答えを求める者がいる。何が謎かがわからない者もいる。
10:Truth
「悪いな、付き合せちゃって」
「別にいいさ」
ひょい、と肩をすくめて、正宗は軽くそう答える。目の前の少年は、そわそわと落ち着かない様子を見せて
いて、彼は内心で少し苦笑はしていたものの、表には決して出さなかった。
「大丈夫だよな? ちゃんと似合ってるよな?」
「そんな心配ばっかしてないで、堂々としてろよ」
正宗の言葉に、それもそうか、と大きく深呼吸をする少年の名は、高村衛。彼こそ、明日のダブルデートに
一緒に行くことになっている男だ。
今、二人がいるのは、駅ビルの中のメンズファッションのフロア。高村の腕の中には、買ったばかりの
衣類が詰まった袋がある。
「けどホント、助かったわ、九条がいたお陰で」
サンキュな、と言って彼が頭を下げるのには、理由があった。前日になっていきなり、着ていく服に自信が
ないから、一緒に見に行ってくれ、と助けを求めてきたのだ。仕方なく付き合った正宗だったが、結局、
あれやこれやとアドバイスをする羽目になり、軽い疲労を覚えていた。
それでも、
「別にこれぐらいいいさ。俺も、自分の分を見たしな」
正宗はまた一つ肩をすくめて、気にするなと答える。
彼の心の中を過ぎるのは、一つの言葉。
『うまくいくよう、協力してあげてね』
想う少女の言葉が、彼の指針だった。そうでなくとも協力はしただろうが、ここまで真剣に考えたかどうか。
そんな本音を心の奥底に隠して、正宗はシニカルに笑う。
「けど、うまくいかなかったからって、俺が見繕った服のせいにはするなよ」
「そんなことするわけねぇだろっ」
怒ったように言う彼も、勿論、先の言葉が冗談だとはわかっているのだろう。それでも尚、真剣に答える
高村の姿勢に、正宗はまた苦笑する。ただしそれは、多分に好感のまじったものだったけれど。
「ホント、立花にも九条にも世話になるよ。明日、うまくいこうがいくまいが、恩は絶対、倍にして返すからな。
何かあったら言ってくれよ」
明日の打ち合わせの為にファーストフード店に入り、席に着いた瞬間、高村は真剣な面持ちでそう言った。
三度、正宗は苦笑。それは彼に対してだけでなく、自分に対しても。
いいヤツだな、と思う。思ってしまう。美幸がひとときでも好きになった男で、いわば恋敵だったというのに。
美幸が恋する男って、皆、いいヤツなんだよな。正宗は心の中で呟く。男の彼の目から見ても、好感が
持てる男ばかりで、嫉妬することすら難しい。
いや、本当は。
敵わないと思ってしまうのだ。
男として、勝ち目が無い、と。
これまで、美幸の想いを受け入れた男がいないことにホッとしている。そんな小さな自分ごときでは、
器量で劣っている。正宗はそう思ってしまう。
だからこそ、彼女に恋される程に、大きないい男になりたい。それが彼の願いであり、それ故に彼にとって
美幸の言葉は絶対だった。
例え、どんなに無茶な願いでも、自分が傷付くことになったとしても、作為ではなく笑って、彼女や他人の
幸せを祈れる。
そんな人間を、彼は理想としていたのだった。そして、目の前の少年は、少なくとも自分よりは理想に近い
位置にいるように思えたのだ。
「あぁ、そういえばさ」
大体の予定も決まり、つまんでいたポテトの残りも少なくなってきた頃、思い出したように高村が言った
言葉に、正宗は眉を顰める。
「塩崎が来ないのって、彼氏が出来たとかだったりする?」
「彼氏……? 忍に?」
予想外の言葉だった。いつか、美幸も口にしていたが、結局うやむやのままになっていた。
それが、こんな形で再び、現われるとは考えてもみなかったのだ。
「あれ、知らない? お前なら知ってると思ってたんだけど」
「最近は、あんまり一緒に帰ったりしてないからな」
正直に語る正宗の口調は、少し苦くもあり、言い訳じみてもいた。そして唐突に彼は、何とも言えない
違和感に捉われる。
「そうそう、それそれ。放課後さ、一緒に帰らなくなっただろ? この前、たまたま放課後に図書室に
行ったらさ、塩崎が男と楽しそうに話しててさ」
「男と? 楽しそうに?」
軽い驚きに、正宗は目を軽く見開いた。忍と図書室というのはすぐに結び付くし、一人静かに本を読んで
いる姿は、容易に思い描けた。
だが、楽しそうに男と喋っているとなると、まるで想像がつかない。そもそも彼女は普段、決して饒舌な方
でなかったから。
「ビックリするだろ? 相手は一個上の三年らしいんだけど、なんか笑いながら喋っててさ。俺、塩崎が
あんな風に笑うとこは初めて見た気がするな」
正宗の中で、違和感が徐々に大きくなっていく。高村の語る塩崎忍は、彼の知らない人間のように思えて
仕方が無い。そんなことは、決してないのだろうけれど。
不愉快というほど明確な気持ちではない。だが、正宗は、彼から聞かされた忍の姿に、自分の知らない
彼女の一面を感じ取って、何故か。
何故か、心が微かに、ささくれだったのだった。
「ん?」
ああだこうだと考えを述べ合うことにも疲れて、それぞれに考えを巡らし始めてから、十分が経った
だろうか。
天井を睨んでいた亮太は、そう呟くと同時にルーズリーフに何事かを書き始める。
「わかったんですか?」
忍がかけた声にも取り合わず、一心不乱にペンを走らせていた彼は、やがて会心の笑みを浮かべて、
「なるほどな」
と、呟いた。
「解けたんですね?」
「ああ、解けた」
今度の問いかけには、亮太は深く頷いて返してきた。おお、と感嘆の声をあげながら、彼女は教えを
請う。
「なんて書いてあったんですか? って、それより前に、どうやって解いたんですか?」
結局、彼女にはまるで意味のわからないままだった。先に解かれたことは少し悔しくもあったが、その
解には興味があった。
「いいのか、教えて」
亮太の意地悪な表情に、しかし忍は笑って首を横に振った。
「私、ミステリは探偵が謎を解き明かすシーンが好きなんです。自分が気付かなかったことを明らかに
されて、なるほどなー、って思えるから」
「そういうもんか」
微かに彼は不満そうな素振りを見せたが、それはそれとして名探偵役をやることは楽しいようで、嬉々と
して解説を始めたのだった。
「キーは、やっぱりこの本なんだよ」
言いながら亮太は、『六の宮の姫君』の本を手に取ってみせる。
「この手紙は、この本に入っていて初めて、解読出来るものだったんだよ」
「他の本だったら、絶対に読み解けなかったと?」
「絶対に、ってわけじゃないけどな」
忍の問いかけに答えながら、彼は机の上に残りの本を広げる。北村薫の『空飛ぶ馬』『夜の蝉』『秋の花』
の三冊。
「こっちでも良かっただろうな。ああ、それから、この図書室の中にも、他にもたくさんあると思うぜ。手紙を
読み解くだけならな」
「……?」
首を傾げて、マジマジと忍は四冊の本を見る。そして次に、ずらりと並ぶ本棚を。
この中に、暗号を解読する鍵があるという亮太の言葉はヒントなのだろうが、彼女にはさっぱり、解の姿が
見えて来なかった。
「塩崎、この本の共通点って何だ?」
亮太が指し示した四冊の本、その共通点を、思いつくままに忍は口にする。
「作者が北村薫、創元推理文庫、表紙の絵を書いている人が一緒、背表紙が黄色」
「外見とかじゃなくて、中身だよ、中身」
「中身ですか? 日常の謎を解いている、円紫師匠が出てくる、落語の話題が豊富……」
そこまで言ってから、忍は彼がもどかしそうな顔をしていることに気付いた。
ふと、思い出す。亮太はこのシリーズを読んだことがないのだった。
なのに、共通点はと問いかけてきた。しかも、中身を。読んだことがないのならば、わかるはずもない
のに。知っていることと言えば、彼女が今日、彼に教えたことだけだ。
それは、
「主人公が『私』ということ……?」
おずおずと言ったその台詞に、亮太は大きく、深く頷いた。
だがそれで満点というわけではないらしい。
「ああ。それを俺は、なんて言った?」
「ええと……」
記憶を辿る。確か、彼はこう言ったのだ。
「ネームレス主人公、でしたっけ?」
「まさにそれだな」
答えに気付いた時と同じように、会心の笑みを浮かべる亮太だったが、忍の目の前からは相変わらず、
霧が晴れない。
「ネームレス主人公が暗号を解く鍵、なんですか?」
「そういうことだよ」
こともなげに彼は頷くが、彼女は眉間に皺を寄せるばかりだった。
なるほど、確かにネームレス主人公ものは、北村薫のこの小説に共通するし、図書室を探せば同じような
ものがいくつもあるだろう。
だがそれが鍵だというのか?
「あとほんの少しなんだけどな、わかるまで」
「焦らさないで下さいよ」
降参とばかりに手を上げる忍に、しょうがないな、と言わんばかりに笑って、亮太はペンと新しいルーズ
リーフを渡してきた。
「ネームレスってそこに書いてみろよ」
言われるがままに片仮名で『ネームレス』と書いて、亮太の苦笑に気付く。
「ああ、英語でですか」
「そうそう」
改めて忍は、『nameless』と綴る。
「これで?」
「ネームレスってのは、名前がない、って意味だよな」
言いながら新しく出したペンで彼は、『name』と『less』の間に線を引いた。
「で、次にこれをこうしてみる」
さらに亮太は、『name』を『na』と『me』の二つに区切る。
「これだけなら、ローマ字読みで何て読める?」
「『な』と『め』ですね」
「そう。で、これを繋げて、強引に解釈すりゃ、『な』と『め』がない、意味にも取れるだろ?」
『na』と『me』と『less』。トントントンとリズム良く、三つの文字をペンで彼は叩く。
「確かに……」
思わぬ展開に、忍は軽く目を見開く。亮太の言う通り、強引な解釈ではあるが、そう取れなくはない。
「これで、暗号を見るとだな」
そんな彼女の反応に気を良くしたのか、楽しそうに彼はペンを動かし、暗号を区切りごとに縦に並べて
書く。
亀な嫁産め
なほ産めかごめ
粉舐めると難
「で、全部、平仮名に直すな」
言いながらその下に、亮太は書き足す。
かめなよめうめ
なほうめかごめ
こななめるとなん
「これに、さっき言った鍵を使うと、だ」
息を飲んで見守る忍の前で、彼は『な』と『め』の字に横線を入れて消していく。
そして、浮かび上がった言葉は。
か よ う
ほう かご
こ ると ん
「かよう、ほうかご、こるとん。これが手紙の内容だった、ってわけさ」
現われた文章に、彼女はほぅ、と息を吐く。わかってしまえば、拍子抜けするほど簡単なことだった。
どうして気付かなかったのか、と不思議なくらいだ。
「たぬきの手紙の親戚、ってわけですね」
「そういうことだな。気付いてしまえば、なんてことはないんだろうが」
「気付けるかどうか、ってことですね」
忍はうんうん、と何度も頷く。種明かしをされて初めて気付いた身としては、素直に驚くしかない。そして、
「すごいですね、吉川先輩。さすがでした」
素直に、賞賛するしかない。
亮太はそんな彼女の言葉に、面食らったような顔をした後、
「ありがとよ」
真っ赤になりながら、小さな声でそう言ったのだった。
「けどな!」
だが次の瞬間には、照れ隠しなのだろう、図書室に響かない程度に彼は声を張り上げる。軽く驚いた
忍は、危うく椅子ごと転びそうになった。
「だ、大丈夫か?」
「ええ、まぁ。それより、けど、なんなんですか?」
大丈夫とばかりに軽く頷いた彼女が呈した疑問に、コホンと一つ咳払いをした後、亮太は最後の一文を
指差した。
「こるとん、ってのがわからないんだ。何か意味のある文章なんだろうけどよ」
「ああ、それなら私、知ってますよ」
「マジでかっ!? ……って、こういうの、今日で二回目だな」
言って彼と彼女は、顔を見合わせて苦笑する。
「単に、たまたま知ってただけですって。先輩みたいに、頭を使ったわけじゃないから」
「別に、頭を使ったってわけじゃないけどな。勘だよ。で、それより、こるとんって何なんだ?」
やはり照れ隠しもあるのだろうが、早く知りたいとばかりに身を乗り出して来る彼に、忍はあっさりと答える。
「コールド・ストーンって店があるんです。私の叔父がやってる喫茶店なんですけどね。随分、昔から
やってたから、使っててもおかしくないとは思いますよ」
もったいをつけることなく、シンプルに告げた彼女に、なるほどな、と彼は頷く。
「コールド・ストーン、略してコルトンか」
現われた『こるとん』の文字をじっと彼は見つめる。
チラリ、とその横顔を盗み見た忍は、亮太の瞳の深さに気付いた。一体、彼はどんな想いを抱いている
のか、まるで読めないほどに深い。知らず彼女は、吸い込まれそうになる。
「行ってみますか?」
ふと気付いた時には、忍の口からはそんな言葉が飛び出していた。あまりに自然だったので、彼女は
それが自分が言ったのだと最初、信じられないほどだった。
とはいえ、考えてみれば、いたって普通のことだった。自分の叔父が経営している、などという話題が
出たのに、誘わないのもおかしい話だから。
「この店にか? ……行っても、しょうがないと思うけどな」
「現場百辺、って言うじゃないですか。もしかしたら、叔父が何か知ってるかもしれませんし」
渋る亮太を、彼女は説得する。後になって、どうしてあそこまで強く言い張ったのか、と首を傾げるほどに。
「じゃあ、明日でいいか? 今日はこの後、ちょっと用事があるから」
「そうですね。じゃあ、明日、学校で待ち合わせをしてから行きましょう」
「まだ残ってたの。もう下校時間よ」
念の為にと携帯番号やメールアドレスを交換していた二人は、突然に扉が開くと同時にかけられた声に、
驚いて振り向く。そこにいたのは、よく見知った女教師。
「なんだ、佐野先生か」
ホッと安堵の息を吐く忍に、彼女は小さく苦笑を返す。最近、図書室に下校時間ギリギリまで残っている
ことの多い二人は、何度か佐野に見つかって怒られていた。といっても、彼女は真剣に怒っている風では
なく、本好きの彼らに一定の理解は示してくれていることを、忍も亮太も敏感に感じ取っていた。
だからこそ、なんだ、等と忍は言えたのだけれど。
「まったく、二人して本に夢中になるのはいいけれど、下校時刻はしっかり守ってちょうだいね」
責めるような言葉、しかし佐野の顔に浮かんだ表情は柔らかく、視線は暖かい。それに頷いて、忍達は
机の上の本を集める。『六の宮の姫君』は忍の鞄の中に、『空飛ぶ馬』を始めとする三冊は、亮太が借りて
読むことになっていた。
「はい、じゃあ今、帰ります」
「気を付けてね。まだ明るいって言っても、遅い時間なんだから」
向けられた視線に、亮太はゆっくり小さく頷く。
「吉川君、途中まででもいいから、ちゃんと送っていってあげるのよ」
「勿論」
当然のことと頷く彼に、また佐野は二人を交互に見つめて優しく笑うのだった。
「それじゃ、また明日」
「ああ」
分かれ道でそう言葉を交わして、忍は一人、また歩き出す。
今朝は手紙の意味がわからず、悩みながら歩いた道。帰りの今は、夕暮れに鳴く烏の声に耳を澄ます
ことの出来るほど、余裕がある。
そして忍は、明日に心を飛ばす。彼の言う通り、きっと手がかりになるようなものは見つからないだろう。
だが、それでも。
「火曜、放課後、コルトン」
歌うように彼女は呟く。イニシャルH.T、戸塚秀人は、あの手紙にそれだけを書いた。日付がないという
ことは、きっと毎週の火曜日、彼はコルトンで待ち続けていたに違いない。その間、何を思っていたのだろう。
どんな気持ちで、井上玲子という少女を待っていたのだろう。
もしかしたら、自分も座っていたのかもしれない。彼がそわそわしながら、窓の外に目をやっていたのと
同じ席に。
だから、行こうと思ったのだ。何もわからなくてもいいから、と。
まだ見ぬ少年に思いを馳せるのも、悪くはない。待ち続けた彼のことを思うと、少し切なくなるけれど。
そして、何より、吉川亮太と初めて長い、長い時間を共に過ごすのだ。
同じ趣味を持つ人と話して過ごすのもまた、忍は楽しみだった。
そう。
自然と小さく、微笑んでしまうほどに。