決して文字通りの意味ではないだろうから。
例えば、もしもここに忍がいたならば、きっと彼女も巻き込まれていたことだろう。そうあってくれれば、
と思う部分があるあたり、正宗自身、単純に喜んでいるわけでは決してなかった。
「一応、カラオケとか予定してるんだけど、二人が適当にいい感じになったら、私と正宗は抜け出すって
ことで」
「うまくいきそうなのか?」
「多分ね」
あっさりとした美幸の言葉に、そうか、と正宗は頷く。
彼女がそう言うのならば、きっと大丈夫なのだろう。
美幸が確かに愛を繋ぐキューピッドだということを、彼は知っていた。彼女が応援した二人で、付き
合わなかったカップルは今までになかったのだから。
「……」
「ん? なに?」
「いや、なんでもない」
まじまじと見つめたのに気付かれて、正宗はゆっくりと首を振って目をそらす。
そのキューピッドの力は、幸か不幸か、美幸自身には向けられていない。全て、他人の為に使われている。
幼い頃からいつだって、そうだった。
人の幸せを、無心に祈ることの出来る子供だった。
少しずつ成長するにつれ、時には傷ついた姿を見せた時もある。それでも彼女は、立花美幸は、他人の
笑顔の為になら自分が痛むことさえ恐れなかった。
以前、彼女が言った言葉が本当のことだと、彼は知っている。
好きな人が幸せなら、それで満足。その優しさと強さを、彼は好きになったのだ。
だから思う。自分もまた、彼女のようにありたい。美幸には幸せであって欲しい。
コーヒーを飲んで、一つ、間を置いて。
改めて正宗は、目の前の彼女を見る。
彼は、しかし思うのだ。自分が、彼女を幸せにしたいと。
幼い頃から知っている、彼女の全てを好きだから。
幼馴染の二人の、そんな語らいを知る由もなく。
「ってわけで、この本がお勧めなんですけど」
「へぇ? じゃあ、借りてみるか」
「そっちはどうでした?」
「すごくいい、ってわけじゃないな。でも、読む価値はあると思う」
「じゃあ、借りてみます」
忍は今日も亮太と、図書室で話し込んでいた。お互いに本を薦めあい、感想を互いに述べ、徐々に
相手のことを知っていく。
いつか、二人の名前が連なって書かれた貸し出しカードを持つ本は、少しずつ増えてきていた。
「あれ?」
そして、それを見つけたのは、忍だった。
予備校に通うと言って、一足先に帰った亮太を見送った後、読みかけの本を借りようとした彼女は、
貸し出しカードを取り出した瞬間に、カードのポケットから折り畳まれたルーズリーフが落ちたのに気付き、
それを拾い上げた。
随分と古く、わずかに黄ばんだそれを何気なく開いた忍は、柳眉を顰める。
それは、手紙だった。
――――想いの、こめられた――――