〜粉砕天使ナツメ 第四話 後編〜  
 
「これは…」  
 
エミリアの瞳は銀貨のように丸くなった。  
木々が鬱葱と茂る小高い丘陵の中腹。腰の高さまで伸びた夏草を掻き分けて入った斜面に、ぼっかりと洞窟が口を開けていたのである。  
幅も高さも大人が並んで通れる代物。中を覗き込めば一面に広がる暗黒世界。奥行きは相当なものだ。そして左右には朽ち果てた観音開きの鉄格子が。  
 
「どうやら戦中の防空壕みたいだな」  
 
入り口の脇に倒れていた立て札を掴み起こしマルーシャが言う。  
 
「アメさんだかガミラスだかとドンパチやってた頃のモンだね。管理は雛菊市になってら」  
 
立ち入りを禁止する旨と管轄の連絡先だけが書かれた味気無い標識を、マルーシャはポイと後方に投げ捨てた。錆び付いた金属が草むらに頭から沈み、スズメが何羽か逃げていく。  
 
「……………」  
 
エミリアは無言で進み出て入り口付近で膝を着いた。  
彼女が見ているのは鉄格子に施されていたと思しき鎖と南京錠。それは正規の手段で解除されたのではなく、とてつもない力でひん曲げられ、鎖の部分を引き千切られていた。  
そしてを暗闇に目を凝らせば一面に輝く黄金色の粉末。間違いない。ビンゴだ。  
 
「マルーって方向音痴のクセに、ホントこーゆー場所だけはバッチリ嗅ぎ当てるのよねぇ…」  
 
「なはは。もっと褒め称えなさい」  
 
感心というよりもむしろ呆れて呟くエミリア。片や金髪娘は十六まで迷子センターのお世話になっていた過去を棚に上げ鼻高々だ。  
ワルシャワでは三回迷子になり、バルセロナでは八回迷子になり、ベネツィアではとうとうホテルに帰って来なかったのは、当人を除いてエミリアとユイのみが知る秘匿事項である。  
 
「さァて、どうするエミィさんや?せっかくだから担当部署にテレフォンしてみるかい?」  
 
おどけた口調とは裏腹に、マルーシャは端正な唇を獲物を前にした猛獣の如く吊り上げ、その美しい顔に壮絶極まる戦闘的な笑みを貼り付ける。  
セーフティーを解除された<ブラチーノ>がジャキリと牙を打ち鳴らし、主人の闘争心に応えて見せた。  
 
「やめとくわ。ナツメのお陰で今月の通話料金すごい事になってるから」  
 
エミリアは表情ひとつ変えずに受け流すと<クロイツァー>の照準を洞穴内に向ける。どこまでも蒼白いセントエルモの篝火が闇を打ち払い歩むべき道を指し示した。  
 
「ほんじゃあ、久方振りの殴り込みと行きますか!」  
 
互いの武器を構え、二人が魔窟の内部へと足を踏み出したその瞬間だった。  
 
 
『嫌あああああーーーーーっ!!!』  
 
 
「………ッ!!!」  
 
黒一色の世界を引き裂く断末魔の悲鳴。  
 
「なっ、ナツメ――――――!!」  
 
「クソ。インディ先生を呼びに行ってる暇は無いってか」  
 
即座に二人は地を蹴り、洞窟内の淀んだ大気を掻き回す竜巻となって駆けて行った。  
 
♯  
 
「ひあっ、ああああああーーーーー!!」  
 
一番乗りの卵を無事子宮に送り届けた後も、ゼフィルスの女王は攻撃の手を緩めなかった。  
自らの生命力を誇示するかのように膨張した腹部は、巨大なヒルを思わせる前立運動を繰り返し、内部に貯蔵された胚を産卵管へと押し出し続ける。  
母親の胎から追い出された命の種は、自らを受け入れてくれる別世界へと至る架け橋を、ゆっくりと、テンポ良く、そして確実に渡って行く。  
 
「くぁうっ!やめてぇ!もう、もう許してぇーーーーーっ!!」  
 
半透明のアーチで女王とリンクさせられている継母は、何の罪を犯した訳でもなく、言葉ひとつ通じぬバケモノにひたすら許しを請う。  
彼女の内股は自らの肉腺から溢れ出た分泌物と、触手をコーティングする粘体の混合物で泥沼と化し、そこから滴り落ちるコロイドが足首に絡まるジーンズに黒々としたシミを広げていった。  
 
―――――ぐにゅ。  
 
「…うぐっ!?」  
 
二つ目の卵が彼女の膣に潜り込んで来た。大物を咥え込まされたナツメの肉壷は、悪魔の球体を押し返そうとあらん限りに収縮したが、地力の差は歴然。  
脈動するパイプの肉厚に保護され、ゼフィルスの子種は難なく最終関門まで到達。既に送り込まれた兄弟との間を隔てる谷間に頭を擦り付ける。そして…。  
 
――――――ぐぽっ。  
 
凶悪な肉棒の先端が大きく爆ぜるのと、柔らかな真珠はラムネ瓶のビー玉のように、ナツメの子宮内へと転がり落ちた。  
 
「は…んうっ!!」  
 
言葉にならない苗床の悲鳴を他所に、二つになった卵達は早くも生存競争をスタートさせる。並み居る兄弟達を凌駕し、最も強靭な幼体となった物が、この娘の腹を独り占め出来るのだ。  
 
「いぁぁぁあーーーーーっ!!」  
 
二個目の卵と一緒にどろりと流し込まれたゲル化物。その尋常ならざる熱さにナツメの身体が跳ねた。母胎の性的興奮を加速させ、生まれ来る芋虫達により快適な揺り籠を提供する悪魔の触媒だ。  
注ぎ込まれるヘドロの中で二つの卵がころころ転がり子宮内壁に跳ね返る。その切ない刺激は昂ぶらされた神経を焦がし、限界まで開かれたナツメの瞳は星屑を見た。  
 
「くぁ…ぁ、…あ…うぁ…」  
 
ごぼ…ごぼごぼごぼ、ごぷん。  
 
小さな口を顎が外れそうなほど開け放ち、白い歯並びを剥き出しにして、ナツメはかすれた呼吸を続ける。ピンと張り切った四肢とは対照的に緩み果てた彼女の秘部を、クリーム色の球体が次々と通過していく。  
ひとつ、ふたつ、みっつ、…それ以降はもう数えていない。いや、数えられない。これが自分の終わりなのだろうか?  
 
―――――ぶちゅ。  
 
いや、始まりなのだ。女として生まれた者が背負う母としての人生の。世の一般的な女性達と違う点があるとすれば、それはたった一つ。その身に宿す子供が、ホモ・サピエンスの子孫ではないと言う事。  
 
ぷちぷち……、ぶち…。  
 
股間の辺りから、何かが千切れる音がする。  
ナツメの膣に挿し込まれた産卵管が、矢じり状の先端部を切り離そうとしているのだ。彼女の膣内にすっぽり埋まったその部位は、既に卵が通過した空洞を筋肉の力で閉じてしまっている。  
そう、つまり役目を終えた亀頭をナツメの膣内に残し、栓をしてしまおうというのだ。  
 
(そん………な…)  
 
子宮に充填された卵と液体が洩れ出してしまわない為の、言わば究極の防止策である。この肉の栓が外される時、それは終齢まで成長し終えた幼虫が、蛹になろうと母胎から頭を覗かせる瞬間に他ならない。  
 
(どうして…、どうして…そこまで…されなきゃ…)  
 
―――――ぶちり。  
 
その音は彼女の疑問には応えなかった。完全に切り離された穂先をナツメの身体に残したまま、ゼフィルス・クィーンの産卵管は股間から離れていった。  
殆ど動けない上体をゆっくり起こしながら、女王は抜いたばかりの生殖器を六本の脚で丹念に拭う。これは今や殆ど用を為していない脚部にとって数少ない仕事でもある。  
先端をパージした産卵管はムズムズと蠢きながら、内部の組織を切断面に送り出し、数秒と要さずに新品の亀頭を作り上げて見せた。まるでロケット鉛筆である。  
 
―――――どちゃり。  
 
「あ………」  
 
触手の拘束が外され、ナツメの身体はヌメった岩肌に投げ出される。そのお腹はまだ膨らんでこそいなかったが、ムズ痒い異物感とズシリと来る重さが現実を如実に語っていた。  
頭の中が真っ白だ。もう何も考える事ができない。  
わらわらと、ワーカー・ゼフィルスたちが集まって来る。尻から粘糸を放射し、ナツメを固定するつもりなのだろう。もう、彼女は抵抗しなかった。迫り来るワーカーたちの複眼が、翼が、視界を覆い尽くす。  
 
巨大な光の柱が眼前を横切り、それら烏合の衆が津波に攫われるようにして消し飛んだ瞬間も、ナツメは瞬きひとつしなかった。  
 
♯  
 
「ナツメぇーーーーーーー!!」  
 
普段の彼女を知る者ならおよそ想像もつかない大声で、葬送天使エミリアは仲間の名を叫んだ。彼女の眼前は一直線に抉られ、融解した岩盤がジュウジュウと赤く呻き続けている。  
フルチャージで魔力の矢を解き放つ技<アインホルン>。その閃光は矢というよりも神殿の石柱に近い巨大さであった。  
苗床にされている他の少女達が巻き添えにならなかったのは、もはや只の偶然である。およそエミリアに似つかわしくない暴挙だ。  
 
「―――くッ!!」  
 
モーセに割られた海の如く左右に逃げ惑うワーカー達を、手甲から飛び出した鉤爪で切り裂きながら、エミリアはカマイタチを思わせる神速でナツメの許に急行。  
虚ろな彼女を抱き起こすと、敵軍の密度が薄い壁際にひとっ跳びし、地べたの乾いた場所へその身を横たえた。  
 
「ナツメ!しっかりしなさい、ナツメ!!」  
 
「…えみぃ…ちゃん?」  
 
赤子のように頬を紅潮させた彼女は、意外としっかりした動作でその身を起こすと、エミリアの方を見返してくる。  
 
「ナツメ!無事だったの!?」  
 
間に合ったかに見えたのだ。しかし、その喜びは一瞬だった。ナツメは幽鬼の如き表情のまま、ようやく自由になった両手を自身の股間へと運ぶ。  
そのままクチュクチュという淫らな音を立て、何かをまさぐっていた彼女の指は、ようやく捕まえたその物体を膣の中から一思いに引きずり出した。  
 
――――べちゃ。  
 
白濁液まみれで摘出されたその物体は、浜辺に打ち上げられて干乾びたクラゲのようでさえある。  
 
「な、ナツメ…。まさか……これ……」  
 
震えるエミリアに応える形で、栓の抜かれたナツメの陰部から大量の粘液が流れ出した。そして、その中に浮いているクリーム色の球体…。  
 
「エミィちゃん…。私、わたし…、わた……――――うぶッ!?」  
 
ナツメは咄嗟に背を向けた。一拍遅れてべちゃべちゃと流動体の吐き出される音。自らの胎内に植え付けられた物体を間近で確かめたナツメは、ショックを起こし、消化途中の昼食を全部戻してしまったのだ。  
そしてエミリアも確認した。受け入れがたい現実を。ナツメがバケモノの母胎にされてしまったのだと言う事を。  
 
「ハァ、ハァ、ハァ……。んむっ」  
 
ヨダレを拭い涙ぐんだ顔を持ち上げるナツメ。嘔吐で少しは楽になったのだろうか。その瞳は幾らか生気を取り戻している。  
 
「エミィちゃん、私………」  
 
「ごめんなさいナツメ。私が、私がもっとしっかりしてれば…っ!」  
 
「ねぇっ!私どうしたらいいの!?ねえってば!?」  
 
今流れ出た卵で全部でないのは確実だ。<クロイツァー>をギリギリと握り締めるエミリアに、縋る様な視線でナツメは問いかける。  
 
「落ち着いて。治療法はあるから。とにかく、ここを切り開いて一旦退くわ」  
 
「そんな!?わたし……っ、変身するだけの力なんて――――」  
 
「目を閉じて。少し時間が掛かるけど、今から私の魔力を半分渡すわ」  
 
エミリアは慣れた手つきでナツメの腕を取り、彼女の両手と自らの両手を重ねた。僅かな隙間に入り込んだ空気は、なぜか二人の体温以上の温もりを持っている。ナツメは悟った。これが天使の持つ魔力の温かみなのだ、と。  
 
「で、でも!こんな事してたら――――っ」  
 
敵に囲まれてしまう。と言い掛けたところで、数匹のワーカー・ゼフィルスが二人の視界を掠めて吹っ飛び、ごしゃりと粉砕音を立てて岩壁に激突した。  
 
「……ナッちゃん……」  
 
デスパイアを薙ぎ払ったのは後詰めで敵を掃討して来たマルーシャだった。勘の良い彼女は二人の姿を一瞥しただけで、ナツメの身に起こった事の全てを理解した。そして、今の自分が果たすべき使命も。  
 
「……………」  
 
コートを翻し、灼熱天使は身を寄せ合う二人に背を向ける。自分には、誰かの傷を癒す力なんてハナから備わっていない。灼熱天使マルーシャに出来る事は唯一つ。  
目の前に押し寄せる敵を叩き潰し、薙ぎ払い、尽く消し炭に変換する事。  
 
「…よくも犯ってくれたな。このデス公ども」  
 
雲霞の如く集まって来た敵兵の群れ。人質だらけのこの空間内で、よもや<ブラチーノ>をぶっ放すワケにはいかない。だが、虎の子の重火器を封じられたにも拘らず、金髪娘の顔には焦りも恐怖も見られない。  
そこにあるのは怒り。赤熱化した鉄の如き怒り。魔弾の射手は自らの拳をゴキゴキと鳴らした。そして…。  
 
「悔い改めろ。一思いに死ねるだけでも神慮だと思え!!」  
 
彼女が地を蹴った半秒後。包囲網の最前列にいた巨大昆虫の頭部は、強烈な右ストレートに跡形も無く吹き飛ばされていた。  
 
♯  
 
目の前にいた同胞の上半分が突如消失し驚いた一匹が、慌てて距離を取ろうとする。が、遅い。長大な銃身が鬼の金棒の如く振り下ろされ、後退したデスパイアはその一撃で平面図へと変わり果てた。  
 
「ぜあッ!!」  
 
大振りな攻撃の隙を付いて、左脇から一匹が踊りかかる。だが、マルーシャの身体に組み付いたと思ったその瞬間、デスパイアの腹部に固体ロケットのような左アッパーが炸裂。  
バケモノの体は玩具のように宙を舞い、天井から垂れ下がる鍾乳に突き刺さった。  
 
「さァ、死にたいヤツから整列しろィ!!」  
 
普段から重さにして20キログラム近い重火器を持ち歩いている身だ。変身後の彼女の両腕は、赤手空拳であろうとに凶器そのものである。  
加えて本来なら弾丸に乗せて射出されるはずの魔力をそこ宿し、赤銅色に輝く両の拳は、およそワーカー・ゼフィルスの身に耐えられる代物ではなかった。  
彼らにとって不幸だったのは、この限られた空間では持ち前の空中機動を活かせなかった事。そして、余りにも増え過ぎた個体数が逆に彼らの動きを阻害してしまった二点である。  
対するマルーシャは接近戦の名手、殲滅天使イゾルデから手解きを受けて来た強者。その戦闘能力の差は筆舌に尽くし難い開きがある。  
 
「…っらあ!!」  
 
背後から跳び掛かった個体を振り向きざまの裏拳で叩き割り、更にもう半回転して正面に迫った一匹に肘打ちを叩き込む。降り注ぐ返り血を魔力で蒸発させながら舞踏するそのシルエットは、天使というよりも鬼神のそれに近い。  
デスパイアも負けてはいられない。破壊衝動を的確にコントロールして叩きつけてくる戦乙女を前にしても、彼らは我が身を省みず突進し、マルーシャを引きずり倒そうとする。  
女王を護る。本能に定められたその使命だけが、彼らの恐怖を麻痺させ死の竜巻へと躍り掛からせていた。  
 
(畜生。大漁にも限度があるぞ、こりゃ………)  
 
質と量の戦い。下段から音も無く滑り込んできた一匹をトゥキックで蹴り上げ、その頭部を膝と肘で挟み叩き潰す。  
天井から直滑降して来た勇者には抜き手を打ち込み、握力に任せて臓器をグシャリ。ビクビクと痙攣する亡骸を真正面に躍り出たヤツに叩き付け、怯んだところを銃のストックで薙ぎ払う。  
 
「そんじゃあボチボチ隠し球と行きますか!」  
 
目の前の集団と距離が出来たと踏むや、イグニートエンジェルは鉄塔のような<ブラチーノ>のバレルに魔力を凝縮。すると銃口下部から赤熱化したレイピアの如き刺突兵装が飛び出す。  
 
「さァ!マルーシャさん特製バヨネット<戦列をなすプラーミア>!!跪いて拝みやがれ!!」  
 
血の海を蹴り、撃鉄で尻を叩かれた弾丸の如く飛び出すマルーシャ。銃剣を備え騎兵の面を被った<ブラチーノ>は、三匹のデスパイアを軽々と串刺しにした。  
大きな弧を描いて銃身を振り回せば、既に事切れたワーカー達がスッポ抜け、亡骸は天井にぶち当たって落下。  
マルーシャがその身を反転させて後方を薙ぐと、たちまち二匹の魔物の上半身が斬り飛ばされて、肉の焼ける匂いを放ちながら同胞どもの頭上に舞った。  
灼熱の銃剣で焼き切られた傷口は一瞬の内に炭と化し、一滴の血液も流さない。  
 
(このまま押し切れりゃ万々歳なんだけどな…)  
 
雲霞の如く、という比喩は正に彼等の為にあるようなものだ。これでようやく一割、いや二割片付いた辺りか。白状すると、マルーシャは乱戦には余り向かない天使だ。  
攻撃のインターバルが比較的長く、単発の大技を得意とするパーティーの言わば大砲である。  
昔なら手数が必要とされる戦いは、いずれもユイがその力量を発揮し、次いでバランスに長けたエミリアが揮っていたのだが、この状況ではそれも望めない。  
 
(ちッ。捕まってる娘らさえいなけりゃ、こんな虫ケラども即刻レンジでチンしてやれたのに)  
 
翅を広げ鱗粉を撒いていた一匹を突き刺し、高々と放り投げながらマルーシャは臍を噛む。  
 
「エミィー!まだ終わンねえのか!?」  
 
二人がいる方角にマルーシャが振り向いたその瞬間、蒼白い光の矢が彼女の前髪を掠めて通過し、背後で跳び掛かろうとしたデスパイアの額に突き立てられた。  
 
「さーっすがエミ坊。ナーイスタミング!!」  
 
♯  
 
ナツメへの魔力転送が完了し、戦線に復帰するエミリア。立て続けに放たれた五本の矢がそれぞれ的確にバケモノを打ち抜く。そして、その傍らには―――……。  
 
「…っておいナッちゃん!大丈夫なのかよ!?」  
 
ウェディングドレスのような華やかに衣装に、不釣合いな巨大ハンマー。  
再変身したナツメが<フロムヘヴン>を握り締めて立っているのだ。その顔は明らかに紅潮し、足腰も内股気味で心なしか震えているように見えた。注ぎ込まれた液体の効果はまだ続いているらしい。だが…。  
 
「だ、だって…。マルーシャさんやエミィちゃんが戦ってるのに、私だけなんて…」  
 
荒い息をつきながらもナツメは言葉を紡ぐ。潤んだ瞳には梃子でも動かない彼女特有の固い決意が宿っている。  
 
「……………」  
 
隣の葬送天使にチラリと目配せしてみたが、彼女は黙って首を横に振る。エミリアは止めなかったのか。或いは止めても無駄だと判断したのか。  
変身するところを他の被害者に見られなかったか少々気掛かりだが…、生憎その心配は要らなそうだ。  
戦闘で巻き起こされたデスパイアの燐粉に曝された彼女たちは、完全にその脳を快楽一色に染め上げられ、はしたない嬌声のコーラスに明け暮れている。  
余り好ましい状況ではないが、こればかりは仕方が無い。  
 
「わーった。取り敢えずは一旦脱出だ。密閉空間でこれ以上エロい粉撒かれたらウチらも危ない」  
 
「走れる、ナツメ?」  
 
「う、うん」  
 
簡潔なブリーフィングを終えた彼女たちは明りが差し込む方角を見据える。出口はあの先だ。しかしその周囲はまだ数十匹ものワーカー・ゼフィルスが大河の如く横たわっている。  
流石に全部相手にするのは無理がある。戦闘は最小限に留めなければ――――……。  
 
ブチ。ブチブチブチ…。  
 
「…え?」  
 
「ん?」  
 
何の脈絡も無しに、聞き慣れぬ不気味な響きが彼女たちの聴覚へと割り込んだ。  
 
ブチ、ブチブチ、ビチ…。  
 
それだけではない。ワーカー・ゼフィルスの動きが一斉に停止したのだ。音の正体を掴みかねた三人は互いに背中を合わせ、息を殺して警戒態勢を取る。  
その内の一人、エミリアの武装<クロイツァー>の照準が洞窟の最奥部に照らし出した物は―――……。  
 
「なッ!?」  
 
「げ」  
 
「…うそ…!?」  
 
産卵用の巨大な腹部をブチブチと切り離しているゼフィルス・クィーンの姿。女王自らの出陣である。  
 
♯  
 
ずずぅ……ん…。  
 
壕全体が軽く揺れ、パラパラと小石が降り注いだ。天井に張り付いていたクィーンの巨体が床に降りたのである。  
芋虫のように膨張していた腹部は完全に切り離され、中から現れたのは甲冑に覆われ金属光沢を放つスマートなボディ。その全長はワーカーたちの実に数倍。ジェット戦斗機と肩を並べる大きさである。  
 
「マルー…。貴女これ、知ってた?」  
 
「いんや…、全然…」  
 
荘厳美麗な威容に息を呑む三人。対デスパイア用ドキドキ必勝マニュアルは大幅な加筆修正が迫られそうだ。  
まるでクシャクシャにされた半紙がひとりでに元の姿に戻っていくかのように、完全にちぢれていた女王の双翼が開き始めたのだ。  
蒼と紫を基調にした美しいアラベスク模様が天井を覆い、周囲のワーカー・ゼフィルスたちはその光景を称えるかの如く、一斉にバサバサと翅をはためかせ、鱗粉を盛大に舞わせ始める。  
 
「――――走って!!」  
 
エミリアの号令を引き鉄に三人は出口目掛けて駆け出す。翅を振り回すワーカーを途中何匹も肘で押し退け、彼女たちは光の差す方へと一目散。  
 
「キシャァァァァアーーーー!!!」  
 
その背後から、ゼフィルス・クィーンの咆哮が響き渡った。それを合図にワーカー達は一斉に活動を再開。真紅の複眼をギラギラ輝かせながら、一斉に天使達の追撃に走る。  
 
 
「畜生。やっこさんども追って来やがる!!」  
 
背後を振り向いたマルーシャが吐き捨てるように言った。  
巣穴と出口の中間に位置する細く緩やかな坂道を一行は全力で駆け上がる。そのすぐ後ろからは、ワーカー達の翅と翅がぶつかり合うガサガサという音。  
時折響いてくるズゴンズゴンという地鳴りは、最後尾のゼフィルス・クィーンが狭い通路を鋼の肉体で拡張しながら迫り来る音だ。  
 
「追って来るって、一体何の為に?」  
 
「そりゃあー、やっぱアレっしょ。謝罪と賠償を要求する、ってヤツで」  
 
「なによそれ」  
 
マルーシャの返事をエミリアが訝しがる。  
 
「だーかーらー、殺された仲間の分をウチらで産んで返せって事よ」  
 
その答えにエミリアの顔は歪み、ナツメの顔は青ざめた。  
 
「私は御暇させて貰うから、一番多く仕留めたマルーが全部お願いね」  
 
「あ、こらテメ。誰を庇ったと思ってやがる、この薄情モン」  
 
「ってゆーか…そもそも、そーゆのを聞き分けて貰える相手じゃないと思います…」  
 
自分達の馬鹿な遣り取りにまで落ち着いたツッコミを入れて来るナツメにマルーシャは内心胸を撫で下ろす。  
どうやらナツメには気づかれずに済んでいる。そう、奴らの目的は他でもない、卵を産みつけた母胎を、つまりナツメを取り返そうとしているのだという事を。  
 
(この子の事だからねえ…。アタシらが追い詰められたら自分がスケープゴートになるくらい平気で言い出すよ、きっと)  
 
隣のエミリアもウインクして来る。彼女もこのルーキーの性格は把握済みだ。  
 
「あぅッ!」  
 
苔むした岩場に足を取られナツメが危うく転びそうになる。  
無理もない。彼女の腰は人間のモノを遥かに凌駕する巨大な一物を突き立てられた直後なのだ。太腿を伝わる幾筋もの滴は、洩れ出るデスパイアの粘液か、或いは自身の愛液か。  
強がって見せてはいるものの、彼女が置かれている状況は余りにも厳しい。  
 
「大丈夫か、ナッちゃん!?」  
 
「あ、…ハイ!」  
 
マルーシャに背中から抱き起こされ、辛うじて転倒を免れるナツメ。  
僅かな時間でも稼ごうと、エミリアが振り返りざまに数度<クロイツァー>の弦を鳴らしたが、一匹や二匹屠ったところで焼け石に水である。  
 
「頑張れよ、ナッちゃん。入り口まであと一息だ」  
 
「で、でも!外に出たらアイツらまた飛べるんじゃ…っ!?」  
 
「なァに、心配ゴム用。こんな事もあろうかと、我等がエミィは入り口に“とっておき”を仕掛けてあるのさ」  
 
「とって…おき?」  
 
「ああ。国際人道法廷に引きずり出されても文句言えないくらいのイカした奴をね。ド鬼畜天使エミリアたんの名はダテじゃ無いッ、てな」  
 
「…人の称号、勝手に改竄しないで貰えるかしら?」  
 
グッと親指を立てるマルーシャを横目で睨みつけながら、エミリアはナツメに肩を貸す。二人の仲間に支えられながら、粉砕天使ナツメは朱色の光が差し込む脱出口へと駆けて行った。  
 
♯  
 
視界が開けると、焼けるような真夏の太陽は既にそこに居なかった。  
雑木林に響き渡るのはヒグラシの合唱。紫色の空には既に夜のインクが滲み始め、丘陵から見渡す市街地はもう所々に明かりを灯し始めている。  
街を南北に分断する光の帯は開通間もない高速道路だ。  
 
「エミィ!!」  
 
「ええ!」  
 
暮れなずむ景色を眺めている暇など彼女たちには与えられない。  
マルーシャはナツメを軽々と抱え、手近な広葉樹の陰へと滑り込む。一方のエミリアは洞窟入り口の前でこれ見よがしに立ちはだかり、<クロイツァー>の弦をひとたび鳴らす。  
空洞内部からは、バケモノたちの押し寄せる行軍音と、地鳴りとなって響き渡るクィーンの咆哮が…。  
 
「え、エミィちゃん!!」  
 
「大丈夫だ。伏せてなって」  
 
彼女の身を案じたナツメがマルーシャに押し止められた丁度その時、洞窟手前の地面に蒼白い円形の魔法陣が出現。バチバチと周囲に紫電を走らせながら、中心部に魔力を掻き集めて行く。  
大地を伝わる振動は、凝縮された魔力に地盤が共鳴しているのか、濁流の如く押し寄せる敵勢の軍靴か、あるいはその両方か。  
 
「キシャーーーーア!!」  
 
狂気と怒りの境目を見失った絶叫が深い闇を切り裂いて盲進して来た。近い。敵はもうすぐそこに迫っている。そして…。  
 
「さぁ、大地に伏せし蒼白の檻よ!葬送の名の下に猛き戦嵐となりて爆ぜなさい!!」  
 
エミリアの手甲が円陣を射すのと、敵先頭集団の顔が防空壕の入り口に現れたのは同時であった。  
 
ドッ…ズズウーーーーーーーン!!  
 
瞳を閉じても目蓋の裏が白くなるような、猛烈な光が辺り一面を包み込む。エミリアの仕掛けた魔法陣は、活火山の火口が蒼い炎を吐き出したかのように決壊し、無数の光柱を噴出。  
丁度真上に差し掛かったデスパイアの集団は次々と、炉にくべられた薪のように燃え上がり、蒼き篝火となって夏草の上に転げまわる。  
 
トラップ型の攻撃魔法陣<シュテルメン・フェーダー>。設置後も大気中の微量な魔力を吸い上げ続け、その破壊力を維持継続する必殺の罠である。  
使いどころこそ限られるものの、不用意に踏み込めば上級デスパイアと言えども致命傷を負いかねないこの遠隔操作型地雷の前では、ワーカー・ゼフィルスなど塵芥に等しい。  
前方の異変を察知した何匹かが急停止を試みたが、果たせるかな、僅かな先見性を発揮した者も、自身の後方より殺到する友軍に呑まれそのまま死地へと一直線。  
断末魔の悲鳴を上げる猶予も与えられぬまま、光にまで分解され消えていった。  
 
「…す、すごい…」  
 
「なんつーか、いつ見てもジェノサイド条約違反だよな。見ろ、化け物がゴミのようだ!みたいな」  
 
たったひとつの魔法陣で、並み居るデスパイアが見る型も無く消し飛んだのだ。ナツメの瞳は満月になり、流石のマルーシャも苦笑いである。  
 
「おーい、エミィー!終わったかーい!?」  
 
敵方の壊滅を見届けた二人が、樹木の陰から身を起こそうとしたその瞬間だった。洞窟の前で構えていたエミリアが、唐突に地を蹴り草むらに飛び込んだのだ。  
その様子に何かを察知したマルーシャが、ポカンとしていたナツメを掴まえ横っ飛びに倒れ込む。その刹那―――。  
 
「キシャァーーーーーーーアッ!!!」  
 
雄叫びと共に防空壕の入り口が吹き飛んだ。魔力によるものではない、物理的破壊である。  
洞窟から飛び出し、エミリアの頭上すれすれを通過する巨大な影。旅客機のような風切音と風圧がナツメたちの所まで届き、伏せている三人を丸太のように転がす。  
 
「―――くっ!?」  
 
何事かと頭上を仰ぎ見れば、蒼い炎に包まれた巨体が火の粉を撒き散らしながら木々の枝を突き抜け、悠然と上昇していく。  
黄昏に打ち上げられる花火のように大空に舞ったそれは、エンジェル達の姿を遥か下界に望みながら巨大な翼をバサリと展開。まとわり付く炎を振り払いながら、見る者を圧倒する美しき威容を彼女たちの頭上に咲き誇らせる。  
 
「…流石にボスキャラは一発でドカンとはいかないか」  
 
夕闇に沈み行く雛菊市を眼下に望みながら、三人の天使達はゼフィルス・クィーンと対峙した。  
 
♯  
 
先手を打ったのはエミリア。目にも止まらぬ早業で<クロイツァー>が引き絞られ、弓鳴りと共に光の筋が打ち出される。だが…。  
 
「…なっ!?」  
 
直撃かと思われた刹那、ゼフィルス・クィーンの翅に浮かぶ幾何学模様が妖しく煌き、光の矢はジュッと音を立てて掻き消される。間髪入れずにマルーシャがライフルの照準をその巨体に向けるが…。  
 
「危ない!!」  
 
「――――のわッ!?」  
 
「きゃあっ!!」  
 
引鉄が引かれるよりも早く、クィーンの翼からず太い光線が放たれ、ドシャーンという轟音と共に彼女たちの周囲を薙ぎ払ったのだ。  
 
「畜生。なんだってんだ今のあ!?」  
 
「…見た感じ、ライトニング系の攻性魔法みたいだけど」  
 
「魔法って!デスパイアが魔法!?」  
 
狼狽する天使達の頭上でクィーンの双翅が光り輝き、二射目の雷撃が大地を焦がした。三人は散り散りになってコナラやブナの樹の下に駆け込み、敵の射線軸からその身を隠す。  
木々の合間を縫って、絶妙な照準精度を誇る<クロイツァー>の応射がクィーンに放たれたが、光の矢は先程同様、命中寸前で弾かれてしまった。  
 
「あの翼に描かれてる紋章。恐らくは戦術魔法陣の一種ね」  
 
「てーとアレか。あの女王様は、背中にドでかい大砲を二門乗っけて遊覧飛行してらっしゃる?」  
 
「ええ。おまけにシールドも展開できるみたいだから、こっちからの魔法攻撃は完全にシャットアウトされるわ」  
 
つまりあの巨大な翅は単なる飛翔器官ではなく、無敵の剣と盾を兼ねた武装でもある訳だ。  
 
「なんか手は無いのか、エミィ?」  
 
「遠距離からじゃなくて、何かこう、直接叩けるような手段があれば…」  
 
「直接ってそんな…。あんな高いとこ飛んでるのに…」  
 
マルーシャのライフルなら撃ち抜けるかもしれないが、<ブラチーノ>の長銃身では照準を定めている間に狙い撃ちだ。ナツメの<フロムヘヴン>は…当然届かない。  
攻め手を欠き歯噛みする彼女達のすぐ脇を一条の光が走り抜け、一拍遅れてその軌跡が爆発し燃え上がった落ち葉を宙に舞わす。三人の居所を見失った敵は、絨毯爆撃でネズミを燻り出そうとしているのだ。  
 
「へっ。敵さんのキャンプが防空壕だったのはツイてたな」  
 
マルーシャの言う通りだ。穴の中で苗床にされている娘達は、この航空攻撃の嵐の中でも分厚い岩盤によって護られている。まさか掘られてから半世紀以上後の世でこの壕が役立つ時が来ようとは。当時の人々は夢想だに出来まい。  
 
「問題はむしろこっちよ…」  
 
苦々しく呟くエミリアの背後を光線が通過し、巨木が一本根元から薙ぎ倒された。このまま何時までも隠れてもいられない。よしんぼこの場をやり過ごしても、あんな爆撃機のような昆虫を市街地に出す訳には行かないのだ。  
 
「なァ、エミィ…」  
 
「…何?」  
 
数メートル先の木の下から、押し殺した声で話し掛けてきたのはマルーシャだ。  
 
「あの“空飛ぶ妖樹”を墜とした時のアレ。このメンツでやれないか?」  
 
「――――な!?」  
 
努めて冷静を保っていたエミリアの顔が俄かに気色ばむ。ナツメにはその理由がイマイチ掴めない。  
 
「マルー、あなた正気?この面子ってナツメがどれだけ消耗してるのか分かってるの?」  
 
「あー。言いたい事は分かるさ。でもね、こうやってこのまま隠れんぼしててもジリ貧だよ。三人揃ってローストチキンか、ママンにされちまうかの二択だ」  
 
「そうは言っても…!」  
 
いつに無く厳しい語調をマルーシャに向けるエミリア。だが、その視線に射抜かれる金髪娘は至って涼し気だ。自分の腹はもう決まっている。唇の端を僅かばかり持ち上げた微笑は、その言外のメッセージである。  
エミリアの決断を促すように、更に一発の雷撃が山肌を穿ち岩盤を真っ赤に煮え繰り返らせた。敵はアウトレンジからやりたい放題である。  
 
「あ、あのー…」  
 
ここに来て話の読めないナツメがようやく口を挟む。  
 
「えーと、つまりその…。ちょっと危ないけど一発逆転の手段がある、って事でいいの?」  
 
「んーまァ、高倍率というか一発ポッキリの大博打がね」  
 
「ひょっとして…自爆とか?」  
 
「えっ、あ、いや流石にそこまではー…。つーか何気にナッちゃん過激だな…」  
 
ナツメの極端な発想力に半歩引きながらも、マルーシャは傍らの後輩に耳打ちした。  
 
「言ってみりゃサーカスみたいなモンさ。二人掛かりで全力のエア・ブースト魔法陣を作って、残る鉄砲玉役がブッ飛んで、お空の敵を直に殴り飛ばすって寸法な」  
 
「それってつまり…人間大砲…ですか?」  
 
「んなダッサイ呼び方しなさんなって。その名も<超、滅、殺!地対空ときめきエンジェルキャノン!!>。どう、イカスっしょ?」  
 
「……………」  
 
返事はない。  
 
「…そんな酷い呼び方してたの貴女とユイだけよ」  
 
「へーん、二対一ですもんねー。ビバ、民主主義。異議申し立ては法廷まで御労足お願いします」  
 
「ユイはともかくナツメがいつ賛成したのよ」  
 
頭の痛くなりそうな先輩達のコミュニケーションを他所にナツメは真顔だった。  
鉄砲玉役というのはつまり、今回はナツメの事を言っているのだろう。このメンバーで一番物理攻撃力が高いのは自分なのだし、先程エミリアが止めていた訳も合点がいく。  
 
「…………」  
 
どうする?出来るのか?あの巨大な昆虫のバケモノと、一対一で、それも空中で。  
巣穴の中での出来事が頭を過ぎる。卵を産みつけられる少女の悲鳴。苗床にされた少女達の嗚咽。そして、突き立てられた野太い産卵管。その感触は今なおナツメを苛ませて止まない。  
あの地獄絵図を天井から睥睨していたデスパイアの女王。果たして自分は奴に勝てるのだろうか?  
 
(…でも、このままじゃ…)  
 
兵隊を全て潰されたとはいえ、ゼフィルスが成熟に要する期間は僅か一ヶ月。ここで逃してしまえば、彼らが元の数を復元するのにそう時間は掛からない。  
そしてそれは当然、相応の人数の女性が連中の毒牙にかかる事を意味する。あの特別病棟で泣き明かす人たちがまた増やされてしまう。  
ならば…頭上の敵が勝負するつもりでいる内に決着をつける他ないのだ。そして、それは天使である自分に課せられた宿命でもある。  
 
「エミィちゃん!マルーシャさん!!」  
 
全ての迷いを決意の彼方に押しやり、ナツメは宣言した。  
 
「なんとかキャノンの準備、お願いします!」  
 
♯  
 
「ギイィ…」  
 
裾野に広がる緑を程よく焼き払ったところで、ゼフィルス・クィーンは攻撃の手を休めた。  
敵は反撃の気配を匂わせて来ない。雷撃の餌食になったか、それとも逃がしてしまったか。完全に沈黙している。  
どうやら、あの娘の回収は断念せざるを得ないようだ。なかなか上等な器であり、少々惜しい事をした気もするが、いかんせん追跡に払った代償が大き過ぎた。  
ワーカー・ゼフィルスは全滅である。いや、厳密に言えば巣穴に残してきた苗床の胎内にまだ相当数の兵が眠っているのだが、どちらにせよ彼らが羽化するまでの間、クィーンは自ら餌と母胎を調達しなくてはならない。  
これ以上、どこに消えおおせたとも分からぬ苗床ひとつに費やしている時間は無いのだ。  
 
「ギィッ!」  
 
未練を断ち切るように一鳴きすると、ゼフィルスは空中で百八十度回頭。猛々しくも麗しいその翅で大気を打ち据え、夜の迫る雛菊市へと機首を向ける。  
この時間ならまだ、日が沈む前に上等な雌の一匹や二匹は手に入る。今頃が丁度、駅前や大通りが帰路を急ぐ人間達で溢れ返っている時間帯だという事を、この老練なデスパイアは熟知していた。  
夕闇に紛れ音もなく襲い掛かれば、甘酸っぱく芳しい愛液を滴らせる女体も、艶のある良質な母胎候補も掴み取り放題である。  
 
久々の狩りの興奮に全細胞をざわめき立たせ、女王が丘陵上空から離脱しようとしたその瞬間だった。  
 
「――――!?」  
 
鋭敏なクィーンの触覚が、真一文字に引き裂かれる大気の悲鳴を捉えた。何だ。何か途轍もない魔力の塊が急接近している。  
新たな脅威の出現を察知し、その巨体を反転させた時…。血の如く赤いゼフィルス・クィーンの双眸は、空中に咲き誇る一輪の真っ白い花を映していた。  
 
♯  
 
遥か上空を通過する旅客機の機影ほどしかなかったクィーンの姿は、みるみる内に大きくなる。デスパイアの女王が見た花の正体は、純白のドレスを翻し急上昇してくる粉砕天使ナツメであった。  
巨大昆虫はすぐさまその敵を撃ち落とそうと魔力をチャージ。だが、少女が自らの子種を宿しているという事実が一瞬だけその発射を躊躇させ、迎撃の遅れを招く。  
 
「ハアァーーー……ッ!!」  
 
気が付けば、ナツメはゼフィルス・クィーンと同高度まで上昇し、唸りを上げる巨大ハンマーを振り被っていた。  
 
「キシャーーーーアッ!!!」  
 
生命の危機を感じ取った女王の絶叫が、全ての打算を彼方へと退け、半ば反射的に雷撃を放たせた。だが――――。  
エミリアと、マルーシャ。二人の全魔力を受けて加速されたナツメは今や砲弾そのもの。紫電の一撃は彼女の纏う白亜の障壁<アイギスの盾>に弾かれ、夜空の彼方へと拡散する。そして――――。  
 
「でやあぁぁぁぁぁーーーーーーーっ!!!」  
 
閃光が夜空に花咲いた。フルチャージで叩き込まれたその一撃の名は<絢爛のジャガーノート>。市営プールの戦闘で、アンモナイト型デスパイアの甲羅を粉砕せしめた一撃である。  
何も知らずのこの光景を眺めていた者は、一週間後に迫った花火大会が予定を繰り上げられたものと勘違いしたかもしれない。  
急所を守る為に咄嗟の盾として突き出されたクィーンの腹部は水風船のように破裂。<フロムヘヴン>は尚も止まらず、胸部の甲冑を砕き、心臓を食い破り、衝撃は背面の外殻までも一掃。  
行き場を失った体液の内圧に耐え切れず、巨大な複眼がボコリと飛び出し宙を舞う。閃光に呑まれ、さらさらと、砂金のように崩れ去り夜空に溶けて行くのは…、このデスパイアを象徴する蒼い蒼い翅――――。  
 
ゼフィルス・クィーン、殲滅完了である。  
 
「やったあ!!」  
 
自らを辱めた怨敵が淡雪のように散っていく様を眺め、ナツメは空中でガッツポーズを決める。そして遥か下界でナツメの帰還を待ち侘びているであろう仲間達の方を見て――――……。  
 
「……………」  
 
見て――――……、見てしまった。  
高い。高圧電線が遥か下界に起立していて、自動車のヘッドライトが蛍火くらいで、二人の仲間に至ってはそれこそ動物プランクトンの目玉よりも小さくて―――。  
 
「――――はふん……」  
 
そこまで確かめたところで、哀れナツメの意識は昇りたての月の彼方に飛んでいってしまった。  
 
♯  
 
「なァ、エミィ…」  
 
「なに?」  
 
敵の爆散を控え目に喜んだエミリアとマルーシャは、これから訪れる危機を漠然と感じ取り夜空を見上げていた。  
 
「打ち上げてから思い出したんだけどさァ…、そういやナツメって高所恐怖症なんじゃなかたっけ?」  
 
「えぇ。私も今思い出した」  
 
「……………」  
 
「……………」  
 
三秒ほどだろうか。暫しの沈黙の後、血の気の失せた二人は大わらわで対衝撃用魔法陣の展開に掛かる。とは言え先程の打ち上げで魔力の大半は使い果たしている。そして駄目押しに――――。  
 
「…げ」  
 
ヒュルルルル…、と真夏の夜空を切り裂きながら落下してくるのは破砕兵器<フロムヘヴン>。もはやこれは当たらぬ事を祈るのみ。マルーシャの脳裏をそれまでの人生が走馬灯の如く走り抜けた。そして――――。  
 
ごっずーーーーーーーーーん。  
 
後で知った事だが、この時の衝撃をガス爆発と錯覚した通報が消防に殺到したとか何とか。  
前後不覚の粉砕天使ナツメは見事魔法陣の中心部に。滅尽滅相の凶器<フロムヘヴン>はマルーシャの右斜め後方五メートルの位置に、木々を薙ぎ倒しながら着弾した。  
 
「最後の最後までお騒がせなヤツ…」  
 
パラパラと降りしきる樹木の破片を被りながら、ようやくマルーシャはこの日初めてとなる安堵の吐息をついた。視線の先のナツメは人の心配など他所に規則正しい呼吸のまま綺麗に気を失っている。  
そんな彼女に黙って歩みを進めるエミリア。彼女はナツメの傍らに腰を下ろすと――――。  
 
「…っておいエミィ!い、いきなし何してんのよアンタ!?」  
 
がばっとナツメのスカートを捲り上げたのだ。  
 
「何って…。ナツメの中の卵を中和しないと…」  
 
「あ…」  
 
エミリアが懐から取り出したのは、原料禁句の“白い液体”が充填された小型注射器。その先端は針ではなく、アルコール消毒されたシリコンへと換装されている。  
本当に用意のいい女だ。…と言うか普段から一体何を想定して行動しているのだろう、このエミリアという娘は。  
 
「な、なァ…エミィ。そーゆーのはさァ、なんつーか、本人の同意無しにその、ブチ込んでいいモノなのかねぇ?」  
 
「まあ…正直、かなり抵抗があるんだけど…。でも、目を覚まされてから解説して渡してたら、また一悶着ありそうだから」  
 
「…むーん…」  
 
努めて無表情を装いながら、エミリアはグイっとナツメのパンティをズリ下げる。数秒後、彼女が狙いを定めてグっと力を込めると、意識の無いままナツメは「うぅ〜ん…」と呻いた。  
後日変わった事は無かったかと問い質したところ、エミリアに変な事をされる夢を見た、とだけ仄かに紅くなりながら答えたというが、それはまた別の話。  
 
♯  
 
「……う…ん」  
 
まどろむ体を揺らす規則正しい振動にナツメは目を覚ました。辺りは既に日が落ち真っ暗である。木々の合間から聴こえて来る虫たちの鳴き声だけが唯一の外部情報だった。  
 
「気が付いた?」  
 
「…エミィちゃん…」  
 
すぐ傍から聴こえて来る馴染みの声。そして自分より一回り大きい背中。ここに来てナツメはようやく自分がマルーシャに背負われている事に気づく。  
傍らで揺れているプラチナブロンドの髪から、隣を歩いているのはエミリアだと分かる。  
 
「デスパイアは?」  
 
「獅子座あたりまで飛んでったよ。よくやったな、ナッちゃん」  
 
マルーシャが半分振り返って背中のナツメに答える。鼻先を掠める長い金髪がくすぐったい。  
既に変身を解除した一行は小奇麗に舗装された林道を下り、丘陵を後にするところだった。途中、数台の救急車がサイレンを灯しながら逆行していくのと擦れ違う。  
エミリアの通報を受けた救護班が、苗床にされている少女達の救出に向かったのだ。  
 
「あ。そういえば…」  
 
「…ん?」  
 
「あの…私に産み付けられた…卵は?」  
 
「あー…大丈夫だろ。さっきエミィが“中和剤”打ったから。うん」  
 
マルーシャは視線を前方斜め上空に逸らしながら応答する。おんぶしたナツメがホっと息を付くのが外套越しでも伝わってきた。  
 
「でも、念の為病院で検査は受けといた方がいいわ。もう少し下ったらタクシーが拾えると思うから、悪いけどそれまではマルーの背中で我慢して頂戴」  
 
「人様に大荷物担がせといて何て言い草だよ。こんの外道」  
 
「あ、大丈夫です!私、自分で歩けますから――――」  
 
「あー、いいっていいって。なんたって今日一番の功労者なんだから。下手な気なんか遣わずにてーんと構えてなさいな」  
 
慌てて降りようとした後輩をマルーシャが背負い直す。少々気拙い思いのしたナツメだが、戦闘に戦闘を重ね――――思い出したくは無いが――――デスパイアによる凌辱を受けて間もない身。  
ここは素直に先輩天使の背中に体を預ける事にする。  
 
マルーシャが言い終わらぬ内に車がまた一台、ハイビームのヘッドライトで林道を照らしながら通り過ぎていった。  
薄暗さの為良くは見えなかったが、灰色のセダンの運転席には若い男性。助手席にはコートを羽織ったままの中年男性が腰掛けていた。  
恐らくは警察関係者だろう。続いて坂道を駆け上がっていったのは白のワンボックスカー。車体にプリントされた“雛菊市中央保健所”の文字が予想を確信に変える。  
 
「市が管理してる防空壕跡がデスパイアの巣窟になってたんだ。被害者の家族にバレたら職員の首が飛ぶな、こりゃ」  
 
ご愁傷様とでも言いたげな口調でマルーシャはそのテールランプを見送った。  
 
「ねえ――――……」  
 
少しの沈黙を挟んでナツメが再び口を開く。  
 
「捕まってた他の子達は…大丈夫、なのかな…?」  
 
数秒経っても返事は無かった。マルーシャは正面を向いたままで、傍らを歩くエミリアの表情も人気の無い通りの薄暗い街灯では窺い知る事はできない。  
口にしてしまった事を後悔させるような沈黙に、街の方から犬の遠吠えが重なる。  
 
「大丈夫じゃあ………ないだろうね。やっぱ」  
 
永遠とも思える時間凍結を破り、溜め息混じりの声にやるせなさを隠さず呟いたのはマルーシャだった。  
彼女の言う通りなのだろう。あんなバケモノの生殖器で辱められ、追い討ちにその子供を身籠らされとあっては。平穏な日々の中にいた者達には余りも酷たらしい仕打ちだ。  
事実、カウンセラーの話しに拠れば、デスパイアにレイプされ入院した被害者の内、現時点で社会復帰出来た人は三割にも満たないとか…。  
 
「ナツメ」  
 
それまで口をつぐんでいたエミリアが、少々強い語調で呼びかけた。気押されたナツメが顔を起こすと、ドキリとするほどの至近距離にエミリアの顔がある。  
仄かに揺れる銀色の瞳に、弦の如く結ばれた薄紅の唇。木々の合間から覗く月に照らされた彼女の顔は、言い知れぬ決意と、ほんの少しの悲しみが湛えられていた。  
 
「いい、ナツメ。私達は今日、デスパイアのコロニーをひとつ壊滅させたわ」  
 
「………うん」  
 
「天使の使命は果たされたの。ここから後は人間の仕事。魔法が使えても、空が飛べても、私達は神様にはなれない。私達の仕事は一匹でも多く奴らを倒すこと。それを忘れないで頂戴」  
 
端正な唇で、一語一語を噛み締めるように、自分自身に言い聞かせるように、エミリアはその言葉を紡ぐ。瞳の中のナツメは暫く押し黙っていたが、やがてゆっくりと深く一度頷くと、背中で結ばれたマルーシャの金髪にその顔を埋めた。  
すぐには理解できないだろう。反発もするかもしれない。だが、この道に踏み入れた者ならば誰もが乗り越えなければならない壁だ。  
だからこそエミリアは、かつて母から幾度となく言い聞かされて来たこの言葉をナツメに送る。  
 
それは時として折れそうにもなる胸の内の決意を、彼女自身、風化させないための儀式でもあるのだから。  
 
♯  
 
「…そういえばエミィちゃん」  
 
「ん?」  
 
「どうして私が捕まってる場所、分かったの?」  
 
「ああ、それはそのー…。えーっとね。………うん、女の勘よ。女の勘」  
 
「へぇー、すごーい」  
 
察しが悪いのか元からこうなのか。天然仕様の後輩天使は素直に感心してみせる。そして――――。  
 
「は〜ん。まるで発信機みたいな勘だな〜………って、あいててて!」  
 
「余計な事は言わないでよろしい」  
 
要らぬ茶々を脇から入れた金髪娘の足には、エミリアの踵がプレスされた。  
 
 

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