今、二人で住むには少し狭いアパートのキッチンで仁美が夕食を作っている。  
 彼女は、つい先日俺と生涯の苦楽を共にする誓いの口づけを交わした人。  
 俺の花嫁になった女性。  
   
 ようやく静かな毎日が戻ってきて、ふと過去を思い返す時間が多くなった。  
 この一ヶ月、少し色々なことがありすぎたかもしれない。  
   
   
 
 ―――事の発端は先月の半ばくらいだった。  
   
 大学時代のサークルの後輩だった仁美から、突然電話がかかってきた。  
 大学を出て、希望通りではないが、そこそこの会社に就職して三年。  
 最近は仕事関係のことでしか鳴ることのなかった俺の携帯電話に突然…。  
 「大切な話があるから、お時間をいただけないか」と言われ、  
 俺は卒業して以来、三年ぶりに仁美と会うことにした。  
   
 そういえば、仁美は大学二年の春に突然退学して実家へ帰ったという噂を聞いていた。  
 だが、再会した時の仁美は、髪を少し伸ばして、顔立ちは大人っぽくなっていたものの  
 その雰囲気などは昔のままで、なぜかとてもホッとした。  
   
 一時間ほど、昔話に華を咲かせたり、俺の仕事の愚痴を聞いてもらったりして  
 ある程度空気も和んだところで、彼女は唐突に今回俺を呼び出した本当の理由について話し出した。  
 「河野先輩は……、今お付き合いしている方とかいらっしゃるんですか…?」  
 この時は、まだ彼女が何が言いたいのかわからなかった。  
 俺は昔から、お人よしで人見知りがなく、誰にでもいい態度をとってしまうせいか  
 あまり特定の女性だけと付き合ったという経験がない。  
 そして大学時代からの彼女とも昨年別れて以来、女関係はさっぱりだった。  
 そのことを、冗談半分で、やや自虐的に仁美に伝える。  
 だが、彼女は少しも笑顔を見せることなく続けた。  
 その後の一時間は、ほとんど彼女がしゃべりっぱなしだった。  
   
 内容を簡単にまとめると、次のような感じだった。  
 仁美は、幼い頃に母親を亡くし、それから父と二人暮しだったらしい。  
 だから、父にとって一人娘である仁美の成長が何よりの生甲斐で  
 彼女の為に、趣味にも教育にも精一杯の援助をしてくれる優しい父だったという。  
 だがその父も、彼女が大学二年のとき、病に倒れて、  
 とてもではないが私立大学の授業料を払える状態ではなくなり中退を選択したそうだ。  
 そして、その父が先日、余命一月の宣告を受けてしまったらしい。  
 彼も自分でこの先がそう長くはないと悟ったようで、彼女の将来をとても不安に思っているらしい。  
 そこで仁美は、自分には婚約者がいて、もうすぐ結婚するということにして  
 父を喜ばせて、安心させてあげたいという。  
 その相手役を俺にやってほしいとのことだった。  
 
 俺は、そんな話すぐには信じられなかった。  
 なにか大掛かりな冗談や、ひょっとしたら詐欺にでも巻き込まれてるんじゃないかと思った。  
 「すごく勝手なことを言ってるのはわかります…。  
  でも、父を喜ばせるためにはこれしか思いつかなくて、  
  こんなこと相談できるのは、河野先輩くらいで……」  
 確かに、そうかもしれない。  
 自分で言うのもなんだが、お人よしで面倒見がいい俺に、学生時代から彼女はよくなついてくれた。  
 「私についてきて、父の前で婚約者のフリをしていただければいいんです。  
  本当に、それ以外は何もしなくていいです……。  
  出来る限りのお礼もします。   
  無理を言っているのはわかりますし、こんなこと強請は出来ません……。  
  でも、あまり時間がないから明後日までに返事をくれるとありがたいです」  
 仁美は、途切れ途切れにそう話すと、その日は帰っていった。  
   
   
 仁美と会ってから、丸一日、俺はほとんど何も手につかず  
 彼女の懇願に対する答えを考え続けていた。  
 結局俺は、婚約者役を引き受け、彼女と共に父に会うことを決意した。  
 ほんの一年程度の付き合いだったけど、仁美は他人を陥れて歓んだり  
 金や物を平気で誰かから騙し取れるような人物ではない。  
 それに俺自身が、彼女に対して多少なりとも好意を持っていたのもあった。  
 だが決定打になったのは、困っている人を放って置けないという俺のおせっかい心。  
 それに、話を聞く限り、俺は特になにもしなくていいとの事だし  
 一度会えば、彼女も、彼女の父も満足してくれると軽く思い込み始めていた。  
 
 
 そのことを仁美に伝えてから三日後、彼女と共に彼女の父親を訪ねた。  
   
 「本当にありがとうございました。  
  近いうちに、私の花嫁衣裳の写真でも見せればもっと安心してくれると思います。  
  私のワガママに付き合ってくれてありがとうございました。  
  これはほんの気持ちです、受け取って下さい……」  
 病院から出ると、仁美から茶色の封筒を渡された。  
 中には数枚の万札が入っていた。  
 区切りのいい数でないところを見ると、本当に彼女の用意できる精一杯の額だったのだろう。  
 そのまま、仁美は一瞬ニコッと笑うと俺の前から去ってしまった。  
   
 一方の俺は、その封筒を断ることも忘れるくらい、あることが頭から離れなかった。  
 ベットに横たわる彼女の父は、『人はこんなに衰えられるものなのか?』と思うほど  
 痩せ細り、何本か点滴がされかろうじて生かされている様子だった。  
 こちらの言っている事は理解してくれたようだったが  
 会話はままならず、医師でなくともこの先そう長くないとわかる状態だった。  
 俺は出来る限り演技であることを悟られないようにしたが、  
 仁美の父の浮かべた笑みの向こうに、かすかだが暗い影のようなものを感じた。  
 それは、間近に迫った自らの死に対する恐怖から来るものでないことは明白だった。  
 それは、愛する娘との永久の別れを悲しんでのものでもない。  
 俺がもし彼と同じ立場だったら、こんなになってまで嘘をつかれていると気づいてしまったら……。  
 俺は、絶対に騙してはいけない者に対して嘘をついてしまった気がした。  
 
 
 それから数日後、俺は祝日や休日の間をなけなしの有給休暇で埋め、なんとか長期休暇を作った。  
 そして、今度はこちらから仁美に連絡を取り、もう一度会ってくれと頼んだ。  
 彼女は不思議そうにしていたが、二つ返事で俺の誘いを受けてくれた。  
   
 今回は会ってすぐに、余計な前置きをせずに俺から本題を切り出した。  
 「やっぱり、リアリティがなきゃだめだよ!  
  口で“俺たちは愛し合ってて、もうすぐ結婚します。  
  だから、お義父さん、娘さんのことは心配しないでください”みたいに言ったて信じてくれない!  
  ……だから、これ、用意してきた。  
  もう俺のサインと印鑑は押してある、後は任せる」  
 俺はそう言って、半分だけ名前の書かれた婚姻届を仁美に渡した。  
 「あ、別に、本当に提出する必要はないから悩むことはないよ。  
  相手は俺たちの倍以上は生きてる人生の先輩だから、  
  こっちもそれなりの準備をしないと…」  
 言いたいことが、うまくまとまらなかった。  
 要は、『法的に世間から認められるような証拠を提示すればいい』とか  
 『もっとリアルな演技をするために小道具を用意しよう』とだけ言いたかったのだけど。  
 しかし仁美は、静かにペンを出すとそれにサインして、  
 これもいつも持ち歩いているのか、印鑑を押し、婚姻届を完全な状態にした。  
 俺はすぐにそれを掴むと、彼女の手を引っ張って、また彼女の父の元へ向かった。  
   
 仁美の父は、前回会ったときよりは体調が良いようで多少会話をすることが出来た。  
 しかし、話せば話すほど、彼の目を見れば見るほど、  
 自分の心の中を彼に見透かされているような感覚に襲われた。  
 やがて話題も途切れがちになってしまった。  
   
 このとき俺は、彼を本当に安心させるにはこれしかないと痛感した。  
 「時間が無いんで、今日はここでおいとまさせていただきます…」  
 俺は静かに立ち上がり、ポケットからさっきの紙を取り出して見せた。  
 「これを出しに行くんですよ、これから。  
  いきなりで驚かれたかもしれないですけど、  
  仁美が、早くお父さんにウエディングドレス姿を見せたいってはしゃぐんです」  
 そこまで言ったとき、仁美も慌てて立ち上がった。  
 だけど、俺は無言で彼女を制し、続けた。  
 「今度来る時は、純白のドレスに身を包んだ仁美さんを連れてきます……」  
 そう言い残して、俺は仁美の手を引き部屋を後にした。  
 
 「あ、あの、私そこまで河野先輩に迷惑をかけるつもりじゃなかったんです。  
  本当に、父に少しでも喜んでもらいたかっただけで……。  
  そ、それにもう満足なお礼は出来ないですし……」  
 病院を出てしばらく黙っていた仁美がようやく口を開いた。  
 少なくとも俺は、このときボランティア気分でやっていたわけではなかった。  
 本気で彼女の父を喜ばせてあげて、彼女を、仁美を幸せにしてあげたいと……。  
 「お礼なんか、初めっから望んじゃいないから。  
  ただの親切心だけでここまでやったりはしないよ…。  
  俺は、本気で君と君のお父さんを喜ばせてあげたいと思ってる。  
  そのためなら、本当に君と結婚してもいいとさえ思えてきた。  
  だけど、君にも相手を選ぶ権利くらいはある。  
  本当に愛した人と結婚して、幸せになる資格がある。  
  でも今は時間が無いから、我慢して“代理”の俺に付き合ってくれないか?」  
 仁美が返答に困っているのをよそに、俺はまた翌日会う約束を取り付け別れた。  
 
 
 思えばこの日からだった。  
 理由はわからないが、仁美が俺の中で、何物にも代えがたい大切な存在になったのは。  
 異性を好きになった経験なんていくらでもあった。  
 だけど誰か個人と、その人を取り巻く環境を含めた全てを好きになったのは初めてかもしれない。  
   
 彼女が俺を頼ってきてくれたから、  
 そしてその状況があまりにも哀れで俺の心くすぐったからか…?  
 元々俺が、彼女に対して好意を抱いていたから…?  
 いやそれもあるだろうけど、ただ純粋に、仁美の父親の心の底からの笑顔を見たかった。  
 そして、その笑顔を見て心の底から喜んでくれる仁美が見たかった。  
 
 次の日から、俺と仁美はほとんどの行動を共にした。  
 オーダーメイドで彼女にピッタリのウエディングドレスを作ってくれる店を探した。  
 どれだけ金がかかっても、一日でも早く仕上げてくれる店を探し、依頼した。  
 幸い、仁美は標準的な体型だったので、わりと早く出来上がるとの事だった。  
 それから、おそろいの指輪を買い  
 彼女の父親の前で、フリだけでいいから、交換しようと約束した。  
   
 しかし、仁美の表情はあまり晴れなかった。  
 「あ、あの、河野先輩……、やっぱり、ここまでやってもらうのは悪いです。  
  本当に私には何もお礼なんて出来ないし。  
  その……、私の為にこんなにお金使うこともないですから…」  
 確かに、ここまでの費用は全て俺の負担で、痛くないと言えば嘘になる。  
 でも、これで仁美たちが少しでも喜んでくれれば、俺は一生後悔しない自信があった。  
 「うん、他人から見れば俺はバカなことをしているかもしれない。  
  だから、こんなことは本気で好きになってしまった相手にしか出来ない。  
  俺の答えは出てる…。  
  これ、君に預けておくよ。 好きなようにしていい……」  
 俺はカバンから、後は提出するだけになっている婚姻届を取り出し、仁美に渡した。  
 「明日、俺はドレスを受け取ってから、病院へ向かう。 君は先にお父さんの病室で待ってて」  
   
 
 
 
 そして、その日が来た。  
 俺は両手で大きな袋を抱えながら急いで病院へ向かった。  
 予定の時間より少し遅れてしまい、滑り込むように病室の前に着くと  
 ドアの前に、仁美が独りたたずんでいるのが見えた。  
 「あ、遅れてごめん。 …どうしたの?」  
 仁美が俺に気づいたのか、なにか深刻そうな顔でこちらを振り向いてきた。  
 「ちょっとお話があるんで上までついてきてください…」  
 俺は言われるままに、屋上へ向かう彼女の後を追った。  
 静かな病院の廊下を歩く彼女の後ろで、最悪のケースが頭をよぎる。  
 
 そのまま、声をかけることが出来ず、屋上に着いた。  
 足を止め、振り返ってきた仁美がゆっくりと口を開く。  
 「……あなたは、なにか勘違いしてます。  
  確かに、いきなりあんなことをお願いした私はちょっと打算的だったかもしれません。  
  優しかったあなたなら、すがればきっと助けてくれると思ってました。  
  だけど、あなたをこんなに巻き込むつもりはなかった……」  
 仁美が両目に涙を浮かべながら話を続ける。  
 「あなたは思ったとおり、昔のままの優しい人でした。  
  私の無茶なお願いも快く引き受けてくれて……。  
  本当はそのまま抱きしめてもらって、唯一の家族を失ってしまう  
  私の寂しさを受け止めて慰めてほしかった。  
  でも、私はそこまで図々しい女になれなかったから、お金を渡して割り切ろうと…。  
  それなのにあなたは、私たちを見捨てなかった。  
  正直、その優しさが迷惑でした……」  
 
 ここまで勢いでやってしまったけど、彼女の気持ちを無視していたのかもしれない。  
 思わず両手で抱えていた袋滑り落ち、ドサリと音を立てた。  
 「だけど、私と私の大事な人を、ここまで大切にしてくれた人は他にいませんでした。  
  すごく嬉しかった……」  
 仁美は目を押さえていた手を、カバンに移しあの婚姻届を取り出した。  
 「あなたは卑怯です。  
  自分で勝手に準備したくせに、処分は私に任せるなんて…」  
 仁美が歩み寄ってきて、その婚姻届を、空になった俺の手に納め、上からそっと握ってくる。  
 「あなたはこの前、私が本当に好きな人と結ばれて幸せになる権利があるって言ってくれました。  
  だから私は、一生あなたについていきます。   
  あなたといれば幸せになれる気がします――――」  
 そのまま唇を噛み締め、涙を浮かべて立ち尽くす仁美をそっと抱きしめて  
 「ああ、絶対幸せにする」とだけ答えた。  
   
 このあと、仁美の父の前で俺たちは誓いの口づけを交わした。  
 でも俺は、ここまでの周到さとは裏腹に頭の中が真っ白になってしまって  
 ほとんどなにをしゃべったか覚えていない。  
 ただ二人の本当に嬉しそうな顔を見て、それが俺の喜びであることにも気づいた――――  
 
 
 
 
   
   
 「ごはんできましたよ。 なにか考えごとですか?」  
 仁美がお盆を持ったまま俺の隣に膝を付き、顔を覗き込んできた。  
 「ん、ああ…、ちょっとね……」  
 「お仕事のことですか?」  
 仁美がテーブルに箸や食器を並べながら少し不安そうに声をかけてくる。  
 「あなたは私を気遣ってか、あまり自分の悩みを口にしなくなりましたね。  
  私でよければいつでも相談に乗りますから、何でも話してくれて結構ですよ……」  
 「ああ、ありがとう。   
  でも悩み事じゃなくて、今までのことを思い返していただけだから…」  
   
 二人で向かい合って座り、食べる食事。  
 まだ数えるほどしか経験はないが、とても心が落ち着き、自然な感じがして俺はこのひと時が好きだった。  
 「さっきのことなんだけど、結局、これでよかったのかなって思ってさ…」  
 仁美が箸を休め不思議そうな顔をしている。  
 「私の父のことですか?」  
 「ああ、最後に会ったときはとても嬉しそうにはしていたけど、  
  口では俺にわかるように、何も言ってくれなかった」  
 「父は元々自分の思ったことなんて滅多に口に出さない人でした。  
  大丈夫ですよ。 私も父も、あなたを選んだことを間違いだと思ってません…」  
   
 仁美がまるで、不安を取り除くように、俺の左手に自分の左手を重ねてきた。  
 薬指にはめている、銀の指輪が触れ合い、カチャリと小さな音を立てる。  
 「あなたは少し欲張りですよ。  
  いつもみんなに喜んでもらおうとしてるから…」  
 無言の俺に仁美が続ける。  
 「あなたを選んだのは私の判断なんですから。  
  これからはもう少し私だけに……」  
 仁美がそう言いながら優しく微笑みかけてくる。  
 「あ、そろそろお皿下げますね?」  
 一瞬目が合うと、仁美は恥ずかしそうにして、空いた食器を片付け始めた。  
 仁美が俺に心を開いてくれているのがわかる。  
 今唯一の家族の俺に……。  
 
   
   
 
 ベットの中でまた仁美と目があった。  
 どちらからとも無く笑みがこぼれる。  
 独りで使うには十分だが、二人で寝るには少し狭いベット。  
 いつもはもう一枚布団を敷いて別々に寝ていたけど、  
 今日は部屋の明かりを消した後、仁美に「そっちへ行っていいですか?」と声をかけられた。  
 もちろん断る理由なんてない。  
   
 「あ、あの、次からはあなたの方から誘ってくれると嬉しいです……」  
 「え……?」  
 「やっぱり、その…、こいうことって女性の方からって変じゃないですか……?」  
 「そんなこと、ないと思うよ……」  
 今度は俺が、仁美の不安を取り除くように、彼女の首筋につけたキスマークをそっと指でなぞった。  
 「じゃあ、明日も明後日も……。  
  こうしてると落ち着くから……」  
 俺は彼女の髪に指を通しながら、また優しく話しかけた。  
 「明日は、もう少し広い部屋でも探しにいこうか?」  
 「はい……。  
  あ、でも………」  
 「ん?」  
 「子供はまだいいかなって……」  
 「え?」  
 「もうしばらく二人っきりでいたいから……」  
 「――――それもそうだね」  
   

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