ある夏の黄昏時、柴田恒雄は目の前にいる姉の聡子の首筋に、一匹の蚊が
たかっているのに気がついた。聡子はちょうど、夕食後のデザートを食しつつ
テレビを見ている所で、蚊の存在には気づいていないようだが、ここでふと恒
雄は、奇妙な事を思いつく。
(あの蚊がもし、自分だとしたら)
姉の血を吸い渇きを癒したら、彼女の処女性を冒涜した事になるだろうか、と、
真剣に考えるのである。実を言うと最近の恒雄は、おかしな夢ばかり見ている。
それは、自分が蚤にでもなったかのように矮小になり、豊満な聡子の乳房の
谷間にへばりつく夢であった。
どういうわけかそういう卑屈な夢を、時折、思い出したかのように見るのである。
これを卑屈というのは、恒雄が姉に対して劣等感を抱いていると思っているか
らだ。考えてみると、姉というのは不思議な存在である。父母のように絶対的
な存在ではないし、かといって敬わぬわけにもいかない。父母から見れば単に
子供という対等な立場なのだが、知らぬ間に優劣がついてしまっている。
「痒い。蚊に食われたか」
その声で、恒雄は我に帰った。そして、姉が自分をじっと見ている事にも気が
つく。
「もしかして、これ、食べたいの?」
聡子が手にしているのは、人気のプティングである。恒雄は別に欲しくも無かっ
たが、姉を見つめていた理由が他に見つからないので、
「うん」
と、答えておいた。
「アーンして」
聡子はスプーンでプティングをすくい、恒雄の鼻先につきつけた。美味そうな香り
と、そして姉の囁きに誘われ、その甘味を一口。
「美味しいでしょ」
「うん」
聡子は片目を瞑って、またテレビを見始めた。恒雄は甘さと気恥ずかしさばかりを
感じて、その場を去る。
姉と食器を同じくするという事に、何やら羞恥を覚えるのである。もっとも、弟と違っ
て、姉の方は何とも思っていない様子。恒雄の考える、劣等感というのはこの辺に
起因している。聡子は時に、母のように優しい。そうかと思えば友達のように悪戯で、
先生のように厳しい。また、包み込むような父性もあれば、憧れの異性のような瑞々
しさもある。父母のように絶対的な存在と認められないのは、そういった理由である。
聡子は特別、美女ではない。十人並みの容姿と、陽気な性格が売りである。在学す
る高校では水泳部に所属し、とにかくよく食べる。化粧っ気は無く、派手さとは縁遠い。
なのに、男友達がいるようで、先日などは二人も自宅に連れてきた。何でも校内で
近く開かれるカバティ大会の運営についての話し合いだとか言ったが、恒雄は随分、
やきもきさせられた。
室内に男二人と女一人、何が行われているかと、恒雄は懊悩した。ついには隣り合
う姉弟の部屋の壁に耳をぴたりとつけて、向こうの様子を窺ったのである。しかし、
姉と男友達は終始、カバティについて語り合うだけであった。この夜、恒雄はまた
蚤になり、姉の乳房に埋まる夢を見た。
翌日、恒雄は縁側で午睡を貪る聡子の姿を見た。その日は休日だったが、部活に
出たらしく、疲れ果てている様子である。在宅ゆえ、Tシャツに短パン姿の姉は足を
大きく開いて寝ており、ともすればだらしないと言われかねないが、恒雄はこの姿に
見惚れずにはいられない。
短パンからのぞく白いショーツに日焼けした肌、そしてTシャツに浮き出た母性の
頂きがどうにも眩い。聡子はブラジャーを着けていないようだった。
「姉さん」
呼べども返事は無い。恒雄はそっと寝転ぶ姉の足元へ跪いた。
近づくと汗ばむ女体から、鼻をくすぐる芳香が漂ってくる。恒雄はすぐに夢中になっ
た。その行動が卑しいと分かっているが、聡子の体臭を胸一杯吸い込んだ。
(ああ、いい匂い)
目も眩まんばかりの芳醇さを味わうと、恒雄は真っ直ぐ自室へと向かった。そこで、
昂ぶりを収めるために陰茎を擦るのである。姉に悪戯しようとする気持ちは無かった。
そこまでの卑しさをこの弟は持っていないのである。
「姉さん、姉さん」
この時、恒雄は先日、姉が連れてきた二人の男友達の事を思い出し、胃の腑が
カーッと熱くなり動悸を覚えたが、陰茎を擦るのをやめなかった。理由は分からな
いが、そうする事で興奮が倍増した。絶頂の際には、塊のような子種が放たれ、
シーツを激しく汚し、うろたえるほどだった。
夕方には風が出た。恒雄は軒下の吊りしのぶを見ながら、聡子が炊いてくれた
玉蜀黍を食べている。
「恒雄、麦茶飲む?」
「飲む、飲む」
生憎、今夜は両親が不在で、家には姉弟二人きり。夕食は聡子が拵え、風呂掃
除その他の雑用は恒雄がやった。今は縁側に面した居間でくつろいでいる所で
ある。
「父さんたち、今ごろ飛行機に乗ってるのかな」
「そうね。九州の叔父さんちまで、今日中に着くのかな」
「九州って遠いの」
「遠いね」
実は今日、親戚で不幸があり、両親はその見舞いに出かけたのだった。
「どれだけ泊まってくるんだろうね」
「二泊三日ってとこじゃないかしら」
「その間、俺と姉さんふたりきり?」
「しょうがないでしょ」
聡子はタンクトップとショーツ姿である。両親がいなければ、すぐにラフな姿にな
るのが、この姉の特徴だった。
「家事は交代でやるのよ」
「俺、ご飯なんて作れない」
「じゃあ、洗濯と掃除は任せるわよ」
「それで良い」
「よし、決定。私、お風呂はいるね。後片付けはやっとくわ」
聡子はそう言って居間を出た。恒雄は玉蜀黍を食べ終わってから、何となく庭へ
出て夜風にあたった。
隣家と我が家を隔てる塀の上に猫がいて、恒雄は指笛を吹く。猫の方も恒雄とは
旧知で、何の躊躇いも無く塀から下りてきた。雑種だが人懐こい可愛い奴なのだ。
「煮干、持ってくる。待ってろ」
そうして台所へ行くと、風呂上りの聡子とばったり──湯上り直後で、下着はおろ
かタオルひとつ身につけていない状態だった。
「きゃッ!」
思わず赤らめた顔を背ける恒雄。どちらかといえば、この反応は見られた聡子が
取らなければいけない。しかし、姉の方は平然としていた。
「恒雄、悪いけど、洗濯籠から私のパンツ取ってきて」
「あ、うん」
洗濯籠は縁側にあり、裸の聡子じゃ取りに行けないのだ。
縁側までくると、猫が何となく自分を哀れむように見ていた。恒雄は籠から白い
ショーツを取り出し、
「俺も色々と大変なんだよ」
と、猫に向かって呟く。すると、背後から聡子の声が。
「シャツも頼むねー」
「分かったー」
恒雄はやはりここでも劣等感を覚えた。そしてまた、今夜も蚤になって姉の乳房に
埋まる夢を見るのである。
おしまい