僕とみのるはデパートから出ると、入り口近くに置いてあるベンチに座った。  
 近くにある自販機で缶コーヒーを2本買い、1本をみのるに渡す。  
 さっき喫茶店でコーヒーを飲んだばかりだったが、今の僕は喉が渇いていた。  
 プルタブを開けて、コーヒーを口に含む。  
 一番甘いカフェオレを買ったのだが、いまいち味がわからなかった。  
 
 みのると2人で沈黙したままベンチに座り続ける。  
 僕がコーヒーをちびちび飲んでいると、みのるが喋りだした。  
「まだ私の両親は、イギリスに住んでるんだ。  
 両親の出張が終わったっていうのは嘘。  
 向こうの大学が夏休みになったから、私だけで日本に来たの」  
「なんでわざわざ日本まで来たんだ?」  
「それはもちろん、なおき君に会いたくなったから。あ、これは嘘じゃないよ。  
 もう一度会って、私の気持ちを伝えたかったの。私が大学を卒業するまで待っていてほしい、って」  
 
 みのるは短く笑うと、コーヒーを口にした。  
 缶を少しだけ傾けていたから、少しだけ飲んでいるように見えた。  
「でも馬鹿だよね。2年間も音沙汰なしなのに、まだ付き合えると思ってたなんて。  
 なおき君の近くにはあおいさんがいるはずだって、勘付いてたのにね」  
「そう思ってたんなら、なんで諦めないなんて言ったんだ?」  
 僕の言葉を聞くと、みのるはむっとした顔になった。  
「……ちょっと考えたらわかるはずだけど」  
 ちょっと考えたら、と言われても。  
 昔のみのるは僕を困らせるためにあんなことを言う人じゃなかった。  
 しばらく会っていなければ性格が変わることもあるかもしれないけど、どうも納得できない。  
 
「……我慢できなかったの。久しぶりになおき君に会ったら。  
 昔の楽しかったこととか、会えなくて寂しかったこととか思い出すと、  
 どうしても気持ちを抑えることができなかったの。  
 ごめんね。そのせいで2人の邪魔をすることになっちゃって」  
 みのるは僕に向かって頭を下げた。  
 顔を上げたときの目は、本当に申し訳なさそうにしていた。  
「……僕の方こそ、ごめん」  
「? どうして謝るの?」  
「僕はみのるがもう帰ってこないと思って、それであおいと……」  
「気にしすぎだよ、なおき君は。そこがいいところでもあるんだけど」  
 
 みのるは缶コーヒーを一気にあおると、くずかごに放り込んだ。  
「今からちょっと付き合ってもらってもいい?」  
「いいよ、どこに行く?」  
「私が今住んでいる部屋」  
 みのるはベンチから立ち上がると、僕に背を向けて歩き出した。  
 僕はコーヒーの残りを飲み干してくずかごにいれて、みのるの後を追った。  
 
*****  
 
 デパートから歩いて、みのるの住むアパートに到着した。  
 アパートの階段を登り、向かいにある自分の家を観察する。  
 あおいはもう帰ってきているんだろうか?  
 喫茶店で何も言わなかったからどこへ行ったのかわからない。  
 自分の部屋を見ても窓が閉め切られているせいで中の様子は伺えない。  
 できれば、僕が帰ってきたときにあおいがいてくれたら気が楽だ。  
 文句か何かを言われるならできるだけ早い方がいい。  
 
 みのるは昨日僕を連れ込んだ部屋の前にくると、呼び鈴を押した。  
 おかしい。自分の部屋なら呼び鈴を押すはずがない。  
 部屋の中に他の人が住んでいるということなのだろうか。  
 いつまで待っても、ドアの向こうからリアクションは帰ってこない。  
「今いないみたいだね」  
「他に誰か住んでるのか?」  
「ここ、見てみて」  
 みのるが指で指したのはドアの横についているポスト。  
 ポストには、みのるの苗字とは違う苗字が書かれた紙が貼りついていた。  
 じゃあ、ここはみのるが借りている部屋ではないということか。  
 
 みのるは部屋の鍵を開けると、ドアを開けて中へ入っていった。  
「どうぞ」  
「うん。お邪魔します」  
 昨日僕が入ったばかりの部屋は、特に変わっている様子はなかった。  
 部屋の中は整理されていた。  
 本は全て本棚の中に収まっていて、床に放置されていない。  
 テーブルの上には何も乗っていない。余計なものがないのかもしれない。  
 ふと、机の方を見たら写真が飾ってあった。  
 みのるとは違う女性が映っていた。  
 写真の中の女性ははにかんだように微笑んでいた。  
「その写真に写っている人が、この家に住んでいる人。  
 私の友達。日本にいる間だけ間借りさせてもらってるんだ」  
「じゃあ、ここに住んでいるっていうのも嘘?」  
「住んでいるという意味では嘘はついていないけど。うん、結果的にはそうなるよね」  
 みのるは畳の上に座ると、僕を見上げた。  
「座ったら?」  
「ああ、うん」  
 促されるままに、みのると向かい合うようにして胡坐をかく。  
 
「なおき君は……」  
「うん?」  
「えと……あおいさんとどこまでいってるの?」  
「どこまでって、どういう意味で?」  
「ほら、結婚を前提に付き合っているわけだからさ、その……」  
 みのるは僕から目をそらすと、ちらりと下を見た。  
 その仕草で、みのるがどんな意図の質問をしたのかがわかった。  
「まあ、その……いくとこまでいっている、って感じかな」  
「……ふーん」  
 みのるは半眼で僕を見た。  
「不純」  
「なんでそうなるんだ」  
「婚前交渉を行うなんて、不純です」  
 今時何を言っているんだ、と僕は思った。  
 だが、もしかしたらイギリスでは婚前交渉を行うのは当たり前ではないのかもしれない。  
 それか、両親が貞操観念に関して厳しい人なのかもしれない。  
 しかし、女性からそう言われると悪いことをしたような気分になってしまうのは何故なのだろう。  
 
「昔付き合っているときは私に何もしてこなかったくせに」  
「何もしなかったわけじゃないだろ」  
「私とは、キスまでしかしなかった」  
「高校生だったらそんなものだと思うんだけど」  
「知ってた? 高校のクラスメイトは何人も経験済みだったらしいよ」  
「……それは知らなかった」  
 高校時代に仲の良かった友人は誰一人としてそんな話はしなかった。  
 僕が他人のそういったことに干渉しないようにしていたからかもしれない。  
 
「あの時、無理を言って抱いてもらえばよかったかな」  
「は?」  
「そうしたら、もしかして、私のこと……」  
 そう言って、みのるは僕をまっすぐに見つめた。  
 みのるの言葉の続き。僕にはなんとなくわかる。  
 『海外へ行ってしまっても、待っていてくれたのかも』。  
 僕は、みのるを抱いていたら、みのるが戻ってくるのを待っていたのだろうか?  
 
 ――きっと、違う。  
 抱いていたとかいないとか、そんな事実が必要だったわけじゃない。  
 僕に必要なものはみのるとの約束だった。  
 約束があれば、僕はみのるのことをずっと待っていた。  
 
 あの時、みのるが海外へ行ってしまったとき、僕は悲しんだ。  
 海外へ行くみのるに何も言わなかったことを、僕は悔やんだ。  
 きっと、何よりも先に、僕は言うべきだったのだ。  
 『いつか日本に戻ってきたら、また恋人として付き合ってください』、と。  
 
 何故そんな簡単な一言を言い忘れてしまったのか。  
 高校生の僕にとって、みのるは誰よりも大切な存在だったのに。  
 そして、みのるが僕を、僕が想うのと同じぐらい想っていてくれたこともわかっていたのに。  
 
 けれど、今は違う。  
 僕にはあおいがいる。誰よりも大切な、婚約者がいる。  
 あおいを裏切りたくない。かつてのように失った悲しみを味わうつもりはない。  
 あおいに悲しい思いをさせるなんて、僕は嫌だ。  
 だから、僕は口にする。みのるに期待をさせるわけにもいかないから。  
 
「ごめん。たとえみのるとそういうことをしていたとしても、待っていたとは思えない」  
「…………まあ、やっぱりそうだよね……当たり前か」  
「ごめんな、みのる」  
「別に、謝らなくても」  
「ごめんな、ごめん」  
 下を向いて、ひたすらに謝る。  
 謝罪の言葉を言わずにはいられなかった。  
 
「……なおき君は、本当に優しいよね。  
 私みたいに、いきなり戻ってきて迷惑なことを言う女さえ邪険に扱わない」  
「僕は優しくなんてないよ」  
 もし優しい男であれば、恋人の気持ちがわかる男であれば、みのるを待っていたはずだ。  
「あおいさんが羨ましい。これからなおき君をずっと独占できるなんて」  
「……独占というより、支配の方がしっくりくるけどね」  
「そうだね。あおいさん、ちょっと怖いから。……あ、悪く言っているわけじゃないからね。  
 ものすごく察しがいいし、独占欲も強そうだし、って意味。浮気したら、すごいことになりそう」  
「まあね……」  
 
 仮に僕が浮気したり、もしくはあおいに浮気の誤解をされた日にはどうなることか。  
 おそらく修羅場は免れないだろう。  
 そして、僕は刺される。これはほぼ間違いない。  
 
「どうしよっかなー。今からなおき君と……うふふ」  
 みのるの目があやしく笑う。  
 この目は、よからぬことを企んでいる目だ。  
「なんだよ。その目は……」  
「んーん、なんでもないよ」  
「本当に? 今から僕をどうにかしようとか考えてないよな?」  
「……まさか。そんなことするはずないじゃない」  
「目を逸らさずに話してくれないか」  
 
 僕から顔を背け、とぼけた振りをするみのる。  
 その仕草を見ていると、自分の気持ちが楽になる。  
 僕はみのるに許されているのではないか、と。  
 また、僕はいつまでも後悔し続けなくてもいいのではないか、とも。  
 
*****  
 
 みのると別れ、自宅に帰る。  
 玄関を開けると、そこにはあおいが待っていた。  
「ただいま」  
 僕がそういうと、あおいはいつも通りの眼差しを僕に向けた。  
「おかえり、なおき」  
 見る者に何を考えているのかわからなくさせる、不機嫌そうな目。  
 もしかしたら僕とみのるがいることを心配に思っていたのではないかと期待していたが、  
あおいの表情からは何も読み取れなかった。  
 
「なおき、お昼は?」  
「いや、まだ食べてない」  
「そう。よかった、料理が無駄にならなくて」  
「……もしかして、僕が帰ってくると思って、作って待ってたのか?」  
 壁掛け時計を見ると時刻は3時を回っていた。  
 僕がご飯を食べて戻ってくるかもしれなかったのに。  
 それに。  
 
「怒ってないのか?」  
「何を?」  
「いや、何をって……」  
 僕は視線をアパートの方角へ向けた。  
「あの子と何かあったかも、って?」  
「うん……」  
「あんた、昼飯抜きがいいの?」  
 あおいの目がさらに細くなり、声までが不機嫌になった。  
 なぜか知らないが、今のあおいは怒っている。  
 僕が何かおかしなことを言ったのだろうか。  
 
「あんたがあの子に何かするわけないし、あの子があんたに何かするわけないでしょ」  
 それはどういう意味なのか。  
 僕にはみのるに手をだすわけがない、というのはわかる。  
 あおいは僕を信頼してくれているということだろう。そう思ってくれるのはありがたい。  
 しかし、みのるが僕に何もしないということを、なぜあおいは知っているんだ?  
「あの子、無理してるのがバレバレだったわよ」  
「みのるが無理をしてるだって?」  
「……あんた、本当にあの子と昔付き合ってたの?  
 あの子の昔の性格を思い出してみなさいよ。どんな性格だった?」  
 
 天井を見上げながら、黙考する。  
 みのるは昔、僕にベタベタしたりしなかった。  
 人前で手を繋ぐことを恥ずかしがるような女の子だった。  
 だから僕自身、みのるに強引なことをしなかった。  
 僕がキスまでしかしなかったのも、みのるのためを思ってのことだった。  
 あおいは、みのるの性格まで理解していたのか。  
 
「思い返してみると、再会してからのみのるの行動はおかしかったかも……」  
「そういうことよ」  
 みのるは僕に背をむけると、さっさと台所へ向かっていった。  
 靴を脱いで、居間へ向かう。  
 そこには、ラップをかけられた冷やし中華が用意されていた。  
「はい、これ」  
 あおいは冷やし中華のたれと、水の入ったコップを僕の前に置いた。  
 たれをかけて、時間が経ったせいで固くなった冷やし中華を箸で混ぜて、食べる。  
 正午から時間が過ぎていたけど、麺はちょうどいい固さだった。美味い。  
 
「あおい、おじさんとおばさんはいつ戻ってくるんだ?」  
「明日は戻ってこないって連絡があったわ」  
「それじゃあ、明日、ちょっとだけつきあってくれないか?」  
「またデートのお誘い? いいわよ。明日はあの子も来ないだろうし」  
「いや、実はみのるがらみの用事で……」  
「……へえ」  
 あおいは僕の前から冷やし中華の皿をどけた。  
 そして、自分で箸を持って食べだした。  
 
「あ、いきなり何を」  
「続き」  
「へ」  
「付き合ってあげるわよ。どこにいけばいいわけ?」  
 箸を止め、怒りを押し殺した声であおいが言った。  
「実は、駅につきあってほしいんだ」  
「駅? 今度は海水浴にでもいこうっての?」  
 あおいは、眉間に深いしわを寄せた。  
 さらに不機嫌になったことを告げるサインだ。  
 
 あおいは海水浴にいくのが好きではない。  
 あおいが自分のスタイルを気にしているということを、僕は知っている。  
 小柄で、起伏が弱い体をしているあおいはスタイルが丸わかりになる水着を着たくないのだろう。  
 
「悪いけど、そういうことならパス。2人で行ってきなさい」  
「いや、待って。そういうことじゃないんだ」  
「じゃあ、どこにいくつもりなのよ」  
「実は、明日、みのるが――」  
 
*****  
 
 翌日、僕はあおいの運転するバイクの後ろに乗って駅までやってきた。  
 僕1人で来てもよかったのだが、あおいが運転するといって聞かなかったのだ。  
 あおいはバイクを駐輪場に停めると、ガードレールにもたれかかった。  
「それじゃ、ちゃっちゃと済ませてきなさい」  
「あおいは行かないのか?」  
「あたしが行く必要なんかないでしょ。あの子の見送りなんて」  
 
 今日、みのるはイギリスへ帰ることになっていた。  
 僕はそのことを、昨日みのるの口から聞いていた。  
 駅から空港バスに乗って空港へ向かい、イギリス行きの飛行機に乗るらしい。  
 そうなったら、もうみのるとは会えなくなる。  
 多分、今生の別れになってしまうだろう。  
 
「せめて、何か伝言でもないのか?」  
「伝言ね……」  
「ほら、元気でねとか、また会いましょうとか」  
「……1回だけなら許してあげる」  
「え?」  
「1回だけなら許してあげる。そう言って、あの子に」  
「ああ、うん。わかった」  
 
 駐輪場から離れて、駅のロータリーへ向かう。  
 駅から出てくる人と、駅に入っていく人たちが暑そうな顔をして歩いていた。  
 僕もポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭った。  
 気温と、日差しと、風と、道路に浮かぶ陽炎がまだまだ夏であることを証明していた。  
 いくつかあるバス停のベンチ、その一つにみのるが座っていた。  
「みのる」  
「あ、なおき君。今日も暑いね」  
「うん」  
 みのるはノースリーブのシャツとデニムのショートパンツといういでたちだった。  
 足元には大きなバッグ。それを見て、みのるがイギリスへ帰るという事実が現実味を帯びてきた。  
 
「あおいさんは?」  
「来るように言ったんだけどね、僕1人のほうがいいだろうってことで来なかった」  
「そうなんだ。あおいさんともお別れしたかったな」  
「代わりに伝言を預かってきたよ」  
「どんな?」  
「1回だけなら許してあげる、って言ってた」  
 みのるは、わからない、というふうに首を傾げた。  
 僕も考える。1回というのは、どういう意味なんだろうか。  
 おそらく、みのるが何かするのを、1回だけ許すという意味だろう。  
 答えが解らず考え込む僕と対照的に、みのるは何かに気づいたように眉をぴくりと動かした。  
 
「あ、わかった。どういう意味か」  
「どんな意味なんだ? 1回って」  
「なおき君に」  
「僕に?」  
 聞き返す僕に、みのるは何か言おうとして口を開いた。  
 しかしそれをやめ、かぶりを振り、また口を開いた。  
「……やっぱり、やめた。なおき君に意味を教えるのも、私がそれをするのもやめ」  
「なんでだよ。変なことなのか?」  
「うんん、そうじゃないんだけど、むしろ嬉しいことだけど、あおいさんに悪いから。だからしない」  
「……よくわからないけど、本当にそれでいいのか?」  
「その方がいいの。きっと、その方が私のためにはいいんだ」  
 
 そう言って、みのるは笑った。目と唇だけを緩ませて、笑った。  
 控えめな微笑みが、僕に向けられていた。  
 僕は笑うこともできず、みのるに何か言うこともできなかった。  
「なおき君。私もあおいさんに伝言があるんだ」  
「みのるも?」  
「うん。あのね……こんなときだからって譲る必要はないよ。無理しない方がいいんじゃない? って言って」  
「なんか、どこかで聞いた台詞だな」  
「気のせいじゃない?」  
 
 やりとりが終わったところで、バス停の前に空港バスが到着した。  
 先頭のドアからたくさんの人が降りていく。  
 バスの中心にある乗り込み口がバス停のベンチの前で開いた。  
 みのるはバッグを肩に担ぐと、口を開いた。  
「それじゃあ、私、行くね」  
「ああ、うん……」  
「あおいさんと、お幸せにね」  
「みのるも、元気で」  
「………………うん」  
 
 みのるは下を向いて、次に固く握られていた右手を顔の前に持ち上げて、手を広げた。  
 手のひらを数秒見つめ、嘆息すると僕に笑顔を見せた。  
 満面の笑顔だった。  
 
 みのるはバスに乗り込むと、僕の方を振り向いた。  
「それじゃ、バイバイなおき君!」   
「ああ! バイバイ、みのる!」  
 手を振って、精一杯大きな声で、僕は返事をした。  
 ドアが閉まり、バスが動き出す。  
 ゆっくりとロータリーを走るバスは、車線に合流する手前で一度停止すると、  
車の流れが途切れたところで発進した。  
   
 僕からみのるに伝えたい言葉はあった。けど、言わなかった。  
 みのるはバイバイ、と言った。みのるはきっと、僕の言いたい言葉を、言ってほしくなかったのだ。  
 だから僕もバイバイ、と言った。みのるにはきっと、あの言葉で充分だったのだろう。  
 そうでなければ、最後に見た顔が笑顔だったのを納得できないから。  
 
*****  
 
 駅からバスに乗り、自宅へ向かう。  
 たった今僕の前から去っていった女性と気持ちを重ねるつもりで窓の外を見る。  
 日本から離れて、イギリスへ向かう人の気持ちはわからないが、  
こみ上げてくる感情のせいで、車の走り回る風景すら別物に感じられた。  
 
 手元の携帯電話の液晶画面を見る。  
 あおいから送られたメールの文章が表示されている。  
 『待ちくたびれたから先に帰る』。これだけ。  
 駐輪場に戻り、あおいとバイクがいないことに気づいてからメールを確認すると、このメールが届いていた。  
 そのせいで僕はこうやって1人、バスに乗って自宅へ帰るはめになったわけだ。  
 
 けれど、正直ありがたくもあった。  
 今の僕は、1人になりたい気分だったから。  
 あおいが僕に気を使って先に帰ってくれたのか、本当に待ちくたびれたから帰ったのかはわからない。  
 前者であったら嬉しいな、と僕は思った。  
 
 自分がこれからやらなければいけないことを整理する。  
 あおいの両親、僕にとっては昔から仲良くしてきたおじさんとおばさんが帰ってきたら、挨拶に行く。  
 挨拶が終わったらあおいと同棲しているアパートに帰り、もうすぐ始まる大学の準備をする。  
 大学に通いながら、あおいと持ちつ持たれつの生活を繰り返す。  
 そして、大学を卒業して、お金が溜まったらあおいとの結婚式を挙げる。  
 
 想像の中で、少しだけあおいを裏切るつもりで結婚相手を変えてみる。  
 後ろ姿は浮かぶけれど、その相手は僕に顔を見せてくれなかった。  
 結婚相手をあおいに戻す。たちまち、ぱっと想像のもやが晴れた。  
 あおいは、不機嫌そうな顔を緩ませて、頬を少しだけ紅くしていた。  
 
 この想像を現実にしよう。そのために、努力していこう。  
 僕を信じてくれるあおいと同じように、僕もあおいを信じよう。  
 あおいと2人なら僕は大丈夫だ。  
 
 バスが自宅近くにあるバス停に到着した。  
 お金を払い、バスを降りる。  
 クーラーの効いていたバスの中と、外気温との温度差がじっとりとした汗を浮かび上がらせた。  
 ツクツクボーシが騒がしく鳴いている声が聞こえた。  
 ツクツクボーシの声を聞くと思い出すのが、あおいと一緒に遊んだ昔のことだ。  
 昔のあおいはプールに出掛けるのが大好きだった。  
 帰ったら、あおいをプールに誘おう。  
 積極的に誘えば、プールなら一緒に行ってくれるはずだ。  
 ご機嫌をとるために、どこかの自動販売機でジュースを買っていこう。  
 僕はジュースを探し求め、歩き出した。  
 
 
 あおいには、何を買っていこうか?  
 
おわり  
 

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