膝の上に手を置いて、右手の薬指を持ち上げてみる。  
 1cmだけは浮くけれど、それ以上は上がらない。  
 きっと、薬指はあまり持ち上がらないようになっているのだろう。  
 調べたことがないから、詳しくはわからないけれど。  
 
 もう一度、今度は左手の薬指を持ち上げてみる。  
 右手と同じぐらいしか上がらないけれど、こちらは少し違う。  
 軽く、とても小さな指輪だけど、指にはまっているだけで重たく感じてしまう。  
 結婚指輪の代わりに買った安物の指輪だけど、込められた想いは同じものだ。  
 
 僕は今年、昔から仲の良かった女性と婚約をした。  
 彼女は、大学に通うために1人暮らしをはじめた僕を気遣って、同棲してくれた。  
 同棲とは言っても、最初はそんなに甘いものではなかった。  
 喧嘩はするし、お互いの趣味はぶつかるし、2人とも部屋の掃除はしなかった。  
 けれど、長く一緒に住むうちに、お互いの距離感や譲り合いの心を思い出していった。  
 
 そして僕は、彼女――あおいと結ばれた。  
 
 僕とあおいは、幼稚園に入る前から仲が良かった。  
 お互いの家は近所で、両家の親の仲もいい。  
 自然と、僕とあおいは一緒にいることが当たり前になっていった。  
 しかし、僕があおいと一緒にいようとしなかった時期が、一時期だけある。  
 それは僕が高校2年生になったときのこと。僕に初めての彼女ができたのだ。  
 当時を思い出すと、僕は舞い上がっていた、と思う。  
 あおいと一緒にいるときは、恋人の話ばかりをしていた。  
 恋人ができた。恋人と一緒に映画館へ行った。恋人と初めて手を繋いだ。  
 他愛もないことから、言いにくいことまで。僕はあおいに全てを話していた。  
 
 当然のように、あおいは僕を避けるようになった。  
 今思うと、なんとひどいことをしていたのだろうか。  
 あおいは言った。  
「あの頃のあんたが無事でいられたのは、あたしのおかげ。  
 あんたがあの子の話するたびにどれだけいらついていたか、知ってる?」  
 この言葉だけでも、自分の馬鹿さ加減を思い知ることができた。  
 
 初めてできた恋人との別れは、なんともあっけないものだった。  
 親の引越し。それも海外への移住だった。  
 僕も彼女も別れたくはなかったから、日本に残れるように色々とやった。  
 しかし、現実はドラマのようにはいかず、彼女は海外へと引っ越していった。  
 僕は家にこもり、学校へ行かず、布団から這い出さず、部屋に鍵をかけて閉じこもった。  
 いっそのこと、死んでしまおうか、とまで考えた。  
 
 部屋に閉じこもる僕を引っ張り出したのは、あおいだった。  
 その後で、あおいは何も言わず、何もせずに立ち去った。  
 僕はあおいが去った後で、立ち上がった。立ち上がると、不思議なことに寝ようとは思えなくなった。  
 それだけで、僕は立ち直った。もう彼女のことは諦めよう。そう思えた。  
 
 恋人のことを忘れて高校に通うようになった僕は、大学を受験して合格し、卒業した。  
 それが今年の3月のこと。今はもう8月後半。思い返すとあっという間だ。  
 あくまで、思い返せばの話だ。あおいと過ごした数ヶ月は実に濃い日々だった。  
 
 今、僕は両親が住む実家へついたところだ。  
 移動手段はバイク。あおいは連れてきていない。  
 あおいはバイクの後ろに乗るのが嫌いだ。  
 バイクが嫌いなわけではなく、単に運転する方が好きなのだ。  
 車であっても、バイクであってもあおいは運転することを好む。  
 なんとも彼女らしいことだ、と思う。  
 
 僕が実家に帰ってきた理由は、両親と、あおいの両親に結婚の挨拶をするためだ。  
 とはいえ、あまり緊張はしない。既にあおいから連絡がいっているからだ。  
 あおいが言うには、両親は大歓迎とのこと。おそらくうちもそうだろう。  
 両親も僕とあおいのような関係だったらしいし、両親もあおいを気に入っている。  
 これほど緊張感のない結婚の挨拶は、意味があるのだろうか。  
 わざわざスーツをバッグに入れて持ってきた僕が馬鹿みたいだ。  
 
 実家には誰もおらず、車もない。おそらく仕事にでかけているのだろう。  
 家の前に建つアパート前のベンチに座り、日陰に入る。  
 空は真っ青だった。雲の存在をあえて排除した絵画のように青一色だった。  
 聞こえてくるツクツクボーシの泣き声は甲高く、一定のリズムを刻んでいる。  
 他のセミの鳴き声は思い出せないのに、ツクツクボーシたちの声だけは耳に残る。  
 きっと、僕は不快なものだと思っていないのだろう。  
 夏が終わる合図、ということで特別扱いしているのかもしれない。  
 
 不意に、喉が渇いた。  
 そういえばバイクで出発してから3時間、僕はなにも口にしていない。  
 立ち上がって、自動販売機を探しにいこうとしたら、後ろから声をかけられた。  
「あの……なおき、君?」  
 名前を呼ばれたので、振り返る。  
 後ろに立っていたのはブラウスとジーンズを着た女性だった。  
 はて、この人は誰だろう。この近辺で僕の名前を知っている人はたくさんいるけど、  
僕と同年代の女性はあおい以外にはいないはずだ。  
 そのあおいも僕の後を追って、今頃はバスの中にいるはず。  
 だとすると、この人は?  
 
「覚えてないのかな? ほら、私だよ、私」  
 そう言って、女性は長い髪を手で掴み、ポニーテールの形にした。  
 途端、僕の思考を風がかすめた。落ち着きをなくした考えが一箇所にまとまっていく。  
 覚えている。覚えているけど……なぜ今頃僕の前に姿を現したんだ?  
 
「なおき君が帰ってくるのを、ずっと待ってたんだ。このアパートで。  
 だって、今どこに住んでいるのかわからないんだもん」  
 それはそうだ。海外に行った彼女に、僕は連絡をしていない。  
 だって、連絡先を交換する前に彼女は僕の前からいなくなったから。  
 
 懐かしさと、少しの後ろめたさと一緒に愛しさが湧いてくる。  
 高校時代に付き合っていた女性、みのるに対して。  
 
 
「会いたかった。なおき君」  
 みのるは近寄ってくると、僕を抱きしめた。  
 軽くのしかかってきた体に押されて、僕は少しだけ後ろにさがった。  
 柔らかな体の感触を服越しに感じられる。不快にならない程度の香水の匂いがした。  
 みのるの肩を掴み、一度距離をとって話しかける。  
「……みのる?」  
「うん、私。なおき君の彼女の、みのる」  
「……彼女?」  
「そうでしょ?」  
 
 ね、と言いながら首を横に倒すみのる。  
 そういえばそうだった。僕はまだ、みのるに向けてはっきりと別れを告げたわけではなかった。  
「でも、2年ぶりかあ。ほんと長かった」  
「……あのさ、みのる。そのことについてなんだけど」  
「まあまあ、つもる話もここじゃなんだから、私の部屋へ行こう」  
 みのるはくるりと後ろを向くと、僕の手を引いて歩き出した。  
 僕は、みのるの手を振り払うことができなかった。  
 自分が、みのるを一方的に捨ててしまっていた、ということに今さら気づいたのだ。  
 彼女は、僕のことをずっと恋人だと思っていたのに。  
 
 みのるの部屋は、アパートの2階にあった。  
 ドアは僕の家がある方角を向いていて、庭の様子がよくわかった。  
 部屋の中は外とは違い、クーラーのおかげで涼しかった。  
 みのるは僕を畳とテーブルのある部屋に招くと、何も言わずに台所へ向かった。  
 僕は部屋に入って立ったままでいるのもおかしいと思い、胡坐をかいた。  
 部屋の中を、目と首を少し動かして観察する。  
 ベッド、テーブル、ペン立てが乗った机、立て鏡、壁にかけてある時計、  
それ以外の雑多なものが自己主張しないようにして置かれてあった。  
 窓の外にはベランダがあった。物干し竿にかけてある洗濯物は、風に煽られてかすかに揺れていた。  
 
 みのるは台所から戻ってくると、小さなテーブルの上にウーロン茶を置いた。  
 隣に座ったみのるがウーロン茶を飲んだので、僕もそれにならった。  
 テーブルの上にコップを置いたところで、みのるから話しかけられた。  
「なおき君は、今何をしてるの?」  
「ここから離れたところに住んでる。大学に通ってるんだ」  
「ふーん……何を勉強してるの?」  
「物理の勉強をしてる」  
「そうなんだ」  
 
 みのるは僕から目を離すと、ウーロン茶を飲んだ。  
 今度は僕の方から質問をしてみる。  
「みのるは、海外に行ったんじゃなかったのか? どうして日本に?」  
「どうしてって、そんなの決まってるでしょ。なおき君に会うために。  
 ……というのは冗談。両親の出張が終わったから帰ってきたの」  
「じゃあ、どうしてこのアパートに1人で暮らしてるんだ。ご両親と一緒に住めば楽なのに」  
「それはさっきも言ったでしょ。……なおき君を待ってたの、ここで」  
 
 みのるは僕に近寄ると、肩に頭を乗せた。  
「会いたかった。イギリスに行っても、ずっとなおき君のことを想っていたの、私。  
 あのとき、引っ越すときに何も言わずに行ってしまってごめんなさい。  
 せめて連絡先だけでも教えていればよかった。そうすれば手紙だけでもやりとりができたのに」  
「……僕は、あの……」  
「ただで許してもらおうとは思ってないよ。私のこと、好きにしていいから……」  
 そう言うと、僕に顔を寄せてくる。  
 みのるの目は閉ざされていて、唇は軽く結ばれていた。  
 
 その行動の意図を悟ったとき、僕はみのるの肩を掴んで動きを止めていた。  
「どうしたの、なおき君」  
「……実は、僕には恋人がいるんだ」  
「え?」  
「婚約まで、してるんだ。……もう」  
 左手をみのるに見せる。  
 みのるは僕の左手を掴むと、薬指にはめた指輪を凝視した。  
「嘘でしょ、そんなのって……」  
 僕は沈黙をもってみのるに応えた。  
 罪悪感のせいで息が重くなって、胃がちくちくする。  
 みのるは僕のことをずっと想っていてくれたというのに、僕はそれを裏切った。  
 純粋な彼女を傷つけてしまったということを、はっきりと理解できた。  
 
 みのるは僕の手を離すと、下を向いて問いかけてきた。  
「相手は、誰なの?」  
「……あおい」  
「幼馴染のあの女の子?」  
「うん」  
「そうなんだ……あの子が……」  
 みのるはそれっきり黙りこんでしまった。  
 窓と玄関を閉ざした部屋に、クーラーから噴き出す風の音だけが響く。  
 あれだけ甲高いセミの声は、どこかへ行ってしまったかのように思えた。  
 僕は下を向いて、罵声、もしくは張り手を浴びせられるのを待った。  
 けれども、みのるは黙り込んだままで、何かしてくる気配はなかった。  
 
 気まずくなった僕は、みのるに声をかけようとして顔を上げた。  
「ごめん。僕はもう、みのると付き合うことはできない」  
「嫌」  
「……え」  
「嫌だよ……別れるなんて。ずっと会える日を待っていたのに。私、別れようなんて言ったかな?」  
 僕はゆっくりと2回、頭を振った。  
「言っていないでしょう? じゃあ、まだ別れていないよね、私達」  
「みのる、何を言って――」  
「まだ別れない。まだ別れたりなんか、しないから」  
 みのるは俯いて、僕に表情を悟らせようとしなかった。  
 泣いているのか、泣いていないのか、僕にはわからない。  
 みのるの声ははっきりとしたものではあったけど、嗚咽が混じっていなかったから。  
 
 みのるに背中を押されて、僕は部屋の外へ追い出された。  
 重そうな鉄製の扉から鍵をかけるような軽い音がした。  
 ため息をついてから、アパートの階段を降りる。  
 一段降りていくたびに、気温が高くなっていくような気がした。  
 
 アパートを出て自宅へ向かうと、玄関の前にバッグを置いて、  
腰に手を当ててまっすぐに立つあおいが見えた。  
 僕が近寄ると、あおいの愛嬌を振りまこうとしない眼差しが向けられた。  
 整った顔立ちをしているのだから、もっと穏やかな瞳をしていればいいのに、と思う。  
 せめて、僕だけにでもいいから愛嬌を振りまいて欲しい。  
「あおい、なんで僕の家に来てるんだ? 自分の家に帰ればいいのに」  
「出張」  
「出張? って、誰が?」  
「お父さんが出張に出かけてて、お母さんはそれについて行った」  
「お前、合鍵とか持っていないのか?」  
「玄関の鍵をついこの間変えたばかりらしくてね。あいにく持っていないのよ」  
「ということは……どうなるんだ?」  
 
 あおいはため息を吐きながら大き目のバッグを肩に担いだ。  
「2日もすれば帰ってくるらしいから、それまではあんたの家に泊まらせてもらうわ。  
 別にいいでしょ? 昔からやっていることだし」  
「うん、まあ別にいいんだけど……」  
 僕は路地を挟んで向かいに建つアパートの2階、みのるの部屋を見上げた。  
 あんな会話をした手前、なんとなく気まずく感じてしまう。  
「どうかした?」  
「いや、なんでもないよ」  
 
 家の裏手に回り、倉庫から合鍵を取り出す。  
 玄関の鍵を開けると、数ヶ月ぶりの我が家の玄関を拝むことができた。  
「お邪魔します」  
 一礼してから、あおいが玄関に入ってきた。  
 あおいにしては珍しく、緊張しているようだった。  
「なんで、人の顔を見て笑ってんの?」  
「いや……あおいも緊張することがあるんだな、って思ってさ」  
「……別に緊張しているわけじゃないわ」  
 あおいはそう言い残すと靴を脱ぎ、居間の方へ向かっていった。  
 
 僕はバイクに積んだ荷物をおろすため、もう一度外へ出た。  
 右手を眉の上につけて、空を見る。  
 容赦なく照りつける日光は、かなり低い位置にまで下りていた。  
 

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