「お・は・よ、せんせv」
目が覚めたら、愛する妻が自分の上に乗っていた。
今日も朝から妻は激しい。とはいえ別に羨ましがられるような意味ではない。
目覚まし代わりに、体の上に思いっきりダイビングをかまされたのである。
妻は小さい。そして、軽い。しかしそんな妻にも助走とジャンプが加われば、加速がついて結構な衝撃となる。
「今朝のご機嫌は、い・か・が?」
「……痛い……」
思わずむせながら涙目で抗議したら、馬乗りになったままの妻に、左右の頬を手加減無しでむにーっと引っ張られた。
「朝のご挨拶は、まず『おはようハニー』でしょ?」
「おふぁよふふぁふぃぃ……」
無理矢理口を開きながら、数時間前にも同じ体勢になっていたような記憶が脳内を走馬灯のように駆け抜けた。
だが、同じ体勢でも着衣の有無や状況等で、随分意味が変わるものである。
「起・き・て?ご飯、できてるよ♪」
変わり過ぎた意味にある種の感慨にふけっていたら、妻はようやく馬乗り状態を止めてくれた。
鈍痛が残る頬をさすりながら食卓に向かい、その上を見て、唖然とした。
「何これ……」
テーブルを埋め尽くす皿、皿、皿。夕食でもこんな品数が出たことは無い。
その大半がコメパンパスタ、という炭水化物で占められているのは彼女の趣味で有るから仕方ないとして、これは一応ご馳走と言える状態であろう。朝っぱらからどういう事だ。
「ふっふー。驚いた?でも、記念日だもんねっ」
……記念日?と声に出そうになって、慌てて口をつぐんだ。
記念日。何の。覚えが無い。
しかし、それを言ったらどんな目に遭うか予測もつかない。今日仕事にいけなくなるかもしれない。今日は予備日だから行けなくなっても構わないのだが、下手をすると明日も。
思い出さないと、職業人生が危うい。
促されて上の空でテーブルに着き、妻が栄養バランスを全く無視して取り分けてくれた皿を受け取る。
食事の前のご挨拶だけは忘れないように唱えて、もくもくと食べる。視線を感じたら美味しいと褒めるのも忘れてはならない。
けれど、その間、脳内ではずっと。
今日が何の日か、考え続けていた。
出会った日だろうか。いや、あれはもっと早かった。
再会した(らしい)のは年があけた後で、正式に再開したのは春だ。
キスしたのは。プロポーズは。結婚式は。
以下、家に来たのは手料理を頂いたのは妻を頂いちゃったのは初めてのデートは手を繋いだのは抱き締めたのはプレゼントを渡したのは赤点をつけたのは再試にしたのは履修放棄届けを出されたのは面接をしたのは。
全部、違う。違う筈だ、憶えている限りでは。
「どーしたの?」
「……っ!」
突然話しかけられて、何故かピラフが乗っているという、掟破りに水分が少ないブルスケッタが喉につまった。
「きゃ!やだ、先生、死なないでー!!」
やめてくれ。新妻の手料理で死んだりしたら、一生の恥である。
「これ飲んで、これー!」
引き続き苦しんでいたら妻がなにやらグラスを手渡してくれたので、飲んだ。飲んでしまった。
「だいじょうぶっ!?」
「……これ、酒……?」
「うん。飲むつもりじゃなくて、雰囲気で……ごめんなさい!」
雰囲気で置いてあった酒を、結局朝から飲んでしまいました。
飲んでしまったからには仕方ない。今日の仕事は諦めよう。
それから、今日の身の安全も。
「ごめん」
涙目でごめんなさいを繰り返している妻に言うと、不思議そうな顔をした。
「なんで?先生、悪くないよ」
「悪いよ。実は、思い出せない」
「ふぇ?」
目を丸くする妻。可哀想に、真実を知ったらどんなに悲しむだろう。
オレの馬鹿。何故憶えていないんだ。この際だ、全て告白しよう。そして、彼女が望む罰は何でも甘んじて受けよう。
「ごめんね、今日、何の日だったっけ?ほんとごめん、二人の大事な記念日を忘れて」
そこまで言って目をつぶる。そろそろ拳が飛んでくるかと思った頃、椅子に据わっている膝の上が重くなり、柔らかくて暖かいものが体に触れた。驚いて目を開けると、妻の笑顔が目の前に有った。
「忘れてないよ」
「え?」
首に手が回る。どうやら痛い目には遭わないらしい。
「今日は今まであった記念日とかじゃなくてー、これから記念日になる日だもん」
「は?」
話が見えない。ついでに、近くなりすぎて妻の顔も見えない。
「……今日はねー」
諦めて目を閉じたら、軽く触れ合った唇が、甘えるように囁いた。
「11月の22日は、『いい夫婦の日』ってゆーんだよv」