誰かと共に迎える朝は良い物だ。
さらに、目を覚ませば温かな朝食までもが用意されているとくれば言うことはない。
目を覚まして最初に感じるのは、味噌汁と炊き立ての米の香り。
耳を澄ませば軽やかな包丁の音と、かすかな鼻歌が聞こえてくる。
――相変わらず、微妙に音程がずれてるな。
思わず苦笑する。
炊事洗濯は言うに及ばず、日常知識や護身術、それら全てにおいて水準以上の能力を誇る彼女にも、苦手という物は有るらしい。
さて、そろそろ起きて彼女を手伝うべきか。それともこのまま彼女が起こしに来てくれるのを待つべきか。
彼はわずかに考え、彼女が起こしに来てくれるのを待つことにした。
朝食の準備を含め、この家の家事全般は彼女の仕事だ。
テスト明けで疲れている体の事もある。
せっかくだ。ここは、おとなしく彼女に甘えることにしよう。
それからしばらくして、開け放しのドアから誰かが部屋に入ってくる気配。
主人を驚かさぬよう、最低限の気配と足音は立てつつ、しかし主人の邪魔にならぬ様極限まで殺された気配と足音。
それは彼女が、一流のメイドであることの証明だ。
「慧様……」
言葉とともに、そっと彼女の手が彼の体に添えられる。
「起きてください。朝食の準備ができましたよ?」
語尾をわずかに上げる半疑問系は、彼女の癖だ。
実のところ、さっきから彼の目は覚めている。
にも拘らず、彼女が起こしにくるまで寝た振りをしていたのは、ひとえに「メイドさんに起こしてもらう」という至福の一時を味わうために他ならない。
その事を彼女に気付かれぬよう――彼女の事だ。とっくにばれている可能性もあるが――いかにも今起きました、と言うようにその身を起こす。
体を延ばして欠伸を一つ。ついでに目許をこすりつつ、
「ん……、おはよう。御咲」
「はい、おはようございます。慧様」
そう言って彼女――白沢慧のメイド・草壁御咲は、紫陽花のような笑みを浮かべた。
「いただきます」
手を合わせ、まずは温かな湯気を上げる味噌汁を一口。
――美味い。
目が覚めたばかりでやや味覚が鈍感になっていることを見越した、やや豆の香りの強い味噌。
具材は豆腐とワカメだけのシンプルな物だが、朝食としてはその素朴さがむしろ良い。
「どうぞ、慧様」
御咲が炊飯器から茶碗にご飯をよそってくれる。
炊き立てのかぐわしい香りをたてるご飯は、俗に十五穀米だの十六穀などと呼ばれる雑穀入り米だ。
しかし、ただの雑穀米ではない。
慧の体調やその日の天気、あるいは食事の献立に合わせ、御咲が毎回配合を変えているのだ。
今朝の献立はご飯に味噌汁、味海苔に納豆、漬物と簡素だが健康的なメニューだった。
「ごちそうさま。今日もおいしかったよ」
「お粗末様です」
慧の言葉に彼女は控えめに微笑み、食後のお茶を注いでくれる。
「今日は薬草茶なんだ」
「はい。テスト明けで疲れもたまっていらっしゃると思いまして」
好みの分かれる香りの強い液体はしかし、確かに彼女の言う通りテスト明けの疲れた体に染み渡って行くような気がする。
白米と味噌汁の朝食に、食後のお茶。
いかにも日本の朝の風景と言った献立だ。
これで家が昔ながらの日本家屋で、部屋が畳だったら言うことはないのだが、残念ながら慧の家はごく普通の最近の家であり、また家で唯一の和室は今は亡き父親が集めた民俗学の資料で埋め尽くされている。
「まあ、これはこれで良い光景だよな」
流し台で食器を洗う御咲の後ろ姿――主にゆるやかに膨らんだスカートに包まれた尻のあたりに視線をやりながら慧は、誰にでもなくそう呟いた。
「どうかいたしましたか――って、慧様。今、どちらをご覧になっていましたか?」
気付かれたか?
とっさに慧は、うまい言い訳を考えるため、周囲に視線を走らせる。
そこで視界に入ったのは、向日葵の写真に彩られた七月のカレンダー。
「いや……僕が御咲と出会って、まだ一月しか経ってないんだな、と思ってさ。
何かもう、ずっと一緒だったような気がするから」
その言葉に、御咲は目を細め、
「そう言えばそうですね……。ふふ、私も慧様とおんなじ気持ちです。
まだ一月しか経っていないなんて、信じられないくらいに色々なことがありましたし、ね?」
「そうだね」
慧も微笑の表情を作り、頷く。
慧が彼女と出会ったのは、六月の梅雨の最中。
それは――紫陽花の花が奇麗に咲いていた頃の事だった。