[出会い編]  
 
 
俺が彼女に初めて出会ったのは、大学四年の冬だった。  
周りが就活であえぐ中、俺もまた同様で、受けた会社から送られてくる通知を見ては、肩を落とす日々を送っていた。  
そんな、ある日。  
久々に母校を訪問してきたサークルの先輩が、見かねて言った。  
「苦労してるわねー、中原君」  
「…もう、何にでもすがりたい気分ッスよ」  
「ふぅん」  
比較的親しかった後藤先輩。彼女は、暫く考えるそぶりをして、ドンと胸を叩いた。  
「よしっ。一肌脱いじゃる!カワイイ後輩の為にね」「えっ、マ、マジっすか!?」  
「マジマジ。私が今勤めてる会社にちょっと言ってみてあげるわ」  
君が今まで受けたトコよりも良いかは分からないけどね、と後藤先輩は加えた。…正に地獄に仏様!   「お願いします!!」  
この時俺には彼女が救世主、いや、聖母に見えたね。「で、でもすごいな。先輩にそんな権限あるんだ」  
すると先輩は、違う違うと手を振った。  
「私じゃなくてね。よくしてもらってる先輩に頼むのよ。…私と二つしか違わないのに、主任最有力候補にまであがってる人なの」  
「へぇ…」  
とにかく俺は蕨にもすがる思いで、先輩の話を受けた。  
それから二日。  
俺は慣れないスーツ姿で、都内の喫茶店にいた。先輩から連絡があって、指定された場所なのだ。  
先輩が頼った人が、面接というかたちで俺に会ってくれるらしい。ただし常に忙しい人なので、持ち時間は三十分。  
あとは俺次第とのことだった。  
 
もう、これが最後のチャンスだ…!  
髪も整えた。服装も整えた。頭の中で何百回と繰り返したテンプレの数々…。  
よし、かかってこい!  
一体何と戦うつもりだったのか疑問だが、俺は出来ることを最大限に準備して構えた。  
そして。  
―…カラン、コロン。  
ベルが鳴り、その人はやって来た。  
黒の上下のスーツに、高い身長をより際立たせるハイヒール。  
白い肌に、スッと通った鼻梁。桜色の唇。切長の綺麗な二重の瞳…、陳腐な言葉だが、『美しい』としか形容のしようがなかった。  
それくらい、彼女は美人だったのだ。  
「…あ、」  
俺の姿を見ると、ツカツカと歩み寄ってきた。  
情けないことに俺は、その行動だけで頭の中が真っ白になってしまったのだ。  
「君が、中原君?」  
今でも忘れない、その声。ハスキーボイスで囁かれたとき、ようやく我に返った。  
「あっ、よ、よろしくお願いしますっ!中原慎太郎といいます!」  
「そう、こちらこそ」  
俺の動揺も意に介さずに、彼女、氷室鏡子は向かいに座った。そして、腕の時計で時刻を確認した。  
持ち時間は、三十分。  
後藤先輩の言葉を思い出す。その仕草が、またプレッシャーとなった。  
「中原君、我が社を志望した理由を聞かせてくれるかしら」  
「はっはい、…わ、私は御社の」   
「『自分の』言葉でね。聞き慣れたテンプレはいらないから」  
………………………。  
…終わった。  
それから、自分が何を言ったかは記憶にない。  
ただ、真っ直ぐに俺の顔を見据える鏡子さんの顔だけは覚えている。  
そして、俺の人生の中で最も重い三十分は終わった。  
だから、驚いた。  
一週間後。フリーターの道も真剣に考えていた俺の元に、内定の連絡が入った時は。  
 
 
奇跡の内定の知らせから、三ヶ月後。  
俺は晴れて新天堂に入社し、営業部に配属された。  
正直外回りや、時には罵声も浴びる商談などキツイことは山ほどあった。  
でも。  
俺のために働き掛けてくれた後藤先輩や、『可能性』を信じて推薦してくれた鏡子さんのことを思うと、んな泣き言も言えない。  
クタクタになって帰宅する日々が、半年続いた。  
一方、鏡子さんはというと、華々しい業績を讃える噂が絶えなかった。  
自ら取引先の重役に直接話をつけて契約を取った、とか、他の同期が失敗を恐れて手出ししないことも、彼女は見事にやってのけたのだ。  
花形の企画部のエース。  
俺みたいなヒヨッコとは、縁の無い遠い存在。  
取引先の子息から何度も見合い話が持ち上がったりしたらしいが、全て蹴ってはいた。社内のプレイボーイの誘いも、にべもなく突っぱねていた。そしてついたあだ名が、『氷の女』。  
いや、全く的を得てる。  
 
「あっ」  
「…あぁ」  
ある日の昼休み。俺はバッタリと鏡子さんに出くわした。  
途端に顔が熱くなっていく。情けない、中坊かよ。  
「中原君。仕事は慣れた?」  
「は、はい。お陰さまで…」  
「ふぅん。…その割にはよく営業部から怒鳴り声がするけど?」  
……知ってんなら聞くなよっ。  
勿論、言えないけど。  
「あー…。えと、まだちょっとミスが多くて…」  
鏡子さんは、腰に手を当て、濡れたように綺麗な黒髪をかきあげた。  
「みたいね。推薦した私をがっかりさせないでね」  
じゃ、と言いたいことだけ言って去っていく。  
くそっ。  
どうやら俺も、他の男共に違わず鏡子さんのことを異性として意識してしまっているらしい。  
でもまぁ、あんなに綺麗なら当たり前かもしれない。…どうせ、相手になんかされないけどさ。  
 
営業部の新人として汗を流しながら、出世への道をひた走る彼女の姿を眺める日々が続いた。  
 
 
でも、俺は見てしまった。彼女の弱さを。  
 
「…くっそ、きちぃ…」  
いつもの様に商談を済ませて帰社した時、オフィスには誰もいなかった。  
最後かよ…。  
商談自体も、うまくいったわけじゃない。この間から大して進歩出来てない。  
「やってらんねぇよな…」愚痴がこぼれる。  
カタカタカタ…。  
「ん?」  
キーボードを叩く音がした。企画部の方からだ。  
まさか。  
その、まさかだった。  
「はい、えぇ…資料の方は明日朝イチで…」  
取引先からだろうか。  
携帯片手に液晶を見つめている。  
氷室鏡子が、そこにいた。さも当然の様に。  
「…はい、では」  
ピッ。  
通話を切り、フゥと息をつく。しかしまたすぐに資料を手に取った。  
彼女にとって、日をまたいでの仕事は珍しくないらしい。  
今まで定時にあがっていた俺は、そんなこと知りもしなかった。  
そしてまた翌日には、何事もなかったかの様に仕事をしているのだ。  
俺が知り、誰もが憧れる、氷室鏡子として。  
その姿を見つめながら、俺は自分が恥ずかしくなった。  
結局、自分は社会を甘くみていたんだ。なのに、心の何処かでは、『新人だから』という甘えがあった。  
俺は、踵を返してある場所に行った。  
 
「…中原君?」  
少し驚いた顔で、鏡子さんは俺を見た。  
「まだいたの」  
「はい。ちょっと商談が長引いて」  
「へぇ、…で、それは?」俺の手には、皿があった。サンドイッチが乗っている。給湯室にあった材料で作った、即席のものだが。  
「い、いや。氷室さん、お腹空いて…るんじゃないかな、と」  
弱まる語尾。  
彼女の怪訝な視線が、真っ直ぐに向けられる。  
 
だが、ふっと少し表情を和らげると、  
「…頂くわ。ありがとう」『ありがとう』なんて、彼女から初めて言われた。  
「い、いえ。別に」  
「うん、…結構美味しいじゃない」  
「…」  
やばい。かなり嬉しい。  
俺の数少ない特技の料理を、少なからず意識している異性に褒めてもらえんだ。嬉しくないわけない。  
「これくらい、仕事も出来たらいいわね」  
……突き落とすことも忘れないが。  
「あのっ、何か手伝うことありませんか?」  
空になった皿を片付けて、鏡子さんに言った。  
何故だろう。このまま彼女を一人にして帰ることが出来なかったんだ。  
「ないわよ、特に。企画と営業の仕事内容は違うもの」  
「か、簡単なことでも…」尚食い下がる俺に、鏡子さんは天井を仰いだ。  
…助けになりたいと思ったけど、かえってウザかったかもしれない。  
「…じゃあ、ここ二ヶ月分の売り上げまとめて頂戴。明日の会議で使うの」  
そう言って渡された書類の束。  
鏡子さんの顔を見ると、どこか呆れながらも…少し、微笑んでいた。  
(…初めてだ、笑った顔、見たの)  
取引で見せる上辺の笑みじゃない。自然なもの。  
「はいっ」  
これを見れただけで、残る甲斐はあるってもんだ。  
俺は少し前までの気分を忘れ去って、残業する癖に微笑みながら、自分の机に向かった。  
結局、この日俺が帰宅出来たのは、夜中の二時を過ぎたころだった。  
 
 
 
あの夜から、少しだけど俺と鏡子さんの関係は変わった。  
だからといって恋愛対象として見てもらえたわけでも、食事に行くほど親しくなったわけでもない。  
ただ社内ですれ違った時とか、お互い自然に挨拶をするようになっただけ。  
でもそれだけのことが、俺には妙に嬉しかった。前よりも仕事に対して前向きになったし、怒鳴り散らされて投げやりになりかけても、  
あの夜の鏡子さんの姿と、・・・微笑みを思い出して踏ん張れた。  
「なんだよ、最近頑張ってんじゃん」  
喫煙室で、山下が言った。  
同期で入社して、仕事の帰りに一緒に飲みに行ったりと結構仲がいい奴だ。  
「んー、まあな」  
「出世とか目指してんのか?やめとけやめとけ。神経すり減らすだけだよ」  
「違えよ。ただ、」  
・・・ただ、何だろうか。  
認めて欲しいのか、あの人に。  
「ただ?」  
煙を吐きながら山下が聞いてくる。  
「・・・なんとなく、かな」  
「なんだそりゃ。・・・俺はてっきり、氷室さんにでも褒められたくて頑張っちゃってんのかと思ったよ」  
「んなっ」  
なんで、ばれた!?  
俺の動揺を悟ったのか、余計に意地の悪い表情で迫ってくる。  
「はっはあ、当たりか。成る程?女王様にご褒美を請うためにねえ。健気なもんだ」  
「・・・べ、別に俺は」  
「でもよ、あんま夢見ない方がいいぜ。いくら仕事で認められたって、俺らみたいな男をあんな女が相手にするわけないしな」  
「・・・分かってるよ」  
妙に悔しくなって、煙草を途中で揉み消した。  
   
 
そんな会話から、1ヶ月もしないうちのこと。  
営業部にまである噂が舞い込んできた。鏡子さんが、仕事でミスをしたらしい。  
珍しいこともあるもんだな、なんて俺はそう重大には受け止めなかった。むしろミスしたことが違う部署にまで知れ渡ることの方が凄く思えた。  
だが、事態は新人なんかが考えもしないところで深刻なモノになっていたそうだ。  
企画部の前を通りかかると、常に上司らしき連中といつも以上に険しい表情の鏡子さんが  
議論を交わしていた。  
(・・・大丈夫かな)  
勿論俺なんかが心配する程、彼女もやわじゃない。強くて、凛々しくて、どんな逆境も跳ね返すはずだ。  
そう、思ってた。  
 
「終わった、終わった・・・」  
かなり粘り続けていた商談が、やっとまとまった。  
外はもう闇に包まれていて、それを打ち消すような賑やかなイルミネーションが眩しく目に映る。  
オフィスには誰もいなかった。まるであの日のように。  
手短に机の上を整理して、消灯をしてさっさと廊下に出た。仕事がうまくいったからか、気分がいい。晩飯は久しぶりに贅沢してみよう。  
帰るとき、俺は企画部を覗いてみた。鏡子さんがいるかもと思ったからだ。  
でも、いなっかた。  
うまく収拾がついたのかもしれない。内心ホッとして歩き出した時。  
 
自販機の前のロビーに、人影があった。  
(・・・ん?)  
薄暗い中、その人はただ座っていた。少し近づいて分かった。  
「氷室・・・さん」  
鏡子さんだ。腕を組んだまま、眠っている。  
 
「器用だな・・・」  
その側にはコーヒーのカップがあった。コーヒーを買って飲んで・・・そのまま眠ってしまったわけか。  
起こした方がいいのかな。向かいのソファに座って眺める。  
「ん、」  
「!」  
鏡子さんがうっすらと目を開ける。  
やばい・・・!近づきすぎた!  
慌てて立ち上がって逃げようとしたが、運の悪いことに足を滑らせ・・・  
「あっ」」  
ゴンッ!!  
「だっ!!?」  
後頭部、ソファの隅で強打。星が、見えた。  
「ん・・・えっ、な、なにっ!?な、中原君!?」  
頭に走る激痛に、初めて聞く取り乱した声。霞む視界には、鏡子さんの慌てた顔が・・・  
 
「・・・馬鹿ね」  
「す、すみません・・・」  
返す言葉もない。  
心底あきれかえった鏡子さんの膝の上に、俺は頭をのせていた。膝枕ってヤツだが、今はあまりの情けなさに、正直喜べない。  
いや、柔らかい感触がさ。天国みたいに心地いいけどさ。  
鼻に詰められたティッシュがまた滑稽さを煽っていた。  
あの後、俺は数分意識がなかったらしい。そして気づけば、この状態だった。  
「驚いたわよ。起きたら、一人で転んで気を失ってるんだもの」  
「・・・」  
「なに?やましいことでもしてたの?」  
「ちっ違いますよ!!氷室さんを、お、起こそうと」  
「へえ?」  
疑いの眼差しだ。俺に鏡子さんに悪戯する度胸があるわけない。悲しいけど。  
(それにしても・・・)  
胸、でかいな。Dはある気が・・・って俺は何をっ!  
「あっ・・・」  
 
「な、なに?」  
「い、いえ、なんでもっ・・・ありがとうございました!」  
慌てて飛び起きた。  
鏡子さんの膝枕への未練は大いにあったけど、生理現象が起こってしまったのだ。  
つまり、勃ってしまった。  
「もう、いいの?」  
「はいっ」  
股間を押さえながら答える。薄暗いのが助かった。  
もしもこんな事ばれたら、一生軽蔑されかねない・・・。  
「そう。・・・じゃあ、私、戻るわね。起こそうとしてくれてありがとう」  
カップを捨てて歩き出す鏡子さん。二回目の「ありがとう」だった。  
「あのっ」  
その後ろ姿に、思わず声が出た。勃起してるくせに、なんでまた注意を引くんだ。  
「なに?まだ、なにか用?」  
「えっと、大変なんですか?仕事・・・」  
「・・・」  
その端正な表情が、少し強ばった。  
「そうね。今は、楽ではないわね」  
「何か、手伝えることは、」  
「ないわ」  
ばっさりと、切り捨てられた。そりゃ、そうか。俺が出来ることなんて、ないよな。  
「自分のミスに、後輩を巻き込むなんて。・・・これ以上、恥かきたくないの」  
そう言って、気のせいだろうか。  
鏡子さんは、一瞬、ほんの一瞬だけ、泣きそうな顔になった。  
でもまたすぐに氷の女に戻って、今度こそ振り返らずに一人戻っていった。  
一人残された俺。  
自販機の明かりが顔を照らす。気づくと、もう生理現象は収まっていた。  
 
女である氷室鏡子に憧れる奴は多かった。  
だが同時に反感を持つ奴もいる。「女のくせに」なんて、古くさい考えで彼女に嫉妬する連中もいたのだ。  
今回の鏡子さんのミスは、裏でそいつらが動いていた可能性があるらしい。  
それを俺は、翌日山下から聞いた。  
 
彼女もそれは、薄々気づいているらしい。  
でも言わない。いいわけになるからだ。そういう連中に弱さを認めることになるからだ。  
自分に立ちふさがる壁の前で、彼女は一人だった。  
 
「誰か、先月分の売り上げデータ、まとめてくれんか」  
課長のダミ声が響く。  
だが、定時五分前では「残業しろ」といっているもんだ。  
みんなが聞こえないふりをする中、俺は手を挙げた。  
「はいっ、俺、やります」  
「おっ。中原、わるいな」  
全然すまなさそうにしていない課長から書類を受け取った。  
「おい、どーしたんだよ」  
田中が言う。  
「いや、残業代稼ごうかなって」  
「なんだよ。折角、[鳥好]寄って帰ろうと思ってたのによォ」  
「わりーな」  
同僚たちを見送った後、俺は一人作業を続けた。  
目的は、1つだ。  
午後七時過ぎ。企画部には、当然鏡子さんがいた。                   
難しい顔をして、書類とにらみ合っている。  
「あの、」  
俺は、内心拒絶されることを恐れながらも鏡子さんに近づいた。  
「なに、また残ってたの?」  
どことなくトゲのある声。苛立ってるのが分かる。  
でも今更ひかない。一日考えて、決めた。  
「俺にも、手伝わせて下さい!」  
頭を下げる。  
「手伝うって・・・。言ったはずよ、あなたに出来ることなんかないわ」  
「簡単なことでもいいんです」  
「昨日の私の話、聞いてた?これは、私のミスなの。後輩の、ましてや違う部署の人間に頼るなんて」  
「・・・頼って、何が悪いんですか」  
鏡子さんが、眉間に皺を寄せた。  
 
威圧感は凄まじい。  
でも、見てしまったんだ。きれいな顔に出来た隈や、一人誰もいないオフィスでで目頭を押さえていたこと。  
独りぼっちで、戦い続けていること。  
「あなたに、なにが分かるの」  
「・・・分かりません。でも、」  
顔が熱い。  
「俺だって、誰にだってこんな事言うんじゃない」  
頭に血が上ってる。  
支えられるなんて大それたこと、思っちゃいない。ただ俺は、  
「惚れた女だから、何でもしてやりたいし、したいんだっ!!」  
言った。  
言ってしまった。  
鏡子さんは、唖然として俺を見つめていた。  
 
「な、なに・・・馬鹿なこと」  
陶磁器の様な鏡子さんの肌がみるみる紅潮していく。  
「・・・っ」  
「ひ、氷室さん!」  
「ついてこないで!」  
そして赤らめた顔をこれ以上見られたくないのか、そのまま何処かへと行ってしまった。追いかけることも出来ずに立ちつくす俺。  
と同時に、覚悟はしていたものの猛烈な後悔が襲ってきた。  
(ただ、「後輩としてお世話になったしほっとけなかった」でよかったじゃんかよ!な、なんで焦ったんだ俺!)  
だが既に後の祭り。パソコンの液晶から放たれる光が、情けなく座り込む俺を照らし続けた・・・。  
 
カツン、  
「えっ・・・」  
頭を抱えたまま動けなくなっていた俺の視界に、黒のハイヒールが映る。  
「氷室、さん」  
彼女が戻ってきた。  
いつものように毅然と、だが目線だけは合わせないようにして立っていた。  
「あ、あの、さっきのは・・・いきなりで、すみません。でも嘘じゃない。俺は」  
俺の言葉を遮るように無言のまま席に着く鏡子さん。  
そばに立ちつくしたままの俺。・・・・・気まずいなんてもんじゃねえぞ、これ。  
それから数分経ったとき。  
もうこのまま帰ろうか、なんて最初の勢いも消え失せてしまっていたとき、ずい、と目の前に書類が突きつけられた。  
「は?」  
意味も分からず受け取る。呆ける俺に、冷静な・・・でも何処か強ばった声が言う。  
「言いたいことだけ言って、帰るつもり?・・・それ、お願い」  
そう言うと、再びキーボードの音が響く。  
これは、つまり。  
告白はとにかく、そばで手伝うことは許してくれるってことか?  
俺が後悔にのまれていた数分間、鏡子さんにどんな心境の変化があってのかは分からない。  
でも、  
 
「はいっ!」  
今はいい。恋人なんて関係になれなくたって、俺なりにこの人を支えたい。  
一人で戦うこの人を。  
 
それからは二人で日付を跨いで仕事をした。  
付き合いが悪い、と愚痴る田中たちに埋め合わせを約束して(おごりも約束させられた)企画部のデスクで書類と向き合い続けた。  
睡眠が足りなくて居眠りをして課長に叩き起こされたりしたけど、その声が企画部まで届いていたのか、鏡子さんがコーヒーを奢ってくれたりもした。  
いつかみたいに夜食も作った日もいっぱいあった。  
時にはうつむく彼女を見ることもあった。くじけそうになっても、そんな顔を俺に見られることを、彼女はよしとしない。  
俺だって慰めの言葉なんてかけない。どんな気取った台詞も、絶対陳腐な気休めにしかならないからだ。  
だから、そんなときは。  
温かいコーヒーを炒れて、何も言わずにそばに居続けた。  
 
そして、半月ほど経った頃。嬉しい知らせが耳に入る。  
鏡子さんが、この間のミスを帳消しにして余りあるほどの大きな仕事を獲得できたらしい。  
二人で仕事に没頭した、あの二週間の結晶だった。  
(良かった。ほんと、良かった)  
俺はその仕事の打ち合わせに向かう彼女の、出会った頃・・・いや、それ以上に凛々しく輝く姿を見て、妙に晴れがましい気分になった。  
俺はただ、ちょっと彼女を手伝っただけ。あとは鏡子さんの努力だった。  
「おい中原ァ、今日もダメなのかよォ?」  
「いや。今日は行けるよ」  
「そっか!じゃ、今夜はおまえの奢り、な!」  
バンッ、と背中を叩かれよろけそうになるが、これまで反故にし続けたこともあって「わーったよ」と了承した。  
久しぶりに野郎同士で飲むのも悪くない。  
ちょっとだけ二人で過ごした日々を惜しみながら、彼女に背を向けた  
 
着メロが鳴ったのは、連中と居酒屋に入って少ししてからだった。  
「ん?」  
「あ?どーした?」  
「なんか知らん番号から掛かってきた」  
「おい、迂闊にでんなよ。そーいうのって詐欺とかだったりするっていうし」  
「あぁ・・・」  
山下から忠告されたものの、切れる気配は無い。  
俺は意を決して通話ボタンを押した。そばで「馬ー鹿」と呆れた声がする。  
「もしもし」  
[・・・もしもし?中原君?]  
「あっ・・・えっ!?」  
電話の声。それは、紛れもなく鏡子さんのものだった。  
でも俺は鏡子さんに番号を教えてないし、俺も鏡子さんのは知らない。なんでだ?  
「な、なんで」  
[後藤さんから教えてもらったの。今、どこよ]  
「今はちょっと飲みに・・・」  
[そ、そう。・・・じゃあ、会えないわよね]  
「いやっ、大丈夫です!」  
その声にギョッとした同僚たちがこっちを見るが、気にならない。  
なんで鏡子さんがそうまでして俺に電話をかけてきたのか。まさか、またミスが!?  
[・・・それなら、会社まで、来て。話はそれから]  
そう言って切れた。  
「わり、急用が出来た!」  
「はぁ!?まさか、今の電話か?」  
「あぁ。お代はここ置いとく」  
伝票の上に万札を二枚。これだけありゃ足りるだろ。あとは知らん。         反論の間も与えないうちに、俺は上着を片手に店を飛び出した。  
 
会社に着くと、これから帰る連中とすれ違った。  
息を弾ませる俺を不思議そうに見るもののそこまで興味もないのか、さっさと足を進めていく。  
課長ともすれ違ったが挨拶もそこそこに俺は急いだ。  
そして。  
 
 
「中原君」  
鏡子さんは、あの夜と同じように自販機前のソファに座っていた。  
息を荒げる俺の姿に少し笑みを漏らしながら。  
「氷室さん。な、なんかあったんスか?」  
「いや、別に。ただ、」  
少し気恥ずかしそうに言う。  
「・・・お礼、言ってなかったなって」  
立ったままの俺を見上げてそう言う鏡子さん。  
大事だと勝手に構えていた俺は、体の力が抜ける思いだった。  
「あなたもね。仕事のこと聞いてたなら、さっさと帰ることないでしょ。・・・何にも言わないで」  
頬杖をついて、少し拗ねた様な顔の鏡子さん。  
やばい、ツボだ。最初の頃はこんな表情見れるなんて思ってもなかった。  
あの二週間で少しは心を開いてくれた、なんて自惚れてもいいのか?  
「俺は別に、何もしてませんよ。全部氷室さんが、」  
「違うわ。あの時・・・」  
その肌が、少し赤くなる。  
「あの日、あなたが来てなかったら・・・残ってくれてなかったら、きっと駄目だった。  
結局女には無理なんだって、負けを認めてた。なんか、吹っ切れたのよ、色々と」  
 
「す、好き・・・だって言ってくれて、から」  
 
心臓が止まるかと思った。  
差し込む夕陽の光にも負けないくらいに赤い彼女の顔を見て、俺の頬も熱くなっていく。あんなに冷たかった綺麗な瞳が、潤んでいた。  
氷の女、の異名を持つその体が小刻みに震えていた。  
混乱した頭で考える。いいのか?これは、期待しても。  
「氷室さっ、うわ!?」  
意を決して真意を聞こうとすると、突然ネクタイがかなりの力で引っ張られた。  
なんて力だ、なんて思う間もなく俺の唇は、  
鏡子さんの唇と重なった。  
何が起こったか理解するのに数秒かかった。  
柔らかい感触が全身に伝わって、電流が駆け抜けたようになる。  
 
そして、ゆっくりと離れる。  
これまでにない距離。しかも、社内で。  
上気した頬、伏し目がちに潤んだ瞳、俺の頬に触れる艶やかな黒髪、荒い息。  
抑えるなんて、無理な話だった。  
「んんっ・・・!?」  
今度は俺から口づけた。  
でもさっきみたいな、中学生同士のようなキスじゃない。  
深く唇を重ねて、歯列をなぞって、舌を絡ませる熱いキス。  
最初は頭を振ったりして逃れようとする鏡子さんだったが、徐々に稚拙ながらも舌をからませてきた。  
クチュ、・・・ジュッ、  
誰もいない廊下に響く、卑猥な音。  
でもいつ人が通るかも分からないということが、余計に刺激となった。  
「んっ、はぁっ・・」  
しばらくして、惜しむように唇を離した。  
ツ、と二人の間に糸が伝う。  
鏡子さんはというと、半ば放心状態でぐったりとしていた。  
「氷室さん・・・」  
やりすぎた、かな。  
口を手で覆って、ちいさく呟いた。  
「初めて、だった・・・のに」  
・・・・・・・・・・・・・・・え?  
「こ、こんなっ、キスするなんて」  
「は・・・初めてっ!?」  
・・・鏡子さんは、二十五歳にしてファーストキスをしたわけだ。  
社内で、三つ年下の男と。しかも、ディープキス。  
「・・・・・・」  
「・・・・・・な、なんで、今まで付き合ったこととか」  
「あ、あるわけないでしょう。ず、ずっと、女子校・・・だったのに」  
「入社してからとか、」  
「仕事、一筋だったわ」  
「・・・・・・」  
そうか。だからこの若さで、主任候補にまで。  
 
「・・・この間の、告白の返事のつもりで、したのよ」  
「えっ」  
「私の、方から」  
髪をかき上げながら何とか息を整えようとするその姿を見ながら、俺は頭の中でその言葉を繰り返した。  
[返事のつもり]・・・。  
つまり  
「お、OK、ってことですか?」  
「あっあなたね・・・!それ以外どう聞こえるの!」  
それもそうか。  
もどかしそうに端正な顔を歪ませる彼女に、俺はゆっくりと手を伸ばした。  
一瞬、鏡子さんが体を強ばらせる。  
でも気にせず、抱きしめた。  
徐々に体の力が抜けていく。そして、おずおずとその手が俺の背に回された。  
「鏡子、さん」  
俺は、初めて下の名前で彼女を呼んだ。  
「な、なに」  
「好きだ」  
俺を抱きしめる力が強くなった。そして、鏡子さんが小さく耳元でささやく。  
「私も、よ」  
と。  
 
 
つづく  
 

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