特急電車に揺られること三十分と少し。ようやく今月から住居にしているマンションがある町まで戻って
きた。
地下駐輪場にとめてある相棒――大学時代に趣味で購入したマウンテンバイクを受け取りにいこうと
したところ、薄暗い闇のなかに面倒な音が響き渡ってきた。
「うえー、マジかよ。朝の予報では大丈夫だって言っていたのに……」
すでに本降りとなってきている空を恨めしく見上げる。雨が降るのは夜中になってからという情報であった
はずなのに、雨粒がアスファルトへとぶつかる音はやかましいものになってきている。
電車内にいるときは、ぱらついている小降りの状態だから大丈夫かと思っていたが、これではそうも
いかなくなった。
仕方なく自転車に乗って帰るのはあきらめて駅の構内へと戻っていく。
バスの時刻表へと目をやっていると、スーツの胸ポケットにある携帯電話から着信音が響く。
慌ててカバンを小脇に挟んだところで肩をポンと叩かれていた。
「もーダメじゃないっ。社会人になったんだから公共の場では電源を切る。どうしてもっていうとき
だけマナーモードって話したばかりなのに」
振り返るまでもなく声だけで確認できた。
そこには結婚しておれの奥さんとなった女性がいた。
身長は180cmあるおれよりも少し低いぐらいで女性としてはかなりの長身。肩より少し長いぐらいに
揃えてある艶やかな黒髪が美しい。
妙齢の女性らしく、あくまでも品よくされた薄化粧。別にしなくても十分綺麗なのになんでするのか
わからなかったりするが、それは大人の女として当然のことよ――と返されたんだっけ。
春物の薄いセーターと濃紺のパンツで手足の長い肢体を包んでいる。
――モデルさんとか似合うだろうなぁ
夫の贔屓目があるかもしれないが、本当にそう思う。なんていうか、主婦にしておくのがもったいない。
でも、こんな美人を独り占めしているんだから、これは幸せなんだろう。きっと。
「あー、そうだっけ。ごめん。紗奈姉ちゃん」
「…………」
「いひゃひゃっ!」
切れ長の目をスッと細めて頬を抓ってくる奥さん。もしかしなくても、これは怒っている。
「悲しいなぁ、わたし。愛しの旦那さまが予報外れの雨に困っているだろうなって思って、お迎えに
来てあげたのに……。その旦那さまは昔の他人行儀な呼び方で冷たくて……ご褒美にぎゅっと
抱きしめてもくれない……。悲しいなぁ」
「いや、他人行儀って先月まで普通につかっていた呼び方だし……いたっ!」
お気に入りのサンダルでおれの足の甲を踏みつけてくる奥さん。これは早々にご機嫌を取らねば。
「あー、その紗奈。わざわざ雨のなかありがとね」
「……っ♪」
にっこりと満面の笑顔を見せてくれる紗奈姉ちゃん。背の高い女性にありがちな冷たい美貌という
ところはなく、心がほっとするような笑顔を見せくれる。
ぎゅっと抱きついてきた彼女は、ややあって不満げに見上げてきた。
「ねえー……ぎゅってしてくれないの?」
「えっ?」
「ねえってば」
「いや、その人目が……ね」
「…………」
じーっと上目遣いに見詰めてくる視線に耐え切れずに要求に屈することとした。考えてみれば、雨の
しかも忙しい夕方時に迎えにきてくれたのだ。これぐらいで済むものなら安いものだろう。
「……っ♪ ねえ、ただいまのキスは……?」
すりすりとおれの胸に頬を寄せていた紗奈がとんでもないことを言ってくる。ただでさえ見目麗しい
美女を抱きしめているというだけで好奇と嫉妬の目を集めているのに、
これ以上のバカップル行為は慎みたいのだが。
「あははっ、冗談よ、冗談。さすがにわたしもそれは恥ずかしいから」
ほっと一息ついたところに爽やかなアルトの笑い声。背中を伝っていた冷や汗もおさまってくれた。
「でも……強引に情熱的に唇を奪ってくれる旦那さまのほうがポイント高いかしら。さてと、
帰りましょうか」
差し出された一本の傘を当然のように相合傘にするよう命じられて有料駐車場へと向かうのだった。
高級国産車の助手席にておれは、運転席から出されるおれの今日の出来事について質問されていた。
紗奈は結構な資産家であったりする。数年前に亡くなった両親の遺産――ホテル事業を継続しつつも
抜本的な見直しを断行。
採算が合わない――苦しい地域からは潔く撤退し、ここしばらく観光性が有望視されてきている南の島
へと進出を決行。積極的に地元の人間を登用し閉鎖的な彼らのハートをがっちりと掴んでしまった。
その他の事業においても将来性の高い分野へと日々積極的に買収を続けて拡大してきている
早瀬グループは、正に飛ぶ鳥を落とす勢いという華々しいものであった。
アメリカでエム……なんとかの資格を取得してきている姉ちゃんの経営手腕を経済紙も高く評価
しているらしい。
とまあ、そんなわけで奥さんはお金持ちなわけだ。それもとんでもなく。
そんなにお金があるのなら外車でも買えばいいだろうにと以前話したことがあったのだが、彼女曰く、
『外車ディーラーのお高くとまった商売姿勢が気に食わないの。わたしたち商売人は腰が低すぎだと
思われるぐらいでもそれ以上に低くしなさいって、父様から口をすっぱくして言われてきたから。
だから、尚更あの上からの物言いが引っかかるのよね。
それにあんな車に乗っていると、自分はお金持ちなのよって、みっともなくアピールしているように
見えるから嫌いなの』
という具合に話していた。
庶民根性の染み付いたおれからすれば、国産車でも最高級のクラスを乗り回しているのだから大差が
ないのではと思ったりしている。
――もちろん、口には出さないけど。
「……で、そろそろ考えてくれたかしら?」
「えっ、何を?」
「お仕事やめるっていう話」
ダッシュボードへとしたたかに頭を打ち付けていた。どうしてこんなとんでもないことを言い出すのか。
就職したばかりの夫に退職を勧める妻。
――うん。どう考えても異常だ。
「あっ、あのねぇ……」
「えーっ。だって言っては悪いと思うけれど、わたしとトモくんの収入ってどれぐらい差があるか
分かっているかしら?」
「うっ……」
痛すぎるところをつかれる。その差は天と地どころか、日本からはるかお空の彼方のお月様までも
ありそうなぐらいだ(いや、もっとか……)。
かたや全国展開している総合グループのトップ。
そして大学を卒業したばかりのぺーぺーの新入社員――ルーキー。
……いかん、比べること自体が間違っていたんだ……。
「つまらない会社勤めはやめて、毎日わたしと面白可笑しく暮らそうよー」
仮にも大企業のトップに立つ人間が、会社勤めはつまらないだなんて何てことを言い出すんだ……。
「いやね、定年退職を数年後に控えた年ならわからないこともないけど。さすがにこの若い身空で
ヒモ同然の男にはなりたくないっていうか……。むしろ愛する奥さんには社会人一年目で奮闘する
おれを応援してもらいたいなーって」
「……っ♪ そっか、そうだよね。結婚してずーっと一緒にいられるわけだから、そんな焦ること
なんてないよね」
少し膨れていたのだが、愛する奥さんというフレーズを聞いた姉ちゃんは目に見えて上機嫌となる。
紗奈がハンドルを軽快に操りながらふたりが暮らす家へと車は滑るように走る。
ちょっと話題が途切れて静かになった車内。ふと思いついたおれは、晩御飯のメニューを聞いていた。
「おっ、よくぞ聞いてくれました。昨日の夜から寝かせて準備していたハンバーグよ」
小さいころからよく作ってもらっていた紗奈姉ちゃんお手製のハンバーグ。ずーっと刷り込まれてきた
せいか、その言葉を聞いただけで口の中では唾液があふれてくる。
「おおー。久しぶりだよね。紗奈姉ちゃんのハンバーグ。結婚してからは初めてだっけ……」
「…………」
ぺらぺらと褒め言葉を並べ立てていったのだが、姉ちゃんの反応は芳しくない。むしろ怒っている
ような節さえある。
「……また姉ちゃんって言った」
「あっ……」
「わかった、もういい。いつまでも姉ちゃんって言って弟気分の抜けないトモくんは、納豆ご飯に
メニュー変更」
「いっ!? あっ、そのごめんっ」
別に納豆が嫌いってわけじゃない。どちらかといえば好きなほうだ。
でも、何が悲しくて大好物の姉ちゃん特製ハンバーグをおあずけされて納豆ご飯のディナーに舌鼓を
打たねばならないのか。
どうやら、おれをわざと困らせて楽しんでいるようなところもある。これもひとつのコミュニケーション
の形なのかもしれないなーっと思ったおれは、手を頭の上で合わせて大仰に謝罪してみせていた。
――本当に納豆ご飯の刑だったとしたら、その時はその時だ。我慢するさ……
マンションへと着き、最上階フロアの部屋へと戻りふたりで夕飯を済ませると、促されるままに
バスルームにて汗を流していた。
――ちなみに納豆ご飯の刑はなんとか回避することができた。
「このフロア……全部買い取っちゃったんだもんなぁ……。だからおれたちふたりだけしかいない空間。
金持ちってホント分からないな……」
湯船にて、持ち込んだタオルを何気なしに膨らませて遊んでいる。
この部屋と隣室の壁をぶち抜いてひとつにして、おれたちの住居に。残った部屋は壊すなり改造する
なりして、紗奈姉ちゃん専用のオフィスにするんだって言ってたっけ。
『トモくん。湯加減はどうかしら?』
脱衣所から声がかけられる。曇りガラスにはシルエットが浮かび上がっていた。おれは顔を軽く洗う。
「うん。ばっちり。ご飯と同様に文句のつけようがないないよ」
『そう。ねえ、わたしも入るね』
何の脈絡もなしの言葉に思わず頭を浴槽のふちにぶつけていた。痛みのため、歓迎も制止もする間も
なくガラスが開け放たれて浴室内へと外気とともに姉ちゃんが入ってくる。
「――どうしたの?」
「ああ、タオルつきね……」
「えっ?」
「ん、いや。なんでもないから気にしないで」
紗奈は風呂イスを出すと、手に持ったスポンジを熱心に泡立てていく。その様子をなんとなく見入って
いたおれへと視線が向けられてきた。
「……よし、できた。ほら、こっち来て。トモくん」
「えっ、おれはもう身体は流したし頭も洗ったんだけど」
「いいから」
「いや、だから……」
「わ た し が 背 中 を 流 し て あ げ た い の」
一字一句区切って幼児へとよく言って聞かせるべく噛んで含めるような感じ。押し問答を続けても
意味がないし、ここは厚意に甘えることとする。
「〜〜っ♪」
楽しくて仕方がないとばかりに鼻歌交じりで、ゴシゴシと背中をこすってくる。適度に
力が込められており、これはなかなか心地よい。
時折背中に当たる乳房――おっぱいの感触も気持ちいい。おっぱいは揉むのも楽しいけど、
こうやって当てられるだけでも気持ちよくなるものなんだと新たな発見。
ふと股間にて盛り上がってきたテントを慌てて押しとどめる。
――ヘイ、マイサン。おまえさんが活躍するのはもうちょい先だ。今は押さえ気味で頼むぜ。
「……えっとね」
「うん?」
「あの、おっぱいあまり大きくなくてごめんね」
「……どうしたの、急に?」
「だって大きい――その巨乳の子が好きなんでしょ?」
「…………」
これは一体全体どういうことだ。確かにおれは巨乳フェチのきらいがある。だが、これは極秘中の極秘
――トップシークレットのはずだ。
ただ、おれが愛好していたのはあくまでも巨乳の枠に収まる乳までだ。
爆乳? 垂れること間違いなしの将来性のない乳には興味ない。
巨乳だったら――エクササイズとか頑張れば重力への挑戦はクリアできる……はずだ。
「……『巨乳浴衣娘〜境内にて朝まで祭囃子〜』……『巨乳ブルマ〜いけない体育倉庫〜』……」
ぼそっと呟かれた声が拡声器でもって耳元から怒鳴られたみたいに入ってくる。
おかしい。
あの秘蔵中の秘蔵DVD――あれはおれの部屋にある段ボールへと厳重に封印されていたはず。
「あっ、誤解しないでね? わざとじゃないの。お掃除していて、片していない段ボールのなかに
ひとつだけ色が違うものがあってどうしても気になって……。それでつい……」
なんという凡ミスだろうか。そりゃあ、奥さんは掃除で入ってくるに決まっているじゃないか……。
だが、誤解しないでほしい。あれ――いや、彼女たちは切り捨てられなかったんだ。
おれへの夜の貢献度bPの座を巡って凌ぎを削っていた二枚――いや、ふたり。
言わば大学時代の独り寝の寂しかった時期のよき思い出。他は処分してきたんだが、これだけは切れ
なかったんだ……。
「…………」
いかん。ここは押し黙っている姉ちゃんのためにもなにか答えなければ。
紗奈姉ちゃんはほんの半月前までバージンだった。こういうエログッズに偏見があるやもしれん。
意識していないのだろうが、姉ちゃんはひしっとおれの背中に抱きついてきている。ということは、
ダイレクトにおっぱいの感触が伝わってきているわけで。
――やれやれ。もう待てないってのか? 今は何気に新婚夫婦の危機だってのに、おまえさんは
本当に空気の読めない困ったちゃんだぜ……。
全開で自己主張してきている自分の分身に、心中でため息をつく。
(んっ? ああ、これでいいじゃん)
「……えっ?」
胸へと回されていた姉ちゃんの両手を股間へと導く。マイサンはおれ以外の手が触れてきてご機嫌だ。
「……あっ、熱い」
「言い訳はしないよ。確かにおれは巨乳が好きだった」
「…………」
「でもね、おれは紗奈と結婚――あのときのホテルでエッチしてから、紗奈の美乳に鞍替えしたの」
「……びにゅう?」
「そう。紗奈の形の綺麗なおっぱい。それだけじゃなくて感度もいい。おれ専用のかわいいおっぱい」
「……っ」
ぎゅっとおれの一物を握る力が強まる。どうやら琴線に触れるセリフがあったらしい。
――うん。微妙に痛いけど、ここは我慢さ……。
「わかる? 紗奈が好きだから……欲しいから、こいつはこんなに熱く大きくなっているんだ」
ふにふにと当たっていた乳房が背中でムギュっとつぶれる感触。
「わたしが一番なの?」
「もちろん」
「わたしが一番なのよね?」
「う、うん」
念入りに繰り返される確認。なにをこんな丁寧に聞いてくるのか。
「わたしが一番ということは――他には何もいらないということよね。それじゃあどうして
あのいやらしいDVDがこの家に存在しているのかしらねぇ……?」
「えっ……」
これはいい雰囲気? 初めてのお風呂エッチに突入できるか? いや待てよ。ソープランドごっこ
もありか? などと展開していたピンク色の妄想が一気に吹き飛んだ。
なんなの? この聞いたことのない声音による頭と腹に響いてくる低いボイスは……。
「いいいいい、いやだからね? あれは青春時代のよき思い出っていうかね? なんていうの……
シークレットメモリーってやつ? 触れるな危険っていうか、男には隠れた趣味があるんだよ
っていうか……」
「……ぷっ」
「あれっ?」
「あっはははははっ! おっかしいの、トモくん本気で焦ってるー。かわいいっ♪」
ムギュッと頭を抱きかかえられていた。
「もしかして……怒っていない?」
「もちろん。わたしも大人の女よ。男の子がそんなのを持っているなんてわかっているから」
「はぁ……」
安心したらなんだか力が抜けてきた。風呂イスの上でちょっと脱力し、ほっと息をつく。
「でも……」
「うっ……」
スポンジの泡をつけた右手でおれのあそこを弄んでくる。ヌルヌル感がたまらない。
「これから射精するときは……わたしのアソコでなきゃイヤよ? ダ・ン・ナ・さ・ま」
ふぅーっと耳へと吹きかけられる息でゾクゾクしてくる。ちょっとでも気を抜けば射精して
しまいそうである。
「さっ、紗奈っ」
振り向いて押し倒そうとしてきたおれの額をピンと人差し指で弾いてきた。
「ダメ。ベッドで待っていて。身体ちゃんと洗ってからいくから」
「えっ……別にここでも」
ジト目で睨むこわい奥さんからぎゅーっと頬を抓られていた。
「わたしが嫌なのっ。ちょっとは奥さん心理を理解しなさいね」
「いひゃい、いひゃい!」
こうしておれは風呂場から追い立てられていった。腹に反り返らんばかりに盛り上がっていたマイサン
も憔悴気味であった。
まあ、気分を損ねてはどうしようもない。
気持ちに整理をつけたおれは、寝巻きを身に纏うと寝室へと足取りも軽やかに向かうのだった。