〜粉砕天使ナツメ 第六話 後編〜  
 
「マルー!どこにいるの、マルー!?」  
 
床一面に広がる爛れた物体をクロイツァーで掻き分けながら、エミリアは友の名を呼んだ。  
ほんの数分前までデスパイアという怪物だったそれは、まだ所々が余熱で赤く点滅し、ジュージューと脂の焦げる音を立てている。  
足元から込み上げてくる熱気は、生き物の燃える匂い特有の不快さも相まって、坑道内をガス室同然に変えていた。  
 
「んー…!んーんー…!!」  
 
程なくして彼女は、真っ黒な丘の中腹から上がる呻きと、そこから前衛芸術のように突き出てもがく一本の白い腕を発見する。  
 
「んー…―――ぶはッ!!ふーーー…ゲホッ、ゲホッ…んだこりゃ畜生、くさッ!!」  
 
力任せに引きずり出され、ようやく伯爵夫人の中から出てきたマルーシャは、新鮮な空気を目一杯吸い込もうとして…咳込んだ。  
 
「大丈夫?」  
 
「ああ、全然大丈―――…ンげほッ、ごふっごほっ!……訂正、三割くらい大丈夫」  
 
顔中に付いた煤を拭いながら、彼女は渋い顔で応える。  
パッと見たところ、外傷らしい外傷は無さそうだ。意識もしっかりしている。  
思っていたより元気そうな仲間の様子にエミリアはホッと胸を撫で下ろした。  
 
「ナッちゃんたちは無事かい?」  
 
「ええ、まあ」  
 
エミリアは目線で後ろを指す。  
操車場の出口にはナツメとハルカ、そしてローパーの群れに捕まっていた十数名の女性が、壁に背を預けて横になっていた。  
少しでも新鮮な空気に当ててやろうというエミリアの配慮だ。  
 
生死の境を彷徨っているような重篤者こそいなかったが…何を持って"無事"とするかは正直難しい。  
ナツメ以外は全員、デスパイアによって徹底的に嬲り物にされ本当に酷い有様だった。  
どれほど長く犯されていたのか、かなりやつれて衰弱している者も目に付く。  
そして…大変残念な事に、ハルカも――――…。  
 
(…酷いな…)  
 
彼女はただぼんやりと、潤んだ目線を遠くに投げ掛けている。  
意識は辛うじて保っているようだが…完全に虚脱状態だ。  
無理もない。凄惨な凌辱の記憶から、ようやく立ち直りかけていたところにこの仕打ちである。  
姉のナツメが気を失っているのがせめてもの救いか。  
彼女にこの事態を飲み込ませる言葉を、二人は持ち合わせていなかった。  
 
「…救護が来るから、とりあえず行けるとこまで引き返しましょ」  
 
「ん、ああ。そうだな」  
 
彼女の判断は正し。まだ何が起こるとも限らない。  
互いの意識をハルカから引き剥がすようにエミリアは手を差し出した。  
彼女の腕を取り、マルーシャは立ち上がろうとする…が。  
 
「ん…この野朗」  
 
腰から下が、まだ伯爵夫人の死体に埋まったまま抜けないのだ。  
 
「畜生め、そんなにアタシがお気に入りかよ。豚が」  
 
「もうちょっと真面目に力入れられないの?」  
 
「あー…いや、その。それがな…」  
 
マルーシャはどこか決まりが悪そうに視線を泳がせる。  
 
「その、なんつーか……。長いこと脚開かされてたから腰とか、な」  
 
苦い表情でエミリアは固まった。  
いささか察しの鈍い戦友にも窮状が伝わったようだ。  
 
「くそッたれめ。思いっきし中出ししやがって…」  
 
「わかった、わかったから。それ以上はいいわ」  
 
仕方なく体重をグッと後方に傾け、エミリアは独力でマルーシャを肉塊から引きずり出そうとする。しかし。  
 
「……んぐ!!」  
 
「え、なに!?」  
 
マルーシャが今度は明らかな苦悶の声を放つ。  
慌てて手を離してやると、彼女はなにやらしきりにデスパイアの中に埋もれた下半身、特にお尻の方を気にしている様子だ。  
 
「やっぱり痛むの?」  
 
「あぁ…その。あんま言いたかないんだが。ローパーの餓鬼をケツに入れられてんだった。ちきしょう…」  
 
「ガキって…え、子供!?お尻って、その、誰の?」  
 
「……あたしの以外に誰か?」  
 
数秒間、その場は沈黙に支配された。  
 
「…病院に連絡、入れとくから。とりあえず出ましょ」  
 
「ああ、頼む」  
 
気まずい会話を打ち切り二人は脱出作業を再開する。  
直腸に宿った幼体が暴れるのだろうか。力む度にマルーシャは脂汗を浮かべ辛そうな表情になる。  
何とかしてやりたいのは山々だが、ここから抜け出さないことにはどうにも出来ない。  
 
「くっそ。中でまだ脚とかに絡み付いてるっぽいなこりゃ」  
 
「しょうがないわね。切って開くから、ちょっと待ってて」  
 
エミリアがその手に光の矢を出現させ、マルーシャの下半身を取り込んでいるヒルバーツの肉を切開しようとしたその時だった。  
 
「…――――ん?」  
 
焼け爛れた肉の中で、マルーシャは自分の足首が、かすかに引っ張られるのを感じ取った。  
まさか、これは……。  
 
「跳べ!エミィ!!」  
 
マルーシャが叫ぶ。なぜ、とはエミリアは問い返さなかった。  
まさに間一髪。コンマ数秒前まで彼女の立っていた場所を、ひび割れた巨大な触手が猛然と通り過ぎていった。  
剥がれて飛び散る肉の破片から、マルーシャは自分の顔をなんとか庇う。  
 
『ぬ、ぬぅぅう…がぁぁああ〜〜〜〜〜〜…!!』  
 
地獄の亡者が群れて呻いているような戦慄すべき咆哮。  
すんでのところで跳び上がり背後からの一撃をかわしたエミリアは、数メートル彼方に着地。  
その手には既にクロイツァーが構えられている。マルーシャの一声がなければアウトだった。  
 
「マルー!!」  
 
「ちっ、こいつまだ…!」  
 
最悪の予感は現実となって目の前に立ちはだかる。  
凝固途中の溶岩を思わせる真っ黒な塊がズブズブと盛り上がっていく。  
焼け付いた皮膚がペリペリと剥がれ落ち、タールのようになった血液がドロドロと流れ出し……それでも"それ"は生きていた。  
 
『まだだァ……、むァだだぁぁあぁぁあぁあぁ〜〜〜〜〜〜!!』  
 
なんという生命力だろうか。  
もはや原形など何ひとつ留めていないその姿になってなお、巨大ローパー・ヒルバーツは生きている。  
 
「畜生、ミディアムだったか!中まで火が通ってねぇ!!」  
 
腰まで埋まっていたマルーシャの体が、ゆっくりと体内に沈み始める。  
彼女を再び取り込もうというのだ。  
 
「くそッ!生き意地汚ねぇぞ、てめえ!!三流のクセしていつまでも舞台のど真ん中陣取りやがって…!」  
 
おそらくは魔法を放つ前に力を吸い取られていたのが原因だろう。  
とどめを刺すには威力が足りなかったのだ。ユイの時といい、今回といい、失態連発である。  
そんな事を考えている内にも、裸同然のマルーシャはヒルバーツの体に埋もれていく。  
 
「エミィ、撃て!早く!!」  
 
「で、でも――――…」  
 
エミリアの躊躇はもっともだ。  
今撃てば、マルーシャにまで被害が及ぶのは免れない。しかし…。  
 
「一発くらい当たってもいいっての!ここで逃がしてみろ、もっぺんやって勝てる保証はねぇんだぞ!!」  
 
彼女の言う通り、そう二度も三度も勝たせて貰える相手は無い。  
今回の勝利とて偶然拾ったようなものだし、こちらの手の内も明かしてしまった。  
ローパーの繁殖力があれば、ヒルバーツ一党の再起にはさほど時間は要さない。  
たくさんの罪もない女性達がまたその身を蹂躙され、弄ばれ、化物の子供を宿す事となるだろう。  
何としてもそれは避けなければならない。  
ならば今、取るべき選択肢はひとつ。  
 
「――――くッ!!」  
 
連戦で磨り減った集中力をなんとか奮い立て、エミリアは弓を引き絞る。  
魔力に輝くその矢先は、マルーシャのすぐ隣で激しく蠢く肉の盛り上がりに向けられた。  
おそらくそこが再生の起点、つまりヒルバーツの核だろう。  
ダメージで意識が混濁しているのか、デスパイアまだはそこを守ろうとしていない。  
もう少し近づいて狙いたいところだが、迂闊に接近すればエミリアまで取り込まれてしまう。  
 
(ギリギリだけど…やるしかない!)  
 
マルーシャの命を託した一矢が、指先を離れようとした正にその時――――。  
 
 
 
 
『早まってくれるなよ。その女は我々の花嫁だ。疵をつけられては堪らん』  
 
切迫した場にそぐわぬ、静かな男の声が響き渡った。  
 
「んな…!?」  
 
「だれ!?」  
 
バサバサバサ…と、大きな翼で空気を打ち据える音が二人の問いに応えた。  
エミリアと伯爵夫人のちょうど間、地面から突き出た配管の上に一羽の黒い鳥が降り立つ。  
 
(カラ…ス?)  
 
予期せぬ、と言うより予期できるはずもない乱入者の登場に、葬送天使は固まっていた。  
 
(なに今の声?花嫁って?この鳥が…喋ったの?)  
 
当然の疑問が彼女の頭をぐるぐると駆け巡る。  
一方のマルーシャは…一体どうしたのだろう。  
表情のない、心ここにあらずといった態で呆然とそれを見詰めている。  
 
そしてヒルバーツは――――。  
 
『ぬ、ぐぬ、ぬうがぁあぁあぁぁぁあーーーーーーーー!!』  
 
ヒルバーツは何かに恐れおののき、酷く取り乱して、そのカラスめがけ猛然と横薙ぎの触手を放つ。  
 
「あっ」  
 
エミリアの目の前で、カラスの上半身がそぎ飛ばされて消えた。  
吹き飛んだ肉が壁に当たる"べちゃり"という響きが彼方から聞こえる。  
どこに飛んで行ったのかはもう分からない。  
その場に残された下半身だけが、何事も無かったかのように不気味に佇んでいる。  
 
「……レブナン……」  
 
マルーシャが半開きだった口でようやく聞き慣れぬフレーズを紡ぐ。  
エミリアには、その単語が何を意味するのか分からなかった。  
 
『久しいなトルスターヤ。何年ぶりか。互いに健在でなによりだ。嬉しいぞ』  
 
マルーシャの一言に、先ほどの声が返ってくる。そして――――。  
ゴボ…ゴボゴボ…。  
上半分が綺麗に無くなったカラスの半身、その断面から…真っ黒な風船のような物体が隆起し始めたのだ。  
 
「な…なんなの、こいつ?」  
 
もうクロイツァーの照準はヒルバーツに向けられていない。  
気圧されたエミリアは無意識の内に後ずさっていた。  
質量保存の法則なぞどこ吹く風で、まるで別の空間から転送されて来るかのように、謎の物体はみるみる内に膨れ上がっていく。  
波打つ表面と内部に透けて見える気泡から、彼女はそれがタールのような濁った液状の物体である事を悟る。  
だが、それだけではない。  
 
「…うそ…」  
 
中に、人が浮いている。  
一人、二人、三人…。柔らかそうな細い肢体と胸の膨らみから、エミリアはそれが人間の女性であることを知る。  
半分以上が溶かされ、彼女らの体を申し訳程度に包み込んでいるフリルが一杯の浮世離れしたコスチューム。  
コスプレ染みたその衣装は、取り込まれている娘たちがエミリアたちの同業者である事を物語っていた。  
 
「こいつ…デスパイア?」  
 
パサリ、と。抜け殻と化した鳥の羽毛が禿げ落ちた。  
カップから逆さにして抜いた真っ黒なゼラチン菓子。現れた物体を例えるなら、まさにそんな具合だ。  
あまりの大きさに、宇宙が具現化して目の前に鎮座しているような、クレイジーな錯覚さえ覚える。  
 
『ぬぁぁぁぁああっ!!ぐるなぁぁぁあッ、ぐるなぁぁぁあぁぁああーーーーーっ!!!』  
 
自らと同じサイズにまで膨張した謎の物体を、半狂乱のままヒルバーツの触手がズブリと貫いた。  
エミリアはあっと息を飲む。だが当の乱入者は微塵も動揺していない。  
 
『脂身が…大人しくしていれば良いものを。その醜い手で我らの女を穢した代償、しかと払って貰うぞ』  
 
低調な声がかすかに怒りの色を帯びた。  
そして次の瞬間、レブナンと呼ばれたスライム状の物体が、自らを貫く触手を伝ってヒルバーツの巨体に襲い掛かっていったのだ。  
 
『あが、あっ…あが…がぁぁああ!ごあ…あぁああッ!!』  
 
伯爵夫人の巨体がみるみる内に黒で塗りつぶされていく。  
焼け爛れた表皮は目にも止まらぬ速さで侵蝕され、融解し、どす黒く染まりながら捕食者の一部へと同化していった。  
 
『やめ…ッ!やめろぉおぉぉおっ!!ん、んんんぐぅうぅ〜〜〜〜〜…う……ぅ…』  
 
伯爵夫人の呻きが徐々に小さくなる。それに併せて暗黒の流動体はゴボゴボと肥大していく。  
白昼夢と言われた方がまだ納得できたかもしれない。  
あれほど強大だったマザー・ローパーが、抵抗ひとつ出来ずに飲み込まれているのだ。  
 
「ぐ…痛ッ!!」  
 
ヒルバーツの拘束が緩んだのか。  
危うく一緒に取り込まれかけたマルーシャが、コンクリートの上に裸のまま転がり出る。  
エミリアはクロイツァーを構えたまま、目の前で繰り広げられる現実離れした光景に、息をすることも忘れただ見入っていた。  
 
♯  
 
『期待はしていなかったが、やはり不味いな』  
 
先程までの喧騒が嘘であったかのように静まり返った空洞。  
二人の前に、もはや伯爵夫人の姿は無い。  
あるのはローパーの親玉を吸収して倍の大きさに膨れ上がった黒い物体だ。  
 
「…レブナン、てめえ生きてやがったのか」  
 
マルーシャが、ありったけの敵意を込めて目の前の存在を睨みつける。  
すると巨大なゲル状物体の中心部に男の顔が浮き出てきた。  
オリエントの彫像のように精悍で、それでいて石膏像のように生気を感じさせない。  
まさに作り物の顔、仮面だ。  
 
「何しに来やがった」  
 
『無論、生涯の伴侶を迎えに』  
 
「ハッ」  
 
マルーシャは吐き捨てるように応えた。  
 
「ンなら無駄足だったな。見ての通りだ。あたしはもう何遍も他のデス公に抱かれてる。他を当たりな。自分専用の穴しか掘らない主義なんだろ」  
 
『構わん。その体の初夜権を行使したのは私だ。貴様には、他の者と交わった不貞を精算する義務がある。我々の一部となってな』  
 
レブナンの体内でゴボリと泡が立ち、取り込まれている三人のエンジェルがわずかに動いた。  
彼女らの膣口はこちらに見せ付けるように押し広げられている。中にまでレブナンの体が入り込んでいるのだろう。  
いったいどれほどの間ああしているのかは分からない。ただ、一日や二日では無さそうだった。  
彼女らの表情にはもう、抵抗の意志というか精気のような物が微塵も感じられない。  
もしかすると何週間か、何ヶ月か、或いはそれ以上か。あのエンジェル達はもう、助かる事を完全に諦めてしまっている。  
 
「クソが…無理やりヤっといて亭主気取りかよ、変態めが」  
 
自身の体を庇うように、両手で乳房と股を隠しながらマルーシャは後ずさった。  
分かっている。勝ち目は無い。万全の状態だって一対一では敵わない。ましてやこの状態では。  
 
『何を恐れる必要がある。分かるぞ、昂ぶっているのだろう?』  
 
「………」  
 
図星だった。ローパーの体液をふんだんに摂取させられたその体は、完全に欲望のタガが外れてしまっている。  
肌を撫でる外気にさえ毛穴はざわめき立ち、胸は早鐘を打つ。頭もクラクラして実のところ立っているだけでも精一杯だ。  
 
(畜生め、厄日だ。次から次に、変態どものオールスターゲームかよ)  
 
背中に冷たい壁をひたりと感じた。もう後が無い。  
かくなる上は、自分が囮になってエミリアにナツメ達だけでも運び出させ――――。  
 
ズボッ!!  
 
『…む?』  
 
「げッ!?」  
 
ぬかに刃物を突き立てるような音がして、じりじりと距離を詰めてきたレブナンが止まる。  
見れば彼の背面に、蒼白い輝きを放つ光の矢が一条、突き刺さっていた。  
 
「逃げてマルー!早くっ!」  
 
「ばっ…馬鹿よせエミィ!オマエが逃げろって!!」  
 
レブナンに刺さった矢がズブズブと漆黒の体に沈み込み消えていく。  
効いていない。いや、それどころか吸収されているのだ。  
 
「…くっ!」  
 
エミリアは諦めない。  
か細い右手に無数の矢を剣山の如く出現させ、まとめて叩き込むべくクロイツァーにノッキングする。  
だがしかし…!  
 
『ほっほっほ、威勢の良い子兎がもう一匹おるようじゃの』  
 
「な!?」  
 
しゃがれた老人の笑い声と共に、レブナンの背中がドバっと爆ぜ、無数の触手となってエミリアに襲い掛かったのだ。  
 
「あうッ!!」  
 
避けるには距離がなさ過ぎた。  
鳥モチのように粘つくゲル状の触手を真っ向から浴び、エミリアは受身を取る暇も与えられず瓦礫の上に転がった。  
 
『ほほぅ。これはこれは、なかなか器量の良さそうな娘っ子じゃてな』  
 
『これも貴様の仲間か、イグニートエンジェル?』  
 
高粘度の物体で地べたに貼り付けられ、エミリアは呆気なく身動きを封じられてしまう。  
引き剥がそうともがく彼女の目と鼻の先に、皺だらけの老人の顔がヌッと迫ってきた。  
無論、その顔も真っ黒なスライム状の物体で形成されている。  
 
(二匹?…いや違う。こいつら、集合体!?)  
 
このデスパイアの使う"我々"という一人称の理由に一足後れでエミリアは気付いた。  
何人ものエンジェルを体内に取り込んでいるのも、恐らく結合に必要なエネルギーを絶え間なく供給するため。いわばコア代わりだ。  
 
『のう、ときに小娘よ。おぬしはまだ未通かの?』  
 
「み、みつう?」  
 
『ほっほっほ、処女かと訊いておるのじゃよ』  
 
「――――んな!?」  
 
エミリアの声が裏返る。  
そんな彼女の反応を老人の顔は好奇の視線で舐め回す。  
品定めしているのだ、エミリアの体を。  
 
「よせ、てめぇ!エミィは関係ねぇだろ!!」  
 
反対側でマルーシャが怒鳴っている。  
レブナンの巨体に遮られ、エミリアからはそちらの様子は窺えない。  
 
『答えぬか。ならば仕方ないの。ワシがちょいと味見してやろうかい。カカカカ…ッ』  
 
「なっ、やめ…!!」  
 
古い喪服のような黒一色のロングスカートがガバッと豪快にまくられる。  
雪化粧した木々の枝を思わせるすらりとした脚美線。その付け根にあたる二股を隠すのは紫陽花のような淡いパープルのショーツ。  
誰もが目を奪われそうな完璧な均衡を誇るその空間に、タンカーから洩れた原油の如く黒々とした液体がネチっこく絡み付いていく。  
 
『ほおぉ…。これはこれは、まっこと眼福よのお』  
 
(だ、ダメ…っ、なんで!?全然動けない!!)  
 
脂汗を浮かべ全身の力を総動員しても、デスパイアの拘束は綻びひとつ生じない。  
柔らかな太腿を存分に揉みしだき、肌の下で反発する筋肉の張りを思うさまに堪能しながら、レブナンの体はエミリアの内股へと進む。  
痛恨のミスだった。スライム系は通常の触手とは勝手が違う。大半の場合、一度でも捕まってしまえば即ゲームセットだ。  
マルーシャを助けようとして迂闊に接近したのが仇になった。これではミイラ取りがミイラだ。  
 
「……あッ!」  
 
上品な花の刺繍がわずかに肌から浮いた。  
ショーツの生地を軽く持ち上げて、レブナンが下着の中へと潜り込んで来たのだ。  
激しい戦闘で蒸れ気味だったパンティの張り付く感じが消え、代わりにひやりとした冷たい感触が肉芽と秘唇を一緒くたになぞる。  
食い縛られた歯が思わず緩み、熱っぽい一声が洩れてしまった。  
 
『のほほほ、さてさてお楽しみの瞬間じゃの。狐が出るか狸が出るか、おぬしの穴倉はどちらかの?』  
 
「ふ、ふざけな……あうっ!?」  
 
鈍い痛みが抗議の声を中断させた。  
ぐにゅりと、レブナンはエミリアの膣口を押し拡げる。  
 
「や、やめ…っ!きゃあぁぁあ!!」  
 
あれほどにまで動かなかった背筋が一気に反り返る。  
温もった膣口とそこに入り込んで来た物体の体温差は、エミリアに悲鳴を上げさせるのに十分過ぎた。  
エミリアに入り込んだ触手は自由自在に姿を変え、形を変え、閉じた蕾の中を何本もの小指でまさぐるように、膜の在り処を丹念に調べ上げていく。  
 
「エミィ!畜生、レブナン!!大概にしやがれ、あたしが目的なんだろ!?だったら――――……」  
 
激昂して吠え掛かるマルーシャの声も半分くらいしか聞き取れない。  
まだホンの入り口までしか挿入されていないというのに、それこそ絶頂の直後のような、下半身からごっそり力が抜けていくような疲労と倦怠感が襲ってくる。  
駄目だ。このまま奥まで侵入を許せば、人形同然にされてしまう。  
 
『ハン!なんじゃこの娘。期待ばかりさせおって、とうに他の者の手がついておるよ』  
 
『ハッハァー!そいつァ残念だったなジジイ!くたびれ儲けの骨折り損ってヤツか、ああん?』  
 
レブナンの背中にもうひとつの顔が浮かんだ。  
しつけの悪い大型犬のような、粗野なオーラを溢れんばかりに湛えた若い男の顔だ。  
 
『ま、天使サマならどの道ここで片付けとくに限るァな。取り込まねぇんなら、景気良く腹ン中から吹っ飛ばしちまえ!ドバーンってな、ドッバーーーン!!』  
 
『そうするかの。口に合わぬ前菜じゃ、惜しくもあるまいて』  
 
エミリアの顔から血の気が引く。  
 
「なっ……――――や、やああぁぁああ!!やめっ、やめ…ッ!!!」  
 
大量のスライムが一気に押し寄せ、満杯になったショーツが耐え切れずギチギチ音を立てる。  
殺す気だ。こんなにも簡単に呆気なく。  
下腹部へと迫り来る死の感触に、エミリアは取り乱し、我を忘れて悲鳴を上げる。  
 
「レブナンっ!!よせ!やめろぉーーーっ!!!」  
 
マルーシャの声がどんどん遠のいていく気がした。  
だが、そすらも既に別世界の出来事のようで、何と言っているのか判別する余裕はもう無い。  
エミリアの腹を引き裂いてしまうであろう量の液体が、遂にその入口へ差し掛かり――――。  
 
 
『……………』  
 
 
ぴたりと止まった。  
 
『むゥ。この気配は…』  
 
一体何を映しているのか、奈落の底のような瞳を細め、その顔に刻まれたシワを一層深くして老人は黙りこくる。  
 
『おーい、どうしたジジイ?ボケちまったのかァ?それとも入れ歯が外れ――――……』  
 
『静かにせんかバカタレがっ!レブナンよ、これは…』  
 
相方のマッチョを一喝すると、年老いた顔は思案深げにレブナン本体へ持ち掛ける。  
一体何が起こったのか、動転しているエミリアには事態が飲み込めない。  
撃鉄がカチリと鳴ったのに弾が出ない。そんな映画のワンシーンを思わせる、冷や汗物の沈黙が場を支配している。  
 
『レブナンよ、どうやら来客のようじゃが?』  
 
『そのようだな。しかしこの殺気、察するに原因はその娘か。困ったものだ』  
 
レブナンの体に巣食う者同志がなにやら合議を始めている。  
果たして彼らは思考も共有しているのだろうか。  
会話の内容はえらく断片的で、エミリアには何のことやら見当も付かない。  
ただひとつ確かなのは、連中とって何らかの不都合が生じ始めたか、あるいは既に生じているのか。  
 
『ハッ!蛇だか蛙だか知らねぇが、遅かれ早かれぶつかる相手だろ?構わねえ、この場でブッ潰しちまえ!!』  
 
『と、ケブロークは言うておるが?しかし、行きがけの駄賃ごときで手痛い目に遭うのは勘定が合わぬとゆうか、御免被りたいところじゃのう。はてさて』  
 
強硬派と慎重派は真っ向から対立しながら、恐らくは本体であろう、レブナンと呼ばれる無表情な顔を揃って覗う。そして…。  
 
『退く。今あの女と事を構えるのは下策だ』  
 
トップの決断はにべも無い物だった。  
 
『ケっ!んだよ面白くねえ…』  
 
心底不満気に舌打ちし、三番目の顔が消え失せた。  
やれやれ…といった仕草で首を振り、老人の顔も本体に沈んでいく。  
後には仰向けで大の字のままスカートをまくられたエミリアだけが残されていた。  
 
『日を改めて貴様を娶りに行く。それまでに尻の中の下等生物をひり出しておけ。花嫁衣裳の容易もな』  
 
「うるせえ…。それ以上、その気取った口上垂れたらブチ殺すぞ」  
 
マルーシャの悪態を歯牙にも掛けず、最後の顔が僅かに微笑み引っ込んだ。  
レブナンの巨体は頭上に向かって大きく伸び、天井にできたひび割れの中へ吸い込まれるように消えて行く。  
一体、あの化物は何に気付いたというのか。  
ようやく心拍数も落ち着いてきたエミリアは、死んだように静まり返った舞台を見回す。  
 
「…?」  
 
ふと背後からの視線を感じてエミリアは振り向いた。  
壁際にはナツメ達が相変わらず整列しているが、彼女らは皆気を失っている。  
 
(…今のって…)  
 
思い過ごしだろうか。  
一瞬、この部屋の入口から誰かが覗いていたような気がしたのだが…。  
 
「…立てるかエミィ」  
 
背後からの呼びかけにハッと我に返る。  
 
「出ようぜ。もう、一秒だってこんな場所には居たくねえ…」  
 
同感だった。  
 
♯  
 
差し込む西陽が廊下を金色に染め上げている。  
日はもう短くなり始めているはずなのだが、五時を回った空にまだ夜の気配は訪れていない。  
窓枠に肘を突き眼下のロータリーを見渡せば、緊急搬送の救急車が途切れる事無くやってきては再び現場へトンボ帰りしていく。  
担架の上には顔の見えぬよう大きな毛布に包まれて運ばれて来る女性たち。  
正面玄関は、確認のために駆けつけた被害者らの親族知人でごった返し、対応に当たる警官までもがそれに加わり、中々ひどい混乱状態だった。  
天井二枚隔てたこの廊下にまで、下の騒ぎは聞こえている。  
引っ切り無しのサイレンに耐えかねて、エミリアはピシャリと窓を閉じた。  
 
「……………」  
 
内股がズクリと痛む。鎮痛剤の効き目が現れるにはまだしばらく掛かりそうだ。  
レブナンに掻き回された下腹部の鈍痛に、下の喧騒は正直こたえる。  
しかしエミリアは移動しようと思わなかった。結局今はどこに行っても同じだろう。  
どの廊下もスタッフがせわしなく行き交い、病室からは意識を取り戻した女性達の嗚咽や半狂乱の悲鳴が聞こえて来る。  
結局、雛菊市中央病院は壊滅的な打撃を受け、デスパイアから助け出された被害者らは、隣接市を含む四ヶ所の病院に分けて搬送される事となった。  
今いる国立大の附属病院もその内のひとつである。  
 
「よ。たそがれモードかエミィ?悪いのが板に付いちまうぞ」  
 
「あっ、マルー…」  
 
不意に肩を叩かれ面を上げれば、そこには見知った顔がいた。マルーシャだ。  
随分やつれているように見えるのは、斜陽の作るコントラストのせいだけではないだろう。  
 
「治療、終わったの?」  
 
「ん、まァ…。尻の中の奴は薬で殺してもらったから、後はそうだな…フツーに出るのを待つだけだ」  
 
疲れた顔で自嘲気味に答えながら、マルーシャは缶コーヒーを一本差し出す。  
蕎麦屋でジャムとジョルジを注文し、エミリアをずっこけさせるような紅茶党の彼女でも、流石に今はカフェインの力に頼りたいのか。  
エミリアはそれ以上追求せず差し出された品を受け取った。  
ちなみに薬の服用中はアルコールは厳禁。そこらへんマルーシャに目を光らせずに済むのはありがたい。  
仕事の後の彼女の呑みっぷりは、いささか度を越しているからだ。  
 
「………」  
 
缶のタブを起こそうとしても指にもなかなか力が入らない。  
相当消耗していた事を今になってようやく自覚させられる。  
 
「で、ナッちゃんと妹の方は?」  
 
五度目のアタックでようやく封を切ったエミリアは、黙って目の前の病室を指す。  
マルーシャも静かに浅く頷いた。  
 
「消耗してるけど、ナツメの方はほぼ無傷よ。ここに運ばれる途中で意識を取り戻したわ」  
 
「そっか。まぁ、体を張った甲斐はあったと思っとくべきかね」  
 
「それで……ハルカなんだけど…」  
 
エミリアの声が小さくなる。  
自分自身に発破をかけるように、彼女は一度、缶の中身をごくりと呑んだ。  
 
「彼女、摂取した体液の量が多かったから。二度目だったせいもあって興奮状態が収まらなくって…」  
 
口の中には広がる苦い味は正直良く分からない。  
エミリアは"食べられればいい"というスタイルの人間だ。  
後は時間との兼ね合いだけ。  
実際、コーヒーにしたってレギュラーとインスタントの違いも分からないのだ。  
 
「……………」  
 
マルーシャは黙って目で続きを促す。  
 
「とりあえず、さっき鎮静剤を打って、薬も中に入れたところ。今はナツメが付き添ってるわ」  
 
「そうか…」  
 
安堵とも同情とも取れぬ抑揚に欠いた調子でマルーシャは応答し、やや間を置いて軽い溜め息を付く。  
とにかく精子殺しまで済んだのなら一段落だ。  
ハルカ本人にとっての地獄はこれからなのかもしれないが、少なくとも今日できる事は全て終わった。  
 
(となると、こっちの問題はむしろナッちゃんのダメージの方だな)  
 
彼女は妹を守ることに失敗した。目の前に居たのに助けられなかった。  
その事実をナツメはどう受け止めるのだろうか。  
消化の仕方を誤れば、彼女の今後を大きく変えてしまう恐れがある。  
この戦いで拾った勝ちなんてチャラになってしまうぐらい頭の痛い問題だ。  
 
「…とりあえずナツメを呼ぶわ」  
 
不意にエミリアは壁から背を剥がすと、思案に耽る相方に一言そう告げ、病室のドアに手を掛けた。  
ハッとしたマルーシャは慌ててその手首を掴む。  
放られた空缶が乾いた音を立てて廊下に転がった。  
 
「呼ぶって、何するつもりだよエミィ?」  
 
「今日のこと、あなたに謝らせるわ。あの子が独断で突っ走ったりしなければ、こんなに大勢があのデスパイアに連れて行かれる事も無かったし、マルーだって捕まったりしないで済んだのよ?その事を…」  
 
「よせって、エミィ!」  
 
ドアを開けかけたエミリアの腕を強引に引っ張り体ごとこちらに向かせる。  
病室のナツメに聞こえぬよう若干トーンは落としていたが、マルーシャの荒い静止にエミリアは少々本気で驚いたようだ。  
だが、すぐに険しい視線でこちらを睨み返してくる。こういう目は本当に姉とそっくりだ。  
何かを言わんとするエミリアの先手を打って、マルーシャは彼女を諭す。  
 
「先輩的な責任感じてるのは分かるけどよ、今はやめといてやれって」  
 
「…見逃せって言うの?」  
 
「そうは言ってない。ただ――――」  
 
ナツメの暴走を止められなかった自責の念と怒りが、真面目なエミリアを突き動かしているのだろう。  
彼女の言っている事は道理だ。今回、こちらの被害を一番拡大した要因は他ならぬナツメである。  
身内を助けるためにチームワークを乱し、相手に付け入る隙を与えた挙句、妹ともども仲良く敵の手に落ちてくれた。  
本人だって分かっているはずだ。形だけでもいい。今後のためにも一度けじめをつけさせるべきである。  
だが、それでも……。  
 
「今は…ハルカの傍にいさせてやれ」  
 
疲れ切った顔を和らげながら、マルーシャは静かにそう告げる。  
 
「ナツメにはな、あたしらと違ってまだ帰る場所も守るものもある。あの子がこれから先どうなるのかはまだ分からない。でもな、とりあえず今はそれだけでも大切にさせてやって欲しいんだよ。  
エミィ、あんただってそうだろう?あんないい子が、狼みたいに目ぇ吊り上げて、馬鹿みたく戦うだけの奴に変わっちまった姿なんて、見たかねぇだろ?な?」  
 
「……………」  
 
エミリアは反論しない。  
言葉を探すように暫く視線を泳がせていたが、やがてそれを見つけられない自己を恥じるかのように目線を落とした。  
彼女の手がノブから放れたのを見て、マルーシャは安堵の息と共にようやくその手首を開放した。  
 
「随分優しくなったのねマルーも。なんだかお婆さんみたい」  
 
「そう言うオマエも、ちったぁ話が通じるようになったじゃんか。安心したよ」  
 
「フフ…。でも、馬鹿力は相変わらず」  
 
マルーシャが笑う。赤くなった手首をさすりながら、エミリアも表情を崩す。  
ついつい本気で掴んでしまった。さぞ痛かったろう。  
まあ、コーヒー奢ってやったんだから、ここはひとつ、愛嬌ということで。  
 
♯  
 
「ひとつだけ、訊いていい?」  
 
先ほどのまでの定位置にツカツカと戻り、エミリアは再び壁に背を預ける。  
 
「ん。ひとつとは限定しませんが何か?」  
 
先ほどから転がっている空き缶を拾おうと屈んだままマルーシャは尋ね返す。  
デスパイアに好き放題された下半身はまだ痛むらしく、その動作は機械油を切らしたクレーンのようにぎこちない。  
彼女の頭が元に高さに戻るのを待ってエミリアは本題を持ち掛けることにした。  
 
「伯爵夫人を吸収したあのデスパイア、あなたと面識があるみたいだけど…」  
 
「ああ、あいつか」  
 
嫌な物を思い出したようにマルーシャの眉が歪んで寄った。  
そりゃやっぱ訊くわな、とその顔には書いてある。  
 
「何があったのか教えて貰えるかしら?もちろん、差し障りの無い範囲でいいから」  
 
エミリアは知っている。マルーシャは決して自分の過去を語ろうとはしない。  
数えるのも面倒なほどの修羅場を、共にくぐり、切り抜けてきた仲であったが、エミリアは彼女の生まれも育ちも家族も未だかつて聞いた事が無いのだ。  
 
「まぁ…差し障りつーほどの事も特に無いんだな…」  
 
気は進まない。お互い相手の触れたがらぬ場所には極力関知しない主義だ。  
だが今度ばかりは相手が相手だ。シャンシャンで素通りできる問題ではない。  
それに、顔も知らない相手とはいえ、取り込まれていた他のエンジェル達もこのままにしては置けなだろう。  
配慮の裏にも譲る気なしの構えでいるエミリアを見て、マルーシャは左手でポケットの中の小銭をジャラジャラ言わせながら、観念したように語り始める。  
 
「あいつの名前はレブナン。"腐海のレブナン"って呼べば古いエンジェルにも通じる。見ての通りというか、まぁドロドロしてて形の無い奴だ」  
 
なるほど。またよく言ったものだ、腐海とは  
触れられただけで命を吸い取られていくようなあの感触。  
そして"死"が流動しているようなあの姿に正にぴったりだった。  
 
「元はそこそこ強いだけのありふれたデスパイアだったんだけどな。死に損ないが何匹も合流していく内にあんな姿になっちまった。  
普段は他の動物の死骸に潜んでるモンだから、こっちのアンテナにも引っ掛からない」  
 
「厄介ね」  
 
端的な感想で実際その通りだ。  
エミリアもあの化物が鳥の死骸から姿を現すまで、その接近を全く察知できなかった。  
おまけに、そこそこ都会なこの街だって、小動物の死体ぐらい探せばいくらでも見つかるだろう。  
他の生き物に潜られてしまえば、もうこちらからは探し当てる事はできない。  
 
「でまぁ、その。なかなかグルメと言うかヒネリの利いたヘンタイでな、自分が初めてを頂戴した女しか喰わない主義らしい。ほんと」  
 
性欲の権化とも言うべきデスパイア。その中には妙な性癖を持った者も少なくない。  
もっとも、単純に生存という観点から見た場合、その手のこだわりは大きな足枷になる悪癖が大半だ。  
中でもレブナンなる者のそれは、自分の首を一番絞める部類に入るのではないのか。  
少なくともエミリアにはそう思えてならないのだが。  
 
「昔の領主じゃあるまいし」  
 
「ああ。そんでまぁ、あんましデカイ声で言えた話じゃないんだが、あたしの初体験がアイツとでな。お恥ずかしい事に、昔あたしは奴に取り込まれてたんだよ。ハハ…」  
 
軽めの口調とは裏腹に、マルーシャの右手の中では、頑丈なはずのスチール缶がミシミシと悲鳴を上げていた。  
おまけに風も無いのに髪が浮き始めている。これ以上気温を上げるのはどうか勘弁願いたいところだ。  
 
「まぁ…核を失くしたデスパイアが何匹も寄り合い所帯になってる以上、強力な魔力の供給源が入り用になるのは当然の事ね」  
 
税金で賄われているであろう冷房費に軽く同情しながら一歩離れ、エミリアはさり気無く話のレールを逸らそうと試みる。  
 
「んで、そのアタシを助け出したのがエミィ、あんたの姉貴さ」  
 
なるほど。確かにエミリアにとって初めて会ったときマルーシャのポジションは"姉の友人"だった。  
少なくともマルーシャはそう名乗っていたが、妹のエミリアからしてみれば、師匠と弟子にも見えたし、仇敵同士のような空気を漂わせている日もあった気がする。  
まあ傍目から見ても到底仲が良さそうには映らない、むしろ険悪な雰囲気の二人であったが、互いの実力だけはしっかり認めているように見えたものだ。  
こうして聞いてみると"師匠と弟子"という当初の感想も、あながち間違いでもなかったらしい。  
 
「あたしがイゾルデの金魚の糞やってたのはそういう経緯があったんだよ。そっから後はまぁ、あんたが知っての通りだな。他にもごちゃごちゃ知り合いができて今に至る、と」  
 
そこまで言ってマルーシャは勢いを付け、右手の空き缶を放る。  
放物線は三部屋分の廊下を軽々と跨いで、自販機の隣にあるダストボックスを見事にガコンと鳴らした。  
…ただし、可燃ゴミの方を。  
 
壁から離れて伸びをするマルーシャを見て、エミリアは短い昔語りが終わったのだと知る。  
レブナンというデスパイアに関しては依然情報不足の感が拭えなかったが、そりゃマルーシャだって何もかも知っているわけじゃあない。  
結局、自分といいマルーシャといい、それぞれ厄介な相手に付きまとわれている身だったらしい。  
まったく、この世に他に女がいない訳でもあるまいに。お互い迷惑な話だ。  
 
「それで、彼と結婚するつもりなの?」  
 
「おいコラ」  
 
「冗談よ」  
 
「わーってら、んなこと」  
 
ポケットから取り出した小銭をマルーシャは仏頂面で数えている。  
百円玉は一枚だけで残りは全て外国の硬貨。  
残念ながら二杯目のコーヒーにはありつけないようだ。  
 
「…あのーすみません」  
 
「ん?」  
 
ふと、階段の踊り場から現れた女性職員が二人に声を掛ける。  
 
「下で預かってるそちらの方のお荷物のことで、その…警察が人がちょっと」  
 
「あ」  
 
お荷物?  
最初はピンと来なかったエミリアだが、隣で不味そうに顔を歪める金髪娘を見ていると、心当たりはすぐに浮かんできた。  
 
「マルーあなたねぇ…。あんな馬鹿でかい鉄砲、受付に預けてきたの?」  
 
「あーいやーその、だって診察室まで持ってけないっしょ?ケースにぶち込んであるからイケると思ったんだけどねえ…」  
 
「いいから早く事情説明してきなさい!」  
 
「へーへー……いてっ!サー、イエッサー!!」  
 
背中をぴしゃりと平手で打たれマルーシャはすごすご階下へ向かって行く。  
伯爵夫人の触手責めが相当応えているのか、その後姿は随分と小股で時間が掛かりそうだった。  
 
結局廊下には先ほど同様エミリアだけがぽつんと残された。  
肩の高さで切り揃えられたプラチナブロンドが斜陽を浴び金糸の如く輝いている。  
する事がなくなると、廊下にこもった消毒薬の匂いが酷く気になりだす。  
 
窓を開けようとサッシに手を掛けたところで、また一台の救急車が病院前に滑り込んで来るのが目に止まる。  
担架の上の人物はタオルで顔を隠されていたが、布地の脇からは粘液でギトギトになった黒髪がべったりと垂れているのが見て取れる。  
奥の方で苗床にされていた犠牲者なのだろうか。オレンジ色の救護タオルの上からでも判別できるぐらいそのお腹は膨れていた。  
手術室は堕胎待ちで既に大渋滞だろう。  
 
思えばエミリアも最初の頃は、救えなかったものをただ眺める事しかできない自分が、堪らなくもどかしかったものだ。  
マルーシャやユイに止められた事も一度や二度ではなかった。  
それを考えれば、ナツメが時折見せる気持ちも分からないでもない。  
 
(…とりあえずは感謝ね。こうして三人とも、生きて帰ってこれたんだから)  
 
溜め息混じりに表情を緩ませるエミリアの前で、病室のドアが静かに開いた。  
 

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