「私来年の春卒業なんですよ」  
1年ぶりに訪れた母校で、私は2年3年の時の担任に告げる。  
夕暮れの職員室には私と先生、年配の古典教師が廊下側の席にいるだけだ。  
先生は日誌を書く手を止めると、眼鏡の奥の目を細めて、窓枠に寄りかかって立つ私の顔を見た。糸目がますます細くなる。  
「それはおめでとう。卒業後は就職か?進学か?去年や今年は少し雇用も回復したらし」  
「いや、永久就職するつもりです」  
「…………」  
 
黙り込んだと言うことは少しは意識してくれているのだろうか。  
4度目の告白を切り出す前に、私は嬉しくなって思わず笑ってしまう。  
ちなみに今のところ3戦全敗。惜しい勝負など一度も無かった。ヘタレな癖に意外と手ごわい男だ。  
初めて好きだと言ったのは高校の入学式の日、子どもの冗談だと笑って流された。  
もう結婚出来るからと宣言した16の誕生日、来年は受験だろうと説教された。  
そして前回の告白は進路も決まった卒業式の日、とりあえず大学は出ておけと窘められた。  
いい加減落ちてくれてもいいと思うし、今回ばかりはそう簡単には引き下がるつもりもない。  
 
「先生、卒業式のこと覚えていまよね。私来年卒業なんですよ」  
私はもう一度繰り返して、先生の顔色を窺う。  
夕日が眼鏡のレンズに反射して、感情が読み取れないのが非常に惜しい。  
 
そもそも私と先生との出会いは8年前に遡る。と言えば運命論でも語れそうだが、何のことは無い。  
中高一貫の女子校に赴任してきた新卒の若い教師に、当時中学生だった私が一目惚れした。  
以来二十歳のこの歳まで、私は初恋の相手を思い続けているというわけだ。我ながらいじらしくて涙が出る。  
だからこそ、今度は大人の勝負に出るつもりだった。  
 
「先生ももう三十路でしょう。そろそろ落ち着けって、教頭先生からお見合い勧められたって聞きましたよ」  
「そ、卒業生の間でも噂になってたか」  
先生の顔に苦笑が浮かぶも、自惚れないで欲しい。同学年の皆は、ほとんどが大学生活や社会人生活を満喫中だ。  
灰色の女子高生時代ならともかく、若い男に不自由しない環境で、普通は先生の噂なんかしないよ。  
ちなみにお見合いの話は父兄の間では暗黙の了解だった。  
独身教師には良くある話らしい。生徒に手を出されてはスキャンダルになると踏んだPTAや同窓会の陰謀だという説が有力だ。  
ともあれ今先生の声が裏返った理由(見合いを断った件が絡んでいるはずだ)を考えながら、私は犯人を追い詰める名探偵の気分で続  
ける。  
 
「人が受験の追い込みで大変だった時に、キャサリンと付き合ってたことも知ってます」  
「……ど、どうしてそれを」  
これは在学中から有名な話。女子高生の情報網を嘗めないで欲しい。  
平日に学区外でデートしていようと、目撃した主婦が噂好きな生徒の母親だともう手遅れ。  
ついでに言えば、アパート近くのコンビニ店員がマミコの彼氏だったことも先生は知るまい。  
自分だけイイ思いしやがってという、受験勉強に憑かれたクラスメイトの呪いが通じたのか。  
セクシーなブロンド美女よ目を覚ませ相手は糸目のヘタレ眼鏡だぞという、私の乙女の祈り(これも呪い?)が叶ったのか。  
先生はセンター試験翌日の登校日に、美貌の英会話講師に振られたという噂だ。  
受験生の担任は相当ストレスが溜まると言うし、呪いの効果でないと言えなくも無いか。  
 
「まぁ、キャサリンは通訳をしていたどこぞの社長と結婚したらしいですし、恋敵からは外しているんですけど」  
先生が動揺しているところを見計らい、私は隣の椅子に腰掛けた。ドーナツ座布団ということは、ここは学年主任の席だな。  
「教頭先生の遠縁ですっごい美人だったらしいじゃないですか。向こうも乗り気だったのに、どうして断っちゃったんですか?」  
先生の細い目が見開かれる。どうしてそんなことまで知っているのか、って言いたげだ。  
でも、そんなのきっと分かっているはずだから、答えてはあげない。  
 
そして、私はいよいよ勝負に出ることにした。  
「というわけで先生、今フリーなんですよね」  
「いや、ちょ、ちょっと待て」  
先生が教務室の隅に顔を向ける。先輩教師の視線が気になるようだ。  
だけど大丈夫。私が在学中から来年定年だと言われているお爺ちゃん先生は、耳が遠い。  
窓際の会話なんて聞こえてやしないだろう。計算済みだ。静止を無視して口を開く、  
「好きだから結婚してください。嫁でも婿養子でもどっちでも可、です」  
 
沈黙が辺りを支配する。  
タイミングが良いのか悪いのか、お爺ちゃん先生が給湯室に立ったために部屋の中に2人きりになる。  
やっぱり、何度繰り返しても返事を待つ間の一瞬はすごく、長い。けれど、  
「まだ君は若いんだ。三十男じゃなくたって、他に良い相手がいくらでも」  
先生の答えは私の望むものではなかった。  
 
子どもだから、受験だから、大学出てからと、いつも先延ばしにされてきた。  
いったい、幾つになれば認めて貰えるんだろう。もう成人もした今度こそ、って思ったのに。今度は先延ばしにもしてくれないんだ。  
良い条件のお見合いを断ったのは、私が4度目の告白するのを待っていてくれたからかもなんてのも淡い期待だったようだ。  
 
「っ、だったら若いうちにオッケーしろ!そうじゃないなら、はっきり断れ!このヘタレ中年めっ!」  
緊張の糸も何もかも切れた私は、椅子を倒して立ち上がった。  
 
そうだ。20代のうちは男っ気のない女子校内で生徒にもてたって、30過ぎればただのおっさん。  
これからはオヤジキモイとか言われればいいんだ。後がなくなったって私は知らない。  
糸目!若ハゲ!眼鏡!中年!馬鹿馬鹿馬鹿!先生の馬鹿!  
私は心の中でも先生を罵倒しながら、高校を飛び出していた。  
 
 
というのが去年の冬の話。私…いや私たちは今日結婚式を挙げる。  
短大の卒業式に駆けつけた先生にプロポーズされてから、早3ヶ月のジューンブライドだ。  
スピード婚なんて言われたけど、実際は9年越しなのだと主張しておく。  
日本列島を覆う梅雨前線よりも、私のしつこさのほうが上手だったということだろう。  
昨日までの雨が嘘のように、空は晴れ渡っている。  
いや本当、10年掛からなくて良かったよ。  
 
終  
 

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