小さなお屋敷の女中は朝五時におきて庭の掃除や料理支度を始める。
昨晩は寝苦しくて、今日目覚めた時も太陽の眩しさに
眠気を頑張って飛ばしてもらおうと頑張っていたのだけれど、
やっぱり眠くて昼食後にはどうしても大あくびが出た。
昼寝がしたくなってしまう。
雑巾を無造作に絞り、傍のバケツにざぶざぶともう一度浸した。
「怠慢ね。たるんでいるわ」
女中が顔を上げる。
長い黒髪を濃紺のリボンで軽く飾ったご主人が不良座りで頬杖をつき覗き込んでいた。
和服なので裾が少し割れている。
…お行儀が悪いなぁと思いつつも、律儀に雑巾を手に持ったままお辞儀をした。
「すみません奥様。今日はほら、暑いでしょう。どうも眠くて」
「もう一度言いなさい」
「は?」
意味が分からなくて首を傾げると額を叩かれた。
女中はめがねの奥でひとり憮然とする。
「気に入らないことがあるとすぐ手を出されるのはどうかと思います」
「うるさいわね、また口答え?好いからさっきの言葉を繰り返しなさい。はい!」
「……今日はほら、暑いでしょう?」
「違う!そのまえっ」
「………すみません奥様、」
三時も過ぎれば空が青く、鳥がチチチーチチチーと啼いている。
メジロだろうか。
「うふふふふ」
「ああ、はいはい。ご結婚おめでとうございます。お幸せそうで梅子も嬉しいです」
「ええ。幸せよ」
目の前で幸せそうに笑う元"お嬢様"に仕方なしに女中は笑って、雑巾を絞りなおした。
「新婚旅行で疲れてらっしゃるでしょう?如何でした」
「昨日一晩寝たら回復したわよ。空が青かったわ。あとシーツが白かったわ。あと激しかったわ」
「あ、お土産ありがとうございました」
猥談をされるとついていけないので女中はにこやかに話題をそらした。
そしたらまた叩かれた。
「あのね、聴いて梅子。そしたらね、こう、これからは子供ができても大丈夫だからって言ってね
…で、ぁ、いやだわ思い出しちゃう」
段々真っ赤になっていく女中を楽しそうに見ながらひたすら、最近嫁いだご主人は惚気話を続けた。
主に昨日までの新婚旅行における夜のいろんなあれやこれが話題になっている。(解説つき)
旧家から身の回りの世話についてきたのは彼女一人だけなので女中は
毎日こんな話を集中砲火で聞かされるかと思うと胸がどきどきした。
「ほら」
手首の裏を返して着流しの袖を軽く持ち上げると論より証拠で跡がある。
赤く辿っていく手首から肘への小さな痣の流れを、仕方無しに眼で追った。
…だから、どんな反応をすれば好いのか。
「はぁ」
「…ここまできても何がいいたいのか分からないの?だめね」
「分かりません!なんなんですかもう!」
赤くなったままで怒るとご主人様は軽く頬を膨らませた。
「だから。お嫁さんは幸せだって言ってるんじゃない。」
「あ、私を苛めて楽しんでいたわけではなかったんですか?」
「相変わらず生意気ね」
叩かれた。
でも一週間分の旅行記を聴かされ続けてもう気がつけば夕方だし、掃除が全然進んでいない。
新婚旅行は確かに楽しそうで憧れるのだけれど、自分はそんな身分でもないのだし。
早くしないと旦那様も帰ってきてしまう。
いい加減夕飯の仕度に買い物に出なくてはいけないというのに。
「生意気で結構です。
今日の夕飯は何がよろしいですか?買い物に行って参りますね。」
「わたくしも行くわ」
新米奥様が立ち上がって裾を整える。
女中が結い上げた髪ごと首を傾げた。
「だから。お嫁さんは幸せだと思うわけよ」
「はぁ」
「料理くらいちょっとは覚えてみるべきだと思ったわけよ」
女中を無視して元お嬢様の現奥様はすたすたと玄関に歩いていく。
早足で女中が追いかける。
「あの、奥様が料理するんですか?」
「何よその怖がってるみたいな声。腹立たしいわね」
「だって、包丁持ったこともありませんでしょう」
「あるわよ。学校の実習で」
「何年前の話ですかって痛!どうしてすぐ叩くんですか!」
「そうとしても問題はないわ。お前が教えてくれるんでしょう?」
女中は肩を軽く竦めて、息をついた。
きっといろいろなことをやってみたがるに違いない。
夜中ずっと嬌声とかおねだりとかが聴こえていたりするのはやっぱり眠れなくて眠くて、
ちょっと困ったなあと思うのだけれど新婚のうちは大目に見て二人を祝福してあげなくてはと
帰国した二人の夕飯を眺めながら昨日思ったのだ。
まずは庶民的前掛けとお帰りのキスからだと息巻いているご主人様に苦笑して、
ともかく二人で近くの食材屋に出かけようということになり、和気藹々と古い門の鍵を閉めた。
新婚状態って何年続くんだろう、と後に女中は耳栓をして眠るようになるがそれはまた別の話で。